山中村(読み)やまなかむら

日本歴史地名大系 「山中村」の解説

山中村
やまなかむら

[現在地名]三原市中之なかの町・中之町北なかのちようきた中之町南なかのちようみなみひがし

西野にしの村東の谷あいに位置し、御調みつぎ郡に属した。北は竜王りゆうおう山に続く大谷おおだに山で美生みのう村・宮内みやうち村に接し、東南は米田よねだ山・はちヶ峰・鳴滝なるたき山に続く山地で東野ひがしの村・木原きはら村に接する。

大谷山を水源とする和久原わくばら(涌原)川とその支流域に形成された太郎谷たろうだに大谷おおだに干川谷からかわだに鹿毛谷がもうだに光谷みつだに常長つねなが(常永)後山うしろやま重政しげまさなどの谷を中心に耕地が展開、和久原川沿いでは洪水の難を避けて集落は山麓に点在した。和久原川は平素は伏流水であるため灌漑用水が不足し、かつては田に多くの野井戸が掘られ、はねつるべが林立していた。出水時には氾濫し、川成の荒地が多く、「国郡志下調書出帳」に川幅は決めがたいとある。和久原川沿いに東北のふか村へ通じる道は中世の山陽道で、北の八幡やはた筋へは和久原川の水源を経て御調坂みとさか越で通じた。太郎谷から縄文時代の土器・石鏃、弥生式土器、後山と和久原川河床から縄文後期の磨製石斧、善昌ぜんしよう寺横から弥生中期の磨製石斧、和久原川右岸の定兼さだかね遺跡から中・後期頃とみられる弥生式土器が出土、太郎谷遺跡からは鎌倉時代の窯跡も発見された。


山中村
やまなかむら

[現在地名]山中町薬師町やくしまち湯の出町ゆのでまち南町みなみまち・こおろぎまち栄町さかえまち本町ほんまち湯の本町ゆのほんまち富士見町ふじみまち白山町はくさんまち上野町うえのまち西桂木町にしかつらぎまち東桂木町ひがしかつらぎまち東町ひがしまち河鹿町かじかまち

西は刈安かりやす(五四七・七メートル)から水無みずなし(三四八・五メートル)に連なる薬師山系の山々、東は桂谷かつらだに(現加賀市)から四十九院しじゆうくいん村に延びる東山の山地に囲まれ、大聖寺だいしようじ川中流域の狭い峡谷に温泉(山中温泉)を中心として発達した村。大聖寺川に沿った山中道が主要交通路で、大聖寺町(現加賀市)へと通ずる。村名の由来について「加賀志徴」には「此郡内にて山中なる処なる故、地名とは成りたるなるべし」とみえる。

山中温泉は天平年間(七二九―七四九)北陸行脚中の行基が発見し、治承年間(一一七七―八一)塚谷つかたにに逼塞していた長谷部信連が鷹狩の際、脚を折った白鷺が傷をいやしているのを見つけて復興したと伝える(「山中温泉縁起」医王寺文書)


山中村
やまなかむら

[現在地名]土山町山中

猪鼻いのはな村の南東にあり、山に囲まれる。村の中ほどを東西に東海道が通じ、南東方は鈴鹿峠に至り、伊勢国との国境をなす。集落は街道に沿って形成される。

〔山中氏と鈴鹿山警固役〕

山中の地名は鎌倉時代からみえる。当地は古代東海道、中世の伊勢大路など重要な交通路にあたり、中世には朝廷の伊勢神宮奉幣使や斎王群行・公卿勅使の警固役を山中氏が家職として伝領した。山中村地頭職は、建保四年(一二一六)二月一〇日の山中俊直譲状案(山中文書、以下同文書は省略)にみえるのが早い。建久五年(一一九四)二月一四日の前右大将家政所下文案によると、幕府は朝廷の命令を遵守して山中俊直に鈴鹿山守護沙汰と盗賊鎮圧を命じたとされ、これ以前に俊直は鎌倉御家人として地頭職に補任されたものであろう。同文書によると、鈴鹿山守護の職務は通行人のために道路の木を伐採し、浮浪人を山内に集住させて盗賊警固の任務に当たらせることにあった。鈴鹿山の安全確保は鎌倉幕府によって近辺の地頭の役職とされ、その責務の果せないものは改補されることになっていた(延応元年七月二六日「関東御教書」侍所沙汰篇)


