盲人音楽家。近世箏曲の祖。生国は,磐城,豊前小倉など諸説ある。初名は城秀(じようひで)。寛永(1624-44)初年,摂津で加賀都(かがのいち)(後の柳川検校)とともに三味線を弾き,三味線の八橋流の祖となったとされるが,その伝承系譜は明らかでない。胡弓の改良も行ったとされる。寛永の中ごろには〈初度の上衆引(じようしゆうびき)〉という盲人の官位にあった。そのころ江戸に出て法水から筑紫箏を習得。肥前にも赴いて玄恕にも師事したとされるが,筑紫箏の伝書では否定されている。1636年上洛して寺尾検校城印のもとで勾当(こうとう)となり,寄宿先の《色道大鏡》の著者藤本箕山の家来の名をとって山住姓を称した。このとき城言(じようごん)に箏を教え,城言は大坂の万重(まんよ)太夫という遊女に教えた。39年再上洛して検校に登官,上永検校城談と名のり,後に八橋姓に改める。この再上洛の際には筑紫箏の秘曲を弾き,城連,城行(じようゆき)らがその伝授を受けた。
磐城平藩の江戸屋敷に召され,1663年(寛文3)までは5人扶持を給せられている。歌人でもあった藩主内藤風虎が正保(1644-48)年間に改訂した詞章に基づき,慶安(1648-52)年間,筑紫箏とは異なる陰音階の調弦によって新しい箏組歌を作曲。62年には松平大和守邸に伺候して箏組歌や三味線組歌などを演奏している。この前後門下の北島検校も同邸に伺候しているが,63年以降の八橋の伺候の記録はないので,平藩の扶持を離れるとともに京都に移住したと考えられる。京においては,綾小路烏丸西ヘ入町に居住し,職屋敷の六老の地位にあったが,85年京都で没した。
八橋を師として検校に登官した者には,太田城順(1662年登官),根尾城和(1672年登官),本坂城訓(1675年登官)があり,いずれも江戸に居住した。根尾は八橋の墓の施主の一人となり,後に京都に移住。その門下の初島勾当は,萩に箏曲を伝えた。盲官系譜以外の門下には,前記北島のほか,住(隅)山流の祖の住山検校(その門下に継山流の祖の継山検校がある),大坂八橋流の祖とされる城追座頭,沖縄箏曲への伝承の祖とされる吉部座頭などが考えられる。
八橋の作品は《菜蕗(ふき)》以下のいわゆる八橋十三組が有名であり,とくにそのうち,《四季の曲》《扇の曲》《雲井の曲》は奥の〈三曲〉として重んぜられる。ほかに付物の《雲井弄斎》,秘曲の《古流四季源氏》などもあり,また器楽曲の《すががき》《りんぜつ》を発展させて現行の《六段》《乱》を成立させたのも八橋と考えられている。
執筆者:平野 健次
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(吉沢敬)
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江戸初期の箏曲(そうきょく)演奏家、作曲家。近世俗箏の開祖で、八橋流箏曲の流祖。生国は『箏曲大意抄』(1779)以来、磐城(いわき)(福島県)とされるが、確証はなく未詳。初名城秀(じょうひで)。前名山住勾当(やまずみこうとう)。1639年(寛永16)検校に登官。初め上永検校城談と名のっていたが、のちに八橋検校城談と改める。幼いころ失明し、寺尾検校城印に地歌(じうた)三味線を学ぶ。さらに筑紫箏(つくしごと)の祖・賢順(けんじゅん)の門下法水(ほっすい)に筑紫箏を学び、これを改革・発展させて、半音を含む都節(みやこぶし)音階の平調子(ひらじょうし)という新調弦を考案し、近世箏曲を成立させた。貞享(じょうきょう)2年6月12日没。墓所は京都黒谷(くろたに)の常光院。作曲には『菜蕗(ふき)』『梅枝(うめがえ)』『心尽(こころづくし)』『天下太平』『薄雪(うすゆき)』『雪晨(ゆきのあした)』『雲上(くものうえ)』『薄衣(うすごろも)』『桐壺(きりつぼ)』『須磨(すま)』『四季曲(しきのきょく)』『扇曲(おうぎのきょく)』『雲井曲(くもいのきょく)』の箏組歌(くみうた)13曲のほか、『六段の調(しらべ)』『八段の調』『乱(みだれ)』などの段物がある(ただし、曲名は流派により異名がある)。
