岡山県中西部、高梁川の中流域にある市。明治初年までは松山と称した。1954年(昭和29)上房(じょうぼう)郡高梁町と同郡の津川、川面(かわも)、巨瀬(こせ)の3村、川上(かわかみ)郡宇治、玉川、松原、落合、高倉の5村が合併して市制施行。1955年上房郡中井村を編入。2004年(平成16)上房郡の有漢町(うかんちょう)、川上郡の成羽町(なりわちょう)、川上町、備中町(びっちゅうちょう)と合併。なお、この合併により川上郡は消滅した。市域の大部分は吉備(きび)高原で、西部は広島県と接する。中東部を高梁川が南流し、北東から有漢川、西方から成羽川が合流する。JR伯備(はくび)線、国道180号、313号、484号が通じ、岡山自動車道の有漢インターチェンジがある。高梁川左岸の狭長な高梁盆地が中心地区。かつての備中松山藩の城下町で、人口が集中している。
古代の巨勢(こせ)郷、近似(ちかのり)郷、穴田(あなた)郷、有漢(うかに)郷などの地で、大部分は国衙(こくが)領、巨勢郷は長講堂領であった。1240年(仁治1)秋葉氏が高梁川左岸の臥牛(がぎゅう)山(478メートル)の一峰大松山に築城し、4代ののち高橋氏にかわるが、そのころから松山は備中の政治の中心となった。戦国時代には大名間の争奪の地となり、江戸時代も松山藩主は池田、水谷(みずのや)、安藤、石川の諸氏が交代し、1744年(延享1)板倉氏が入封して明治に至った。成羽地区は、近世初期一時成羽藩が置かれ、そのあとには交替寄合(こうたいよりあい)山崎氏5000石の陣屋町であった。備中地区の黒鳥(くろとり)には1853年(嘉永6)以後陣屋が置かれた。1869年(明治2)松山藩は高梁藩と改称、その後高梁県を経て岡山県に編入した。
松山城下町は松山城の南麓(なんろく)に御根小屋と称する藩主の居館を中心につくられた。城下はまた高梁川舟運の川湊(かわみなと)としても繁栄し、今日も問屋の倉庫群におもかげを残す。大正期の国鉄(現、JR伯備線)の開通やバス交通の発達で上房、川上両郡の中心地となったが、自動車交通の発達で中心地としての機能は低下した。岡山県備中県民局高梁支局が置かれている。1990年(平成2)吉備国際大学が開学した。産業は農林業が中心で、米作、野菜、ブドウ、モモなどの果樹栽培、タバコ栽培、畜産などが盛ん。伝統工芸に漆工芸などもある。成羽川には中国電力の新成羽川ダムと同発電所があり、同川沿いの舟運開削の碑「笠神の文字岩(かさがみのもじいわ)」(国指定史跡)は、1968年ダムの建設により水没したが、複製品が置かれている。阿部地区には工業団地がある。古くからの牛市(いち)は現在でも毎週火曜日に行われる。また、吹屋地区(ふきやちく)は平安時代から銅を採掘し、鉱山町として栄えたが、1972年閉山。江戸末期から明治にかけての建物が多く残る吹屋の町並みは国の重要伝統的建造物群保存地区となっている。
備中松山城(国史跡)の天守など3棟、絹本著色『釈迦三尊(しゃかさんぞん)像』(頼久(らいきゅう)寺蔵)は国の重要文化財。臥牛山のサル生息地、大賀の押被(おしかぶせ)は国の天然記念物。神野(ほや)のドリーネなど石灰台地特有の地形にみるべきものが多い。成羽には中生代三畳紀後期の植物群化石である成羽植物群が分布する。磐窟谷(いわやだに)、小堀遠州(えんしゅう)のつくった頼久寺庭園は国の名勝。旧備中(びっちゅう)国一円に伝わる備中神楽(かぐら)(国の重要無形民俗文化財)保存会がある。松山踊りは藩政時代からの盆踊りである。面積は546.99平方キロメートル、人口2万9072(2020)。
[由比浜省吾]
『『高梁市史』(1979・高梁市)』▽『『高梁市史』増補版全2巻(2004・高梁市)』
岡山県中西部の市。2004年10月旧高梁市と有漠(うかん),川上(かわかみ),成羽(なりわ),備中(びっちゅう)の4町が合体して成立した。人口3万4963(2010)。
