島津斉彬(読み)シマヅナリアキラ

デジタル大辞泉 「島津斉彬」の意味・読み・例文・類語

しまづ‐なりあきら【島津斉彬】

[1809~1858]江戸末期の薩摩藩主。早くから西洋文明に関心を抱き、開国・殖産興業を幕府に提言した。将軍継嗣問題にあたり、一橋慶喜ひとつばしよしのぶを擁立して井伊直弼いいなおすけと対立。藩内でも紡績機械反射炉などを設置し、殖産を奨励した。

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精選版 日本国語大辞典 「島津斉彬」の意味・読み・例文・類語

しまづ‐なりあきら【島津斉彬】

江戸後期の薩摩藩主。斉興の長男。藩政の刷新をはかり、殖産興業、特に洋式兵備の充実につとめた。製錬所、反射炉を設置し、日本初の軍艦を建造したほか、紡績機械を輸入して実用化につとめた。将軍継嗣問題では、一橋派の推進者となり、幕政改革を企図したが挫折した。文化六~安政五年(一八〇九‐五八

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百科事典マイペディア 「島津斉彬」の意味・わかりやすい解説

島津斉彬【しまづなりあきら】

幕末の薩摩(さつま)鹿児島藩主。斉興の子。異母弟久光と継嗣を争い,嘉永朋党崩れ,俗にお由羅(ゆら)騒動と呼ばれる斉彬擁護派の弾圧事件を経て1851年襲封。徳川斉昭松平慶永など有力諸侯や老中阿部正弘と結び幕政改革・公武合体をはかり,将軍継嗣問題では一橋慶喜を擁立したが,井伊直弼のため挫折。積極的な開明思想の持主で洋学に関心を寄せ,反射炉建設・洋式軍需工業を起こし,藩内の革新派を登用,藩政改革に努めた。斉彬の抱負がのちの鹿児島藩勤王運動に大きな影響を与えた。
→関連項目お由羅騒動旧集成館西郷隆盛薩摩切子造士館照国神社山内容堂

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「島津斉彬」の意味・わかりやすい解説

島津斉彬
しまづなりあきら
(1809―1858)

江戸末期の薩摩(さつま)藩主。斉興(なりおき)の長男。文化(ぶんか)6年9月28日江戸に生まれる。異母弟久光を推す一派との家督争い(お由良(ゆら)騒動)を経て1851年(嘉永4)43歳で藩主となった。その間曽祖父重豪(そうそふしげひで)の感化もあって洋学に傾倒し、蘭医(らんい)シーボルトに会見、川本幸民(こうみん)、箕作阮甫(みつくりげんぽ)、高野長英(ちょうえい)、杉田成卿(せいけい)その他の洋学者洋書の講読、翻訳をさせ、自らも蘭語を学び西洋文化の研究を行った。その知見を買われて世子時代、琉球(りゅうきゅう)への英仏船来航、宣教師居住などの外交問題処理のため、帰国を命ぜられた。藩主就任後は洋学研究の成果を洋式産業の採用に結集させた。まず反射炉の建設に着手したが容易に成功せず、それにひるんだ家臣に対し斉彬は「西洋人も人なり、佐賀人も人なり、薩摩人も同じく人なり、退屈せずますます研究すべし」と励まし、ついに成功させたという。日本では当時佐賀だけに反射炉が建設されていた。このほか鑽開台(さんかいだい)、溶鉱炉その他各種の洋式工場をつくり、57年(安政4)集成館と命名した。ここでは大小砲銃をはじめ弾丸、火薬、綿火薬、農具、刀剣、陶磁器、各種ガラスなどを製造、また製紙、搾油、洋式朱粉、アルコール、金銀分析、めっき、硫酸など各種酸類、塩など製造品目は多方面にわたり、従業の職工、人夫は1日に1200人を超えたという。また造船に意を用い、洋式帆船いろは丸、洋式軍艦昇平丸、蒸気船雲行丸など洋式艦船の建造を行い、さらに幕府に大船建造の解禁ならびに日章旗を日本の総船章とすることを建議して採用された。

 これらはいずれも当時日本をめぐる国際情勢について斉彬が明確な認識をもっていたからで、また徳川斉昭(なりあき)や松平慶永(よしなが)、山内容堂(ようどう)、伊達宗城(だてむねなり)や幕閣の阿部正弘(まさひろ)ら当代一流の人物と親交があり、外交問題については開国的意見をもち、将軍継嗣(けいし)問題では一橋慶喜(よしのぶ)を推していた。しかし不運にも、安政(あんせい)5年7月16日鹿児島で急死した。照国(てるくに)神社に祀(まつ)り、墓は鹿児島市島津家墓地にある。

