共同通信ニュース用語解説 「ベトナム」の解説
ベトナム
東南アジアにある共産党一党支配の社会主義国。2018年の推定人口は約9650万人。17年の国内総生産(GDP)は約2240億ドル(約24兆円)、1人当たりの国民総所得は2170ドル。1428年に中国から独立。分断された南北が互いに戦い、米国が介入して泥沼化したベトナム戦争は1975年に終結した。首都はハノイ。(共同)
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翻訳|Vietnam
東南アジアにある共産党一党支配の社会主義国。2018年の推定人口は約9650万人。17年の国内総生産(GDP)は約2240億ドル(約24兆円)、1人当たりの国民総所得は2170ドル。1428年に中国から独立。分断された南北が互いに戦い、米国が介入して泥沼化したベトナム戦争は1975年に終結した。首都はハノイ。(共同)
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基本情報
正式名称=ベトナム社会主義共和国Socialist Republic of Vietnam
面積=34万9340km2
人口(2010)=8693万人
首都=ハノイHanoi(日本との時差=-2時間)
主要言語=ベトナム語
通貨=ドンDong
東南アジア東端の南シナ海に沿った国。東南アジア唯一の中国文化圏であり,その意味では東アジアの東南端ともいえる。第2次大戦前はフランスの植民地,戦時中は日本軍の進駐を経て,戦後対仏独立戦争(第1次インドシナ戦争)ののちも,国土はベトナム民主共和国とベトナム共和国に分断され,アメリカ軍の干渉によって15年にわたる第2次インドシナ戦争を戦わされたが,1976年統一され,単一の社会主義共和国を形成した。かつては越南と呼ばれた。
執筆者:桜井 由躬雄
ベトナムは東南アジアのインドシナ半島の東部を占める。国土は,北は北回帰線のすぐ南の北緯23°22′から,南はカマウ岬(バイブン岬。北緯8°33′)まで南北およそ1700kmにわたり,ゆるやかなS字状を描いてのびている。ベトナムの背骨をつくる北部山地はヒマラヤ山系の東方への延長の一つで,中国雲南省の哀牢山脈から連続し,北西部でとくに険しく,ファンシパン山で最高3143mを示す。これに対し,北東部山地は石灰岩の丘陵性で,平均標高は1000m内外,最高点のピアヤー山で1960mほどである。一般に北部では山地の向斜軸に浴い,ソンコイ川(紅河),ソンダー川(黒河),ソンチャイ川などの川が山間に深い峡谷をうがち,南東に流れて下流にトンキン・デルタを形成する。紅河という名は,その流れによって運ばれる鉄分の多い泥土の色から名付けられた。流路の短い割に傾斜が急で,たえず氾濫しつつ下流にデルタをつくり,ベトナム民族発展の舞台を与えた。トンキン湾北部は沈降性で,アロン湾におけるような石灰岩の島々が特異な景観を形成する。
山地の主脈は,ラオスとの国境をつくりつつアンナン山脈となり南東にのびる。アンナン山脈は海岸に向かって急傾斜し,ことにダナン付近からは南に転じて山が海に迫り,海岸平野は狭小となる。山脈の南部では2000mを超える山が並び,南端にはコントゥム,ダルラクなどの高原をつくり,やがてメコン川下流のデルタに移る。メコン・デルタはトンキン・デルタの2倍の広さをもち,その伸張度も著しい。メコン川はソンコイ川と異なり,雨季はゆるやかに増水して低地一面を覆い,また乾季には徐々に減水する。ベトナム人によるメコン・デルタ開拓の歴史は新しいが,その人間に与える影響は重要である。
気候は南北により差異があり,北部は温帯モンスーン型,南部は熱帯モンスーン型に属する。たとえばトンキン・デルタのハノイでは,年平均気温24℃であるが,年較差は8℃に及ぶ。年平均降水量は1800mmで,大部分は5~9月に降るが,とくに1~3月にはベトナム特有の霖雨(りんう)(クラシャンと呼ぶ)があって米の2期作に有利である。南のメコン・デルタのホー・チ・ミン市では年平均気温27.6℃,年較差も3℃ほどであり,年平均降水量は2000mm,その90%は5~10月に集中し,11~4月は乾季である。中部のアンナン海岸は高温多湿で,フエの年平均降水量は3000mmに及んでいる。
こうした地形と気候のもとでベトナムでは森林がよく茂る。デルタや海岸平野は耕地化されているが,ほかは熱帯性常緑樹に覆われ,チーク,松,竹も多い。一般に南部へ向かうほど密林的形相が強くなる。そして山地には象,虎,野生牛,サルなどが多くみられ,爬虫類ではワニ,コブラなどがいる。
執筆者:別技 篤彦
ベトナムの民族分布図をみると,主要民族としてのベトナム人(周辺の少数民族からはキン(京)人と呼ばれる)のほかに,言語系統,居住環境,文化を異にする多種多様な少数民族がおもに北部の山岳地帯や中部高原などに割拠している。約60にのぼるこうした少数民族(450万人)は,焼畑農耕民と水田耕作民とに分かれ,山ろく,丘陵,高原地帯など,地形や高度にしたがった住分けを行っている。稲作のほかにトウモロコシなどの雑穀栽培に従事し,採集活動(野生果実,根菜,食用葉類),わな漁による漁労,野豚,野牛などの狩猟をも併せ行う。工芸,彫金,機織,染色,陶芸に専門的な技量を有する民族も少なくない。主として杭上家屋に住むが,一部には土間式の直床家屋もみられる。また精霊信仰と祖先崇拝を中心に,今もなお伝統的な儀礼,慣習を保持している。
少数民族の分布状況をみると,北部山地のミヤオ(苗)族(約25万人)は,かつて山頂近くに住み,山腹を利用して焼畑農耕を営んでいたが,現在ではその多くが高地を去り,定住化へと向かっている。主要作物はおかぼで,またケシを栽培してアヘンをつくり現金収入を得る。氏族組織は男系で,家父長の権力が大きい。信仰・儀礼面では,中国文化の影響を受けて固有の精霊崇拝に中国伝来の道教が混交している。言語はシナ・チベット語族に属すともいわれ,ヤオ語とともにミヤオ・ヤオ諸語を形成する。ヤオ(瑶)族(約20万人)は北部の山腹・丘陵地帯に住み,おかぼおよび雑穀栽培に従う。ケシは重要な換金作物である。従来の焼畑輪耕から定住耕作へと進んでいる。その社会は強い父系氏族制を特徴とし,畜犬を民族の神話的始祖とする〈犬祖神話〉を伝承,民衆道教が日常生活に浸透している。また北部の山ろくやソンコイ川上流域の渓谷一帯にかけては,タイ系諸族の集団が居住し,河谷平野などの低地を利用して水稲耕作に従事する。タイ諸語の系統は未確定だが,最近ではシナ・チベット帰属説が有力である。黒タイ,白タイ,紅タイなどの部族名は婦女子の着る民俗服の色に由来する。北部山間部のムオンMuong族(約40万人)はベトナム文化の吸収に熱心で,早くから同化が進んでいる。なおムオン語はベトナム語と同系関係にあり,その祖型を伝える。また中部高原には,総勢100万を超えるさまざまな山地民(モンタニャール)が展開する。通称モイMoi族(〈野蛮人〉の意)と呼ばれるベトナム原住民で,アウストロアジア語系諸族およびアウストロネシア(マライ・ポリネシア)語系諸族に分類される。焼畑移動農耕(おかぼ,トウモロコシ)のほかに採集,狩猟にも従う。その多くは杭上家屋に住み,精霊崇拝と祖先祭祀を行う。また祭祀所兼集会所としての共同家屋を所有する。このほか,ベトナム中部とメコン川上流域にインドネシア系のチャムCham族およそ8万人が居住し,またメコン川下流平野部にはクメール族約65万人が水稲栽培と漁労を中心とする生活を営んでいる。
1000年におよぶ〈北属〉(中国への従属)とそれに伴う中国文化の受容が,ベトナム社会の形成に一定の性格と方向づけを与えた。中国文化の影響は,社会組織,信仰と儀礼,風俗習慣,さらには,文学,美術,音楽,演劇など芸術の諸分野に及んだが,なかでも,中国を範とした法制と効率的な官人支配体系の両者は,ベトナム社会形成のための諸制度の整備を促した。また,儒教を思想の中核とする漢字文化への傾倒は,〈士〉(官吏)を中心とするバンタン(文紳。読書人階層)の台頭を招いた。バンタンは社会の上層部を占めて,政治の実際権力を握るとともに,ベトナム伝統社会における知性の象徴ともなった。以後,この国の政治,経済,社会,文化は,彼らバンタン階層を主体として展開して行くことになる。
こうした伝統社会にあって,村落と中央政府は,上下(もしくは主従)の関係ではなく,対置する関係にあり,国家社会対村落社会という枠組みの中でとらえられる。村(ベトナム語ではランlang(廊)という)は,国家の中の国として高度の自治権を所有し,村落自立の土着主義を軸に,自律的でかつ排他的な共同体を形づくってきた。村落の維持,運営は,実質上,長老,退職官吏,富裕農民層など村内の〈郷職〉階級により構成される〈郷職会議〉の手にゆだねられた。このため,中央権力の介入は著しく制限され,わずかに村の対外代表者である〈社長〉を通じて,間接的に村政に関与するにとどまった。村民の信仰および日常生活のうちにも,村落の共同体的性格と集団主義への志向が看取される。信仰面では,村の守護神(城隍神)祭祀の慣行が村民を結ぶ精神的な紐帯となった。また公田(村落共有地)の所有と割換耕作,〈民公〉(労働交換)と共同労働,〈甲〉(合力・扶助組織)など,さまざまの労働慣習に裏打ちされた村落の集団主義は,村民相互間の連帯と共属意識を生むもとになっている。ベトナム伝統村落のこうした根強い共同体組織は,古くは中国への服属,近くはフランスによる植民地支配とインドシナ戦争,および民族解放闘争などの変遷を通じても,解体されることなく維持されてきた。
