八橋検校(読み)ヤツハシケンギョウ

デジタル大辞泉 「八橋検校」の意味・読み・例文・類語

やつはし‐けんぎょう〔‐ケンゲウ〕【八橋検校】

[1614~1685]江戸前期の箏曲そうきょく演奏家・作曲家。磐城いわき一説に豊前小倉)の人という。三味線胡弓こきゅう名手で、筑紫流箏曲を学び、八橋流創始。今日の箏曲俗箏)の基礎を築いた。組歌13曲、段物4曲(「六段」「八段」など)を作曲。

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精選版 日本国語大辞典 「八橋検校」の意味・読み・例文・類語

やつはし‐けんぎょう‥ケンゲウ【八橋検校】

  1. 江戸初期の俗箏の開祖。八橋流箏曲の始祖磐城(福島県)の人。一説に豊前小倉(福岡県)の人。幼くして失明、江戸に出て、はじめ三味線を学び、のち、筑紫箏を学ぶ。筑紫箏曲を改訂して新曲を作り、今日の箏曲の基礎を築く。代表作は「四季の曲」など一三曲の組歌、「六段の調」「乱(みだれ)」などの段物。慶長一九~貞享二年(一六一四‐八五

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改訂新版 世界大百科事典 「八橋検校」の意味・わかりやすい解説

八橋検校 (やつはしけんぎょう)
生没年:1614-85(慶長19-貞享2)

盲人音楽家。近世箏曲の祖。生国は,磐城,豊前小倉など諸説ある。初名は城秀(じようひで)。寛永(1624-44)初年,摂津で加賀都(かがのいち)(後の柳川検校)とともに三味線を弾き,三味線の八橋流の祖となったとされるが,その伝承系譜は明らかでない。胡弓の改良も行ったとされる。寛永の中ごろには〈初度の上衆引(じようしゆうびき)〉という盲人の官位にあった。そのころ江戸に出て法水から筑紫箏を習得。肥前にも赴いて玄恕にも師事したとされるが,筑紫箏の伝書では否定されている。1636年上洛して寺尾検校城印のもとで勾当(こうとう)となり,寄宿先の《色道大鏡》の著者藤本箕山の家来の名をとって山住姓を称した。このとき城言(じようごん)に箏を教え,城言は大坂の万重(まんよ)太夫という遊女に教えた。39年再上洛して検校に登官,上永検校城談と名のり,後に八橋姓に改める。この再上洛の際には筑紫箏の秘曲を弾き,城連,城行(じようゆき)らがその伝授を受けた。

 磐城平藩の江戸屋敷に召され,1663年(寛文3)までは5人扶持を給せられている。歌人でもあった藩主内藤風虎が正保(1644-48)年間に改訂した詞章に基づき,慶安(1648-52)年間,筑紫箏とは異なる陰音階調弦によって新しい箏組歌を作曲。62年には松平大和守邸に伺候して箏組歌や三味線組歌などを演奏している。この前後門下北島検校も同邸に伺候しているが,63年以降の八橋の伺候の記録はないので,平藩の扶持を離れるとともに京都に移住したと考えられる。京においては,綾小路烏丸西ヘ入町に居住し,職屋敷の六老の地位にあったが,85年京都で没した。

 八橋を師として検校に登官した者には,太田城順(1662年登官),根尾城和(1672年登官),本坂城訓(1675年登官)があり,いずれも江戸に居住した。根尾は八橋の墓の施主の一人となり,後に京都に移住。その門下の初島勾当は,萩に箏曲を伝えた。盲官系譜以外の門下には,前記北島のほか,住(隅)山流の祖の住山検校(その門下に継山流の祖の継山検校がある),大坂八橋流の祖とされる城追座頭,沖縄箏曲への伝承の祖とされる吉部座頭などが考えられる。

