黎朝(読み)レイチョウ

デジタル大辞泉 「黎朝」の意味・読み・例文・類語

れい‐ちょう〔‐テウ〕【黎朝】

ベトナム王朝の一。前黎朝と後黎朝とがあるが、一般に後者をさす。1428年、黎利がの支配を脱して建てた王朝で、ハノイ首都とし、国号を大越とした。1527年、臣の莫登庸によって王位を奪われ、1533年復興したが、以後ハノイの鄭氏とユエの阮氏との抗争を経て、1789年西山党の阮氏によって滅ぼされた。レ朝

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精選版 日本国語大辞典 「黎朝」の意味・読み・例文・類語

れい‐ちょう ‥テウ【黎朝】

ベトナムの王朝。前黎朝(九八〇‐一〇〇九)と後黎朝(一四二八‐一五二七、一五三二‐一七八九)があり、普通は後黎朝をさす。後黎朝は明の支配に蜂起した黎利がハノイ(東都)に都して建国。国号は大越。一五二七年莫登庸(ばくとうよう)帝位を奪われ、三二年復興。一七八九年西山朝に滅ぼされた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「黎朝」の意味・わかりやすい解説

黎朝
れいちょう

ベトナムの王朝。前,後2つの黎朝がある。 (1) 前黎朝 (980~1009)  ベトナムが中国の支配から独立してのち,まだ国家的基盤が確立しない時代の短期王朝の一つ。初代の黎桓 (在位 980~1005) から龍てい (在位 05~09) までわずか3代で滅んだ。首都は寧平 (ニンビン) 省の華閭 (ホアル) 。 (2) 後黎朝 (1428~1527,33~1789)  黎利が明の支配に対して反抗し,これを駆逐したのち樹立した王朝。首都は東都 (ハノイ) 。前期 (1428~1527) は国威が盛んで,特に聖宗時代には絶頂期を迎えた。諸制度が整備され,チャンパを征服して領土南方に拡張した。しかしその後は凡庸の皇帝が相次ぎ,国内は内乱状態となり,実力者となった莫登庸 (ばくとうよう) に国を奪われ,黎朝はいったん滅んだ。その後,1533年に荘宗が清化 (タンホア) で即位し黎朝は復興したが,なおハノイにおける莫氏の治世も続き,16世紀を通じて黎,莫両朝の抗争が続いた。 92年黎朝はついにハノイを奪回したが,黎朝の実権はその復興に功績のあった鄭氏の手中に帰した。一方,この鄭氏に反対した阮氏は南の順化 (ユエ) 地方に拠って鄭氏に対抗し,黎朝の名目的支配のもとでの鄭・阮両氏の対抗時代が続いた。この阮氏支配下にベトナム勢力の南方への拡張 (南進) が一層進展。 1771年に勃興したタイソン (西山) 党の乱の混乱期に阮氏と鄭氏は相次いで滅ぼされ,黎朝のみはなおしばらくその地位を保ったが,やがて起った鄭氏復興の反乱に直面して愍帝は清朝に援助を請い,それによって入寇した清軍がタイソン軍に大敗すると皇帝も清に逃れ,89年黎朝はついに滅亡した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「黎朝」の意味・わかりやすい解説

黎朝
れいちょう

ベトナムの王朝(1428~1789)。レ朝とも。前黎朝(981~1009)に対し後黎朝ともいう。陳(チャン)朝の滅亡(1400)に乗じて侵攻した明(みん)国の支配に抵抗し藍山(ラムソン)に蜂起(ほうき)した黎利(レ・ロイ)が、10年にわたる独立戦争を戦い明軍を撤退して創立した。簒奪(さんだつ)による中断期を挟んで前後27代356年間存続した。黎利(太祖)は国号を大越(だいえつ)(ダイベト)と号し昇竜(タンロン、現ハノイ)を東京(ドンキン)とよんで都に定め、陳朝の諸制度を復活したが、4代聖宗(在位1460~97)の洪徳(こうとく)年間に至って明制を採用した官制が整い、儒教の振興によって漢字文化が発展するとともに中央集権体制の強化によって内政が充実した。一方、外にはチャンパに遠征してその王国領北部を割譲させるなど黎朝は最盛期を迎えた。16世紀に入って帝権が揺らぎ、恭帝のときに太師莫登庸(ばくとうよう)(マク・ダンズン)の簒奪にあった(1526)が、のち阮淦(げんきん)(グエン・キム)が荘宗を擁立して莫朝と戦い、莫氏を北方に駆逐して黎朝の中興を果たした。しかしやがて朝廷の実権は太師鄭検(ていけん)(チン・キエム)に帰し、以後歴代の黎帝は位を保つだけとなった。17世紀以降は、南方に勢力を張った阮氏と鄭氏の対立が激しく、チユア(領主)とよばれ王を称した阮(グエン)・鄭2氏の抗争によってベトナムは事実上南北二つの王国に分裂した。1771年阮氏領南部に西山(タイソン)党の乱が起こり、鄭氏は西山党と呼応して阮氏を滅ぼした(1775)が、86年には北上した西山軍によって鄭氏も滅ぼされた。西山党はいったん黎帝を尊立したが、昭統帝の要請によって入関した清(しん)国軍を撃退し、同時に昭統帝を清国に亡命させたため黎朝は滅亡した。

[川本邦衛]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「黎朝」の解説

黎朝(レーちょう)
Le

1428~1789

ベトナムの王朝。明軍を撃退して黎利(レー・ロイ)が建国。小中華型国家体制を整え,15世紀後半にはチャンパーを圧倒,ラオスにも進出したが,16世紀には内乱が起こり,1527年に莫(マク)氏に位を奪われた。5年後に復活し内戦の末1592年に首都ハノイを奪還したが,実権は武将鄭(チン)氏にあり,南方では阮(グエン)氏が分立した。西山(タイソン)の乱で滅亡。

黎朝(れいちょう)

黎(レー)朝

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旺文社世界史事典 三訂版 「黎朝」の解説

黎朝
れいちょう

1428〜1527,1532〜1789
ヴェトナムの王朝
黎利が明軍を撃退して樹立。首都はハノイ。15世紀後半の聖宗の治世が最盛期で,諸制度が改革整備されるとともに,チャンパーを征服して領土を拡大した。その後内乱が起こって1527年には権臣莫登庸 (ばくとうよう) に帝位を奪われ,間もなく復したものの,実権はハノイの鄭氏 (ていし) ,ユエの阮氏 (げんし) という両権臣の手にあった。のち西山党の蜂起の結果滅んだ。980〜1009年にわたり3代続いて滅亡した黎朝(前黎朝)と区別して,後黎朝と呼ぶこともある。

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改訂新版 世界大百科事典 「黎朝」の意味・わかりやすい解説

黎朝 (れいちょう)

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百科事典マイペディア 「黎朝」の意味・わかりやすい解説

黎朝【れいちょう】

レ(黎)朝

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世界大百科事典(旧版)内の黎朝の言及

【レ朝】より

…ベトナムの王朝。レ(黎)朝と呼ばれる王朝には前レ朝(980‐1009),後レ朝(1428‐1789)の2王朝があるが,一般には後レ朝をさす。 15世紀初め,ベトナムは中国明朝の支配下にあったが,タインホア地方の土豪レ・ロイ(黎利)は1418年に反明ゲリラ戦を起こし,27年ハノイを占領して明軍を駆逐,翌年に国号をダイベト(大越),年号を順天とする新王朝を開いた。レ・ロイは31年に明との国交を修復し,権署安南国事に封ぜられた。…

※「黎朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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