金山城跡(読み)かねやまじようあと

日本歴史地名大系 「金山城跡」の解説

金山城跡
かねやまじようあと

[現在地名]兼山町

古城こじよう山頂上にある。はじめ烏峰うほう城、のち金(兼)山城とよばれた。町のほぼ中央城戸きどから南へ向かい、急な山田やまだ坂を三〇〇メートルほど上って左折し、さらに小さい屈曲を通って約三五〇メートル行くと本城出丸の西端の通称馬場ばばに達する。出丸・三の丸・二の丸・本丸・天守・米蔵・物見台の跡や付随した曲輪、水の手・門などの遺構、石塁、穴蔵跡がある。本丸は東西約四五メートル、南北約三六メートルの削平地で、天守跡には烏竜うりゆう神社が建つ。西を大手、東を搦手とし、西に延びた突端に出丸を構えて三の丸・二の丸を続けて配し、東西および南面に腰曲輪を付属させた山城。東・南・西の三方は峻険、北麓は木曾川が大外堀の役目をなす。信濃・尾張・飛騨に通じる交通上、軍事上の要衝で、また木曾川舟運によって伊勢ともつながっていた。


金山城跡
かなやまじようあと

[現在地名]太田市金山町

金山山頂を中心に東西約一・二キロ、南北約一・八キロの範囲に立地する。国指定史跡新田につた庄の領主新田岩松家純が文明元年(一四六九)二月末から七〇余日間の城普請を行い、同年八月から居城とした(松陰私語)。その後、下剋上によって権力を掌握した新田岩松氏の家臣横瀬氏(のちに由良氏を称す)が、国繁―成繁―景繁―泰繁―成繁―国繁と六代にわたってここを居城とした。

連郭式の山城で本丸(東西七三メートル、南北四〇メートル)、二ノ丸(東西四七メートル、南北四〇メートル)、三ノ丸(東西九〇メートル、南北二〇メートル)などの(本城)を中心として、そこから放射状に出る六筋の尾根に沿って郭を連ねている。そのうち二筋は北の坂中さかなか(東西五〇メートル、南北二五メートル)、南西方向の西城(三七メートル四方)へと諸郭や堀切を隔てて連なる。


金山城跡
かなやまじようあと

国鉄予土線伊予宮野下いよみやのした駅の北方約一キロの地にある。戸雁とがり大藤おおふじの境にまたがり、城跡は東西が幅狭く、南北に細長い。

城主は今城氏で、延宝九年(一六八一)の「吉田古記」には「有馬殿、戸雁村、金山城主今城肥前守能親」とあり、また「有馬殿知行所は、成妙郷にして、戸雁、黒井地、大藤、則、成家、能寿寺、曾根、是房、務田の九ケ村なり」とある。また文禄年間(一五九二―九六)成立の「清良記当時聞書追攷」には「有馬ノ城、今城兵庫頭能信子息兵庫頭能興、今城肥前守能親ハ得能弾正忠能宗七代ノ孫、能信ノ父也」とある。


金山城跡
かなやまじようあと

[現在地名]大仁町神島 小室

神余かみよ城・神益かんます城とも。南北朝期の山城跡。神島かみしまの南東部、石取いしとり(一二一メートル)を中心に北東部のじよう(通称棒石山、三〇四メートル)にかけての広い範囲にあたる。狩野かの川西岸に屹立する大岩壁の頂上にあり、田方平野を一望できる格好の立地である。康安元年(一三六一)一一月鎌倉公方足利基氏に背いた執事畠山国清と兄弟の義深・義熙らが、三津みと(現沼津市)修禅寺しゆぜんじ(現修善寺町)とともに立籠った(「太平記」巻三七畠山入道々誓謀叛事付楊国忠事)。翌二年二月二一日鎌倉公方足利基氏は、上野岩松直国に白旗一揆・藤家一揆・和田氏を率いて神余城攻めを命じており(「鎌倉公方足利基氏御教書写」正木文書)、六月一二日には鎌倉府方散位某が神益城討伐の祈祷を走湯山(伊豆山神社)衆徒に命じている(「某書下写」伊豆順行記)