 八橋の作品は《菜蕗(ふき)》以下のいわゆる八橋十三組が有名であり,とくにそのうち,《四季の曲》《扇の曲》《雲井の曲》は奥の〈三曲〉として重んぜられる。ほかに付物の《雲井弄斎》,秘曲の《古流四季源氏》などもあり,また器楽曲の《すががき》《りんぜつ》を発展させて現行の《六段》《》を成立させたのも八橋と考えられている。
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朝日日本歴史人物事典 「八橋検校」の解説

八橋検校

没年:貞享2.6.12(1685.7.13)
生年:慶長19(1614)
江戸前期の箏曲家。近世箏曲の始祖。生年には諸説ある。初名城秀。寛永(1624~44)の半ばに座頭,寛永13(1636)年山住勾当(母が畠山箕山の家来の山住某に扶持されていたことにちなむ),16年11月11日上永検校城談となる。明暦3(1657)年以前に八橋と改姓。一時(寛文3年まで)磐城平藩(福島県)内藤家から5人扶持を給せられる。寛文2(1662)年から3年ごろには,江戸の松平直矩邸で箏や三味線の演奏を行っているが,翌年平藩の扶持を離れたのを契機に,京都に移住したものか。貞享2(1685)年には六老の地位にあって京都綾小路烏丸西入ルに住んだ。 寛永のはじめごろ,大坂で三弦家として活躍。同じ時期に大坂で三弦家として活躍したライバルの加賀都(のち柳川検校)に対して,何らかの転向を余儀なくされたのであろうか。その後間もなく江戸に出て法水から筑紫箏を学ぶ。慶安年中(1648~52)に,藩主の内藤風虎の編詞に基づいて,筑紫箏とは異なる半音を含む調弦による新しい箏伴奏歌曲(箏組歌)を創作。ここに近世箏曲が誕生することになる。箏組歌は,小編歌謡を平均6歌ずつ組み合わせて歌詞とした楽曲で,きわめて厳格な形式性を持ち,その後の盲人の専門家としての修業の規範となった。「八橋十三組」と称される「菜蕗」以下13曲の箏組歌を作曲。そのうちの「四季の曲」「扇の曲」「雲井の曲」は「奥の三曲」といって重視される。そのほか,箏伴奏歌曲数曲を作曲。器楽曲の「すががき」「りんぜつ」を改編して現行の「六段の調」「乱」などを成立させた。孫弟子に生田検校がいる。<参考文献>平野健次『三味線と箏の組歌』谷垣内和子矢頭 右衛門七やとう・えもしち貞亨3(1686)~元禄16.2.4(1703.3.20)江戸前期の赤穂浪士(赤穂四十七士)のひとり。赤穂藩中小姓・20石5人扶持長助の子。父亡きあと母に孝養をつくしたという。元禄15(1702)年12月14日から15日早暁にかけて他の同志とともに吉良邸に討入り,吉良義央を討って主君浅野長矩の恥辱をそそいだ。事件後神崎与五郎ら8人とともに水野忠之邸預けとなり,翌年幕命により切腹。四十七士のうちでは,大石主税に次いで若い18歳であった。墓は東京高輪の泉岳寺。

(吉沢敬)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「八橋検校」の意味・わかりやすい解説

八橋検校
やつはしけんぎょう

[生]慶長19(1614)
[没]貞享2(1685)
現在の生田流山田流などの箏曲の始祖となった盲人音楽家。初名城秀(じょうひで)。磐城の出身といわれる。寛永年間(1624~44)の初め,大坂で加賀都(かがのいち。のちの柳川検校)とともに三弦を弾き,寛永中頃には江戸へ出て賢順の弟子,法水(はっすい)から筑紫箏を習った。寛永13(1636)年に上京し,寺尾検校のもとで勾当となり,山住と名のった。寛永16(1639)年に再上京して検校に登官し上永検校と名のり,のち八橋と改めた。『箏曲大意抄』によると,慶安年間(1648~52)頃,組歌を創作し始めたとある。また『琴曲抄』によれば,筑紫箏の組歌を改編したり,あるいは新作の歌詞によったりして,みずから考案したいわゆる陰音階の調弦による新様式の箏伴奏歌曲を成立させた。作品に『菜蕗(ふき)』『梅枝』『心尽』『天下太平』『薄雪』『雪晨』『雲の上』『薄衣』『桐壺』『須磨』『四季の曲』『扇の曲』『雲井の曲』の 13曲のほか,極秘曲とされる『四季源氏』や段物の『六段の調(しらべ)』『八段の調』『(みだれ)』,歌物の付物『雲井弄斎(くもいろうさい)』なども八橋作曲とされている。門下の隅山は加賀に隅山流を広め,その門から継山流が生まれ,北島検校からは生田検校が出て生田流が生まれた。また,門下の城追座頭以降は八橋流と称されるようになった。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「八橋検校」の意味・わかりやすい解説

