茶臼山城跡(読み)ちやうすやまじようあと

日本歴史地名大系 「茶臼山城跡」の解説

茶臼山城跡
ちやうすやまじようあと

[現在地名]松江市山代町 茶臼

標高一七一・五メートルの独立丘陵である茶臼山上に営まれた戦国時代の城跡。茶臼山は「出雲国風土記」にみえる意宇おう郡の神名樋野かんなびのに比定され、山代やましろ山・御立おたち山・伊弉諾いざなぎ山ともいう。「雲陽誌」には「俚民茶磨山の古塁といふ」と記され、村井伯耆守の居城であったと伝えている。城は宍道湖と中海を結ぶ大橋おおはし川の南側から北側の動静を監視・防御する位置にある。平成元年(一九八九)県教育委員会が部分的な調査を実施している。頂上部分の岩盤や尾根筋を削平加工して造られた郭は最高所に第一郭を置き、西へ第二郭・第三郭・堀切・第四郭・第五郭と続く。


茶臼山城跡
ちやうすやまじようあと

[現在地名]諏訪市上諏訪 茶臼山

高島たかしま城ともいい、諏訪湖東方の手長丘てながおかとよばれる丘陵の上方にあった山城。築城年代は不詳。城域は広大で、踊場おどりば垣内かいとの辺りが城の中心であった。馬入の跡が東方と北方にある。踊場の北方の傾斜地を合戦場かつせんじようという。支城として、北西方に天神山てんじんやま城(湯之脇ゆのわき城)があり、根小屋ねこや・根小屋小路の名も古図にみえる。

文明一五年(一四八三)下社大祝金刺興春は、上社方の内訌に乗じて当城を占領した(諏訪史)。また武田氏の諏訪支配の城代は、初め上原うえはら城(現茅野ちの市)に、後には当城に居住したといわれ、「高白斎記」に「天文十八年正月八日長坂(虎房)方始テ高島ヘ被移候、十三日高島ノ鍬立」とあり、この時に修復された。


茶臼山城跡
ちやうすやまじようあと

[現在地名]小浜市門前

茶磨山ちやまやま城ともいう。明通みようつう寺の北西裏山、稜線のやや突出した標高三七五メートルの山頂にあり、左の遠敷おにゆう谷、右の松永まつなが谷をはじめ、国富くにとみ宮川みやがわ方面まで見通すことができる。若狭の山城では特異な形で、惣構えはテトラポット形をなす。規模は南北八〇メートル、東西九〇メートル。最高所に櫓台を置き、同心円形に段切をして郭が取巻く。西北に一ヵ所空堀がみられるだけで東・西側にはみあたらない。きわめて簡単な構造で、臨時に築かれた城と思われる。

建武年中(一三三四―三八)の南北朝攻防のとき、北朝方にくみした惟宗隆能(松永保地頭)が築城したと推定される。


茶臼山城跡
ちやうすやまじようあと

[現在地名]三次市下川立町

可愛えの川東岸の沖積地に東南方から突出した丘陵突端にあり、可愛川を挟んで西北約一・五キロの所に五竜ごりゆう(跡地は現高田郡甲田町)城主宍戸氏の出城祝屋いわや(岩屋城、跡地は現甲田町)があり、東北方板木いたき川を挟んで約一・五キロには比叡尾山ひえびやま城主三吉氏の出城八幡山はちまんやま城がある。長野ながの城とも茶臼鬼ちやうすおにヶ城ともよばれた。

本丸を中心に同心円的に郭を配置し、堀切・竪堀・土塁の遺構もみられる。「芸藩通志」は「長野五郎所居、上里村寺戸八幡宮の棟札に、長野小左衛門といふあり、弘治中の人、五郎と一人なりや」と記す。


