松平信綱(読み)マツダイラノブツナ

デジタル大辞泉 「松平信綱」の意味・読み・例文・類語

まつだいら‐のぶつな〔まつだひら‐〕【松平信綱】

[1596~1662]江戸初期の大名武蔵川越藩主。将軍徳川家光家綱に仕え、島原天草一揆由井正雪の乱・明暦の大火などを処理。伊豆守だったので「知恵伊豆」と称された。

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精選版 日本国語大辞典 「松平信綱」の意味・読み・例文・類語

まつだいら‐のぶつな【松平信綱】

  1. 江戸初期の武蔵国川越藩主。大河内久綱の子。通称知恵伊豆。三代将軍家光の側近として仕え、六人衆を経て寛永一〇年(一六三三老中に昇進。島原の乱を鎮圧する一方、幕府機構の整備に尽力。家光死後は幼将軍家綱を補佐して、慶安事件明暦大火などによる政情不安定を処理し、幕権の確立に貢献した。慶長元~寛文二年(一五九六‐一六六二

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改訂新版 世界大百科事典 「松平信綱」の意味・わかりやすい解説

松平信綱 (まつだいらのぶつな)
生没年:1596-1662(慶長1-寛文2)

江戸前期の幕府老中。徳川氏の地方役人大河内久綱の長子。幼名長四郎,諱(いみな)正永。1601年(慶長6)叔父で長沢松平家を継ぐ松平正綱養子となる。04年徳川家光の小姓として近侍。20年(元和6)采地500石,信綱と改名。23年小姓組番頭800石,家光上洛に供奉し従五位下伊豆守に叙任。24年(寛永1)2000石,27年1万石で大名に列する。30年1万5000石。32年老中並勤仕の命をうけ,33年3月六人衆(のちの若年寄),4月御数寄屋方(おすきやかた)支配,5月老中に任じ,武蔵忍(おし)城主となり3万石を領した。34年上洛供奉,従四位下に叙任。35年兼務小姓組番頭免除。37年11月島原の乱討伐の命をうけ,上使として戸田氏鉄(うじかね)と現地に赴き,翌年2月鎮定した。その功績により39年1月武蔵川越6万石に転じた。43年後光明天皇即位祝賀使として上洛,侍従に進む。47年(正保4)加増され7万5000石となる。51年(慶安4)4月家光が死ぬと,阿部忠秋とともに幕閣の頂点に立ち,保科正之井伊直孝酒井忠勝と幼将軍家綱を補佐した。松平定政の事件や由比正雪の乱(慶安事件)を処理し,57年(明暦3)の大火後の復興に努めた。60年(万治3)大坂城雷火破壊修復に京坂に赴き,62年3月病死した。武蔵岩槻平林寺(翌年,野火止に移転)に葬られ,松林院殿乾徳全梁大居士と号する。

 〈知恵伊豆〉といわれて才気あふれ,逸話も多い。家光,家綱の2代にわたり新参譜代の中心として幕政を運営,幕藩制確立に尽くした。すなわち武家諸法度の改訂,参勤交代の制度化,鎖国の完成,牢人問題の処理,寛永の飢饉後の幕政改革に参画した。川越藩政の確立にも大きく寄与し,38年川越大火後の城郭修築拡張,城下町の町割と10ヵ町4門前制整備,喜多院・仙波東照宮再建,新河岸(しんがし)舟運開設,荒川・入間川治水,48年慶安総検地の実施,野火止用水開削と武蔵野開発,勧農政策などに努めた。また出羽庄内藩の幼主酒井忠義の外祖父として後見,藩内紛争を処理,その指示により農政策を建てた結果,同藩の体制は急速に整備された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「松平信綱」の意味・わかりやすい解説

松平信綱
まつだいらのぶつな
(1596―1662)

