古墳の墳丘上あるいは外堤などに立て並べられた素焼の土製品。円筒埴輪と形象埴輪(家形、人物、動物など)とに大別される。
[橋本博文]
埴輪のなかでもっとも早く出現する円筒埴輪の祖型は、吉備(きび)地方(岡山県と広島県東部)の弥生(やよい)時代後期の墳墓で儀器化した「特殊器台」と称される土器である。この食物供献(きょうけん)用の壺(つぼ)をのせる器台形土器が古墳の創出に際して畿内(きない)に受け入れられ、それが形式化し、退化・変容したものである。円筒埴輪の胴部には箍(たが)ともよばれる突帯とその間に透孔(すかしあな)と通称される孔がある。その孔には、巴(ともえ)形、三角形、方形、半円形、円形等々がみられるが、それらは先の特殊器台の名残(なごり)である。また、古い時期に外面を赤色塗彩するのもその伝統である。さらに、先の器台と畿内地方出自の有段口縁(こうえん)底部穿孔(せんこう)の壺が合体して朝顔形円筒埴輪が生み出された。一方、形象埴輪では家形埴輪などがいち早く現れたようであるが、こちらも吉備の弥生時代後期の墳墓である女男岩(みょうといわ)遺跡(岡山県倉敷市)の出土例が注目される。しかし、その器台の上にのった家形土製品と通有の家形埴輪との間には時間的空白があり、溝は埋まっていない。人物埴輪では、同じく岡山県楯築(たてつき)弥生墳丘墓出土の人形土製品の出土が興味深いものの、5世紀代の人物埴輪とは懸隔が認められる。
人物埴輪をはじめとする形象埴輪の起源説話として、『日本書紀』の垂仁(すいにん)天皇32年の条が著名である。皇后日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の死に際し、土師(はじ)氏の祖である野見宿禰(のみのすくね)の建策によって、殉死にかえ、人馬および種々の物をかたどった土製品を陵墓に立てたとされる。また、それを「埴輪」ないし「立物(たてもの)」とよんだとある。「埴輪」とは、埴すなわち粘土で種々に造形し、素焼きしてできた器物を輪のように古墳に立て並べたところから名づけられたとも、粘土の輪ということで、土製円筒形の焼物(=円筒埴輪)をさした用語ともいわれている。あるいは、各種埴輪の基本的成形法が、粘土紐(ひも)の輪積み、巻き上げであるところからついたものとも考えられる。この埴輪起源説話は、各種形象埴輪出現の考古学上の知見と対応しない。これは、陵墓造営、埴輪製作などに従事した土師氏が祖先顕彰のために造作したものと考えられている。中国の俑(よう)や、北部九州の石人・石馬との関係で大陸の石人・石獣などの影響による出現説もある。
[橋本博文]
粘土紐の巻き上げか輪積みによって中空に造形し、付属物は粘土塊を貼(は)り付け、人物埴輪の目・口などは小刀でくりぬいて表現する。家・舟・器財埴輪は、粘土紐の積み上げ、粘土板の組立てによって成形している。表面は木っ端やへら、指でなでて仕上げる。前者の場合には、年輪の影響で「刷毛目(はけめ)」と通称する条線、擦痕(さっこん)がつく。文様などは焼成前にへらで刻み付けたり、線描(が)きしたり、彩色を施したりする。赤(べんがら)、白(たんぱく石)、黒(不明)などの顔料があり、衣服や装身具、携行品などの部分を彩色する。人物埴輪の顔面彩色やへら描きは、化粧、黥面(げいめん)(入れ墨)などといわれているが、平時のものではなく、葬時の儀式用のものとする説もある。