山中村
やまなかむら

[現在地名]関ヶ原町山中

藤下とうげ村の西に位置する。中山道今須います峠の東から藤下村の西に至る狭隘な地に立地。集落のなかほどを黒血くろち川が南東流する。建武五年(一三三八)三月三日の諏訪部扶重軍忠状(三刀屋文書)によれば、同氏が海道(東山道)に向かい美濃の山中要害を警固した。北方たま村境にある古城跡がこの要害か。「祇園執行日記」観応元年(一三五〇)七月二六日条には「近江堺山中宿」とみえ、美濃の敵衆が当地まで進軍したと伝えられたため、洛中騒然となった。永禄元年(一五五八)閏六月二四日写の「実暁記」には京より鎌倉までの宿次次第として「居増一里、山中五十丁美濃国、垂井二里」とあり、宿機能を有していたことが知られる。「言継卿記」永禄一二年一一月一一日条には当地および野上のがみを経て垂井たるい(現垂井町)に到着したとある。正徹の「なくさめ草」には「春なからいふきおろしはよ寒にてましは折たくみのの山中」と詠まれ、一条兼良の「藤川の記」には「ほとゝきすをのかさ月の山中におほつかなくも音を忍ふ哉」とある。


山中村
やまなかむら

[現在地名]美祢市東厚保ひがしあつ町山中・伊佐いさ堀越ほりこし

伊佐村の南にあり、東を厚狭あさ郡の万倉まぐら(現厚狭郡楠町)、南を厚狭村(現厚狭郡山陽町)と接する。北東をさくら(四五五・五メートル)、北西を雨乞あまごい(後山、三九三・八メートル)、南を厳昌寺がんしようじ(三二八メートル)などに囲まれた山間部にあり、集落は南流する有帆ありほ川流域の堀越と、この西に平行して流れる随光ずいこう川流域の山中の地域に散在する。

古代には山陽道と山陰道を結ぶ陰陽連絡路が随光川に沿って南北に通っていた。この道はその後近世末まで南の厚狭市あさいち方面や北の南原なんばら寺への参詣路として利用された。


山中村
やまなかむら

[現在地名]東城町帝釈山中たいしやくやまなか

宇山うやま村の西北に位置する。北の川鳥かわとり村から入る川鳥川は、谷尻たにじり福田ふくだ谷から東流する福田川を、田鑪屋敷どんでんたたらやしき樋原ひわら川を合わせて東南流し、さらに風防地たらんちで南西に曲流し、鴨居かもい高甲たかのこう川を合わせて宇山村と始終ししゆう村との村境に流れ出る。一方、村域西部を東南流する蟶野まての川は始終村本郷ほんごう(現始終郷)で帝釈川に合流する。集落は川鳥川の曲折部にわずかに広がる平地の周辺に散在するほか、福田川・蟶野川の水源に近い狭小な盆地の周辺に散在する。


山中村
やまなかむら

[現在地名]宇部市大字山中

厚狭あさ郡の東部に位置し、村のほぼ中央を甲山こうやま川が西流、これにほぼ平行して山陽道が通り、下市しもいち上市かみいちの宿場がある。北は藤河内ふじかわち、東は江崎えざき佐山さやま(現山口市)、南と西は車地くるまじ、北西は下ノ小野しものおのの各村に接する山間村。村の東方に周防・長門の国境にあたる小集落割木松わりごまつがある。萩藩領で舟木宰判に属する。