金山城跡
かねやまじようあと

[現在地名]金山町金山

金山内かねやまうち町の東、たて山と通称する丘陵上にある連郭式の山城で、天正年間(一五七三―九二)最上氏家臣丹与惣左衛門の築城と伝える。天正一四年以降、最上氏と出羽仙北せんぼくの小野寺氏は有屋ありや峠付近で幾度か対峙、与惣左衛門はそのたびに出陣している(奥羽永慶軍記)。同一六年、庄内・仙北方面へ侵攻しようとした最上義光伊達氏に背後を衝かれることを防ぐために庭月にわづき(現鮭川村)の城主庭月和泉守に対し、与惣左衛門などとよく相談して対処するよう命じている(同年二月一六日「最上義光書状写」楓軒文書纂所収文書)


金山城跡
かなやまじようあと

[現在地名]糸魚川市田伏

田伏たぶせ梶屋敷かじやしきの集落の南方背後、金山(一九六・七メートル)にある。日本海沿岸の眺望が利き、親不知おやしらず(現西頸城郡青海町)方面から筒石つづいし(現西頸城郡能生町)方面までを一望におさめる。山頂に本丸があり、二ノ丸とみられる平場からは大和川やまとがわの集落へ下る道がある。西方台地を隔てて厚田あつたの集落への道もあり、大手と思われる。


金山城跡
きんざんじようあと

[現在地名]篠山市追入 大乗寺

柏原かいばら町との境界にある標高五三七メートル、比高二八〇メートルの金山山頂にある。東麓には宿場として有名な追入おいれの集落がある。明智光秀が丹波攻略の際、多紀たき八上やかみ城の波多野氏と氷上ひかみ黒井くろい(現春日町)の荻野氏を分断するため、天正六年(一五七八)九月に築いた城で、彼の部下の朽木久兵衛・矢島式部・加上弥右衛門らに城を守らせたという(篠山封疆志)。光秀の滅亡後、廃城になった。山頂に東西三二メートル・南北一〇メートルの主郭があり、周囲の側壁は石垣で補強されていた。


金山城跡
かなやまじようあと

[現在地名]三瀬村大字三瀬字山中

三瀬峠の東方約三キロの県境に標高九六七メートルの金山がある。城はその麓にあった。

文永元年(一二六四)野田周防守(大江清秀)が一族を率いて三瀬山の杉屋敷すぎやしきに露営したという。しかしこの地が清浄の霊地として住民の畏敬する所であったので他の適地を選び、現在の山中やまなか地蔵(脚気地蔵)の所に館を構え三瀬山一帯を掌領した。


金山城跡
かなやまじようあと

[現在地名]鴨川市太田学

標高約一四〇メートルの金山一帯にある中世の城跡。東西一〇〇メートル・南北一五〇メートルの規模とみられ、土塁・堀切・虎口遺構などが確認される。長狭氏の拠点であったとも、東条氏代々の居城で、文安二年(一四四五)里見氏初代義実により落城したとも伝えるが、現存する遺構は戦国末期のもの。天正八年(一五八〇)一一月日の妙本寺日我書状(椙山文書)に金山とみえ、同年夏正木憲時の乱の際に里見義頼により当地が攻め落された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「金山城跡」の解説

かなやまじょうあと【金山城跡】


群馬県太田市金山にある城跡。平野部に屹立(きつりつ)する金山丘陵のほぼ全域を使った戦国時代の城跡で、丘陵は東西約3.1km、南北約3.8kmの範囲に複雑に入り組んだ山稜をもつ。城は文明年間(1469~87年)に岩松(新田)家純が築城したとされ、典型的な中世の山城として遺構が明らかなことから、1934年(昭和9)に国の史跡に指定された。築城当時は全域を石垣で築き、貯水池をもつなど難攻不落といわれ、その後、由良氏、北条氏の手に移ったが、1590年(天正18)に廃城となった。現在、本丸・二ノ丸・三ノ丸などの跡があり、本丸跡の後背斜面の石塁の一部や貯水池だった日ノ池・月ノ池などが残存し、本丸跡には新田神社が建つ。東武鉄道伊勢崎線ほか太田駅から徒歩約50分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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