南北統一と社会主義共和国の成立に伴い,旧南ベトナム社会の各分野では,急激な社会主義的改造が推し進められた。農村部では,自給自足,自治独立の閉鎖社会の価値観と意識が,大幅な転換を迫られた。都市部においては,旧サイゴン(現,ホー・チ・ミン市)を中心とする従来の西欧型・都市型文化が退廃・卑俗文化として退けられ,旧政権の土台を担った兵士,役人を対象に,思想改造教育が実施された。信教の自由は原則として保証された。しかし,仏教各派をはじめ,ホアハオ教,カオダイ教の二大創基宗教など,反革命的性格を帯びた新宗教は,その組織,活動に多くの改造が加えられ,このため,その宗教活動は閉塞状態に追い込まれている。旧北ベトナムはフランスの植民地支配を脱却してのち,ベトナム戦争の破壊と混乱を経ながらも,短期間のうちにアジアでも有数の識字国に成長した。統一のなった今,ベトナムの教育は,旧北ベトナムの諸制度にならって改編,統一され,2段階12年制義務教育(初等学校9年,中学校3年)の普及・徹底,成人教育(思想教育)の重視など,社会主義国のための人づくりの努力が進められている。
執筆者:森 幹男
住民の84%を占めるベトナム人がいつの時代からソンコイ・デルタを占拠したかは不明である。ベトナム語はアウストロアジア語族の中では最も北方に位置するから,かつての定説であった南方中国からの移動説は苦しい。むしろ前農耕文化の時代以来,デルタ北西方の山地に居住していたとみられよう。この地域からはホアビン文化と呼ばれる新石器時代の遺物が大量に発見され,その一部は前8000年に比定される。ホアビン文化の末期に接続してフングエンPhung Nguyen文化が段丘上に広がり,青銅器が随伴出土する。ベトナム考古学会では,この文化を伝説のフンブオン(雄王)時代に比定している。青銅器文化は紀元前後の数世紀にわたるドンソン文化において開花し,特徴的な銅鼓が段丘,残丘部から発見され,これがほぼベトナムの歴史時代に重複する。
前111年,漢の武帝は当時広東に都していた南越王国を滅ぼし9郡を設置したが,このうち交趾,九真,日南の3郡はほぼ現在のソンコイ・デルタ,タインホア・デルタ,中部ベトナム(ビンチティエン省)にあたる。この地はもと雒越(らくえつ)と呼ばれ,ラクディエン(雒田)を耕作し,雒民,雒将,雒侯,雒王という身分制秩序をもっていたといわれる。紀元2年の人口統計では,交趾郡に74万6237口(口は人を数える単位)が登録され,中国南半では際だって人口の密な地域であった。すぐれて発達した自然堤防を利用したデルタ開拓がかなり進んでいたことを示すとともに,当時の中国の上流階層の欲した真珠,タイマイ(玳瑁),犀角などの生産地であり,かつ南海諸国への玄関であった地理的特性がこの人口集中をもたらしたのであろう。
42年に土着的な支配者のチュン(徴)姉妹の対漢反乱が馬援によって弾圧されると,この富んだ地をめざして大量の中国人が移住し,支配階層を形成,北部ベトナムに大量の漢墓を残した。後漢末,中国本土に群雄が割拠するや,この地の中国人はシーニェプ(士燮)を立てて自立した。この勢力はシーニェプの死後,呉に滅ぼされるが,最南方の日南郡に自立した現地人首長の区逵(おうき)は林邑王国の建設に成功し,おりからモンスーンの利用が始まり,これによって活発化した東西交渉の中継国として繁栄していく。3世紀ころから中国の支配はしだいに山地まで覆うようになり,7世紀に現在のハノイ付近に安南都護府が置かれたときには,39県のほかに60ほどの覊縻(きび)州があった。この拡大は,当時雲南にあって,南方交易の陸路の要であった南詔の勢力との衝突を招き,9世紀には安南都護府が陥落している。
唐周辺諸民族の活性化の渦の中,唐末の内乱によって広東に南漢政権が生まれるや,ベトナムでも土豪クック(曲)氏が節度使を称して自立した。クック政権はまもなく南漢に滅ぼされるが,938年ゴ・クエン(呉権)は南漢干渉軍を破って独立確保に成功した。ゴ・クエンの死後,各地の土豪(スークアン(使君)と呼ばれた)の割拠時代を経て,966年下部デルタ水上勢力の雄ディン・ボ・リン(丁部領)が諸勢力を平定して,ホアル(華閭)に都し,国号をダイコベト(大瞿越)と称した。リンの死後,レ・ホアン(黎桓)が帝位を奪い,宋の干渉軍をバクダン川(白藤江)で破り,他方,中部ベトナムに栄えていた林邑の後継であるチャンパに遠征して南辺を固めた。993年宋はホアンを交趾郡王に封じ,その独立を承認した。この前レ(黎)朝もまた1009年リ・コン・ウアン(李公蘊)に奪された。ウアンは都をタンロン(昇竜。現在のハノイ)に移し,国号をダイベト(大越)とし,初めての長期安定政権リ(李)朝を築いた。しかしその実態は集権政治にはほど遠かった。直接支配地はソンコイ・デルタの一部にすぎず,ほかは各地の土豪が半独立的に支配していた。リ朝はこれに対抗して,仏教,儒教の導入,律令の制定を試み,外には宋の侵略を破り,チャンパを討ってクアンチビン地方を奪った。この急速な王権伸張と土豪割拠の矛盾は,13世紀初めの内乱を生み,1225年リ朝は下部デルタの水上勢力を握るチャン(陳)氏に奪された。
この内乱の過程で,各地の土豪勢力はチャン一族に代わられた。しかしそれもおのおの私領と私兵を有する封建領主的なものであった。したがってチャン朝の実権者は一族の長である上皇であった。13世紀末,元は3次にわたってベトナムに侵入したが,これを迎撃して大敗させたのはチャン・フンダオ(陳興道)ら一族の領主たちとその私兵であった。対元戦に勝利したのちは,門客と科挙出身官僚の力が伸張し,これを糾合したホー・クイ・リ(胡季犛)が1400年帝位を奪した。ホー(胡)朝は次代の集権制を準備したが,07年明の干渉を受けて滅亡した。
ベトナムの再独立は1428年にハノイの明軍を破ったレ・ロイ(黎利)によって達成された。レ(黎)朝第4代レ・タイントン(黎聖宗。在位1460-97)の下に,ベトナムは律令的集権国家の体制を整備した。田土の大部分は公田とされて農民に割替分給され,代りに耕作納税が強制された。律令官僚制が導入され,刑律が制定された。大規模な堤防が整えられ,村落はサー(社)に組織化された。しかし,急速な集権化はタイントンの没後,反動を呼んで宮廷内紛が頻発し,1527年軍権を握ったマク(莫)氏が帝位を奪した。これに対し,ラオス,タインホアに拠るグエン・キム(阮淦)はチン(鄭)氏とともにレ朝後裔を擁立して抵抗し,ベトナムは長い内乱期に突入した。92年レ=チン勢力はハノイを落としたが,マク氏は北方山地にこもって割拠し,グエン・キムの子ホアン(潢)はフエに拠って自立し(クアンナム(広南)朝),3者の争いは19世紀初頭まで続く。これらのチュア(主。実権を握った武人をチュアと呼んだ)政権下の争いの中に,村落は自律性を強め,かつての公田は村落共有田に転化した。また17世紀の東西交渉の発展は,フォヒエン(フンイェン),フェイフォ,トゥーラン(ダナン)などの国際貿易港を生んだ。しかしその一方で,村落の内部からは無産農民が発生した。戦乱と天災は彼らを流民化させ,18世紀中葉以降のレ・ズイ・マト(黎維樒)らの反乱を生んだ。
1771年クイニョンに起こったグエン(阮)3兄弟によるタイソン党革命は,75年クアンナム朝を滅ぼし,次いで86年グエン・バン・フエ(阮文恵)はチン氏を倒し,レ帝を中国に逐い,さらに89年には清の干渉軍をハノイに大破した。タイソン・グエン朝下,ベトナムでは土地改革が行われ,チュノム(字喃)文学が栄えたといわれる。
18世紀以降,クアンナム朝のナムティエン(南進)政策によって,ハティエンなどの中国人王国が服属し,メコン・デルタはベトナム領となっていた。1787年より,クアンナム朝の皇子グエン・フォック・アイン(阮福暎。のちのザロン(嘉隆)帝)はベーヌなどフランス義勇軍とタイの援助を得てこの地に拠り,グエン・バン・フエの死後,急速に北上して1802年,全土を平定した。このグエン(阮)朝の成立で現ベトナムの骨格が生まれたといえる。
グエン朝では,皇越律例など清の制度の導入が積極的に行われ,とくに2代ミンマン(明命)帝の時代,行政制度の中央集権化が進捗した。その反面で,行政最下部のサー(社)では,納税と引換えにその自律化が進み,指導者バンタン(文紳)層の権威が高まった。しかし流民問題は解決できず,多くの反乱を生んだが,とくに4代トゥドゥック(嗣徳)年間の水匪の乱や黒旗軍など太平天国残党の南下は,北部一帯を大混乱に落とし込んだ。おりから極東進出の足場としてベトナムをねらったフランスは,1862年の第1次サイゴン条約によってメコン・デルタを奪い,フランス領コーチシナを成立させた。さらに73年のガルニエ事件に続く第2次サイゴン条約,83年のリビエール事件に続く2次にわたるフエ条約によって,北部をトンキン保護領,中部をアンナン保護国として,植民地化することに成功した。そして1887年にはカンボジア保護国を加えてフランス領インドシナ連邦が成立した。
フランスの侵略に抗して,1885年ハムギ(咸宜)帝はトン・タット・トゥエット(尊室説)らと山地にこもってバンタンの蜂起を呼びかけ,北部・中部一帯に農民蜂起が広がった。これに対し,植民地総督のベール,ラヌッサンらは村落の自律性とバンタンの権力を認める協同政策を推進し,このためデ・タムらを除いて,ソンコイ・デルタの反乱は終息するが,村落の封建的構造は固定化された。一方,南部のコーチシナでは,米田プランテーションが急速に発達し,ターディエン(借佃。小作人)制が生じた。こうしてベトナムは北部と南部という典型的な植民地下二重経済構造をつくりあげた。20世紀初頭,ファン・ボイ・チャウのドンズー(東遊)運動,ファン・チュ・チンの維新運動など,民族運動の近代化を志向する運動が起こったが,前者の革命路線も後者の啓蒙的改良運動もともにフランスの弾圧によって潰えた。