茶臼山城跡
ちやうすやまじようあと

[現在地名]吉井町周匝

周匝すさいの北東部茶臼山にある。吉井川(津山川ともいう)吉野よしの川の合流点を東に見下ろす位置にあり、北東斜面は吉井川に沿って切立ち、西には尾根伝いに山々が連なり、北西に谷を隔てて大仙寺山だいせんじやま城跡がある。山頂に本丸、尾根を少し西に下った所に二の丸があった。東斜面に道があり、麓近くに太鼓丸たいこのまるといわれる長方形の平坦地がある。城主は浦上宗景家臣佐々部勘斎(笹部・雀部、勘次郎ともいう)と伝え、「備前軍記」によれば天神山てんじんやま(現和気郡佐伯町)落城後当城に立籠り、天正七年(一五七九)二月宇喜多直家に攻められ落城、勘斎は北麓いちたに討死、その墓があるという。


茶臼山城跡
ちやうすやまじようあと

[現在地名]大野市上舌

大野市街南方、南北に細長い丘陵、通称茶臼山の上にある。字名として御城山おしろやまが残り、平坦な丘上には数ヵ所の空堀が残る。「太平記」巻二一に、延元四年(一三三九)七月、南朝方堀口兵部大輔氏政が攻略した城のうちに「香下かした」があり、これは上舌かみしたとされ、城は茶臼山城に比定される。「越前国城蹟考」は「茶磨山城跡 淡河右京亮 武衛一族 朝倉彦之丞 上舌村ヨリ一町半計東山上在」と記す。


茶臼山城跡
ちやうすやまじようあと

[現在地名]瀬戸田町中野

中野なかのの東南部、標高一八三メートル付近にあり、山頂の郭の南と北に各一段ずつの郭を配し、両者は山頂の郭を囲むように帯郭で結ばれる。北側の郭には径二・五メートルの石積み円形の井戸がある。「芸藩通志」は生口孫三郎景守の城とし、伊予の河野氏の麾下で厳島合戦には毛利方として働いたという。生口氏は南北朝期に沼田小早川氏から分れた庶家で、城跡北方の谷一つ隔てた丘に生口氏の菩提寺と伝える光明こうみよう寺があり、同氏の位牌・過去帳が伝えられ、境内五輪塔は生口氏の墓といわれる。位牌には「慶長元年生口加賀守行年三十七歳」「慶長三年生口三河守行年二十四歳」「元和三年生口孫九郎行年十七歳」と、それぞれ記されている。


茶臼山城跡
ちやうすやまじようあと

[現在地名]那賀町西脇

粉河こかわ荒見あらみとの境界、標高一九九・五メートルの茶臼山山頂にある。麻生津おうづ庄の篠氏の居城でもあったところからしの城とも、また高野山七砦の一つで庵の砦ともよばれた。天正九年(一五八一)一〇月、織田信長の高野攻めに備えて、高野山側では竜門りゆうもん山の雲路くもじ砦など七つの砦を築いたが、七砦全体の大手にあたる麻生津口には三千余人が陣を布き、また各所にも番所が置かれて高野山には一大城郭が築き上げられたといわれる。


茶臼山城跡
ちやうすやまじようあと

[現在地名]北条町国坂

国坂くにさか集落の西、茶臼山(九三・九メートル)に築かれた城で、茶磨山とも記した。「伯耆民談記」には「村ノ西江当テ古城ノ跡有之」とあり、現在も最高所に天守台状の高まりを有する主郭跡が残る。南北に延びる尾根には数段の郭が配されており、とくに南側の郭には規模の大きなものが連続し、堀切などが認められる。同書によれば増田玄蕃允・在沢左京亮の居城と伝え、永正年間(一五〇四―二一)南条豊後守宗元によって落城し城郭はすべて焼失したといわれる。天正八年(一五八〇)頃には吉川元春の子元長が陣したと考えられ、亀井新十郎茲矩宛の年未詳九月二二日付羽柴秀吉書状(亀井文書)には「吉川茶磨山着陣」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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