動物埴輪のうち四足獣は多く四つ脚につくるものの、千葉県小川台5号墳の鹿(しか)形埴輪や、同殿塚(とのづか)古墳の犬形埴輪のように前後1本ずつの台に省略しているものもある。鳥や魚、器財埴輪、人物埴輪の半身像・全身像はいずれも一つの円筒器台に取り付けるが、例外的に小川台5号墳の一部人物埴輪全身像のように、円筒器台を欠くというか兼ねるというか2本脚で立つものも認められる。また、背面の表現を省略した例もある。馬形埴輪などの頭部・脚部などの造りから製作集団の技法の系譜を考えうる。
埴輪は一本造りを原則とするが、特殊な例として、人物埴輪の上半身と下半身とを分離造形する茨城県馬渡(まわたり)窯などからの供給例もある。群馬県塚廻(つかまわり)1号墳、奈良県磯城(しき)郡田原本(たわらもと)町羽子田(はごた)の盾持(たても)ち人埴輪の頭部と盾部、塚廻3号墳の盾形埴輪、大刀(たち)形埴輪の本体とその器台も別造りである。これは焼成・運搬に適しよう。
造形の終了したものは工房内で陰干しされたのち、窯詰めされた。古くは地面をすこし掘りくぼめた中で野焼きし、5世紀中ごろ以降は朝鮮半島から導入された窖窯(あながま)において900℃前後の高温で焼かれた。失敗品は灰原(はいばら)に掻(か)き出され、製品は窯場に付設された集積場に運ばれて、古墳への樹立のときを待った。
なお、まれには円筒埴輪や一部の形象埴輪に、須恵器(すえき)や韓(かん)式系土器にみられるような叩(たた)きによる外面の整形痕(こん)やその際の内面の当て具痕の残る例が知られる。これなどは、その製作に須恵器工人や韓式系土器の製作者の一部が関与しているものと思われる。東海地方などには、須恵器の窯で併焼され、還元炎のため硬質・青灰色になった、通称「須恵質埴輪」もある。
また、窯場では火神に対しての祭祀(さいし)が行われたと考えられ、窯址(ようし)中より石製模造品の剣形や有孔円板、臼玉(うすだま)などの出土した例がみられる。
[橋本博文]
埴輪は単体で存在するのではなく、各種が組み合わさって一つの世界を表現する。とくに、人物埴輪に関しては、(1)殉死の代用、(2)墳墓装飾、(3)葬列、(4)供養(くよう)、(5)殯(もがり)、(6)首長権継承儀礼、(7)生前のようすなどを表現したものという解釈がなされている。椅子(いす)に座す首長とおぼしき貴人を中心に、ひざまずく男子。巫女(みこ)は鈴鏡(れいきょう)などを下げ椅子に座って首長に杯(さかずき)を勧めるしぐさのものが多い。まれに大刀を持つものもある。酒杯を捧(ささ)げ持つ女子、踊る女子などの祭宴集団、鷹匠(たかしょう)・鵜(う)匠・猪飼(ししかい)・馬飼・農夫などの職業集団、太鼓(たいこ)打ち・鼓(つづみ)打ち・琴弾(ことひ)き(男子)などの楽人集団、盾持ち人・靫負(ゆぎお)いなどの武人集団、そのほか祭儀に参加する盛装の男子・女子などがある。動物は、先の馬飼とセットで飾馬具をつけた儀式用の馬が多く、なかには裸馬や騎馬人物を表現したものもある。祭儀にかかわる鶏も多い。首に鈴を下げた犬は猟犬と考えられ、矢を射掛けられた手負いの猪(いのしし)や鹿、鷹、水鳥、魚などは狩猟・漁労に関係する王の遊び=儀礼、供物(くもつ)を暗示している。ほかに牛・猿などがある。
家形埴輪群は、群馬県赤堀茶臼山(ちゃうすやま)古墳例をはじめとして、首長の生前の居宅を構成する各建物を表しているものと推考されるが、殯屋(もがりや)などの説もある。一方、囲形(かこいがた)埴輪なる、上縁が山形を呈し側面に水平に突帯を2、3条巡らした平面L字形の筒抜けの埴輪がある。これは、家形埴輪群の前面に置かれるか、家形埴輪群のなかでも主要な建物を表現したものをこの中に入れるかして使用された埴輪である。居宅の柵(さく)列、門などの外郭施設を写したものであろう。