第1次大戦後,インドシナへの投資が拡大し,北部の鉱業,中南部のゴムのプランテーション,南部の米作の急激な発展は,労働者階級やサイゴンの地主,精米・輸出業者などのブルジョアジー,さらに知識人層を生み出した。この社会変容を背景に,1925年ホー・チ・ミンによってベトナム青年革命同志会が生まれ,これを母体に30年ベトナム共産党が成立し,またグエン・タイ・ホクのベトナム国民党が生まれた。共産党は30-31年のゲティン・ソビエトの壊滅によって一時打撃を受けたが,チャン・バン・ザオが南部の組織を再建し,タ・トゥ・タウらトロツキスト派と統一戦線を組んでサイゴン市会選挙などに進出した。しかし38年に大弾圧を受け,地下に潜った。
40年日本軍がインドシナに進駐するや,共産党はバクソン蜂起によって軍事組織をつくる一方,翌年ベトミン(ベトナム独立同盟会)を結成して,日・仏二重支配に抵抗した。45年三・九クーデタにより日本軍はフランス領インドシナを解体し,バオダイ帝の独立を認めたが,もはや封建王朝ではベトナム人の支持を得られなかった。おりから日本軍の調達や天災,南北途絶により北部に200万人が餓死するという大飢饉が起こった。ベトミンは日本軍からの籾奪還を叫んで,急速に勢力を伸張した。8月15日の日本軍の降伏とともにバオダイ政府はベトミンによって解体され,9月2日ベトナム民主共和国の独立宣言がホー・チ・ミンによって朗読された。
しかしフランスはこの独立を認めず,1945年南部に,46年末北部に進攻した。第1次インドシナ戦争の始まりである。フランス軍は当初平野部の制圧に成功したが,チュオン・チンの人民戦線戦術によって,戦線は膠着化し,バオダイ・ベトナム国の擁立やアメリカの大量の軍事援助にもかかわらず,54年ディエンビエンフーに大敗して,撤退に追い込まれた。同年のジュネーブ会議により,ベトナムは北緯17度線を境に北を民主共和国,南をバオダイ・ベトナム国の統治にゆだね,3年後に統一選挙が施行されることになった。しかし翌55年バオダイを廃してベトナム共和国初代大統領に就任したゴ・ディン・ジェムは,アメリカの軍事・経済援助を背景に,南北分割の恒久化を図って民主共和国と対立し,一方,国内では土地改革に失敗して,旧ターディエン(借佃。小作人)層の反乱を引き起こした。
60年南ベトナム解放民族戦線が結成され,第2次インドシナ戦争(ベトナム戦争)が勃発した。63年ジェムが軍部クーデタによって倒されるや,アメリカ軍は反共橋頭堡としての南ベトナムに直接大量介入を図り,さらに64年のトンキン湾事件を口実に北ベトナムへの爆撃(北爆)を開始した。しかし50万人のアメリカ兵投入にもかかわらず,アメリカ軍・南ベトナム政府軍は敗戦を重ね,68年のテト(旧正月)攻勢以降,アメリカ財政の悪化と国際的な平和世論の前にアメリカ軍は撤兵に追い込まれ,73年パリ平和協定が結ばれた。アメリカ軍撤退後,民主共和国の人民軍と解放戦線軍の優位は決定的となり,75年サイゴンが陥落して,南ベトナム臨時革命政府が南ベトナムの主権を握った。翌76年の統一選挙によって南北両国家は再統一され,ベトナム社会主義共和国が生まれた。
執筆者:桜井 由躬雄
ベトナム社会主義共和国の建国記念日は9月2日であるが,これは1945年にホー・チ・ミンがベトナム民主共和国の日・仏両国からの独立を宣言した日である。現在のベトナム社会主義共和国という国名は,76年7月にこのベトナム民主共和国から改称されたものである。
ベトナム民主共和国の領土は,1946年憲法,1959年憲法においても旧サイゴン政権(1975年崩壊)の支配下にあった南部(北緯17°以南)を含むものとされていた。しかし,1954年のジュネーブ協定調印後,55年にベトナム共和国(南ベトナム)がアメリカの支援を受けて樹立され,以来約20年間,ベトナムには北部に共産主義陣営,南部に自由主義陣営に属する二つの国家が存在することになった。そのため,75年の南部解放後はベトナム共産党の指導の下で国家機構のみならず経済・社会全般にわたって南北統一事業が推進されることになった。
92年4月に公布された現行憲法によれば,ベトナム社会主義共和国は,現在,〈社会主義への過渡期〉(前文)にある〈人民の人民による人民のための国家〉(第2条)であるが,その実態は〈プロレタリア独裁国家〉である。そして,この国家を国内外において代表するのは,国家主席である(第101条)。国会は一院制で,任期5年である。政党としてかつて社会党,民主党などが存在したが,88年に両党が解散してからは,多党制導入は公式に否定されており,現在ではベトナム共産党が唯一の合法政党となっている。憲法も同党が〈国家を指導し,社会を指導する勢力〉(第4条)と明記している。したがって,国会代表,閣僚の大半がベトナム共産党の政治局員,中央委員レベルの人々及び一般党員によって占められ,国政への党の指導力が発揮されている。なお国家機関は〈民主集中の原則〉により組織され,立法機関としての国会,行政機関としての政府,司法機関としての裁判所は存在するものの,〈三権分立〉という概念は否定され,〈三権の役割分担〉の明確化が主張されるにとどまる。
従来,ベトナム戦争の影響もあって中国,ソ連をはじめとする東側諸国と緊密な関係にあったが,1976年7月にベトナム社会主義共和国が成立して南北両ベトナムが名実ともに国家として統一されてからは,77年9月に国際連合に加盟したのをはじめ,国際通貨基金,アジア開発銀行などの国際機関にも加盟し,また非同盟諸国会議の正式加盟国にもなり,柔軟かつ広範な外交政策をとり始めた。しかし78年ころから,従来,抗仏・抗米闘争では協力してきたカンボジアの革命勢力および中国との関係が悪化し,とくに79年1月,ベトナム軍の民主カンボジアへの侵攻,79年2月の中国との戦争勃発後は,両国とはもとより,西側諸国との関係も冷却化し,国際的に孤立状態に陥った。こうした中で,1978年6月にコメコンに加入,同年11月にはソ越友好協力条約に調印し,この条約の中でみずからソ連圏の社会主義諸国を指す〈社会主義共同体〉の一員であることを初めて認め,事実上,それまでの中ソ対立下における中ソ等距離外交を変更してソ連寄りの外交を行うようになった。また,インドシナ地域では,1975年以降,とりわけ79年初頭にカンボジアにおいて民主カンボジアのポルポト政権が事実上崩壊し,カンボジア人民共和国(ヘンサムリン政権)が成立してからは,ラオス,カンボジア両国に対して,政治,経済,軍事など多くの分野で協力関係を強化し,この地域における指導的立場を固めた。しかし,88年になるとソ連寄りの外交から全方位外交へと路線転換を行い,91年末には中国とも関係を正常化し,95年にはASEAN(東南アジア諸国連合)に第7番目のメンバーとして加盟した。
日本との外交関係は,1973年1月のベトナム和平に関するパリ協定締結後の同年9月,当時のベトナム民主共和国が日本との国交樹立協定に調印し正常化した。そして75年10月にはハノイに日本大使館が開設され,翌年1月にはベトナム民主共和国大使館が東京に開設された。アメリカとの国交正常化は,1975年以降,ベトナム側が強く望んできたことであるが,95年にようやくこれが実現した。
ベトナム戦争中,ベトナムはソ連,中国をはじめとする社会主義諸国から多大な軍事援助を受けてきた。とくにベトナム戦争が激化した1960年代半ば以降,ソ連から対空ミサイル,戦闘機など近代兵器の援助が増大し,ベトナム人民軍の近代化が促進された。75年の南部解放後は,東南アジア随一の軍事力を有する国となった。1944年12月,わずか34人によって建軍されたベトナム人民軍の兵力は,80年代前半に約170万にまで増大したが,87年以降積極的に進められた兵力削減により97年現在,約70万にまで減少したと推定されている。なお,軍隊はベトナム共産党の強い指導下に置かれているが,現行憲法では国家主席が全国の人民武装勢力を統率し,国防会議議長の職務につく(第103条)ことになっている。
執筆者:五島 文雄
総人口の80%強が農村に居住し,労働力人口の70%が農業に従事する農業国である。農業は米作を中心にした食糧生産が主で,そのほかゴム,コーヒーなど商品作物の栽培が若干みられる。米はソンコイ・デルタとメコン・デルタが二大生産地帯をなす。人口の圧倒的部分もこの二つのデルタに集中している。しかしメコン・デルタの方が自然条件に恵まれ,面積も広く,開発の潜在的可能性は大きい。これに対し古くから開けたソンコイ・デルタは土地利用がすでに限界に達し,莫大な過剰人口を抱え,その緩和が課題となっている。北部のデルタを取り巻く山地,丘陵地は石炭,鉄鉱石,クロム,スズ,マンガン,亜鉛,リン灰石など鉱物資源に富む。とくに良質の無煙炭として有名なホンゲイ炭(推定埋蔵量30億t)は外貨獲得の目玉商品で,日本にも第2次大戦前から輸出されている。工業も社会主義政権の下で工業化を進めた北部に中心があり,ハノイ,ハイフォン,ビエッチ,タイグエンなどにセンターが形成されている。
