改訂新版 世界大百科事典 「法実証主義」の意味・わかりやすい解説
法実証主義 (ほうじっしょうしゅぎ)
Rechtspositivismus[ドイツ]
legal positivism
一般に,経験的に与えられた法,いわゆる実定法に視野を限定する法思考をいう。しかし,その内容は問題とされる場面によって異なり,論者によってこの概念のとらえ方はさまざまである。それゆえ〈法実証主義〉は一義的表現ではなくむしろ自然法思想に対抗する法理論がもつエートス,すなわち実定法を超える高次の法を認めず,人為の力に信をおくエートスをさす語,あるいは種々の問題場面における多様な反自然法思想の総称とみるべきであろう。
この種の法思考はすでに古代ギリシアに見いだされるが,それが法理論として支配的地位を確立したのは19世紀ヨーロッパにおいてであった。この意味での法実証主義の確立はいわゆる近代国家体系の完成の一環とみることができる。たとえば,宗教戦争に象徴されるイデオロギー対立とそれがもたらす悲惨を回避しようとする衝動,あるいは資本主義経済システムに必要な日常世界の安定や行為の予測可能性の確保への要求は,他の諸要因と相まって,近代初頭において,イデオロギー的・価値的配慮から自由で,高度の予測可能性が確保される行動空間の成立を促した。この流れは,法的には,身分ではなく抽象的・画一的な法人格を単位とする,単純化された法思考を生み出した。それはまた,行動指針としても裁判規範としても明確かつ客観的なルールの体系を確立し,そのルールの機械的な適用によって公平な裁判を確保しようとする機運と結びついた。こうした法的単位の単純化や法的ルールの明確化・実定化などによって,国土の法的統一と国民の法の下での平等の確保,さらには目的合理的行動とこれに見合った行動予測も可能となる自由な社会空間の開拓を可能にする法概念が発生した。
これらの理念が自覚され,ある程度実現された段階で,この法概念を具体的に描写し,理論化するという一面が法実証主義の法理論にはあった。しかし,他面において,それには理念と現実とのギャップを埋めようとする社会的機能もあった。たとえば,自然法の実定化作業とも呼ばれた,合理的かつ経験的な私法体系を求めての法典編纂事業はスムーズに進んだわけではない。作業の進まない国や統一的法典ないしは法体系を運用する国家機関が未成熟な国では,法学者が既存のあるいは新たに立法された実定法体系を統一的に解釈する概念体系の構築あるいは受容を行い,理念と現実とのギャップを埋めようとした。〈ローマ法の継受〉と呼ばれる動き,とくにドイツでの19世紀におけるパンデクテン法学の隆盛や概念法学の法思想は,このような文脈においても理解されるべきであろう。
その後,法体系の無欠缺(むけんけつ)性の神話が暴露されるとともに利益法学や自由法論など,裁判官の主体性を正面から認め,法的推論の研究の重要性を説き,法の司法的創造の原理を明らかにしようとする法理論が登場した。これらも実定法を超える高次の法を認めず,人為の力に信をおく反自然法的態度を維持する点で法実証主義的といえる。この間,多くの有能な法律家が育ち,法実証主義の精神は社会,とくに法曹界に定着した。
それとともにこの法理論を支える問題関心はしだいに実践の場面から離れ,法現象なかでも法の規範的存在性格を科学的に解明しようとする理論の場面へと移行した。19世紀後半のドイツでの,経験主義的科学観に基づいた一般法学や,イギリスでのJ.ベンサムおよびパンデクテン法学から大きな影響を受けたJ.オースティンの法理論(分析法学)がその例である。現代ではH.ケルゼンの純粋法学やH.L.A.ハートの現代分析法理学,およびそれらを批判的に継承する運動,あるいはスカンジナビアにおける心理主義的・科学主義的な〈法的リアリズム〉などがある。