村の開発伝承として「注進案」に「伊藤彦四郎入道といへるもの伊豆国浪人にて当地罷越、深山の傍に鋳物師釜と申所あり、其所にて炭焼をかたらひ年月を送り候内、大内弘世公の御代永和四年達国政所、蒙許容一里四方の深山を切ひらきて新宿を取立甲山市と号く、いまの山中宿これなり」と記す。現在上山中かみやまなかに伊藤彦四郎の邸跡と称する地が残る。


山中村
やまなかむら

[現在地名]山中湖村山中

山中湖の南西から北西岸の一部を占める。南東は籠坂かごさか峠で駿河国須走すばしり(現静岡県小山町)に通じ、北部のひのき丸尾といわれる溶岩台地上で内野うちの(現忍野村)、籠坂峠から北西に向かう鎌倉街道沿いで忍草しぼくさ(現同上)に接する。南東から北西にかけては富士山裾野なしヶ原が広がり、鎌倉街道で上吉田かみよしだ(現富士吉田市)に通じる。「勝山記」の大永六年(一五二六)の記事に「山中」とみえ、七月に武田信虎方と北条氏綱方が籠坂峠麓の駿河の梨木なしき平で戦い、このとき信虎は山中に陣立をした。一方、天文四年(一五三五)八月には氏綱が今川氏に加勢して「郡内山中」に攻め込み大勝している(「快元僧都記」同月二二日条)


山中村
やまなかむら

[現在地名]穴水町山中

諸橋もろはし川・女良めら川・鹿波かなみ川の水源地帯、二子ふたご山南部の渓谷に散在する東山ひがしやま女良川めらご小又こまた市の坂いちのさかの四集落からなる。南西は鹿波村。東は東山を経て前波まえなみ村、南はかぶと村。享禄五年(一五三二)五月、能登畠山氏の催促に応じた長衆のうちに、諸橋六郷の衆として山中の七郎兵衛がいる(「穴水村・諸橋六郷長衆交名案」諸橋文書)。天文元年(一五三二)七月の諸橋六郷・南北棟数注文写(諸橋稲荷神社文書)によれば、「山田四ケ村」が二つ併記されていることから、棟役六八間を負担する「山田四ケ村」は「山中四ケ村」の誤写で、四ヵ村とは前記四集落をさすと推定される(能登志徴)


山中村
やまなかむら

[現在地名]高柳町山中

とちはら村の北、西は岡野町おかのまち村、北は岡田おかだ村、東は山地で魚沼郡仙田せんだ(現中魚沼郡川西町)。集落は山中本村と北の鯖石さばいし川支流塩沢しおざわ川流域の塩沢にある。岡野町村から松代まつだい(現東頸城郡松代町)への道を分岐して塩沢・山中を経て仙田に通じる古道が通る。元和二年(一六一六)から同四年に長峰藩牧野忠成に属した時を除いて高田藩に属し、以後幕府領、慶応元年(一八六五)頃から長岡藩領。正保国絵図に山中村高一〇七石余、塩沢村高二五石余がみえる。天和三年(一六八三)の検地帳(高柳町史)では田五町七反余・畑屋敷九町八反余・山一町五反余・青苧畑二反余、屋敷持三七名。


山中村
やまなかむら

[現在地名]竜王町山中

岡屋おかや村の南西にあり、近世前期に開発の進んだ村。祖父そぶ川上流の丘陵地帯にあたり、同川支流のだけ川・野神のがみ川などが流れる。西から南は岩根いわね山を境に甲賀郡菩提寺ぼだいじ村・正福寺しようふくじ村・岩根いわね(現甲西町)、東は同郡下田しもだ(現同上)など。元和四年(一六一八)旗本関領となり、同領で幕末に至る。慶長七年(一六〇二)の検地帳(山中区有文書)では高二二石余、しかし約八割が当荒であった。慶安二年書上では田一二石余・畑屋敷四石余・永荒川成五石余。寛文七年(一六六七)の検地帳(山中区有文書)では高一九五石余と増加、開かれた耕地は一八町五反余で、うち田方が一六町九反余。