ベトナムは19世紀末から1945年までフランスの植民地であった。この間,植民地政府は本国資本による鉱山開発,プランテーション経営を援助したにすぎず,生活必需品はもっぱら本国からの完成品輸入に依存した。ベトナム人は技術の遅れた,生産性の低い農業に従事し,地主の要求する高率小作料や高利子,植民地政府の課す重税や過酷な労役に苦しんだ。45年9月の独立宣言後,労働党(現在の共産党)と民主共和国政府は再侵略を図るフランスとの戦いを遂行する過程で植民地権益を漸次接収し,戦争の末期の53年末からは地主制の撤廃を目ざす土地改革に着手した。54年7月のジュネーブ協定による停戦後,北緯17度線を境に二つに分かれた南北両地域は経済開発の面で全く異なる道を歩んだ。北部は労働党の強力な指導の下に,また社会主義国の援助に依拠して経済の復興(1954-56),社会主義改造(1957-60)を行い,60年末までに土地改革,農業合作化,商工業の合作化(合作社)・公私合営(合同経営)化を完了した。そして61年からはソ連にならった重工業優先の工業化政策を進め,それを具体化した第1次五ヵ年計画(1961-65)では総投資の50%を占める工業投資の75%を重工業に投じ,社会主義の物質的・技術的基礎づくりを意図した。この計画は過大な目標設定,農工間バランスの軽視などの問題を含んでいたが,タイグエン鉄鋼コンビナートの稼動,ウオンビ火力発電所,タクバ水力発電所の建設などの成果は記憶されてよい。65-68年,70-73年のアメリカ軍の北爆はこうした新設工場・設備やインフラストラクチャーの破壊を目標としたもので,政府は工場の地方分散などで対抗したが,甚大な被害を被った。
一方,南ベトナムではジュネーブ協定後も農村地域に革命勢力が温存され,激しい階級対立が続いた。アメリカをバックにするゴ・ディン・ジェムは農村安定のため土地改革を試みたが,地主に有利な改革のためかえって農民を革命側に走らせ,政府と彼らの対立は強まった。1960年の解放戦線成立後,対立は一段と拡大し,ついにアメリカ・政府軍と解放戦線・北ベトナム軍との全面戦争へと発展した。そして戦闘の激化は農村を戦場に変えてしまい,耕地面積の減少や集荷困難が発生した。かつて南部はメコン・デルタだけでも100万t以上の米輸出余力があったが,65年を境に完全な米輸入国に転じ,その量はピーク年には70万tに達した。米以外の食料品,工業製品・原料も輸入増大を続け,71年には輸出の輸入に対する比率はわずか1.4%にとどまった。国家財政も戦費の増大で支出が膨張し,大幅な赤字を記録した。その不足を補ったのがアメリカの援助で,その額は1966-75年の10年間に経済援助だけでも合計52億ドルに達した。
76年の南北統一はベトナムの自立的な発展への道を開いた。しかし長年の戦乱による生産基盤の破壊,物資の不足ははなはだしく,統一国家は成立早々重大な困難に直面した。最大の問題は食糧生産の回復と南部の都市住民を中心に労働力人口の2割に及ぶ失業の解消であった。そこで政府は統一後最初の計画である第2次五ヵ年計画(1976-80)では,食糧生産を最重要課題として位置づけ,耕地の回復・拡大,水利施設建設により最終年に2100万t(籾換算)の目標を設定した。その際の要となったのが新経済地区の建設である。これは中部高原やメコン西部の未開地,荒蕪地に南部の都市失業者や北部デルタの過剰人口を集団で入植させ,大規模な国営農場,合作社群をつくるというもので,期間中に400万人の移住,180万haの開墾を予定した。しかし食糧生産は77-79年の3年連続の自然災害や肥料,農薬,石油などの投入財の極度の不足で計画を大幅に下回り,新経済地区の創設も移住者の不満を買うだけで,食糧増産にはまったく寄与せず,失敗した。
一方,南部の社会主義化については,当初指導部は慎重であったが,経済危機が表面化し始めた1978年ころからその強行に踏み切り,私営商業経営の全面禁止,工業の公私合営化・合作化,農地の調整,農業の合作化を断行した。しかし商業の性急な国有化は市場の急激な縮小をもたらし,さらに流通部門を握っていた華僑の大量国外脱出の原因となり,国際問題化した。また農業の合作化は,中部沿岸地方ではほぼ予定どおり進んだが,肝心のメコン・デルタでは農民の抵抗に会い,ほとんど実績をあげなかった。こうした状況に追打ちをかけたのが,カンボジアへの侵攻,中国との国境紛争で,これらを契機に日本を含む西側諸国や国際機関の援助は中断し,物資不足と戦費の負担で国民生活は生存ラインまで低下した。80年代に入ると,政府はようやく経済危機からの脱却のため従来の硬直的な態度を改め,企業自主権の拡大,農産物生産請負制の導入,出来高払い賃金の採用など,一連の自由化,生産刺激政策を実行し始めた。ベトナムの経済の今後は,こうした諸政策の実施,外国援助受入れ増加,高い人口増加率の抑制,メコン沖やトンキン湾の海底油田の開発などの成否にかかっている。
執筆者:村野 勉
ベトナム人は,漢代より五代までの中国に支配された北属期に漢字文化の基礎を培った。中国からの独立後は独自の漢字音が成立するとともに,歴代王朝が漢字を行政,学術上の文字として用いたため,文化の全般に中国文化の影響が色濃い。文学も中国文学の影響を受けながら,民族性を反映した特異な内容と形式をもって発展した。民族語によって古くから行われた韻を踏んだ短詩は,固有の文字をもたなかったために伝わらず,今日に伝承されている〈俗語〉や〈歌謡〉などの口承詩を,古代の韻文にさかのぼるとする意見はあるが,その起源はつまびらかではない。古代の伝承説話もチャン(陳)朝に漢文で書かれた《嶺南摭怪(れいなんせきかい)》によって概要が知れるものの,それらを民族語で伝える資料は存在しない。民族文字チュノム(字喃)の発祥は北属期とみられているが,13世紀にこの文字による民族語の表記が盛んになり,やがてチュノムによって書かれた文学が,18世紀半ばまで主流であった漢詩文と並行して発展した。
中国から独立した10世紀に,道教的色彩を伴った精霊崇拝に仏教が融合した文化基盤が形成され,リ(李)朝にはこうした文化を背景にした今体の漢詩が興った。チャン朝以前の文籍は15世紀初頭の明の侵略軍の略奪によってほとんど失われたが,リ朝以前の詩については,チャン朝の《禅苑集英》がカイン・ヒー(慶喜),バオ・ザック(宝覚)をはじめとする禅師の詩集やその作品を伝えている。リ朝中期からチャン朝にいたって儒教文化が興隆するに伴い,朝廷を中心とする詩壇が形成されて漢詩文の隆盛をみたが,チャン朝の文学についてはグエン(阮)朝の《歴朝憲章類志文籍志》にチュー・バン・チン(朱文貞),チュオン・ハン・シエウ(張漢超),チャン・クアン・カーイ(陳光啓)などの廷臣や諸帝の詩文集の名が多く伝えられ,作品もレ(黎)朝に成った《皇越詩選》など後世のアンソロジーで知られている。13世紀にレ・バン・フー(黎文休)によって編修された正史《大越史記》は神話や古代伝説によって民族史の黎明期を叙述したとされ,次いでリ・テー・スエン(李済川)の説話集《嶺南摭怪》が成った。またチュノムによる民族語の絶句や律詩である国語詩が《披沙集》の作者グエン・トゥエン(阮詮)によって創始されるなど,チャン朝における文学には民族意識の勃興を反映する要素が濃い。
15世紀に成立したレ朝では,科挙制の整備と儒教の国教化によって文学の評価が高まり,漢詩文が知識人層の必須の教養とされる一方,民族語詩にも新たな発展がみられた。初期の最大の詩人はグエン・チャイ(阮薦)で,彼は《ウク・チャイ(抑斎)集》6巻にすぐれた詩文と学術的著作を残しただけでなく,18世紀に勃興する双七体長編詩の最古の作品《家訓歌》の作者ともされている。
レ朝はレ・タイントン(黎聖宗)の時代に文学尊重の気運が最も高まり,タイントン自身に《明良錦綉詩集》などの御製詩集や《瓊苑九歌》《古心百詠》その他の勅選集があるだけでなく,その《洪徳国音詩集》にはチャン朝の国語詩と詩体を異にする七言・六言混交体の国音詩を集め,より特徴のある民族語詩が盛んに試みられたことを示している。16世紀から王朝文化は退廃期に入り,儒教倫理に制約されて文学は活気を失ったが,隠棲して道教と仏教に新思想を追究し,体制に対する批判を筆に託すグエン・ビン・キエム(阮秉謙)などの文人が現れた。社会批評の文学としてはグエン・ズー(阮璵)が明の《剪灯新話》の影響の下に書いた《伝奇漫録》があった。レ朝末期は儒教の国教的権威が官僚制の後退とともに衰え,俗化した仏教に儒・道2教が混交した国民的宗教が成立した。同時に民衆的伝統文化が文人の台頭する時流の中で尊重され,口承詩の詩体を採用しチュノムで書かれた六八体長編詩が急速に発展した。グエン・フイ・トゥ(阮輝似)の《花箋伝》を初期の代表作とするこの長編詩は,グエン朝初期にかけて数百行から800以上のスタンザを含む三千数百行に及ぶ作品が数多く出現し,読書人にもてはやされた。主要作品が中国の通俗小説の韻文訳で,チュノムの読解に該博な漢字の知識を必要としたため,当初から国民文学として広く民衆に普及したわけではなかった。しかし六八体詩の民族語による豊富で繊細な表現と伝統的韻律で歌われる庶民的主題はしだいに国民的人気を獲得し,今日ではグエン・ズー(阮攸)の《キム・バン・キエウ》を頂上的作品とする,韻文の小説ともいうべきその一連の作品は,民族文学の古典としての評価を得ている。封建社会に対する風刺詩がホー・スアン・フオン(胡春香)などの閨秀詩人によって盛んに行われたのもレ朝末期,グエン朝初期の特徴で,女権の強い国民性を反映していた。しかしこうした活発な文学活動はグエン朝中期に入って沈滞し,19世紀後半ではグエン朝に対する反逆の漢詩人カオ・バー・クアット(高伯适)や抗仏の抵抗詩人グエン・ディン・チエウ(阮廷炤)の文学のほかに現代的評価を得ているものは少ない。
フランス領期に入ってチュノムと漢字に代わりローマ字による民族語の表記法〈クオック・グー(国語)〉が普及し,その前半期は文学が停滞したが,20世紀に入るとやがて西欧文学の影響を受けたロマン主義の小説がこの文字で書かれ始めた。1920年代には〈自力文団〉による文壇の形成がみられ,詩,小説ともに近代文学の時代を迎えた。30年代末には民族運動派による,植民地主義と封建的慣習に対する批判を主題にしたリアリズムの文学が主流となり,45年の8月革命以後の社会主義文学の先駆となった。