八橋検校
やつはしけんぎょう
(1614―1685)

江戸初期の箏曲(そうきょく)演奏家、作曲家。近世俗箏の開祖で、八橋流箏曲の流祖。生国は『箏曲大意抄』(1779)以来、磐城(いわき)(福島県)とされるが、確証はなく未詳。初名城秀(じょうひで)。前名山住勾当(やまずみこうとう)。1639年(寛永16)検校に登官。初め上永検校城談と名のっていたが、のちに八橋検校城談と改める。幼いころ失明し、寺尾検校城印に地歌(じうた)三味線を学ぶ。さらに筑紫箏(つくしごと)の祖・賢順(けんじゅん)の門下法水(ほっすい)に筑紫箏を学び、これを改革・発展させて、半音を含む都節(みやこぶし)音階の平調子(ひらじょうし)という新調弦を考案し、近世箏曲を成立させた。貞享(じょうきょう)2年6月12日没。墓所は京都黒谷(くろたに)の常光院。作曲には『菜蕗(ふき)』『梅枝(うめがえ)』『心尽(こころづくし)』『天下太平』『薄雪(うすゆき)』『雪晨(ゆきのあした)』『雲上(くものうえ)』『薄衣(うすごろも)』『桐壺(きりつぼ)』『須磨(すま)』『四季曲(しきのきょく)』『扇曲(おうぎのきょく)』『雲井曲(くもいのきょく)』の箏組歌(くみうた)13曲のほか、『六段の調(しらべ)』『八段の調』『乱(みだれ)』などの段物がある(ただし、曲名は流派により異名がある)。

[平山けい子]

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百科事典マイペディア 「八橋検校」の意味・わかりやすい解説

八橋検校【やつはしけんぎょう】

地歌・箏曲家。近世箏曲の創始者。磐城平(たいら)生れ(一説に豊前小倉)。初名,城秀(じょうひで)。山住勾当から上永検校城談を経て八橋検校。初めは上方で三味線の名手として活躍。三味線の八橋流を創始,胡弓の改良を行ったともいう。寛永(1624年―1644年)の末ごろ,江戸へ出て,筑紫箏(つくしごと)の法水(ほっすい)/(ほうすい)から箏曲を学ぶ。慶安年中(1648年―1652年)に新しい箏組歌を創案し,近世箏曲を樹立。寛文(1661年―1673年)の初めころに京都に移住。《菜蕗(ふき)》《雲井の曲》など13曲の組歌および段物の《六段の調》《みだれ》のほか《雲井弄斎》などを作曲。
→関連項目組歌菜蕗八橋六段

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「八橋検校」の解説

八橋検校
やつはしけんぎょう

1614~85.6.12

近世箏曲の開祖。寛永初年頃,大坂で城秀(じょうひで)の名で三味線の名手として活躍。のち江戸にでて法水より筑紫箏(つくしごと)を学び,それを改訂・増補し,陰音階の調弦を考案して組歌13曲を作り,「六段」「八段」「乱」など箏独奏の段物も作曲したという。城秀のあと山住勾当(こうとう)・上永検校城談の名をへて八橋を名のる。寛文頃から京都に移住したと思われ,箏曲を盲人音楽家の専業として確立するとともに,一般への普及にも努めた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「八橋検校」の解説

