長禅寺(読み)ちようぜんじ

日本歴史地名大系 「長禅寺」の解説

長禅寺
ちようぜんじ

[現在地名]甲府市愛宕町

愛宕あたご山南麓にある。瑞雲山と号し、臨済宗妙心寺派に属した。昭和二七年(一九五二)に単立となる。本尊は釈迦如来。「甲斐国志」によれば、夢窓疎石が相沢あいざわ(現甲西町)創建した長禅寺を、武田信玄が住持の岐秀元伯に帰依して甲府の愛宕山南麓に移し甲府五山の第一座に列したといい、旧地には古長禅こちようぜん寺が残る。甲州古城勝頼以前図(恵林寺蔵)にはゆめ山・愛宕と並び「長禅寺」と記されている。移転の時期については、信玄生母の大井夫人(武田信虎夫人)が死去した天文二一年(一五五二)直後とする説と(甲斐国志)、永禄年中(一五五八―七〇)説がある(寺記)。信玄は岐秀元伯を准開山に迎えたこの寺に大井夫人を埋葬し、牌立して開基とした。


長禅寺
ちようぜんじ

臨済宗寺院で、山号は興徳山。室町期の越中守護畠山氏の守護代であった椎名氏の居城松倉まつくら城の山麓に所在した。開山は蘭渓道隆の孫弟子にあたる了堂素安で(扶桑五山記)、その法系は大覚派(蘭渓の門派)に継がれ、京都の建仁けんにん寺や南禅寺への出世寺であった。「扶桑五山記」によれば開基は大器都管といわれ、文安四年(一四四七)以前に諸山位に列している。


長禅寺
ちようぜんじ

[現在地名]取手市取手二丁目

利根川北岸の高台に所在。大鹿山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊地蔵菩薩。承平元年(九三一)平将門の創建で、勅願所(祈願所)となったと伝えられる。「下総旧事考」には「在大鹿村、文暦中、織部時平創建、僧快道所開也、夢窓国師四世法嗣云、隷花園妙心寺、寺領五石三斗余、慶安二年己丑八月付」とみえるが、古くは大鹿おおしか城があった大鹿原に当寺もあり、元禄六年(一六九三)大鹿村が移転した時、寺も現在地に移された。

境内の三世さんぜ堂は通称百観音ひやくかんのんといわれ、文暦元年(一二三四)将門の弟将頼の子孫といわれる大鹿城主織部時平の創建と伝えられ、宝暦一三年(一七六三)に観覚光音が三層の堂を再建。


長禅寺
ちようぜんじ

[現在地名]旭市野中

たなにある。金剛山と号し、真言宗智山派。もと京都智積ちしやく院末で真言宗中本寺。山城醍醐寺の金剛王院実賢の法系を受ける長範が開基、草創は応永八年(一四〇一)という。本尊は愛染明王坐像で、永禄一二年(一五六九)九月の胎内墨書銘によると、同八年正木氏の襲来で焼失したらしいが、同一一年再建。本尊は木造・寄木造で京都の仏師小河浄慶の作。寛永一〇年(一六三三)の関東真言宗新義本末寺帳に野中村長禅寺とみえ、末寺四。


長禅寺
ちようぜんじ

[現在地名]中川区富田町千音寺 南屋敷

無量山と号し、曹洞宗。本尊は阿弥陀如来。古くは平田山極楽ごくらく寺と称し、「寛文覚書」に「寺内三畝歩、前々除」とある。「徇行記」は天正一〇年(一五八二)織田信雄寄進状を伝える。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「長禅寺」の解説

長禅寺

茨城県取手市にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は大鹿山。931年、平将門が祈願寺として創建したとされる。さざえ堂形式の三世堂は県指定文化財。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

世界大百科事典(旧版)内の長禅寺の言及

【府中五山】より

…武田信虎が築いた躑躅崎(つつじがさき)館(甲府市)の周辺に散在する,臨済宗妙心寺派5ヵ寺の総称。信虎の子晴信は,臨済宗妙心寺派の僧岐秀元伯を師と仰いで出家し信玄と号したが,元伯のために長禅寺を開創した。妙心寺派の禅に帰依した信玄は,由緒ある4ヵ寺を城下に移転および復興して長禅寺と併せ府中五山と称し,5ヵ寺に特別な保護を加えるようになった(永禄年間)。…

※「長禅寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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