新石器時代に属するホアビン遺跡などの洞窟に最古の彫刻が発見されているが,史的年代を推定できる古代美術は文郎・欧貉時代のドンソン遺跡などの青銅器にみられる彫刻で,その文様の特徴は北属期の7世紀までの中国式墳墓に発見される青銅製装飾器に引き継がれている。中国から独立後は報天寺の報天塔,タンロン(昇竜)の一柱寺などの独特の石造建築や,バクニン(北寧)の瓊林寺の千仏像に代表される仏教美術が開花し,陶芸にも民族美術の創造がみられた。リ(李)朝期の遺物はわずかしか伝わらないが,仏教の装飾台座や黄釉磁器の竜や蓮弁の文様に特徴がある。チャン(陳)朝からレ(黎)朝中期にかけて美術はたくましさと簡素さを均衡美の中に追究し,石造建築ではそれがタインホア(清化)のホー(胡)氏の堡塁に示されている。黄釉や緑釉に加えて白磁,青磁が発達した陶磁器は,一時中国陶磁の模倣に堕したが,チャン朝後期に鉄絵が興り,レ朝の青花(せいか)(染付),五彩磁などの絵付陶磁を導いた。レ朝が残した仏教美術の作品は,筆塔寺の千手観音や西方寺の阿羅漢像が著名であるが,村落の亭(集会所)の木板彫刻に象徴される,軽妙で質朴な新興の民間美術が,寺院の建築にも影響を与えた。19世紀以降はグエン朝の保守的な文化政策とフランスの植民地統治のもとで,伝統美術の発展は大きく阻害された。しかし植民地期後半には西洋美術の移入によって絹地の淡彩や漆絵が新境地を開き,旧正月の縁起物として伝えられた泥絵を一例として,その間農村地域で継承された民間の伝統芸術は,独立後にとりわけ尊重されて今日に及んでいる。
執筆者:川本 邦衛
ベトナムはカンボジア,ラオスとともにインドシナとしてくくられるが,音楽的には,ほかの2国と異なり,インド文化の影響が弱く,中国文化のそれが強い。そのため,中国だけでなく,モンゴル,朝鮮半島,日本と音楽的に共通するものが多い。次のような音楽用語も発音だけでは推察しにくいが,漢字に戻してみると意味が明らかになろう。たとえばカムcam(琴),ダイ・コdai co(大鼓),グ・アンngu am(五音),パクphach(拍),ニャ・ニャクnha nhac(雅楽)など。
ベトナムの音楽の歴史は,四つの時期に分けて考えられることが多い。第1期(10~14世紀)は,インドと中国の双方から影響を受けた時期。第2期(15~18世紀)は,中国音楽が積極的に取り入れられた時期。第3期(19世紀~1945)は,この時期の後半には西洋音楽の移入も始まるが,一般的には,音楽のベトナム化が進んだ時期。第4期(1945~ )は,伝統音楽とともに西洋音楽が盛んになり,そのため,五線譜の使用が広がり,折衷的な音楽様式が生み出された。
ベトナムの伝統音楽として現在よく考えられているのは,第2期に成立したのち,第3期に国風化したものである。宮廷で用いられた雅楽の系統は伝承が失われつつあるが,〈娯楽のための音楽〉と総称される古典的な歌曲や器楽は,今日でも国の内外で伝承され楽しまれている。こうした音楽で使われる楽器は,ダン・チャン(16弦箏),ダン・ニー(2弦の胡弓),ダン・グイェットdan nguyet(月琴),ティ・バty ba(琵琶)など,中国起源のものが多い。しかし,ベトナムに固有のものもあり,音楽生活の中で果たしてきた役割からみて,次の3種はとくに重要である。(1)ダン・ダイdan day(弾底) 台形の木製の胴をもつ三味線型の楽器で,歌の伴奏に使われる。(2)ダン・バウdan bau(弾匏)またはダン・ドク・フイェンdan doc huyen(弾独絃) 一弦琴で,倍音と弦の張力の変化によって音高を変えるもの。(3)クアン・ティエン・パクquan tien phach(串銭拍) 棒に古銭を重ねてつけた木製の楽器で,横にぎざぎざもつけてあるため,金属を鳴らすだけでなく,拍子木やささらの役など三つの機能を果たす。今日ではスプーン2本で代用されることもある。
ベトナム音楽は,近隣の諸国に比べて,基本的な性格としては旋律中心的である。その旋律性の基礎になっているのが,音階ごとに相対的な音高を微妙に上げたり下げたりすることができる音組織である。これは,カンボジア,ラオス,タイほかで使用されている等分平均律とは本質的に異なる発想である。こうした音組織を用いて構成される音階で最も広く使用されているのが,北のバクbacと南のナムnamである。南北に長いベトナムでは,北(ハノイ),中央(フエ),南(ホー・チ・ミン市)の三つの伝統で,細部が異なる。この2種の音階はそれぞれ5音音階が原則で,バクはド,レ,ファ,ソ,ラの音階で,ナムはド,レ,ファ,ソ,シ♭であるが,演奏に際しては,同じファがナムの場合に少し高められ,また,それぞれに微妙な音高変化による装飾がついて,異なった印象を与える。また,バクは速めのテンポで明るさを表現し,ナムは遅めのテンポで暗さを表現する。独奏だけでなく数種の楽器による演奏でも,細かいニュアンスづけが生かされて,きわめて繊細な音楽づくりになっている。
なお,ベトナムの古典演劇(ハット・ボイhat boi)でも改良劇(ハット・カイ・ルオンhat cai luong)でも,音楽は不可欠な要因である。
さらに60に及ぶ少数民族も固有な音楽と楽器をもっている。たとえば,中部高原のジャライ族は,ド,ミ,ファ,ソ,シの音階を使うといわれるが,これはベトナムの古典音楽にはみられず,むしろ,沖縄,インドネシア,ブータンで使われるものに近い。
執筆者:徳丸 吉彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
インドシナ半島東部に位置する国。正称はベトナム社会主義共和国Công Hòa Xã Hôi Chu Nghîa Viêt Nam、漢名は越南(えつなん)。かつてはチョンソン(安南)ともよばれた。英語ではSocialist Republic of Vietnam。南北に細長いS字形の国土を有し、北は中国、西はラオス、カンボジアに接し、南シナ海に面する。面積33万1345平方キロメートル。人口9620万8984(2019年国勢調査)。首都はハノイ。
[丸山静雄]
国土は南北1650キロメートル、東西は狭い所(ドンホイのあたり)で50キロメートルと細長い。国土の4分の3は山地が占める。北部のトンキン(東京)、中部のチョンソン(安南)、南部のコーチシナ(交趾支那(こうちしな))からなる。北部と南部が大きく、中部が回廊のようになっているところから、国の形は天秤棒(てんびんぼう)で二つの荷物を担いだ姿に例えられる。北部は石炭、鉄鉱石、燐(りん)鉱石、クロム、ニッケル、錫(すず)、マンガン、ボーキサイト、アンチモン、タングステンなどの鉱物資源に富み、南部は米、ゴムなどの農産物に富む。北部・南部の両者を中部の回廊地帯が結び付けることによって国は成り立った。
ベトナムの自然と風土は、主としてモンスーンとチョンソン(長山)山脈(アンナン山脈ともいい、ラオスではフールオン山脈という)と二大河川(ソン・コイ川、メコン川)によって形成される。チョンソン山脈は脊梁(せきりょう)となって国土を組み立て、ソン・コイ川、メコン川の二大河川は北と南に巨大なデルタを生んだ。北のトンキン・デルタはデルタ面積1万6000平方キロメートル、南のメコン・デルタはデルタ面積4万4000平方キロメートルで、うちカンボジア領内のデルタは8000平方キロメートル、ベトナム領内のデルタは3万6000平方キロメートルである。二つのデルタは豊饒(ほうじょう)な穀倉地帯を造出し、さらにモンスーンが大量の雨を運んでベトナムの風土を形づくる。
チョンソン山脈は、ヒマラヤ造山帯の東南端に位置する山系である。山系は北西部で高く、南東に進むにつれて低くなる。最高峰はファンシーパン山で、高さ3143メートル、インドシナ半島でもっとも高い。山系の全長は2580キロメートルと長い。山系沿いには南北に通ずる道路(国道1号線)と鉄道(ハノイ―ホー・チ・ミン間)があるが、山系を横断する国道は、ラオスのサバナケットとベトナムのクアンチを結ぶ9号線だけである。このあたりは国土がもっとも狭い。9号線のほか、東西の往来には山系の低部に自然につくられた、バーセレミイ峠、ケオ・ヌア峠、ムジア峠、アイラオ峠などの峠道がある。ベトナム戦争の際に、北から南への人員、兵器、弾薬、装備、資材、その他物資の輸送路となったホー・チ・ミン・ルートは、こうした峠を縫い、山系を切り開いて一路南下したものである。
トンキン地区の北部・東北部は中国との国境地帯で、国境線の長さは1150キロメートル。ここは「ベトバク」とよばれる。山地は石灰岩からなり、雨に侵食されて洞窟(どうくつ)が多い。おそらく先住民族は、こうした洞窟に住みついていたのであろう。ホー・チ・ミンが主導したベトナム民族独立闘争も、この洞窟を巧みに利用して展開された。中国との間には、ハイフォン―昆明(こんめい/クンミン)間に滇越(てんえつ)鉄道が、またハノイ―南寧(なんねい/ナンニン)間に南寧鉄道が通じ、前者のベトナム側国境駅はラオカイ、後者の中国側国境駅は凭祥(ピンシャン)となっている。
チョンソン山系の南端はタイグエン(タイは西、グエンは高原、したがって西部高原の意味)で、中部地区の最高峰ゴクリン山(2598メートル)から南にコントゥム高原、ダルラク高原、ダラト高原を連ね、南北450キロメートル、東西150キロメートルにわたる広大な台地である。台地は玄武(げんぶ)岩質からなり、標高は高く、森林は濃密で、その間に急流、沼地があり、自然の要害をなす。古来、「西部高原を制するものはベトナムを制す」といわれ、1975年春のサイゴン総攻撃(ホー・チ・ミン作戦)の際も、ベトナム軍はまずここに足場を築いて戦いのスタートを切り、一挙にサイゴン(現、ホー・チ・ミン市)を攻略した。