山中村
やまなかむら

[現在地名]富津市山中

岩本いわもと村の南方、みなと川支流志駒しこま川最上流域に位置し、安房国と境を接する。天正一九年(一五九一)七月小田原陣の戦功により坂部・久世・福岡氏ら七氏が山中之郷一九七石余など二千一〇〇石のうちから各三〇〇石ずつ与えられている(南紀徳川史)。正保国絵図に村名がみえ、高四三二石で、国境越えの道は冬期は牛馬不通と記される。寛文四年(一六六四)の松平忠勝領知目録(寛文朱印留)に記載があり、佐貫藩領。以後幕末まで同藩領。元禄郷帳では高四六〇石余で、幕末も同様。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数一〇六。慶応四年(一八六八)の反別四一町五反余、明治五年(一八七二)家数一〇〇、年貢米三二九俵余・永二七貫余(椙山家文書)


山中村
やまなかむら

[現在地名]高浜町山中

青葉あおば山の北西麓に位置し、北は内浦うちうら湾に面する。村内を山中川が北流し、山中浦に注ぐ。「若狭郡県志」に「山中村属内浦、去小浜七里半許也、合西村、東村、中村、白井、堂上等而為山中村」とあるように村は数集落に分れていた。文永二年(一二六五)若狭国惣田数帳写の国領あお郷の項に除田として友次浦が記され、別掲して「国領友次浦六町六反三百歩 除青山中一丁四反定」とある。この「青山中」は「青郷の山中」の意に解され、中世当地一帯は友次浦とよばれていたと考えられる。


山中村
やまなかむら

[現在地名]大津市山中町・比叡平ひえいだいら一―三丁目

錦織にしこおり村・南滋賀村の西、山城国境に位置し、軍事・交通上重要な役割を果した山中越が通る。永禄七年(一五六四)当地を支配していた礒谷新右衛門久次は、禁裏御倉職を勤めた立入宗継とともに正親町天皇の綸旨を携えて尾張の織田信長に対面しているが(道家祖看記)、のち将軍足利義昭方に付き、紀伊の山中で殺害された。その子彦四郎は天正一一年(一五八三)六月羽柴秀吉によって許され、山中へ還住、同所の支配を認められた(「兼見卿記」同年六月四日条など)


山中村
やまなかむら

[現在地名]杵築市八坂やさか

生桑いくわ村から山道を北西約半里、高原に点在する。日出藩領小武おたけ(現山香町)と境を接する。慶長六年(一六〇一)日出藩領、のち杵築藩領八代やしろ(現日出町)と交換し杵築藩領となっているが、年代については諸説があって不明。正保二年(一六四五)の日出藩絵図(万里図書館蔵)では杵築領小笠原忠知預地とある。小倉藩元和人畜改帳では木付きつき廻上八坂に属し、高六五石余、家数四・人数一八(うち百姓四・名子三)、牛五とある。元禄郷帳では高五四石余。文久三年(一八六三)の田畑根付目録(工藤家文書)に田九町八反・畑五町二反とあり、本庄組に属し、本庄庄屋の支配を受け、村役人は弁差一・山之口一であった。


山中村
やまなかむら

[現在地名]宮津市字山中

皆原かいばら村の東に位置する。宮津城下を発して皆原村から登り、山中村・栗田新宮くんだしんぐう村を通って板戸いたど峠を越え、加佐郡岡田おかだ(現舞鶴市)に通じる道を山中越という。当村からは栗田小寺くんだこでら村・なか村方面にも道が通じる。

慶長七年(一六〇二)の宮津庄下村田畠御検地帳(宮津市立図書館蔵)には山中・「稲村」などの所名が多い。慶長検地郷村帳に「下宮津之内」として「山中村」とみえるが、その後個別に高付され延宝三年郷村帳に「下宮津山中村」九六・一三八石と記される。