八橋検校 やつはしけんぎょう

1614-1685 江戸時代前期の箏曲(そうきょく)家。
慶長19年生まれ。はじめ三味線の名手として知られ,のち江戸で筑紫箏(つくしごと)を法水(ほうすい)にまなぶ。慶安のころ新調弦による箏組歌(八橋十三組)をつくり,近代箏曲の基礎をきずいた。貞享(じょうきょう)2年6月12日死去。72歳。初名は城秀。前名は山住勾当(やまずみこうとう),上永検校城談。作品に「六段の調」「乱」など。

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世界大百科事典(旧版)内の八橋検校の言及

【雲井調子】より

…第13弦(巾(きん))の定め方によって,普通の雲井調子と本雲井調子の2種がある。《糸竹初心集》(1664)に〈又雲井の調べといふ事を此比八橋検校ひき出したり〉と述べており,いわゆる平調子(ひらぢようし)とともに八橋検校(やつはしけんぎよう)の創意になるものといわれる。八橋の13組の箏組歌では《雲井曲》だけが本雲井調子で作られている。…

【箏】より

…筑紫箏の調弦法は雅楽の箏のそれを移したものであり,原則として雅楽と同じ音階を用いる。近世箏曲の調弦法は,八橋検校(やつはしけんぎよう)が筑紫箏の調弦を陰音階によるものに改めたといわれている。初めはいわゆる平調子と雲井調子(実際は今日いう本雲井調子)の2種が用いられたが,のちにいろいろな調弦法がくふうされ,現在は多数の調弦法が用いられている。…

【箏曲】より

…以後,この歌曲を,〈筑紫箏(つくしごと)〉ないし〈筑紫流箏曲〉といった。賢順の弟子の法水に学んだ盲人音楽家の八橋検校(やつはしけんぎよう)は,寛永(1624‐44)の中ごろ,庇護者である磐城平藩主内藤風虎の編詞によって,陰音階の調弦による箏伴奏の新しい組歌を作曲,これを普及させた。以後,盲人社会を中心に,その伝承と創造とが行われ,その門葉からさまざまな流派を生じた。…

【日本音楽】より

…長唄は,江戸時代後期には大薩摩節(おおざつまぶし)という浄瑠璃を併合したり,お座敷長唄という歌舞伎から離れた演奏会長唄ともいうべきものを生じたりして,芸域を拡張した。また,江戸時代初期に八橋検校という盲人が筑紫流箏曲をさらに近代化して箏曲として大成し,当道(とうどう)という盲人の組織にのせて普及した。その孫弟子生田検校が,地歌三味線曲に箏を合わせることを始めたと伝えられるが,早くから箏曲は地歌と結合して発達した。…

【八段】より

…《八段の調》《八段之調子》《八段すががき》とも。八橋検校作曲の箏組歌裏組付物(つけもの)。段物。…

【乱】より

…《みだれりんぜつ(乱輪舌)》《十段のしらべ》《十二段すががき》などともいう。《糸竹初心集》《糸竹大全》などに収載される《りんぜつ》を原曲として,10段ないし12段構成の陰音階(平調子・本調子)の器楽曲に発展させたもので,箏曲としては八橋検校の作曲と伝えられるが異説もある。段構造の切れ目は一定せず,流派による異同が多い。…

【八橋流】より

…箏曲・地歌の流派名。生田流,継山流などの流派が成立した時点で,八橋検校時代のものを〈八橋流〉または〈古八橋流〉という。それとは別に,大坂において八橋門下の城追座頭以降の伝承を,とくに〈新八橋流〉または〈八橋流〉ともいう。…

【六段】より

…《六段のしらべ》《六段すががき》などともいう。《糸竹初心集》《糸竹大全》などに収載される《すががき》を原曲として,6段構成の陰音階(平調子・本調子)の器楽曲に発展させたもので,箏曲としては八橋検校の作曲と伝えられるが異説もある。各段52拍子(104拍)であるが,初段のみ2拍子多い。…

※「八橋検校」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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