金剛寺跡
こんごうじあと
[現在地名]宮崎市大瀬町
平松にあった禅宗寺院。正慶元年(一三三二)一一月一〇日の某袖判散位邦成奉宛行状(金剛寺文書)によると、
生野別符内の上入道跡の屋敷一所と水田が花山院家の祈祷と故御所菩提のため、祖高僧(祚広)に年貢を免除して宛行われている。同宛行状の写には端書に「開基檀那花山院家鷹司殿」と記されている。この鷹司殿は鷹司長雅の娘で花山院家定妻(花山院長定の母)をさすと考えられる。花山院長定は建武三年(一三三六)八月三〇日に
生野別符の領有が認められているので(「光厳上皇院宣案」西福寺文書)、当寺の建立の契機は花山院家の同別符の領有にあると想定される。同年一〇月七日の土持本光屋敷田地寄進状写(金剛寺文書)によると、土持本光は将軍家祈祷のために金剛禅寺に対し同別符内の屋敷・水田を寄進するとともに甲乙人の検断狼藉を停止している。
金剛寺跡
こんごうじあと
[現在地名]文京区春日二丁目
江戸時代には神田上水の北岸、金杉水道町のうち稲荷前町の南に位置した。恵日山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。第二次世界大戦後、営団丸ノ内線建設のため中野区上高田へ移転した。古くは臨済宗寺院であったが、永正六年(一五〇九)に吉祥寺五世元照が中興開山となり、曹洞宗に改めたという。寺伝によれば波多野忠経が源実朝の菩提を弔うため、相模田原村(現神奈川県秦野市)に建立し、のちに江戸下野入道心仏が小日向に移したものという。鎌倉建長寺の古先印元(一二九五―一三七四)の行実を記した「正宗広智禅師語録」には「開山名区」として「武州正法寺・同州小日向慧日山金剛寺」があげられており、あるいは小日向の領主江戸氏が、印元を請待開山として創建した禅院かと推定される。
金剛寺跡
こんごうじあと
[現在地名]宇佐市立石 魚鼻
立石集落の南東、両戒山の後山にあたる山の中腹にある。一帯は後山とか大門山と通称され、高さ約九メートルの岩壁の上に広がる三〇〇平方メートルほどの平地が寺院跡とみられている。岩壁の下には野ざらしの石仏一一体がある。草創・廃絶の年代は不詳であるが、他の六郷山の諸寺院・石屋の多くと同じく、元来は山中抖
する修験者の行場・霊場であったと思われる。織豊期以降の成立と思われる六郷二十八山本寺目録(太宰管内志)には「後山金剛寺」とみえ、本山八ヵ寺の一にあげられる。
金剛寺跡
こんごうじあと
[現在地名]四街道市物井
鹿島川谷の支谷不動谷の谷頭部北側、御山にあった。菩提山弘覚院と号し、真言宗豊山派であった。本尊は大日如来。本寺は下野国足利郡小俣村(現栃木県足利市)の鶏足寺で空海の開基と伝える。寛永一七年(一六四〇)七月銘の棟札と同年月を記した宝剣が円福寺に残る。棟札には「奉開山鍵立御湯殿山大権現御宝宮并月山権現羽黒三所権現」などと刻され、将軍・大名・旗本など領主および僧侶・農民など二〇〇余名が列記される。明和五年(一七六八)銘の梵鐘も円福寺に伝わる。天明四年(一七八四)および天保三年(一八三二)の小前高書上帳(桜井家文書)によれば持高六石余、境内七畝、境内山一町三反余。
金剛寺跡
こんごうじあと
[現在地名]三原市本町
恵下谷川左岸、香積寺の北にあった真言宗寺院。「三原志稿」に万福寺末寺とあり、廃滅の時期、山号など不明と記す。もと当寺にあり、現在世羅郡世羅町永寿寺が蔵する大般若経(県指定重要文化財)の奥書によると、当寺は永和三年(一三七七)頃僧源恵が創建したもので、巻四九一に「備後国御調郡三原金剛寺常住、大願主源恵開山」とある。
金剛寺跡
こんごうじあと
[現在地名]四日市市山村町
山村にあった真言宗の寺院。京都醍醐寺の末寺と考えられるが、開山などについては不明。応安四年(一三七一)の足利義満禁制案(醍醐寺文書)に「禁制 金剛寺 右於当所軍勢以下甲乙人等、不可致濫妨狼藉、若至違犯輩者、可処罪科之状如件 応安四年五月日 鹿苑院殿源」と現れる。応永三一年(一四二四)二月二二日の将軍足利義持御判御教書案(同文書)によれば、当寺は将軍家御祈祷所であり、同年七月には「散在田畠山野」などの寺領を安堵されている(「将軍足利義持御判御教書案」同文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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