[芳 即正]

『池田俊彦著『島津斉彬公傳』(1954・岩崎育英奨学会)』

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朝日日本歴史人物事典 「島津斉彬」の解説

島津斉彬

没年:安政5.7.16(1858.8.24)
生年:文化6.9.28(1809.11.5)
幕末の薩摩(鹿児島)藩主。同藩主島津斉興の長子,母は鳥取藩主池田治道の娘周子。曾祖父重豪の庇護のもとに育ち,高野長英,箕作阮甫らの蘭学者を招いて知識の蓄積に努めた。名声は次第に高く,「実に大名第一番の御方にして,水戸烈公,鍋島閑叟,山内容堂などのもっとも及ぶ所にあらず」とは松平慶永の言。弘化3(1846)年フランス艦が沖縄に来航し開国を要求,その善後処理のため帰国。折から藩内には異母弟久光の擁立を謀る,その生母由羅(斉興の側室)の一派があった。嘉永2(1849)年12月,同一派の除去を画策したとして,高崎五郎右衛門,近藤隆左衛門ら切腹13を含む50名余が処罰された(お由羅騒動)。由羅一派の策謀を防止するため,斉興に隠居を強要,同4年第11代藩主となる。年43歳。 以来,先に処罰された者を復権させつつ藩政改革を推進。鹿児島城下に反射炉,高炉,鑽開台を設け銃砲を製作,またガラス,刀剣,農具,皮革等々の製造所を付置し集成館と名付けた。洋式砲術を採用,洋式艦艇を建造。藩校造士館,演武館の改革を構想し,遊学を奨励した。嘉永6年6月ペリー来航。海防充備と徳川斉昭の幕政参与を建議。将軍徳川家定の継嗣選定については徳川慶喜を支持。一門島津忠剛の娘篤姫を近衛忠煕の養女にして家定の夫人とする。日米修好通商条約調印には賛成,その前提として慶喜の継嗣実現を要望,安政4(1857)年西郷隆盛を江戸に派遣,篤姫を通じてその実現を謀らせ,翌5年朝廷へも工作したが失敗。同7月8日,鹿児島城下に兵の調練を検閲,直後に急な病を得て没す。順聖院と諡された。 斉彬の死の直前の意志は不明である。だが以降の薩摩藩の行動は斉彬の遺志継承の名の下に進められた。久光の率兵上洛も有馬新七の挙兵計画も,そして順聖院の遺志として武力討幕が決定されたのだった。<参考文献>『島津斉彬言行録』『斉彬公史料』,芳即正『島津斉彬』

(井上勲)

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改訂新版 世界大百科事典 「島津斉彬」の意味・わかりやすい解説

島津斉彬 (しまづなりあきら)
生没年:1809-58(文化6-安政5)

幕末の薩摩藩主。斉興の子。世子時代から英明をうたわれ,戸塚静海,高野長英をはじめ当時一流の洋学者に洋書の翻訳や講説をさせ,また徳川斉昭,松平慶永や老中阿部正弘らと親交を結び,その政治的見識を高く買われた。お由羅騒動を経て,1851年(嘉永4)襲封し,殖産興業策として,西洋型帆船・蒸気船の建造,反射炉・鑽開台・溶鉱炉の建設と銃砲・弾薬・地雷・水雷・綿火薬・硫酸・硝酸・塩酸の造兵工業から,ガラス・陶磁器・ハゼ蠟・農具の製造,水車動力利用の洋式紡織など万般にわたり毎日1200人もの従業員を擁する総称〈集成館事業〉を興した。一橋慶喜の将軍継嗣運動に努めたが,大老井伊直弼のために挫折した。鹿児島で兵の調練中急死したが,彼の抱負は薩摩藩勤王運動の原点となった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「島津斉彬」の意味・わかりやすい解説

島津斉彬
しまづなりあきら

[生]文化6(1809).9.28. 江戸
[没]安政5(1858).7.16. 鹿児島
幕末の薩摩藩主。藩主斉興の長男。お由良騒動 (→高崎崩れ ) の末,嘉永4 (1851) 年2月襲封。早くから聡明の聞えが高く,和漢洋の学問に秀でていた。島津家 24代の藩主重豪 (しげひで) の治績を継いで西郷吉之助 (隆盛) ,大久保一蔵 (利通) ら下級武士を藩政に登用し,財政改革に尽力。またペリー来航による国内不安に際し,幕府に対する強い発言力をもって開国と海防の要を説いた。藩内に集成館を設立して洋式科学の導入に努め,大砲をはじめ,ガラス,写真など後世の殖産興業の基礎となった化学器械の製造を行わせた。城内に電信を架設し,また洋式軍艦を建造し,日章旗を日本総国船印として幕府に認めさせるなど,啓蒙君主としてのめざましい治績を残したが,コレラにかかって急死した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「島津斉彬」の解説