盾、靫、大刀、鉾(ほこ)、鞆(とも)、蓋(きぬがさ)、翳(さしば)などの器財埴輪は威儀の具とされる。帽、椅子もある。
なお、同一古墳の人物埴輪群中で、全身像と半身像との差は身分の高低・貴賤(きせん)を表しているものと考えられる。盛装男子(文人)・挂甲(けいこう)着用武人・盛装女子などは全身像で、農夫・馬飼い・踊る女子などは半身像でおのおの表現する。墳形・時期によって種類に違いがある。
[橋本博文]
器台形円筒埴輪は前期にのみ認められる。やや遅れるものの普通円筒埴輪と朝顔形円筒埴輪は、およそ埴輪の初現から消滅までの全期間存在する。楕円(だえん)円筒埴輪、鰭付(ひれつき)円筒埴輪は前期の後半から中期の前半にかけて大型古墳に樹立される。壺形埴輪は前期を中心につくられ、中期以降は激減・消滅する。家形埴輪は囲形埴輪とともに前期から現れる。器財埴輪のなかで、盾、靫、蓋などが前期に出そろい、中・後期に至る。甲(よろい)、冑(かぶと)、草摺(くさずり)などは中期を中心に存在し、後期には単体でつくられなくなる。鞆、翳が中・後期にみられ、新しく大刀が後期に主要なセットに加わる。
動物埴輪では、鶏形埴輪が古く前期末からは知られ、水鳥形埴輪が中・後期に認められる。一部の動物埴輪の出現に関連して、中期の魚形などの小形土製品の出土が注目される。馬形埴輪は中期から出始めるようで、後期に一般化する。そのほか、犬、猪、鹿などの多様な動物埴輪が後期に多くつくられる。このうち、猪形埴輪は猪飼の人物埴輪との関係が示唆される。大阪府昼神車塚(ひるがみくるまづか)古墳などのように、犬と猪とがセットで置かれ、狩猟の場面を表現しているものもある。人物埴輪は中期に初出し、後期にとくに関東で盛行する。すべてが7世紀初めには消滅する。
[橋本博文]
従来、埴輪の年代観は、出現差のある形象埴輪の組合せなどに力点が置かれ語られてきた。最近では、埴輪をもつ古墳に普遍的に存在する円筒埴輪の製作技法上の変化が重視されるようになった。以下、5期に編年細分する。
Ⅰ期(4世紀中葉)――外面定型化しない二次調整、巴(ともえ)形・三角形・長方形などの透孔が同一段に4孔以上。
Ⅱ期(4世紀後葉)――外面(がいめん)中止横刷毛目(よこはけめ)主体、Ⅰ期の透孔に円形が加わる。断面M字形の突出度の高い突帯。
Ⅲ期(5世紀前半)――外面断続横刷毛目主体、当期まで野焼きで、焼きむらの黒斑(こくはん)をもつ。円形、半円形透孔も多い。
Ⅳ期(5世紀後半)――外面断続横刷毛目主体、窖窯焼成で黒斑を欠く。
Ⅴ期(6世紀)――外面一次縦(たて)刷毛目のみ。ほぼ円形透孔に統一されるが、地域によっては前半は半円形透孔、一部赤色塗彩が残る。また、外面連続横刷毛目も一時期みられる。
以上は、おもに畿内を中心とする編年であり、各地域ごとの検討が望まれる。
形象埴輪においては、馬形埴輪や甲冑(かっちゅう)埴輪は、その表現された飾馬具や甲冑の型式編年からその年代をおよそ知りうる。甲冑埴輪は顔面表現が5世紀後半代に付加され、6世紀代の武人埴輪へと発達する。短甲(たんこう)、眉庇付冑(まびさしつきかぶと)着用武人から挂甲衝角(しょうかく)付冑着用武人へと移る。長野県北西久保(きたにしくぼ)古墳の器財埴輪の盾形埴輪と人物埴輪の盾持ち人埴輪の共存は、その前者から後者へ移り変わる過渡期の様相を示している。人物埴輪は5世紀中ごろから巫女埴輪がみられるが、その後種類を増し、小形の半身像から5世紀末以降の大形全身像が出現してくる。6世紀中葉に女性の結髪に変化があり、撥形髷(ばちがたまげ)から分銅(ふんどう)形髷に移行してゆく。
