高麗寺跡(読み)こまでらあと

精選版 日本国語大辞典 「高麗寺跡」の意味・読み・例文・類語

こまでら‐あと【高麗寺跡】

京都府相楽郡山城町上狛(かみこま)にある奈良時代の寺院跡。高句麗(こうくり)の渡来人狛氏の創建と伝えられる。左右にならんでいる塔・金堂(し)瓦積基壇と講堂の土壇がみられ、塔心礎には南側側面に舎利孔がある。国史跡指定。

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日本歴史地名大系 「高麗寺跡」の解説

高麗寺跡
こまでらあと

[現在地名]山城町上狛 高麗寺

上狛かみこま東方木津きづ川北岸の段丘上に南面してあった古代寺院。跡地は国指定史跡。「日本霊異記」中巻の「法花経を読む僧を呰りて、現に口斜みて悪死の報を得る縁」に、「去にし天平年中、山背の国相楽の郡の部内に、一の白衣有り。姓名未だ詳ならず。同じ郡の高麗寺の僧栄常、常に法花経を誦持す。彼の白衣、僧と其の寺にて暫の間碁を作す」とみえ、天平期(七二九―七四九)にはあったと推定されるが確証はない。なお同内容の説話が「今昔物語集」巻一四(山城国高麗寺栄常、謗法花得現報語)にもみえる。欽明天皇三一年に高句麗との国交があり、使者を「山背のこまひのむろつみ」「相楽さからかの館」に饗したと「日本書紀」にあり、この頃から高句麗の渡来氏族狛氏が南山城に居住し勢力を伸ばしていたと考えられることから、高麗寺は狛氏の創建と推定されている。

高麗寺跡
こうらいじあと

[現在地名]大磯町高麗

高麗こま(高麗寺山)の南麓、東海道に面してあった高麗こうらい権現社(現高来神社)の別当寺。鶏足山雲上院と号し、天台宗。明治初年の廃仏毀釈により廃寺となり、現在本地仏の千手観音像は、大磯より移されたもと末寺の慶覚けいがく院に安置されている。「風土記稿」によれば大同年中(八〇六―八一〇)役小角が法相沙門堂社を開建、その後小野文観が中興したという。

「吾妻鏡」建久三年(一一九二)五月八日条によれば、後白河法皇の四十九日の仏事を鎌倉南御堂みなみのみどう(勝長寿院)で行った際、参列した一〇〇人の僧のうちに「高麗寺三口」とみえ、同年八月九日条によれば北条政子の実朝出産の際、安産祈願のため誦経した寺のなかに「高麗寺大磯」がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「高麗寺跡」の解説

こまでらあと【高麗寺跡】


京都府木津川市山城町上狛にある寺院跡。木津川が流れる山城町上狛(かみこま)の東方にある棚田の中に位置する、飛鳥(あすか)時代に創建されて平安時代末期の12世紀ごろまで存続した府内最古の古代寺院。高句麗(こうくり)から渡来した狛(高麗)氏の氏寺だったとみられている。創建時には蘇我馬子(そがのうまこ)により596年(推古天皇4)に創建された飛鳥寺(奈良県高市郡明日香村)と同じ軒瓦(のきがわら)が使われたといわれ、その後の造営では7世紀後半に天智天皇の創建とみられる川原(かわら)寺(同明日香村)と同じ軒瓦が使われた。寺名は奈良時代の『日本書紀』や平安時代初期の説話集『日本霊異記(りょういき)』、平安時代後期の説話集『今昔物語』などにも登場し、「高麗寺の渡来僧、栄常」にまつわる記述がある。明治期まで寺院跡の礎石が残されていたといわれ、発掘調査の結果、塔や金堂、講堂、中門跡などが発掘されている。伽藍(がらん)を取り囲む回廊はほぼ正方形で、1辺が南北200尺(唐尺)、東西201尺と推定され、西に金堂、東に塔が建ち、周りを回廊に囲まれた法起寺(ほっきじ)式伽藍配置である。北辺回廊の中央に講堂があり、南面回廊に西寄りに中門、さらにその南に南門が接続していた。この金堂、中門、南門が南北に一直線に並ぶ形式は、川原寺式伽藍配置から法起寺式伽藍配置に変わる最初の例という。その後の発掘調査で、塔の相輪最上部の水煙を心柱に取り付けていた銅製金具の擦管(さっかん)が発見され、表面に金色の鍍金がほどこされていて、当時としては高度な技術を誇っていたことがわかる。1940年(昭和15)に国の史跡に指定された。JR奈良線上狛駅から徒歩約10分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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