山中村
さんちゆうむら

[現在地名]郡山市田村町山中たむらまちさんちゆう

大善寺だいぜんじ村の南、谷田やた川東岸の阿武隈高地西縁丘陵に立地。守山もりやま村から金屋かなや村を経て郡山へ至る道が通る。古くは守山のうちで、守山の鎮守社守山社(現田村神社)がある。天文一四年(一五四五)一一月二一日の田村隆顕判物(帥継院文書)に「守山之山中」とみえ、田村隆顕は守山社の門前に一・六の日の六斎市を立て、市場を同社別当坊に管掌させることとした。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では守山に含まれる。江戸時代初めに守山から分村したとみられ、領主の変遷は下行合しもゆきあい村と同じ。延宝六年(一六七八)幕府直轄領となった際、棚倉藩主内藤信時による検地が行われ、それまでの村高五五二石から七九五石余となった。


山中村
やまなかむら

[現在地名]阪南町山中渓やまなかだに和泉鳥取いずみとつとり

現阪南町の南東端部に南北に細長く広がる。村のほぼ中央をなか(現泉南市)を経て村の北東端に至る紀州街道(熊野街道)が南行し、やま(現和歌山市)に向かっている。村域はほとんどが山間地で、街道にほぼ並行して北流する山中川沿いにわずかに平地がみられるのみで、集落も街道沿いに位置する。正平二四年(一三六九)八月七日の春宮大進某奉綸旨(観心寺文書)に「鳥取庄内山中関」とみえる。中世・近世と雄ノ山北麓の街道村として発達した。慶長一〇年(一六〇五)和泉国絵図に村名がみえ、高三二四石余。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳では六九八石余。


山中村
やまなかむら

[現在地名]足助町冷田ひえだ

県道加茂公園かもこうえん東大沼ひがしおおぬま線に沿う。東に接する十明とみよう山北麓のまつ村と、西の一段低い小起伏面上の上国谷かみぐにや村との間の傾斜面に位置する。南は栃本とちもと村、北は大野おおの村・小田こだ村に接し、集落は谷地形の中の山麓に点在。弥生時代のあさひ遺跡が山麓の急傾斜地にある。寛永一二年(一六三五)当時、刈谷城主松平忠房領。


山中村
やまなかむら

[現在地名]大田市富山町山中とみやまちようやまなか

神原かんばら村の南に位置し、南は野城のじろ川を境に円城寺えんじようじ村。村名は山中神社が鎮座することに由来する。年未詳九月二九日の毛利隆元書状(閥閲録)に「山中城番之儀」とみえ、隆元は今後も堅固に勤めるよう田原越中守に命じている。永禄年間(一五五八―七〇)の銀山争奪戦の際に山中を攻め大田に陣した尼子軍に対し、毛利軍は山中の堂原どうばらで尼子の敵情を探ったと伝える。正保国絵図に村名がみえ、高三四八石余。元禄一〇年(一六九七)の石見銀山領村々覚によると田方二四四石余・畑方一一九石余、年貢高は米一六九石余・銀九五七匁余。家数は本家一三〇・門屋四三、人数七三〇。


山中村
やまなかむら

[現在地名]芝山町山中

芝山村の北東、栗山くりやま川の支流高谷たかや川右岸に立地する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高八六八石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では牛熊組に属し、幕府領高二六〇石、旗本の三枝領高四〇〇石・八木領高九三石・山口領高五〇石・三宅領高四六石。山口領は寛永一〇年(一六三三)の地方直しから、三枝領は同一五年から、八木領と三宅領は寛文三年からで、八木領は元禄一一年(一六九八)までと考えられる(「寛政重修諸家譜」など)


山中村
やまなかむら

[現在地名]瀬高町広瀬ひろせ

禅院ぜんにん村の東、清水きよみず連山が北の矢部やべ川に迫る山麓部にある。下妻しもつま郡に属し、東は上妻こうづま郡の山下やました(現立花町)。元和七年(一六二一)の郡村帳に山中村とあり、玄蕃高五七石余、小物成は山年貢米九斗。旧高旧領取調帳では高一七〇石余、幕末から明治初年の反別一二町三反余(郡郷)。矢部川から取水する広瀬堰があり、長さ八五間の据枠空石張で、築造の時期は不明。東部山麓および小田おだ長田ながた方面の水田一千三九〇町余を潤す(矢部川の歴史)