[橋本博文]
『小林行雄著『陶磁大系3 埴輪』(1974・平凡社)』▽『村井嵓雄編『古代史発掘7 埴輪と石の造形』(1974・講談社)』▽『三木文雄編『日本の美術19 はにわ』(1967・至文堂)』▽『伊達宗泰著『埴輪』(1978・保育社・カラーブックス)』▽『猪熊兼勝著『日本の原始美術6 埴輪』(1979・講談社)』▽『川西宏幸「円筒埴輪総論」(『考古学雑誌』第64巻第2・4号所収・1979・日本考古学会)』
表飾として古墳に樹立した土製品の一種。円筒埴輪と形象埴輪とに大別する。円筒埴輪は筒形を呈し,外面に箍(たが)状の突帯を巡らせ,突帯間に孔をうがつ。突帯数は2~6本で,孔形には三角形,方形,円形などがある。円筒埴輪の一種として,上部がくびれて口縁部が大きく外反するものがあり,これを朝顔形円筒埴輪と別称する。それに対し,単純な筒形品は,ふつう円筒,円筒形埴輪などと呼ばれる。一般に円筒は,弥生時代のある種の器台形土器を祖型とし,朝顔形円筒埴輪の起源については,その器台に壺をのせたものを一体の土製品として作出した,と説かれている。なお,円筒埴輪の対向する位置に,縦長の長方形土板をつけたものがある。これを有鰭(ゆうき)円筒埴輪と呼ぶ。また楕円形の円筒埴輪もみられる。
形象埴輪は,人物,動物や人工物をかたどったもので,家形埴輪,器財埴輪,動物埴輪,人物埴輪に細分される。家形埴輪のうちで,戸口と窓とを併設するものを住居とし,戸口のみで窓を欠くものを倉庫とみなしている。屋根の形は切妻,寄棟,入母屋にほぼ尽きる。柱は突帯や沈線で表現され,まれに円筒形を呈する写実的な表現のものがある。床の構造として,高床と平床との別がある。住居には,平床で入母屋の例が多く,倉庫には,高床で切妻または寄棟の例が多い。大棟に堅魚木(かつおぎ)(勝尾木)をのせた例が住居にある。なお,大阪府八尾市美園町美園1号墳から出土した寄棟形の家形埴輪は,高床式の住居で,屋内に寝台を作り付け,妻部に棟木を支える斗(ます)や束(つか)を線刻しており,また,切妻形のもう1個は平床式の倉庫で,戸口の内側に扉を開閉する軸受をつけている。表現が細部に及ぶ点で,建築史上注目される資料である。
器財埴輪は器物をかたどったもので,衣蓋(きぬがさ),翳(さしば),腰掛け,帽子,高坏(たかつき),合子(ごうす),大刀(たち),矛(ほこ),甲冑,盾,靫(ゆき),鞆(とも),舟の各種があり,威武や威容を示す器物が大半を占める。また,動物埴輪には馬,牛,鹿,猪,犬,猿,鶏,水鳥,鷹,魚がある。馬形埴輪はふつう馬具を装着した飾馬として表現される。この点で他の動物埴輪と相違するが,まれに,首輪をつけた犬や鷹の例がある。人物埴輪には立像が多く,座像が少ない。男女の別があり,男子像として武人,正装,弾琴,鷹匠,盾持,農夫,裸身など,女子像として正装,巫女(ふじよ),子守,裸身などの姿が造形される。全身像と上半身像とがあり,全身像の大半は武人や正装の男子像である。男子は,髪を美豆良(みずら)に結って被り物(かぶりもの)をのせ,衣(きぬ)と袴とをつける。女子は,島田髷(まげ)ふうに結髪して前額に櫛を挿し,衣と裳(も)とをまとう。袈裟(けさ)状の布や襷(たすき)をつけた女子像は,巫女とみなされる。男女とも衣は左前に合わせる。
