斜みて悪死の報を得る縁」に、「去にし天平年中、山背の国相楽の郡の部内に、一の白衣有り。姓名未だ詳ならず。同じ郡の高麗寺の僧栄常、常に法花経を誦持す。彼の白衣、僧と其の寺にて暫の間碁を作す」とみえ、天平期(七二九―七四九)にはあったと推定されるが確証はない。なお同内容の説話が「今昔物語集」巻一四(山城国高麗寺栄常、謗法花得現報語)にもみえる。欽明天皇三一年に高句麗との国交があり、使者を「山背の
館
「吾妻鏡」建久三年(一一九二)五月八日条によれば、後白河法皇の四十九日の仏事を鎌倉
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報