タイグエンにはゾウ、野牛、シカ、トラ、ヒョウ、山ブタ、クジャクが多く(とくにトラや野象の生息地帯として有名)、フランス植民地時代にはアジアの狩場とされ、トラ狩りには世界の名ハンターが集まった。しかしその動物たちの多くはベトナム戦争で、戦いの犠牲にされたという。
ソン・コイ川は中国の雲南省に源を発し、ハイフォンでトンキン湾に注ぐ。全長1140キロメートル、そのうち640キロメートルが中国内を、500キロメートルがベトナム内を流れる。名称はソン・コイ川のほかにも、ユアンチャン(中国名)、フロールージ、ソンホンハなど多くの別名をもつ。ソンは河(川)を、コイ、ルージ、ホンハは赤を意味し、赤い河(川)ということになる。この川水が鉄分を大量に含んで赤色を呈しているため、こうした名でよばれるようになった。ソン・コイ川の雨期後の増水時の水量は、乾期の減水時の40倍にも増える。川水は軟らかい泥土を年間1億3000万トンも運び、泥土は川床に堆積(たいせき)し、洪水を招く。住民は堤防を積み上げて洪水を防ぐ。堤防の延長は4570キロメートル。デルタ住民の生活は水との戦いでもあった。
メコン川はチベットに源を発し、中国、ミャンマー(ビルマ)、ラオス、タイ、カンボジアを流れてベトナム南部に入り、九つの河口となって東海(南シナ海)に注ぐ。全長4425キロメートルの国際河川である。メコンのメは母、コンは大河を意味し、メコンは母なる大河ということになる。中国では瀾滄(らんそう)(ランツァン)江、カンボジアではメコン川、ベトナムではクーロン川(九竜川、河口が九つに分かれているため、このように名づけられた)とよぶ。フランスはこの国を植民地化して以来、労働者を各方面からコーチシナに集め、穀倉地帯に開発した。そのため封建的な大地主やフランス人の経営するプランテーションが多く、それがのちの解放戦線の活動基盤となった。メコン川の下流域では国際的な開発計画が多数用意されており、河口沖では豊富な海底油田があり、この原油はベトナムの主要な輸出品となっている。
ベトナムは熱帯モンスーンの気候区に入り、高温多雨で、年平均気温はダナン25.9℃、ホー・チ・ミン27.2℃、年平均湿度は各地とも約80%と高い。年降水量は各地とも1500ミリメートルを超える。1年は乾期と雨期に分かれ、乾期は11~4月、雨期は5~10月。植生は豊富で、植物は7000種(289科)を数え、そのうち薬用植物は1000種にのぼる。鳥類、昆虫類は1000種、哺乳類(ほにゅうるい)は300種、魚類は1000種といわれる。
[丸山静雄]
ベトナムの歴史は古く、先史時代(石器時代)に人が住みつき、歴史時代(金属器時代)には水田を耕し、生活具・装飾具を鋳造する技術をもっていたようである。当時、中国南部の海岸平野には越(キン、キンは京の意味)が住んでいた。彼らはさまざまな風俗、習慣、組織をもち、百越ともよばれた。そのうち最南端にあったのが、ベトナムの祖先とされる雒越(らくえつ)である。雒越は漢民族の膨張発展に押されて逐次南下し、紀元前3世紀ごろ、ソン・コイ川下流域に定着してバンラン(文郎)王国をつくった。彼らはオーストラロイド・ネグリト系の先住民と混血して、その新石器文化を吸収し、また中国文化も積極的に受容して独自の農耕文化(青銅器文化)を形成した。それがドンソン文化といわれるものである。バンラン王国は18代の王統を保ったが、ついでオウラク王国(甌絡、甌雒)にとってかわられた。オウラク王国は都をコロア(ハノイ付近)に定め、ソン・コイ・デルタと、その南方に広がる海岸沿いの平野部を支配した。オウラク王国は行政、司法、軍事の組織をもち、原初的国家であったとされている。しかし紀元前111年、オウラク王国は前漢の武帝によって征服、その植民地とされ、それとともにドンソン文化も衰えた。ドンソン文化の衰亡の正確な時期は紀元41年、後漢の光武帝の派遣した馬援(ばえん)将軍によって、チュン・チャク(徴側)、チュン・ニー(徴貮)姉妹の反漢挙兵が打ち破られたときとされる。これ以後、ベトナムの歴史は中国の支配と、それへの抵抗の歴史となる。中国の植民地経営は兵士と官人(軍隊と官僚)を先兵として、漢字・漢文、儒教、科挙、行政・司法制度の導入など、徹底した同化政策をとった。
反中国闘争の過程で、ベトナムは村落共同体的な形を整え、鉄工具による生産力の増大、開発地の拡大、階級分化に伴う共同体の再編が進み、漸次、独立主権国家への志向が強められていった。かくてリーボン(李賁)は中国の梁(りょう)朝およびチャンパの軍隊を破って、544年、万春国を建てた。チャンパは紀元192年、ベトナム中部の東海岸につくられ、インド文化の影響を強く受けた王国である。その後も中国支配からの独立を目ざす王朝は呉朝(ゴ朝)(939)、丁朝(ディン朝)(966)、前黎(れい)朝(レ朝)(980)、李(り)朝(リイ朝)(1009)と続いた。ベトナムが中国の支配下に置かれた時期をベトナムでは「北属時代」とよぶが、これは一般に、紀元前111年から呉朝成立の939年までの1050年間とされる。李朝(1009~1225)の後には陳(ちん)朝(チャン朝、1225~1400)、黎朝(1428~1527、1533~1789)、阮(げん)朝(グエン朝、1802~1945)が樹立された。国号は李朝、陳朝、黎朝の時代には大越国、阮朝の時代には越南国とされた。この間、陳朝の時代には3回(1257、1284~1285、1287~1288)にわたる蒙古軍(元)の襲来があり、陳朝はこれを撃退した。黎朝はタイソン党(西山党)の乱(1771年、農民の蜂起(ほうき))に敗れ、西山党は約30年間ベトナムを支配した。
1802年、この西山党を破って阮福映(グエン・フク・アイン)が樹立したのが阮朝である。阮福映は自ら嘉隆(かりゅう)(ジャロン)帝と称し、都をハノイからフエ(ユエ)に移した。阮朝は形のうえでは初代嘉隆帝(1806~1820)から13代保大(バオ・ダイ)帝(1925~1945)まで続いたが、阮福映が西山党との戦いの際にフランスに援助を求めたことがフランス植民地主義を誘い込むことになり、ベトナムは1884年、フランスの完全な植民地とされ、阮朝の独立性もそのとき失われた。ベトナムの民族政権は、呉朝から阮朝まで945年間続いたことになる。
フランスはベトナムを支配する間、ベトナム語のローマ字化を試み(のちにベトナムの国語となる)、さまざまな文化を提供し、ベトナムの進歩と発展に貢献したが、同時に抑圧と収奪による植民地支配は過酷をきわめた。そのため広範な抵抗運動が組織された。農民を主体とするもの(農民運動)、下級官僚、地方の知識人、一部の地主らによる文紳運動(勤王運動)、ファン・ボイチャウ(潘佩珠)を中心とする復国運動(阮朝の世祖嘉隆帝の皇太子景の直系4代の子孫であるクオン・デ侯の擁立運動)、それを継承する阮大学らの国民党運動、ホー・チ・ミン(阮愛国)によるベトナム共産党の革命闘争などがそれである。
ベトナム共産党は、1940年9月日本軍の北部仏印進駐、1941年7月南部仏印進駐が行われるや、民族統一戦線ベトミン(越南独立同盟、1941年5月結成)を前面に押し立てて、抗仏闘争と抗日闘争を併行して展開した。「八月革命」(1945年8月の総蜂起(ほうき))によってベトナムの独立と解放を勝ちとり、1945年9月2日、ベトナム民主共和国が樹立された。
第二次世界大戦後、フランスは再植民化を企図してインドシナに復帰し、ベトナムはこれと8年間戦った(インドシナ戦争、1946年12月~1954年7月)。ベトナムがフランスを撃退すると、こんどはかわってアメリカが登場した。アメリカは1955年、南部にゴ・ジン・ジエムを大統領とするベトナム共和国を樹立し、他方、空軍力によって北部ベトナムを無力化し、ベトナム全土の非共産化(アメリカ化)を図ろうとした。これが共産主義封じ込めの冷戦戦略であり、ベトナム戦争である。ベトナムはこの戦争によって全土を焦土とするほどの被害を受けつつも屈せず、1975年4月30日、サイゴンを陥し(ベトナム共和国打倒)、アメリカ軍を追い出した。厳しい自然、国内の支配勢力による絶えざる抑圧と搾取と差別、相次ぐ外国勢力による分割・分治・異文化の強制が人々を鍛錬し、したたかな民族に育てあげた。歴史に教えられてベトナムは自らの新しい歴史を描いたのである。
[丸山静雄]
ベトナムの民族独立・社会主義革命を戦い、大統領・国家主席についたホー・チ・ミンはベトナム戦争の勝利をみずに、1969年9月3日、79年の生涯を閉じた。ホー・チ・ミン亡きあと、政務・軍務・党務はホー・チ・ミンとともに革命と戦いの道を歩んできた革命第一世代に任された。革命第一世代とはファン・バン・ドン(首相)、チュオン・チン(共産党書記長、副首相、国会常任委員会議長、国家評議会議長)、ボー・グエン・ザップ(人民軍総司令官、副首相、国防相)、レ・ズアン(労働党書記長)、レ・ドク・ト(労働党中央委員、パリ会議代表)たちである。やがてこの第一世代は第一線から静かに退場し、国政の責任は徐々に第二世代に移行された。第二世代とはグエン・バン・リン(書記長)、ド・ムオイ(書記長)、ボー・バン・キエト(首相、1922―2008)たちである。第一世代、第二世代といっても、両者の間にそれほど大きな隔たりがあるわけではなく、また責任移行の時期も明確に区分できるものではない。しかし、年齢や経歴に若干の違いがあるうえに、思想や問題への対応の姿勢にも多少異なるものがあり、やはり世代の相違を感じさせる差異はあった。
ホー・チ・ミンの時代は民族の独立と統一、社会主義革命のための戦いの時代であった。ホー・チ・ミンは偉大であったが、ホー・チ・ミンに託された民族としての大業は達成されることなく、むしろ道なかばにしてホー・チ・ミンはこの世を去った。大業の完成を任されたのが第一、第二世代であり、これらはまさに過渡期の世代であった。
