日本歴史地名大系 「山中村」の解説
山中村
やまなかむら
- 広島県:三原市
- 山中村
大谷山を水源とする
山中村
やまなかむら
西は
山中温泉は天平年間(七二九―七四九)北陸行脚中の行基が発見し、治承年間(一一七七―八一)
山中村
やまなかむら
〔山中氏と鈴鹿山警固役〕
山中の地名は鎌倉時代からみえる。当地は古代東海道、中世の伊勢大路など重要な交通路にあたり、中世には朝廷の伊勢神宮奉幣使や斎王群行・公卿勅使の警固役を山中氏が家職として伝領した。山中村地頭職は、建保四年(一二一六)二月一〇日の山中俊直譲状案(山中文書、以下同文書は省略)にみえるのが早い。建久五年(一一九四)二月一四日の前右大将家政所下文案によると、幕府は朝廷の命令を遵守して山中俊直に鈴鹿山守護沙汰と盗賊鎮圧を命じたとされ、これ以前に俊直は鎌倉御家人として地頭職に補任されたものであろう。同文書によると、鈴鹿山守護の職務は通行人のために道路の木を伐採し、浮浪人を山内に集住させて盗賊警固の任務に当たらせることにあった。鈴鹿山の安全確保は鎌倉幕府によって近辺の地頭の役職とされ、その責務の果せないものは改補されることになっていた(延応元年七月二六日「関東御教書」侍所沙汰篇)。
山中村
やまなかむら
山中村
やまなかむら
- 山口県:美祢市
- 山中村
伊佐村の南にあり、東を
古代には山陽道と山陰道を結ぶ陰陽連絡路が随光川に沿って南北に通っていた。この道はその後近世末まで南の
山中村
やまなかむら
山中村
やまなかむら
- 山口県:宇部市
- 山中村
村の開発伝承として「注進案」に「伊藤彦四郎入道といへるもの伊豆国浪人にて当地罷越、深山の傍に鋳物師釜と申所あり、其所にて炭焼をかたらひ年月を送り候内、大内弘世公の御代永和四年達国政所、蒙許容一里四方の深山を切ひらきて新宿を取立甲山市と号く、いまの山中宿これなり」と記す。現在
山中村
やまなかむら
山中湖の南西から北西岸の一部を占める。南東は
山中村
やまなかむら
山中村
やまなかむら
山中村
やまなかむら
山中村
やまなかむら
- 千葉県:富津市
- 山中村
山中村
やまなかむら
山中村
やまなかむら
山中村
やまなかむら
- 大分県:杵築市
- 山中村
山中村
やまなかむら
- 京都府:宮津市
- 山中村
慶長七年(一六〇二)の宮津庄下村田畠御検地帳(宮津市立図書館蔵)には山中・「稲村」などの所名が多い。慶長検地郷村帳に「下宮津之内」として「山中村」とみえるが、その後個別に高付され延宝三年郷村帳に「下宮津山中村」九六・一三八石と記される。
山中村
さんちゆうむら
山中村
やまなかむら
現阪南町の南東端部に南北に細長く広がる。村のほぼ中央を
山中村
やまなかむら
山中村
やまなかむら
- 島根県:大田市
- 山中村
山中村
やまなかむら
山中村
やまなかむら
山中村
やまなかむら
山中村
やまなかむら
山中村
やまなかむら
山中村
やまなかむら
山中村
やまなかむら
山中村
やまなかむら
山中村
やまなかむら
- 福井県:敦賀市
- 山中村
慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図には「山中村、高疋田ヘ入」とある。正保郷帳では一村として高付され、田方三一石余・畠方九石余。享保一二年(一七二七)には牛馬銀五五匁余、新山手銀一六五匁余、雉札銀一匁、夫米六石九斗余、馬足三九疋、牡馬二五、家数四六(うち高持一九・無高二五・寺二)、人数一九六(敦賀郷方覚書)。
山中村
やまなかむら
山中村
やまなかむら
標高二〇〇―三〇〇メートルの山に囲まれた市域の北東部にあり、現県道六ッ木―豊田線によって、
曹洞宗石平山
山中村
やまなかむら
山中村
やまなかむら
山中村
やまなかむら
山中村
やまなかむら
山中村
やまなかむら
- 青森県:三沢市
- 山中村
山中村
やまなかむら
- 埼玉県:北本市
- 山中村
山中村
やまなかむら
山中村
やまなかむら
- 長崎県:佐世保市
- 山中村
佐世保村の北東に位置し、佐世保川支流の
山中村
やまなかむら
山中村
やまなかむら
山中村
やまなかむら
- 大分県:竹田市
- 山中村
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報