江戸前期の幕府老中。徳川氏の地方(じかた)役人大河内久綱(おおこうちひさつな)の長子で、6歳のとき叔父(おじ)松平正綱の養子となる。9歳で徳川家光(いえみつ)に小姓として近侍、1623年(元和9)小姓組番頭、伊豆守(いずのかみ)に叙任。27年(寛永4)1万石。32年老中並(なみ)、33年六人衆(後の若年寄)、ついで老中武蔵忍(むさしおし)3万石(埼玉県行田(ぎょうだ)市)の城主となった。35年小姓組番頭兼務を免除。37年末、島原の乱鎮圧の命を受け、翌年2月鎮定。その功績により39年武蔵川越(かわごえ)6万石(埼玉県川越市)に転じ、47年(正保4)7万5000石に加増された。家光が死ぬと阿部忠秋(ただあき)と幕閣の頂点にたち、4代家綱(いえつな)を補佐し、松平定政事件や由比正雪(ゆいしょうせつ)の乱を処理、明暦(めいれき)の大火後の復興に努めた。才気あふれ「知恵伊豆」といわれ、逸話は多い。家光・家綱2代にわたり新参譜代(ふだい)の中心として幕政を運営、幕藩体制の確立に尽くした。すなわち、武家諸法度(ぶけしょはっと)の改訂、参勤交代の制度化、鎖国の完成、牢人(ろうにん)問題の処理、寛永飢饉(かんえいききん)後の幕政改革に参画した。川越藩政の確立にも大きく寄与し、38年の川越大火後の城郭修築拡張、城下町の町割・復興と町制の整備、喜多院(きたいん)・仙波(せんば)東照宮再建、新河岸(しんがし)川舟運の開設、荒川(あらかわ)・入間(いるま)川治水、慶安(けいあん)総検地の実施、野火止(のびどめ)用水開削と武蔵野開発、勧農政策の実施などに努力した。また出羽庄内(しょうない)藩の幼主酒井忠義(ただよし)の外祖父として後見、藩内紛争を処理した。62年(寛文2)の死まで老中を勤め、武蔵岩槻(いわつき)の平林寺(へいりんじ)(翌年野火止に移転)に葬られた。

[大野瑞男]

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百科事典マイペディア 「松平信綱」の意味・わかりやすい解説

松平信綱【まつだいらのぶつな】

江戸前期の老中川越藩主。諱は正永(まさなが),伊豆守を称す。1604年徳川家光に小姓として近侍する。1633年老中となり,1651年の家光の死を期に阿部忠秋(ただあき)とともに幕閣の頂点に立ち,保科正之,酒井忠勝らとともに幼将軍家綱を補佐した。島原の乱慶安事件等を処理し,武家諸法度の改訂,参勤交代の制度化,鎖国の整備などに参画,幕藩体制の基礎確立に寄与。知恵伊豆として知られ逸話も多く,また川越藩政を確立させた。
→関連項目忍藩徳川家綱新座[市]

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朝日日本歴史人物事典 「松平信綱」の解説

松平信綱

没年:寛文2.3.16(1662.5.4)
生年:慶長1.10.30(1596.12.19)
江戸前期の幕府老中。大河内久綱の長男。慶長6(1601)年,松平正綱の養子となる。9年徳川家光が生まれると,小姓として近侍。元和6(1620)年500石を与えられる。9年6月小姓組番頭となり,300石加増。7月家光の上洛に供奉し,伊豆守に叙任。寛永1(1624)年2000石。3年7月家光の上洛に再度供奉し,翌年1万石となる。9年11月老中並,翌年3月六人衆(のちの若年寄)を兼務,5月には年寄に加えられ,武蔵国忍城主3万石。11年家光の上洛に供奉。12年11月土井利勝,酒井忠勝,阿部忠秋,堀田正盛と共に月番を割り振られ,名実ともに年寄の地位に立った。14年11月27日,美濃国大垣藩主戸田氏銕と共に島原の乱鎮圧を命じられ,現地で原城攻略を指揮。家光の指示により軽挙をいましめ,兵糧攻めをとり,翌年2月28日落城させた。11月には,土井利勝,酒井忠勝が1日と15日のみの出仕を命じられたため,阿部忠秋,阿部重次と共に老中として幕政の最高責任者となる。16年1月武蔵国川越藩(埼玉県川越市)に転封,6万石となる。正保4(1647)年1万5000石加増。慶安4(1651)年4月家光が死去すると,幼い家綱を補佐し,由井正雪の乱を処理するなど,幕政を主導した。平林寺(埼玉県新座市)に葬られる。才気煥発で「知恵伊豆」と称され,大名からの信頼も厚く,幕藩制の確立に大きく寄与した。<参考文献>山本博文『寛永時代』

(山本博文)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「松平信綱」の意味・わかりやすい解説

松平信綱
まつだいらのぶつな

[生]慶長1(1596).10.29.
[没]寛文2(1662).3.16. 江戸
江戸時代初期の武蔵川越藩主,幕府老中。伊豆守。松平右衛門大夫正綱の養子。実父は大河内金兵衛久綱。母は深井藤右衛門好秀の娘。知恵伊豆として知られる。慶長9 (1604) 年徳川家光が生れるとその家人としてつけられ,元和9 (23) 年家光が第3代将軍の宣下を受けると,その政治に参画することとなった。以後第4代将軍徳川家綱にも仕え,寛永 14 (37) 年の島原の乱や慶安4 (51) 年の由井正雪の事件 (→慶安事件 ) ,江戸の大火 (→明暦の大火 ) に際して適切な処置をとり,幕府の政治的基礎固めに貢献。島原の乱鎮定の功によって武蔵川越7万 5000石の領主となった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「松平信綱」の解説