過渡期の世代は三つの課題を背負った。一つはベトナム戦争の完遂とベトナムの再統一、社会主義革命の達成、もう一つはカンボジア紛争および中越戦争の終結と安全保障の確立、そして第三は経済改革である。このうちベトナム戦争は、西部高原から開始されたホー・チ・ミン作戦(1975年3月10日~4月30日)により完全勝利をもって終結された。それに伴い、ベトナム再統一も達成された。
カンボジア紛争に対しては、ベトナムは大軍を投入してポル・ポト派を国境地区から撃退するとともに(ポル・ポト政権は1979年1月崩壊)、反ポル・ポト、親ベトナムのヘン・サムリン政権を擁立して戦いを収拾した。ベトナム軍は1982年7月、カンボジアからの撤退を開始、1989年9月までに全駐留部隊の撤収を終えた。中越戦争においてベトナムは、国境の山岳地帯から平野部にかけて3段の防衛線を構築して備えた。しかし第一の防衛線で中国軍の侵入はほぼ阻止された。ベトナムは1979年3月19日、戦いは勝利したと発表し、中国側は、制裁を終えたため自ら撤退すると語った。
こうした過渡期の課題に対処するため、ベトナムは「80年憲法」を制定した(1980年12月、第6期国会で採択)。これは従来の大統領(国家主席)制にかわり、最高国家機構として国家評議会を設置するものであった。国家評議会は強大な権限をもった。議長には1981年7月、チュオン・チンが選出された。「80年憲法」はソ連・東欧型の、国家主導・社会主義色の濃いものであった。強力な国家・党の指導によって、ホー・チ・ミン亡きあとの間隙(かんげき)を埋めようとしたのである。しかし、それに反発する動きが高まり(チュオン・チンは1988年死去)、1991年7月の国会で改正審議が始められ、1992年4月の臨時国会で改正憲法「92年憲法」が採択された。「92年憲法」は国家評議会を廃止し、通常の大統領(国家主席)制に戻すものであった。大統領にはレ・ドク・アイン(1920―2019)が就任し、指導部の世代交代が行われた。「92年憲法」に基づく議会は一院制国民議会である。政党はベトナム共産党。ほかに翼賛勢力としてベトナム祖国戦線がある。1997年にはチャン・ドク・ルオンが大統領に就任した。憲法は2001年12月に再度改正、国会の権利拡大や1986年に導入された経済改革政策、ドイモイ政策の進展に沿った法の整備が行われた。2006年にチャン・ドク・ルオンが引退、同年開かれた国会でグエン・ミン・チエット(1942― )が大統領に選出された。
外交は従来、旧ソ連・東欧重視の姿勢をとっていたが、のちに全方位外交に転じ、とくにアジア外交に重きが置かれている。1977年国連に加盟、1995年ASEAN(アセアン)(東南アジア諸国連合)に加盟、同年対米関係も正常化された。アジア外交の重点は対中国外交であろう。両国の関係は、華人の大量出国(1978年1~8月)、カンボジア紛争における中国側のカンボジア支援、中越戦争などによって悪化していたが、平和五原則に沿った国交正常化の話し合いが進み、1991年11月、両国は国交の正常化を宣言した。1996年2月、ドンダン―南寧間、ラオカイ―昆明間の2本の中越鉄道が再開された。
ベトナムは統一後に味わった経済悪化のなかで、従来のような中央集権的、官僚主義的な経済管理体制をもってしては経済建て直しが困難であることを知り、1986年12月の第6回党大会で経済再建策と開放政策を決定した。それがドイモイ政策である。その具体的内容は、農民の個別経営を認めること、生産物の請負制度を導入すること(余剰生産物の自由処分を認める)、企業が国家管理物資以外の原料を用いて消費財を生産し、自由に流通させ、そこから得られる収入を社員に配分することを認めること、企業が修理・仕立てなどのサービス業に従事することを認めること、企業の平均主義的な賃金体系を手直しして出来高払い制度、ボーナス制度を導入すること、国家は国営企業をその重要度に応じて分類し、重点企業に資材を優先的に供給し、それ以外の企業は生産に必要な物資を自前調達するかわりに、その生産物を自由に処分することを認めることなどであった。この新政策は新たな反発や混乱を生んだが、そのつど手直しが行われた。「92年憲法」は社会主義堅持をうたうとともに、過渡期体制の核ともなる経済改革ドイモイ政策の継続を確認した。より柔軟、合理的、自由なアプローチが選択されたわけだが、これがベトナム型社会主義でもあったのであろう。ドイモイのなかで、社会主義をどう根づかせるか、社会主義とドイモイをどう連動させるかが今後の最大の課題であろう。
経済は、国内総生産(GDP)716億ドル(1人当り818ドル、2007)、食糧生産は穀物だけでも3965万トン(2006)、そのうち米の生産量は3583万トン(2006)となり、タイに次いで世界第2位の輸出国になるまで回復した。1997年、1998年のアジア通貨危機の影響で経済成長率は低迷したが、2003年以降は7~8%の高い水準となっている。2007年WTO(世界貿易機関)に正式加盟した。
[丸山静雄]
ベトナムは50余の種族が住む多民族国家である。その民族分布をみると、ソン・コイ・デルタ、中部海岸平野、メコン・デルタに主要民族のキン、北部のベトバク、タイバク地域にシナ・チベット系およびオーストラロイド系の少数民族(タイ、ヌン、ムオン、ヤオ、メオなど)、中部から南部にかけてモン・クメール、マラヤ・ポリネシア系の少数民族(クメール、チャム、モイなど)、南部デルタ地帯に都市型の少数民族(華人)などとなっている。キンは全人口の86%、少数民族は14%を占める。ヤオ、メオなどの社会では葬祭儀礼用に漢字・漢文が残されており、いちおう中国、台湾、朝鮮、日本とともに漢字文化圏に含めて考えることができる。少数民族の4分の3は北部山地に、4分の1は中南部の山地や平野部に住む。ベトナムは少数民族の多い国である。
主要民族や少数民族の多くは中国大陸から南下してきたものであり、中国支配を長く受けて、ベトナムには中国文化が根づいた。しかし中国文化はベトナム一国に集中し、チョンソン山系の西側にはインド文化(とくに上座部仏教=小乗仏教)が定着した。セイロン(スリランカ)、ビルマ(ミャンマー)を経て東に進んだ上座部仏教は、タイ、ラオス、カンボジアにまでは到達したが、ベトナムに入ることはできなかった。一方、中国文化はベトナムにとどまり、チョンソン山系を越えて西に進むことはできなかった。チョンソン山系はラオス、カンボジアとベトナムを分ける自然の分水嶺(ぶんすいれい)であったが、同時に文化の分水嶺でもあったようである。文化の移動・定着はそれほど単純に、また画然と区分できるものではなく、混淆(こんこう)を伴うものであり、現にベトナム中部のチャンパはインド文化で栄えた国であった。しかしチャンパは、のちにベトナムに滅ぼされた。結局、インド文化は山系の壁を越えて定着できなかったともいえる。山系の西に中国文化、東にインド文化がそれぞれ浸透してはいるが、それは少数者の世界にとどまり、大勢は東が中国文化圏、西がインド文化圏となっている。
中国文化の影響でベトナムには教育が普及し、文化は高められたが、これによってまた中国への従属も強められた(漢字の伝達は紀元前1~2世紀の間)。それを憂えてベトナムは13~14世紀、主として陳朝の時代に、国字チュノム(字喃)をつくった。これは一種の改造漢字でもあった。それによって文運が起こり、『金雲翹(キンバンキョウ)』など数々の名作が世に出たが、造字法が複雑で、情報伝達の手段としては、むしろ非能率さを増すものであった。このため、上層階級の間には広まったものの、一般社会にはあまり普及しなかった。ベトナムを植民地化したフランスは、情報伝達の効率化を図ってベトナム語のローマ字表記法を考えた。これが17世紀、フランス人宣教師アレッサンドロ(アレキサンダー)・ロードの考案したベトナム語のローマ字化である。これはチュノムにかわり、広く国民の支持を受け、ベトナムの独立後には、国語(クオックグー)とされた。
フランスの植民地支配を特徴づけるのは都市重視、同化政策、分割統治であった。これは支配の対象として農村よりも都市を、民族産業の育成よりもベトナムを原料供給源として固定しておくことを、伝統文化の発達よりもフランス文化への同化を、統一よりも分治(分割統治)を重視することであった。かくてベトナムはトンキン(保護領)、チョンソン(保護国)、コーチシナ(直轄植民地)の3地区に分けられ、それぞれが若干異なる文化や社会を発展させた。中国がベトナムを一つのものとして捉え、そのかわり徹底的な中国化政策をとったのに対し、フランスは分治政策をとった。「皇帝の支配は村の垣根でとまる」とは、フランス支配が都市中心だったことの証左でもあった。やがてフランス支配に対し、ホー・チ・ミンは民族解放・社会主義革命の戦いを挑む。1940年、日本が登場し、フランスの植民地支配に重なる形で日本の軍事支配が展開されると、ベトナムは抗仏・抗日闘争を一体化させて、これに立ち向かう。ついで再植民地化をねらってフランスが復帰を試みると、ベトナムはそれを「人民戦争」戦略によって撃退する。こんどはアメリカが新植民地主義的手法によってベトナムに乗り込んでくる。外国の支配者はそれが中国、フランス、日本、アメリカのいずれであろうと、言語、宗教、慣習、生活様式、教育・行政・司法制度など、それぞれの文化を強制した。ベトナムの戦いはまさに、異文化のなかでの戦いの連続であった。
[丸山静雄]