[平山けい子]
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1614~85.6.12
近世箏曲の開祖。寛永初年頃,大坂で城秀(じょうひで)の名で三味線の名手として活躍。のち江戸にでて法水より筑紫箏(つくしごと)を学び,それを改訂・増補し,陰音階の調弦を考案して組歌13曲を作り,「六段」「八段」「乱」など箏独奏の段物も作曲したという。城秀のあと山住勾当(こうとう)・上永検校城談の名をへて八橋を名のる。寛文頃から京都に移住したと思われ,箏曲を盲人音楽家の専業として確立するとともに,一般への普及にも努めた。
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…第13弦(巾(きん))の定め方によって,普通の雲井調子と本雲井調子の2種がある。《糸竹初心集》(1664)に〈又雲井の調べといふ事を此比八橋検校ひき出したり〉と述べており,いわゆる平調子(ひらぢようし)とともに八橋検校(やつはしけんぎよう)の創意になるものといわれる。八橋の13組の箏組歌では《雲井曲》だけが本雲井調子で作られている。…
…筑紫箏の調弦法は雅楽の箏のそれを移したものであり,原則として雅楽と同じ音階を用いる。近世箏曲の調弦法は,八橋検校(やつはしけんぎよう)が筑紫箏の調弦を陰音階によるものに改めたといわれている。初めはいわゆる平調子と雲井調子(実際は今日いう本雲井調子)の2種が用いられたが,のちにいろいろな調弦法がくふうされ,現在は多数の調弦法が用いられている。…
…以後,この歌曲を,〈筑紫箏(つくしごと)〉ないし〈筑紫流箏曲〉といった。賢順の弟子の法水に学んだ盲人音楽家の八橋検校(やつはしけんぎよう)は,寛永(1624‐44)の中ごろ,庇護者である磐城平藩主内藤風虎の編詞によって,陰音階の調弦による箏伴奏の新しい組歌を作曲,これを普及させた。以後,盲人社会を中心に,その伝承と創造とが行われ,その門葉からさまざまな流派を生じた。…
…長唄は,江戸時代後期には大薩摩節(おおざつまぶし)という浄瑠璃を併合したり,お座敷長唄という歌舞伎から離れた演奏会長唄ともいうべきものを生じたりして,芸域を拡張した。また,江戸時代初期に八橋検校という盲人が筑紫流箏曲をさらに近代化して箏曲として大成し,当道(とうどう)という盲人の組織にのせて普及した。その孫弟子生田検校が,地歌三味線曲に箏を合わせることを始めたと伝えられるが,早くから箏曲は地歌と結合して発達した。…
…《八段の調》《八段之調子》《八段すががき》とも。八橋検校作曲の箏組歌裏組付物(つけもの)。段物。…
…《みだれりんぜつ(乱輪舌)》《十段のしらべ》《十二段すががき》などともいう。《糸竹初心集》《糸竹大全》などに収載される《りんぜつ》を原曲として,10段ないし12段構成の陰音階(平調子・本調子)の器楽曲に発展させたもので,箏曲としては八橋検校の作曲と伝えられるが異説もある。段構造の切れ目は一定せず,流派による異同が多い。…
…箏曲・地歌の流派名。生田流,継山流などの流派が成立した時点で,八橋検校時代のものを〈八橋流〉または〈古八橋流〉という。それとは別に,大坂において八橋門下の城追座頭以降の伝承を,とくに〈新八橋流〉または〈八橋流〉ともいう。…
…《六段のしらべ》《六段すががき》などともいう。《糸竹初心集》《糸竹大全》などに収載される《すががき》を原曲として,6段構成の陰音階(平調子・本調子)の器楽曲に発展させたもので,箏曲としては八橋検校の作曲と伝えられるが異説もある。各段52拍子(104拍)であるが,初段のみ2拍子多い。…
※「八橋検校」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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