松平信綱 まつだいら-のぶつな

1596-1662 江戸時代前期の大名。
慶長元年10月30日生まれ。大河内久綱(ひさつな)の長男。松平正綱(まさつな)の養子。徳川家光の小姓から,寛永4年諸侯に列する。10年老中にくわえられて武蔵(むさし)忍(おし)藩主。3万石。島原の乱を鎮圧し,その功で16年川越藩(埼玉県)藩主松平(大河内)家初代。6万石。家光死後は家綱を補佐。参勤交代の制度化など幕藩体制の基礎づくりに貢献。藩政では川越城下の整備,野火止(のびどめ)用水の開削などをすすめた。茶人の小堀遠州と親交。伊豆守(いずのかみ)。「知恵伊豆」と称された。寛文2年3月16日死去。67歳。初名は正永(まさなが)。
【格言など】天下の仕置は重箱を摺子木(すりこぎ)にて洗う様なるが善し

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「松平信綱」の解説

松平信綱
まつだいらのぶつな

1596.10.30~1662.3.16

江戸前期の老中。武蔵国忍(おし)藩主,のち川越藩主。伊豆守。俗称知恵伊豆。父は大河内久綱。叔父松平正綱の養子となる。1604年(慶長9)徳川家光に近侍し,23年(元和9)小姓組番頭,32年(寛永9)年寄並。翌年六人衆として幕政に参画。3万石。34年従四位下に進み,翌年名実ともに年寄(老中)となった。37年の島原の乱鎮定の功により,39年川越6万石を与えられる。家光死後は徳川家綱を補佐し,幕閣の中心として活躍。

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旺文社日本史事典 三訂版 「松平信綱」の解説

松平信綱
まつだいらのぶつな

1596〜1662
江戸前期の幕府老中。武蔵(埼玉県)川越藩主
三河(愛知県)の人。3代将軍徳川家光に仕え1633年老中となり,島原の乱('37〜38)を鎮定し,川越6万石(のち7万5000石)の藩主となった。家光死後は若い将軍家綱を補佐し,由井正雪の乱(慶安事件)の鎮定,江戸大火の処理など幕藩体制の確立に尽力した。

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367日誕生日大事典 「松平信綱」の解説

松平信綱 (まつだいらのぶつな)

生年月日:1596年10月30日
江戸時代前期の大名;幕府老中
1662年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の松平信綱の言及

【川越藩】より

…正盛は信濃国松本に移された後もその再建に尽くした。39年島原の乱を鎮定した老中松平信綱が忍から6万石で入封,47年(正保4)7万5000石となった。信綱は川越城を拡大再建,地割・町割を行って城下町に十ヵ町四門前の制度を整備し,新河岸川舟運の開設,荒川瀬替えに伴う川堤築造,武蔵野開発と野火止用水開削,総検地の実施,二毛作・早稲・畑作奨励と技術指導を用い,藩政確立に尽力した。…

【島原の乱】より

…つまり居村を根城にした個別領主との農民一揆から,幕府権力そのものと対決する宗門一揆への転換である。 板倉重昌は,重ねての上使として老中松平信綱の派遣を知ると,その到着前に落城させるべく38年元旦に強引な総攻撃を命じ,みずからは討死した。1月4日に着陣した信綱は,十分な陣地構築と兵粮攻めに転じ,九州全域の藩主自身と備後福山の水野勝成が参戦し,総勢十数万,中国,四国の諸藩にも出動準備が命ぜられた。…

【野火止用水】より

…老中で川越藩主の松平信綱が1655年(明暦1)幕府に願い,現東京都小平市の西端で玉川上水を分水して,武蔵国新座郡野火止村(現,埼玉県新座市)周辺の武蔵野畑作新田を開発するために引水した生活用水。信綱が家臣安松金右衛門に命じて引水した24kmの用水路で,引又(現,埼玉県志木市)を経て新河岸(しんがし)川へ落流していたが,1662年(寛文2)から掛樋(かけひ)(いろは樋(どい))で川をまたぎ,対岸の宗岡村(現,志木市)などの水田灌漑用水とした。…

【堀田正信】より

…1651年(慶安4)父正盛が将軍徳川家光に殉死したあと家督を継ぎ,下総佐倉藩主となる。60年(万治3)寛永寺の家光廟に参拝ののち幕府の許可を得ることなく佐倉に帰城し,保科正之,阿部忠秋にあて老中松平信綱を中心とする幕府批判の上書を呈出,旗本の困窮を救うためとして領地10万石余の返上を申し出た。このため,所領没収のうえ信州飯田城主脇坂安政(正信の弟)のもとへ配流に処せられた。…

※「松平信綱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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