高梁市北東端の旧町,旧上房郡所属。人口2709(2000)。高梁川支流の有漢川上流に位置し,有漢川河谷にわずかに低地があるほかは,大部分が吉備高原の隆起準平原からなる。有漢の地名は鵜飼部に由来するといわれる。中心集落の有漢市場は高梁と落合を結ぶ街道沿いにあり,農林産物の交易が行われた。低地での米作,河岸段丘面でのタバコ栽培を中心とする農業が基幹産業である。岡山自動車道のインターチェンジがある。明治の思想家綱島梁川の生地であり,重要文化財指定の臍帯寺の石幢などがある。
高梁市南西部の旧町。旧川上郡所属。人口4064(2000)。成羽川の支流領家川流域の吉備高原に位置する。町域西端弥高山麓の集落高山市はかつて高原上の市場町として栄え町の中心をなしたが,1900年ころ領家川沿いの地頭にタバコ収納所が設置されて中心が移った。畑作を主とした農業を基幹産業とし,タバコ,マツタケ,シイタケの特産がある。弥高山は代表的な溶岩円頂丘で,領家川の河床には天然記念物の大賀の押被(おしかぶせ)(大賀デッケン)がみられる。北境には国名勝の磐窟(いわや)渓がある。町域東寄りを国道313号線が通る。
執筆者:上田 雅子
高梁市東部の旧市で,高梁川中流域にある。1954年高梁町と周辺の8村が合体,市制。人口2万5374(2000)。旧称を松山といい,1240年(仁治1)秋庭氏が高梁川左岸の臥牛(がぎゆう)山に築城,14世紀に高橋氏に代わったころより備中の政治中心地となった。以後,城主の交代が激しく,17世紀後半に水谷(みずのや)氏が松山城の改築,城下町の整備を行い,1744年(延享1)板倉氏が入封,幕末にいたった。藩主板倉勝静(かつきよ)が幕末に老中職にあったため朝敵と見なされ,1868年(明治1)岡山藩の征討を受けた。69年封地を削られ,松山を高梁と改称した。近世には城下町として,また高梁川水運の要地として発達し,武家屋敷,問屋の倉,小堀遠州の作と伝えられる頼久寺庭園を今に残しており,観光客が多い。市域は吉備高原を広く含むため,過疎化の進行が顕著であった。工業は日本たばこの工場以外は小規模の輸出用雛人形生産などが中心であるが,阿部地区に工業団地が造成された。牛市場は全国的に有名である。JR伯備線,国道180号線が高梁川沿いを通る。
執筆者:由比浜 省吾
高梁市中部の旧町。旧川上郡所属。人口5825(2000)。高梁川の支流成羽川流域に位置する。中心集落の成羽は,近世成羽川舟運の遡航上限に当たる河港であり,瀬戸内海沿岸の玉島と中国山地内の新見を結ぶ街道の宿場町で,水陸交通の要地として発展し,山崎氏の陣屋も置かれた。農業が主産業で,タバコ,トマト,コンニャクの栽培,畜産などが行われる。また畳糸製造工場,粉末冶金工場なども立地する。北部の吹屋(ふきや)は吉岡銅山とべんがら製造で発展した鉱山町で,古い家並みが残り,国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。周辺の石灰岩は三畳紀の化石を多く含むことで知られ,化石を展示する成羽町美術館がある。重要無形民俗文化財の備中神楽が伝わる。
高梁市西部の旧町。旧川上郡所属。人口3105(2000)。吉備高原上にあって,中央部を高梁川の支流成羽川が深い谷を刻んで東流する。古い集落や街道は高原上にあったが,成羽川の舟運が発達した近世以降は谷底に集落が形成された。畑作や畜産を主とした農業が基幹産業で,油野(ゆの)に養豚センター,西山にクリ生産団地があり,ウルシ,コンニャク,タバコを特産する。成羽川には中国電力の新成羽川ダムがあり,堰堤下の河原には高瀬舟開通の由来を記した笠神(りゆうじん)の文字岩(史)がある。ほかに江戸時代後期の典型的な山間農家建築である前原家住宅(重要文化財)や,磐窟渓(名)などの景勝地がある。
執筆者:上田 雅子
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