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ドイツ・ロマン派を代表する画家。ドイツの北限に近い,北海に臨むグライフスワルトGreifswald生れ。1794-98年にコペンハーゲンの美術アカデミーに学んだ後,ドレスデンに住み,小さな国内旅行を除き,生涯をここですごした。当時のドレスデンはアカデミーや,ザクセン選帝侯が集めた数々の名画(ドレスデン国立絵画館)によってドイツにおける美術の中心地の一つであったが,同時にベルリン,イェーナなどとともにドイツ・ロマン主義運動の中心地でもあり,フリードリヒの芸術もこうした運動の一環としてとらえることができる。もっぱら風景画のみを手がけたが,それ以前のプッサン,ロラン流の古典的風景画とも17世紀オランダの写実的風景画とも,ロココのピトレスクなそれとも異なる,画家の内面感情を自然に託した作品により風景画史に新生面を切り開いた。しかし初期の《山上の十字架》(テッチェン祭壇画。1808)や《海辺の僧侶》(1810)などは,そうした新しさのために時代からは理解されなかった。作風は,生涯を通して大きく変わることはなく,海,山,森,廃墟などを緻密な細部描写をまじえながら描き,色彩も北方の風土を象徴するように概して暗い。作品中に人間の占める比重はけっして大きくはないが,背面で描かれることの多い彼らは作者の内面感情の担い手として重要な意味をもっている。基本的なテーマは自然に託された神へのあこがれ,無限との交感,死と再生あるいは復活への予感でそれらを象徴的,主観的,あるいは寓意的に描いた。その意味で後の写実派や印象派の風景とも性格を異にする。彼の芸術は,死後長らく無視され,忘れられていたが,現在ではドラクロア,ターナーなどとともにロマン主義絵画を代表するものとして高い評価を得ている。なおP.O.ルンゲ,ダール,カールスら,フリードリヒの周辺に集い,ドレスデンで活動したロマン派の画家を〈ドレスデン派〉と呼ぶ。
執筆者:千足 伸行
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ドイツの画家。9月5日グライフスワルトに生まれ、1794~98年コペンハーゲンの美術学校に学ぶ。以後ドイツ・ロマン派の拠点ドレスデンに定住して、画家オットー・ルンゲ、詩人ノバーリス、ティーク、ノルウェーの画家ヨハン・クリスティアン・ダール、医者で画家のカール・グスタフ・カールースらと同志的な交わりを結ぶ。1807年木版および素描(セピア画)から油彩に転じ、風景とロマン派的な宗教感情を融合した『山の十字架』(ドレスデン絵画館)を描いて独得の画風を確立する。24年以後はドレスデン美術学校教授を務めた。彼は「風景における悲劇の発見者」といわれ、主として北ドイツの荒涼とした原野や森や廃墟(はいきょ)やフィヨルドの眺望を、旅愁、憧憬(しょうけい)、悲哀などの情感を込めて描き、ドイツ・ロマン派最大の風景画家とされる。40年5月7日ドレスデンで死去。代表作に『海辺の僧侶』(ベルリン国立美術館シャルロッテンブルク宮殿)、『ウァッツマン山』(ドレスデン絵画館)、『希望号の難破』(ハンブルク美術館)などがある。
[野村太郎]
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…三十年戦争で,1635年プラハ条約によりラウジッツが選帝侯領に加えられると,ドレスデンはエルツ山脈の鉱山地帯と広い農村繊維工業地域を後背地にして経済的に繁栄する。トルコ戦争に参加し,ポーランド王(アウグスト2世)も兼ねた選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世(強王)Friedrich‐August I(1670‐1733)の時代には,18世紀ドイツ・バロックの真珠といわれるフラウエン教会,ツウィンガー宮殿,日本宮殿なども建設され,マイセン磁器もこのころ始まる。3回にわたるシュレジエン戦争,ついでナポレオン戦争による戦禍を受け,政治的には衰退した。…
…また孤絶の美学を荒れ果てた墓地にもとめるT.グレーらの墓畔詩人もここから生まれた。さらにC.D.フリードリヒをはじめとするロマン主義の画家たちは自然の荒々しい力の隠喩を廃墟に認め,自我をもつ存在(個人)の内面的葛藤を際立たせる神聖な画題としてこれを描いた。また彼らにとって廃墟は,物質的な現実が滅び霊的な未来が訪れることの暗示でもあった。…
※「フリードリヒ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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