日本とベトナムとの関係は古く、最初にベトナムの歴史舞台に登場するのは阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)である。仲麻呂は中国の唐の時代、皇帝粛宗(しゅくそう)によって鎮南都護に任じられ、760年から761年にかけてベトナムに赴任、また766年には、代宗によって安南都護に任じられて再度ベトナムに赴任した。鎮南都護、安南都護あるいは安南節度使とは安南(ベトナム)を平定し、支配する任務をもち、いってみれば総督である。管轄地域は北は広東・広西に接するあたりから、南は北緯18度線のデオ・アナム(安南関)付近まで。都護府の所在地はハノイともビン付近ともいわれる。「天の原ふりさけみれば春日(かすが)なる三笠(みかさ)の山に出でし月かも」の有名な歌(『古今和歌集』)は、仲麻呂がこのとき望郷の思いにかられて詠んだものだという。
室町時代には朱印船がトンキンに赴いて朱印船貿易に従事し、安土(あづち)・桃山時代、江戸時代初期にはトゥーラン(ダナン)、ファイフォ(ホイアン)に日本町がつくられ、そこでは一種の自治が許されていた。北東モンスーンは南シナ海、トンキン湾を抜けてベトナムの中部海岸に吹き寄せる。モンスーンによって難破した船はここに流れつき、帰るに帰れず、現地人と結婚して落ち着くものがあった。浦島伝説はここから生まれたのであろうか。しかし1639年(寛永16)、徳川幕府の鎖国令が出てからは、海外渡航はとだえた。ふたたび日本人がベトナムに現れるのは明治に入ってからで、「からゆきさん」「娘子(じょうし)軍」がその先鞭(せんべん)となった。
ベトナムの近代民族運動の先駆者ともいうべきファン・ボイ・チャウは、日露戦争における日本の勝利に刺激されて、1905年4月来日、日本の援助を求めた。ファン・ボイ・チャウの推戴(すいたい)するクオン・デ侯も1906年4月、来日した。ファン・ボイ・チャウはベトナムの独立には人材養成が不可欠だと考え、ベトナムの若者を日本に送り勉強させた。これは「東遊運動」といわれ、1905~1909年ごろまでに、実に200名を超えるベトナムの若者が日本に学んだ。日本は、こうしたベトナムの初期民族運動を支援したが、のちにフランスの要請を受けるや、政府は民族運動家たちをことごとく日本国外に追放した。ファン・ボイ・チャウは「アジア人よ、ベトナムを見殺しにするな」といいつつ日本を去った。
日中戦争期、太平洋戦争期には一転して、日本とベトナムとの関係は政略的・軍事的色彩を帯びてくる。日中戦争の解決に手詰りを感じた日本は、重慶(じゅうけい)政権にかわる新政権を樹立しようと、汪精衛(おうせいえい)誘致工作に着手する。その舞台に選ばれたのが北部ベトナムで、汪精衛は1938年12月、重慶を脱出してハノイに到着、ここから日本に赴いた。日本はまた、1940年9月には重慶政権への最大の軍需物資輸送路となっていた仏印ルート(一つはハイフォン―ラオカイ―昆明ルート、もう一つはハイフォン―ランソン―南寧ルート)を遮断すべく北部ベトナムに軍を進駐、さらに南部ベトナムに軍事拠点を確保しようとして、1941年7月、南部ベトナムに軍を進駐させた。これが太平洋戦争への点火を決定づけるのである。
太平洋戦争は、真珠湾攻撃と南方作戦からなる。南方作戦は南方軍(総司令官寺内寿一(ひさいち)大将)がサイゴンに総司令部を置いて開始された。南方軍は1945年3月、明号作戦によって仏印軍を武装解除し、ベトナムに独立を許与するとして、フエにチャン・チョン・キム政権(陳重金首相、保大皇帝)を樹立した。日本はフランス支配を排除したが、かわって日本的秩序を強制した。それはフランス秩序と大差なく、日本は西欧の植民地支配構造を破壊したというよりも、むしろそれの中断を防ぎ、戦後の西欧支配の復活に力を貸した。こうした日本の施策や作戦に対してホー・チ・ミンの指導するベトナムの解放勢力(ベトミン)は抵抗したが、南方軍は「討伐作戦」を展開して解放勢力を攻撃した。この間、日本の支配によって200万の餓死者を出したとして、ベトナムは日本を批判した。1945年8月、日本軍は降伏し、南方軍はサイゴン郊外のダラトにおいて「終戦」を迎えた。
戦後、日本はベトナム国(1949年6月、サイゴンに成立、元首保大。1951年9月、サンフランシスコ平和条約に調印。1955年10月、独立して共和制宣言、ベトナム共和国となる。大統領ゴ・ジン・ジエム)と国交をもち、同国政府に対して賠償の支払い、経済援助の供与も行った(賠償は1951~1956年に3900万ドル)。ベトナム戦争が勃発(ぼっぱつ)するや、日本政府はアメリカ軍に対し、基地の提供、兵器・戦車・艦艇の修理、軍需資材の調達、兵員休養のための施設開設など、多種多大の軍事的・非軍事的便宜を提供した。その利益ははね返って日本経済を大きく潤し、「ベトナム特需」とよばれた。しかし1975年4月、ベトナム共和国は崩壊し、アメリカ軍は敗退した。
他方、日本は1973年9月、ベトナム民主共和国(のちのベトナム社会主義共和国。北ベトナム)との間に国交を樹立した。ベトナム軍は1978年12月、カンボジアに攻撃されたとして、カンボジアに大挙侵攻した。それをみるや、西欧諸国は「経済制裁」として北ベトナムに対する経済援助を停止し、日本もこれにならった。停止は14年間に及んだが、ベトナムとカンボジアとの和平協定がなるや、日本は1992年11月、ベトナムに対する政府開発援助(ODA)を再開、円借款を供与している。ベトナムの貿易相手国としては、日本は中国に次いで第2位であり、日本の投資額は、認可ベースでは韓国、シンガポール、台湾に次いで第4位、実行ベースでは第1位となっている。
[丸山静雄]
『アジア・アフリカ研究所編『ベトナム――自然・歴史・文化・政治・経済』上下(1977~1978・水曜社)』▽『丸山静雄著『インドシナ物語』(1981・講談社)』▽『白石昌也著『ベトナム』(1993・東京大学出版会)』▽『香川孝三著『ベトナムの労働・法と文化』(2006・信山社出版)』▽『藤田麻衣編『移行期ベトナムの産業変容』(2006・アジア経済研究所)』▽『秋葉まり子編『いまベトナムは』(2008・弘前大学出版会)』▽『松尾康憲著『現代ベトナム入門』(2008・日中出版)』▽『伊藤正子著『民族という政治 ベトナム民族分類の歴史と現在』(2008・三元社)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
東南アジア大陸部(インドシナ半島)東岸の国家。首都ハノイ。紅河(こうが)デルタを中心とする北部,チュオンソン山脈,中部高原と南シナ海に挟まれた狭長な中部,メコンデルタを中心とする南部に分かれる。ベトナム人(キン族)の祖先が居住した北部は漢代から中国に支配され,10世紀にようやく自立,1054年から大越(だいえつ)の国号を用いた(中国は安南国として冊封)。東南アジアらしい流動的な国家・社会に,14~15世紀には小中華型の国家体制と国家=民族意識が固まり,中部のチャンパーを圧倒して大規模な南進を実現,17~19世紀には南部をカンボジアから奪った。16~18世紀は南北分裂の時代だったが,1802年に南北を統一した阮(グエン)朝は越南(ベトナム),のち大南の国号を採用した。1859~84年に全土がフランスの植民地とされ,南部(コーチシナ),中部(アンナン),北部(トンキン)の3邦に分けて統治された。1945年ベトナム民主共和国が独立宣言したがフランスとインドシナ戦争となり,フランスの敗北後もジュネーヴ協定により南北に分割された。しかし,北の民主共和国はアメリカが直接派兵(ベトナム戦争)までして支援した南のベトナム共和国を75年に倒し,翌年南北を正式統一して,ベトナム社会主義共和国となった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
インドシナ半島東岸の国。漢字表記は越南。紀元前2世紀頃,北部で初期国家を形成するが中国(漢~唐)に征服され,安南とよばれた。10世紀に独立。中国の制度文物を摂取し,集権国家を形成して独立維持と南進に成功,19世紀に阮(げん)朝がほぼ現在の領域を統合した。1804年から越南を国号とする。19世紀後半からフランスの植民地となり,第2次大戦期の日本の仏印進駐をへて,戦後のインドシナ戦争の結果南北に分離,アメリカの介入でベトナム戦争が勃発した。1976年の南北統一後もカンボジア問題で孤立・混乱したが,86年からドイモイ(刷新)政策が進展している。日本とは,鎖国前の朱印船貿易と日本町の建設,日露戦争後の日本留学運動(東遊(ドンズー)運動),ベトナム戦争特需とベトナム反戦運動など関係が深い。また,日本はベトナムにとって最大の援助国となっている。95年にASEAN加盟。正式国名はベトナム社会主義共和国。首都ハノイ。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…1802‐1945年,フエに都したベトナム最後の王朝(図)。阮朝とも書く。…
…ベトナムのグエン(阮)朝初代皇帝。姓名グエン・フォック・アインNguyen Phuoc Anh(阮福暎),グエン・フック・アインNguyen Phuc Anh(阮福映)とも表記される。…
…1054年から1778年まで用いられたベトナムの国号。リ(李)朝のリ・タイ・トン(李太宗)によって定められ,以後,チャン(陳),レ(黎),クアンナム(広南)各朝を通じて用いられたが,国外ではアンナン(安南)と称することも多い。…
※「ベトナム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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