墳丘に埴輪を樹立する風習は,古墳時代の開始にやや遅れて出現し,その終焉(しゆうえん)よりいくぶん早く衰退にいたる。その存続期間のなかで,種類ごとの隆替があり,形態や製作技術のうえでも変化がみられる。4世紀には円筒埴輪,家形埴輪に加え,衣蓋,盾などの器財埴輪や鶏形埴輪があり,5世紀に入って,馬,鹿,猪などの動物埴輪や人物埴輪が現れ,多様になる。そうして,6世紀には動物埴輪や人物埴輪が流行するとともに,家形埴輪や盾形埴輪が写実性を失い,高さを強調したものなどが現れる。また,製作技術の面では,5世紀前半に須恵器生産に伴って日本に伝来した窖窯(あながま)焼成法を,埴輪の焼成に導入した点が特記される。
埴輪は転用して棺に使うこともあるが,通常は墳丘に樹立する。すなわち,墳丘の肩部,中段,裾部に各一重にめぐらせ,墳頂にも方形に配列して埋葬施設を区画する。しかし,6世紀に横穴式石室が普及するにつれて,墳頂の方形列がなくなり,石室の入口付近や古墳の一側面に配列の重点が移り,そこに形象埴輪列を設けるようになる。
《古事記》崇神天皇条によれば,倭日子(やまとひこ)命陵にはじめて人垣を設けたという。また,《日本書紀》垂仁天皇32年条には,野見宿禰(のみのすくね)の創案によって殉死者を土製品におきかえ,日葉酢媛(ひばすひめ)陵にたてたとある。しかし,考古学上からみて,この埴輪の起源伝承は事実とは認めがたい。一方,明治20~30年代の日本考古学の草創期に,円筒埴輪の起源をめぐる論争があった。このなかで,坪井正五郎は柴垣模倣説にたち,これを墳丘深く埋置すれば土留めになり,下部を埋めて地上に樹立すれば玉垣になると巧みに説明した。柴垣模倣説は今日からみれば無稽であるが,玉垣について,現世と遮断する結界であり,また奥つ城(おくつき)の威容を誇示する外飾と解釈するならば,なお玉垣説は復活の余地がある。
執筆者:川西 宏幸
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古墳の外表に立てられた土製品の総称。円筒埴輪と形象埴輪に大別される。円筒埴輪には,単純な筒形のものと,口縁部が広がった朝顔形のものがある。形象埴輪は人物・動物・人工物などをかたどったもので,家形埴輪・器財埴輪・動物埴輪・人物埴輪にわかれる。形象埴輪はその種類によって出現の時期が異なり,人物埴輪が一番遅く出現した。「日本書紀」の記載にもとづいた,埴輪の起源を殉死の代用とする説は,実態とあわない。最初は墳頂部や墳丘斜面・裾などに立てられたが,後には造出し部,横穴式石室の入口付近,墳丘側面,外堤などにも並べられた。古墳の築造にともなって製作されたと考えられ,古墳の年代を考えるうえで重要,その編年は円筒埴輪を中心に研究が進められている。埴輪と同様に古墳の外表に立てられたものには,石人(せきじん)・石馬(せきば)のほかに,笠形木製品などの木製樹立物があったことが明らかになってきた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…収量は10~20%。バニリンの重要な製造原料であり,これを苛性アルカリと加熱し,二重結合を転位させてイソオイゲノールとし,さらにオゾンまたはクロム酸で酸化してバニリンとする。カーネーション系香料などに用いられる。…
※「埴輪」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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