島津斉彬
しまづなりあきら

1809.9.28~58.7.16

幕末期の大名。薩摩国鹿児島藩主。父は斉興。曾祖父重豪(しげひで)の影響で蘭学に造詣が深く,世子時代から徳川斉昭・同慶勝・松平慶永・阿部正弘・伊達宗城(むねなり)ら諸大名と政治・国際情報を交換し,琉球問題の処理を幕府から委任されるほど評価が高かった。またペリー来航予告情報を長崎でいち早く入手させ,藩としての対策も立てた。1851年(嘉永4)家督相続。藩政を刷新し,殖産興業を推進。城内に精錬所,磯御殿に反射炉や溶鉱炉などをもった近代的工場集成館を設置。写真研究,洋式艦船の建造,日の丸の日本国総船印制定を建言。将軍継嗣問題では一橋慶喜(よしのぶ)を推したが実現せず,58年(安政5)急死。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「島津斉彬」の解説

島津斉彬 しまづ-なりあきら

1809-1858 幕末の大名。
文化6年9月28日生まれ。島津斉興(なりおき)の長男。嘉永(かえい)4年(1851)薩摩(さつま)鹿児島藩主島津家11代となる。藩営の工場集成館を設立し,殖産興業,富国強兵策をすすめる。養女篤姫(あつひめ)(天璋院)を将軍徳川家定の正室にして,幕府への発言力をつよめる。将軍継嗣問題では西郷隆盛らをもちいて一橋慶喜(よしのぶ)擁立運動をすすめたが,安政5年7月16日急死。50歳。初名は忠方。通称は又三郎。号は惟敬,麟洲。
【格言など】勇断なき人は事を為すこと能(あた)わず(「斉彬公言行録」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「島津斉彬」の解説

島津斉彬
しまづなりあきら

1809〜58
江戸末期の薩摩藩主
1851年襲封。藩政改革につとめ,殖産興業・海防強化を推進。反射炉や洋式紡績工場を設置し,火薬・ガラス・電信・ガス灯などを導入して集成館・開物館を設置した。将軍継嗣問題では一橋派に属し,雄藩連合の中核となった。

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367日誕生日大事典 「島津斉彬」の解説

島津斉彬 (しまづなりあきら)

生年月日:1809年9月28日
江戸時代末期の大名
1858年没

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世界大百科事典(旧版)内の島津斉彬の言及

【お由羅騒動】より

…江戸後期の島津家の継嗣をめぐる紛争。二十数年にわたる天保の藩政改革に人心はうみ,また1844年(弘化1)以来の英米仏による薩摩藩属領琉球への開国強請に危機感がみなぎっていた。48年(嘉永1)には世子斉彬(なりあきら)は40歳の壮齢であったが,斉興は藩主の座を譲らなかった。斉興や家老調所(ずしよ)広郷の考えでは〈斉彬の世になれば曾祖父重豪(しげひで)にならって,蘭癖のため藩庫をからにするであろう〉と,藩の前途を危ぶんでいたのである。…

【織物】より

…1859年(安政6)幕府が神奈川,長崎,箱館の3港を開いて以来,機械紡糸による優秀な綿糸が輸入されたが,その需要増大に対抗する紡糸技術を持たなかった日本は,洋式機械の導入を図るほかなかったのである。このような状況下で,それを率先実行したのは,諸機器の導入,研究に先鞭をつけた薩摩藩主島津斉彬である。彼の死後,その遺志を継いだ藩主島津忠義は1867年(慶応3)イギリスから水力や蒸気を動力としたミュール紡績機3台,スロッスル紡績機6台を輸入し,鹿児島紡績所を建設した。…

【薩摩藩】より

…薩摩国(鹿児島県)鹿児島に藩庁を置く外様大藩。鹿児島藩ともいう。藩主島津氏。戦国末期に貴久,その子義久・義弘が出て薩摩,大隅,日向の3州を統一したのが1576年(天正4)であり,86年までには九州制覇を遂げようとしていた。しかし豊臣秀吉の九州征伐により薩隅2国と日向諸県(もろかた)1郡だけとなり,関ヶ原の戦には西軍に属したが旧領を安堵された。朱印高は1617年(元和3)60万8916石,35年(寛永12)琉球高が加えられて73万2616石,内高は太閤検地の疎漏を訂正して1612年(慶長17)73万2157石(琉球高を含む),33年69万6321石,59年(万治2)74万7193石,藩政期最後の1725年(享保10)の検地では86万7028石となった。…

※「島津斉彬」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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