山中村
やまなかむら

[現在地名]椎葉村下福良しもふくら 尾田山中おだやまなか

尾田おだ村の南に位置する。下福良掛三九ヵ村の一つで、下福良組に属する。日向国覚書に椎葉山之村形の一村として山中とみえる。延享三年(一七四六)に検地竿入がなされ、畑二反余(高二斗余)が打出された(天明元年「椎葉山高反別取米一村限帳控」内藤家文書)。宝暦五年(一七五五)の下福浦村組焼畑見取御年貢米代銀上納帳(同文書)では、「中尾山」に焼畑一一枚・一反余があり、その年貢米三升余・代銀二匁余。文政一一年(一八二八)には焼畑高が本高に入れられ、天保九年(一八三八)の椎葉山村々高覚(相良家文書)では高四斗余。


山中村
やまなかむら

[現在地名]鳳来町中島なかじま

須山すやま村の南につづく高原に立地。海老えび川筋と寒狭かんさ川筋とを結ぶ通路であった。湯島ゆしま村とともに天正一八年(一五九〇)吉田藩領、慶長五年(一六〇〇)徳川氏領、同八年幕府領、寛永一七年(一六四〇)新城水野氏領、正保二年(一六四五)幕府領、慶安元年(一六四八)海老菅沼氏領。字桃の久保もものくぼを登りつめた紅石べにいし山に、落人おちうど岩という高さ五メートルの大岩がある。


山中村
やまなかむら

[現在地名]珠洲市東山中町ひがしやまなかまち

折戸おりと村の南にあり、内浦の正院しよういん村に通じる道がある。「三州志」に渡瀬わたぜ洲巻すまき北山きたやま八町はつちようの垣内が記される。西方のいしヶ峯(石神山)の南斜面の山林地帯をはつヶ山とよび、正院郷内八村(山中・唐笠・岡田・岩坂・正院・小路・熊谷・飯塚各村)の入会地であった。正保郷帳に村名がみえ、高一三六石余、田五町余・畑四町余。


山中村
やまなかむら

[現在地名]今津町杉山すぎやま

保坂ほうざか村の北西、角川つのがわ村の西にあり、分水嶺を越えているので、当地の水は日本海へ流れる。文正元年(一四六六)七月八日「江州山中関一方給主職」が西勝坊栄慶から安養坊春憲に譲られ、文明一三年(一四八一)春憲の息子宝積坊春澄より定光院猿菊丸が一〇〇貫文で買っている(政所賦銘引付)。この山中関は保坂関をさすか不明。寛永石高帳に高四五石余とあり、旗本朽木(本家)領。慶安高辻帳では田方一〇石余・畑方三五石余、ほかに小物成米三石余。


山中村
やまなかむら

[現在地名]内浦町山中・羽生はにゆう

満泉寺まんせんじ村の南西にあり、内浦街道が通る。正保郷帳に村名がみえ、高一三四石余、田五町八反・畑三町一反余。承応三年(一六五四)の能登奥両郡収納帳では草高一四八石余、免四ツ七歩。寛文一〇年(一六七〇)の村御印に木郎山中もくろうやまなか村とあり、草高一四三石、免四ツ八歩、小物成は山役三〇匁、鳥役一匁(出来)となっている(三箇国高物成帳)。天保郷帳では満泉寺村を合せて記載されている。「能登名跡志」によれば上り馬継を行っており、不動寺ふどうじ村間は本馬三四文・軽尻二〇文・人足一〇文とある。


山中村
やまなかむら

[現在地名]八尾町山中

平沢ひらさわ村の西方、大長谷おおながたに川左岸にあった。元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳では平沢村の川を隔てて三〇町ほど西にある枝村新田としてみえ、高一六石。幕末の高も同じで免二ツ二歩(古高免小物成銀等書上)。所属組は大下おおしも村と同じ。慶応四年(一八六八)の高持家数二・人数一三(郡方人別書上帳)


