長昌寺(読み)ちようしようじ

日本歴史地名大系 「長昌寺」の解説

長昌寺
ちようしようじ

[現在地名]一関市真柴

すい川北岸、字宮沢みやざわにある。玉林山と号し、日蓮宗本尊は日蓮説法像と日蓮画像大曼荼羅。延暦二一年(八〇二)磐井いわい奥玉おくたま(現東磐井郡千厩町)坂上田村麻呂によって天台宗長勝ちようしよう寺として創建されたという。元文四年(一七三九)現在地に移り、日蓮宗に改め再建された。中興開基は一関藩三代藩主田村村顕。村顕が重い痘瘡を病んだとき僧日果が内室の願いにより祈祷、病気平癒後その礼に日果を開山として建立した(鬼死骸村安永風土記)再興の際の逸話として当時,伊達氏支配下では日蓮宗寺院は建立できなかったが、田村家の先祖とされる田村麻呂が建立した寺が廃寺になっていたのを再建するということで、許可になったと伝える。


長昌寺
ちようしようじ

[現在地名]前橋市紅雲町二丁目

利根橋と群馬大橋に挟まれた利根川左岸にあり、芳林山栄興院と号し、曹洞宗、本尊阿弥陀如来。寺伝によれば、延徳元年(一四八九)厩橋(前橋)城主長野宗賢が創建し、開山は大洞と伝える。万治二年(一六五九)の前橋城主代々覚書(「郡村誌遺漏」所収)によれば、当寺は前橋城主代々の位牌所で、開基の長野氏固山宗堅以来、上杉謙信の城代北条安芸守や平岩七之助、酒井河内守の代までは阿弥陀免六反歩を与えられていたが、その後召上げられ、今は三反歩になったと記している。石川忠総留書(内閣文庫蔵)によれば、天正一〇年(一五八二)織田信長の命により関東管領として厩橋城に入った滝川一益は、六月一一日に「厩橋長昌寺ニテ能興業」を行うため、「能組十二番書立、舞台ヲ拵、瓶ヲ十二フセ、総構ヲ大竹ニテ二重ニ被致候」の準備をした。


長昌寺
ちようしようじ

[現在地名]礼文郡礼文町大字船泊村 ヲションナイ

仏称山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。大正元年(一九一二)九月に創設され、同四年八月に寺号公称を認可された(礼文町史)明治四〇年(一九〇七)青森県弘前市に生れ、昭和三年(一九二八)に礼文島に渡った住職の長尾了円は、考古遺物を採集した。同二四年から早稲田大学や新岡武彦による利礼郷土研究会、北海道大学の北方文化研究施設などによって利尻りしり・礼文島が注目されると、多くの研究者が礼文島に渡った。長尾了円は島内の遺跡を案内し、保管していた遺物を公開した。


長昌寺
ちようしようじ

[現在地名]小樽市桜一丁目

熊碓くまうす川下流域にある。浄土宗。熊碓山観音院と号する。本尊は阿弥陀如来。クマウシ番家下にあたる。一八六三年(文久三年)四月蝦夷三官寺の東蝦夷地ウス善光寺(現伊達市)により設置された観音堂を前身とするといい、寺号公許は明治一七年(一八八四)という(寺院沿革誌)。熊碓観音堂への正式な住職赴任許可は明治一五年一一月で、大谷玄超が初代(道立文書館所蔵札幌県簿書)。明治二年の末寺末庵住務転昇次第(善光寺蔵)に末庵としてみえる観音堂が当寺と考えられ、在職就任時の礼金冥加金年頭暑中の扇子料を善光寺に納める義務を負っていたから玄超以前にも住持がいた可能性が高い。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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