山中村
やまなかむら

[現在地名]敦賀市山中

駄口だぐち村の南に位置する。西近江路の敦賀側の最南端の村で近世の宿駅。敦賀津より四里、近江海津かいづ(現滋賀県高島郡マキノ町)まで三里半。中山とも称し、「源平盛衰記」(源氏追討使事)に「今津、海津を打過きて、荒乳の中山に懸って、天熊国境、匹壇、三口行き越えて」とある。応永年間(一三九四―一四二八)の「宗雅道すから之記」によれば飛鳥井宗雅も当地を通っている。

慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図には「山中村、高疋田ヘ入」とある。正保郷帳では一村として高付され、田方三一石余・畠方九石余。享保一二年(一七二七)には牛馬銀五五匁余、新山手銀一六五匁余、雉札銀一匁、夫米六石九斗余、馬足三九疋、牡馬二五、家数四六(うち高持一九・無高二五・寺二)、人数一九六(敦賀郷方覚書)


山中村
やまなかむら

[現在地名]三瀬村大字三瀬字山中

かな山の西南、三瀬城の南の初瀬はつせ川の支流沿いに開けた地である。正保絵図に村名がみえる。

村内に山中地蔵または通称脚気地蔵の名で知られる地蔵堂が残っている。明徳四年(一三九三)の創祀という。縁起によれば文永元年(一二六四)野田周防守(大江清秀)が三瀬の地に下向し、杉屋敷すぎやしきに露営ののち、改めて山中の地に館を構えて城主となり、三瀬山一帯を掌領した。嫡男大江房儀は山中の地を去って宿しゆくに館を移し、その子家房は、長谷山観音寺(現在曹洞宗)の宗師として禅門に入り、明徳四年に宗祖の霊位の大法要を営み、祖父のいた山中の館跡に堂を建て地蔵尊を安置した。


山中村
やまなかむら

[現在地名]豊田市山中町

標高二〇〇―三〇〇メートルの山に囲まれた市域の北東部にあり、現県道六ッ木―豊田線によって、中金なかがね矢並やなみと結ばれている。近世初頭から則定のりさだ(現東加茂郡足助町)に陣屋を置いた旗本鈴木三郎九郎の知行地として明治に至る。

曹洞宗石平山恩真おんしん寺は、鈴木重三(正三)の開基といわれ、寛永一一年(一六三四)に創建。寺蔵の江戸初期の梵鐘と江戸期の木造鈴木正三和尚坐像は市指定文化財。


山中村
やまなかむら

[現在地名]吉川町山中

南は山直海やまのうみ村、西は米山こめやま村に接し、北に平等寺びようどうじ村がある。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「転輪寺分山中村 下」とみえ、本納二一石三斗五升八合・縄高二九石二斗一升九合、家三軒・一〇人とある。延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳では高三二石六斗余とあり、当村ほか三ヵ村合せて「高弐石六斗 小物成」とある。天和三年郷帳によれば高五五石五斗余。享保二年(一七一七)糸魚川藩領に属し幕末に至る。同九年の蝋実定納村々割付帳(石野武教氏蔵)によると、当村は山蝋実一升一合・里蝋穂一九貫四〇〇匁を割付けられている。


山中村
やまなかむら

[現在地名]マキノ町山中

有原ありはら村の南にある。幕府領から慶安四年(一六五一)上野館林藩領、延宝八年(一六八〇)幕府領に復し、享保九年(一七二四)以降大和郡山藩領。寛永石高帳に高五三二石余とあり、慶安高辻帳では田方四四〇石余・畑方五九石余・永荒三二石余、ほかに小物成米二斗余・銀六九匁余。元禄一三年(一七〇〇)の家数は本百姓五五・水呑百姓一四・寺四、人数男一四五・女一四二・僧八(高島郡誌)


山中村
やまなかむら

[現在地名]天竜市大川おおかわ

伊砂いすか村の東、天竜川中流域左岸、光明こうみよう山の南西に位置する。領主の変遷は天明五年(一七八五)まで二俣ふたまた村と同じ。同年旗本石谷領となり(「寛政重修諸家譜」など)、幕末に至る。松平忠頼領郷村帳に村名がみえ、高一四石余、畑二町余。正保郷帳でも同高。元禄郷帳では高五六石余。天保郷帳では高六一石余。「遠江国風土記伝」に「百姓ノ家靠山に住む、水田無し、焼畑の作物は、芋・大豆・蕎麦・稗、山の物は杉丸太・黒木なり」とある。


山中村
やまなかむら

[現在地名]三重町内山うちやま 山中

松谷まつだに村の南西、本城ほんじよう山の南東麓にある。近世を通じ臼杵藩領。慶長豊後国絵図に山中村とみえ、高八五三石余。慶長一一年(一六〇六)の惣御高頭御帳では高一二三石余、上ノ村組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば本高一二三石余・出来高四三石余、田方一一九石余・畑方四六石余、小松山などありと注記される。


山中村
やまなかむら

[現在地名]三沢市三沢 山中

小川原おがわら湖の東岸に位置する。北は天ヶ森あまがもり村に接し、東隣に谷地頭やちがしら村がある。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に百石ももいし(現上北郡百石町)の支村として山中とあり、家数二。享和三年(一八〇三)の仮名付帳では家数一。


山中村
やまなかむら

[現在地名]北本市山中一―二丁目・北本四丁目

本宿もとじゆく村の東にあり、南は上中丸かみなかまる村。足立郡鴻巣領に属する(風土記稿)。田園簿には中山なかやま村とあり、田一〇石余・畑三一石余、幕府領。元禄郷帳では山中村とある。国立史料館本元禄郷帳では旗本横田領。以後幕末まで同領。寛永六年(一六二九)検地が施行された(風土記稿)


山中村
やまなかむら

[現在地名]今庄町山中

山中峠の北東麓、標高三〇〇メートルほどの高所にある。東に下れば大桐おおぎり村、南西に峠を越えれば本比田もとひだ(現敦賀市)に至る。慶長三年(一五九八)の越前国南仲条郡大切山中村御検地帳(大桐区有文書)があり、上田三畝余・下田一反九畝余、上畠二反八畝余・中畠五畝余・下畠三反六畝余、屋敷四畝余。


山中村
やまなかむら

[現在地名]佐世保市桜木町さくらぎちよう

佐世保村の北東に位置し、佐世保川支流の赤木あかぎ川と田代たしろ川の分岐する谷間に立地する。江戸時代初期は佐世保村のうちで、正保二年(一六四五)の平戸領内絵図(松浦史料博物館蔵)では佐世保支村として山中村がみえ、高二六二石余となっている。明暦二年(一六五六)の田方帳抜書では佐世保村内に山中免とある。


山中村
やまなかむら

[現在地名]谷田部町山中

しま村の西南、蓮沼はすぬま川東岸に位置。江戸時代には朝比奈・大久保の旗本二氏の相給地となり廃藩置県に及び、「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)には朝比奈平五郎知行地九一・七八五五石、大久保録太郎知行地八六・二九五五石。


山中村
やまなかむら

[現在地名]野津原町今市いまいち 山中など

七瀬ななせ川左岸に位置し、北は上詰かみつめ村。直入なおいり郡に所属。江戸時代を通じて岡藩領で、今市組に属した(農民一揆)。旧高旧領取調帳によると高一〇〇石余。


山中村
やまなかむら

[現在地名]竹田市渡瀬わたせ

玉来たまらい川上流にある。正保・元禄・天保の各郷帳にみえない。弘化物成帳では穴井迫組のうち、村位は上、免六ツ七分、田三七石余(三町三反余)・畑三四石余(四町九反余)・屋敷一石余(一反余)で、開田はほんのわずかで、開畑六斗余(一町余)がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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