このほか,法実証主義と目される法理論の中には実践的問題関心の強い,ベンサムの法理学やアメリカの社会学的・政治学的な〈法的リアリズム〉(リアリズム法学),さらにイデオロギー批判家としてのケルゼンの議論がある。
特徴
すべての法実証主義の理論が以下のすべての問題場面で一定の見解をとるわけではないが,その多くは少なくとも次の五つの場面で下記の見解をとる。(1)法と道徳を概念的・効力的に区別する見解。とくに〈悪法もまた法なり〉として,法の道徳的評価は法の外在的・倫理的批判を可能にするものではあっても,ただちにその法的妥当性を左右するものではないとする立場。(2)法の考察方法を,評価的方法と認識的方法とに峻別し,方法を二元化する立場。(3)法の妥当性に関し,その形式的・手続的確定可能性を主張する見解。(4)法的議論における提出可能論拠を形式的・経験的論拠に限定する見解。以上は〈自然法対法実証主義〉の対立がみられる場面である。この対立の外にある特徴として,(5)法学の対象論における法規lex(ラテン)概念の権利ius(ラテン)概念に対する優越を認める見解がある。
このほか,この潮流のいくつかの理論がもつ特徴としては,(a)法体系は論理的に閉ざされた体系であるので,個別的な司法的判断は,道徳的基準,社会的目的や政策などの価値的・イデオロギー的考慮から自由に,あらかじめ決定された法規範から論理的に演繹されるという概念法学的主張,(b)時代が下って,同じ司法的決定の問題に関し,〈法の欠缺〉を認め,欠缺のある場合には司法的創造を認める二段階説,(c)価値判断一般の判断・認識としての性質を認めない〈価値についての非認識説〉の立場から,価値判断の一種としての法的判断についても判断・認識としての性質その正しさ,客観性は問題にならないとする主張,(d)法の妥当はその法への服従義務の存在を意味するとする主張,などがあげられる。
問題点
法実証主義の潮流に対しては,それが種々の望ましくない実践的帰結をもたらすという非難が加えられてきた。たとえば,それが法律物神化,法律万能主義を引き起こし,その結果,個人の自律への傾向を阻害し,全体主義を惹起・助長するという批判がある。確かに,上記(1)(3)と(d)を認める法理論をとるならば,最悪の法律実証主義とその諸帰結が生じうることを認めねばならないが,それは法実証主義法理論だけにかかわる問題ではなく,近代法概念自体の問題であろう。
一方,この潮流は,上述のように合法性原理に基づいて法的安定性を確保することによって近代社会の確立に寄与し,法治国家における法体系を確立するのに重要な役割を果たしたとして,その歴史的役割が積極的に評価されてきた。これは上記の諸特徴,とくに(1)の見解の帰結である。しかし,歴史状況の変化に伴って法実証主義のこの機能は往年ほど時代の要求に適合しなくなりつつある。たとえば,最近では,法的安定性も合法性原理ではなく,幅広い社会倫理的コンセンサスによって確保されるべきだとの主張が登場し,法実証主義者が自覚的・無自覚的に前提していた自由主義的・功利主義的倫理観が注目,批判され,(1)の主張の妥当性がこの観点からいま一度検討されつつある。
この動きはまた,法実証主義では法現実を適切に説明できないとする理論的批判と結びついている。たとえば,上記(a)の主張は,〈法の欠缺〉を承認せず法的判断の実践的・価値判断的契機を捨象するものである,と自由法論などの立場から批判された。しかし,現在では自由法論も上記(b)を主張する法理論として,つまり司法的法創造を行う際に(補充的法源を定めた実定法規がある場合を除けば)法律による裁判は論理的にありえないので,理論的には裁判官が恣意的裁量を行いうることを認めざるをえない法実証主義理論として位置づけられている。これは司法裁量が当事者の権利・自由への配慮など,法的に認められた種々の倫理的・政治的規制の枠内で行われるという,多くの法体系の裁判実務において見いだされる法現実を無視する理論であり,社会倫理的にも容認しがたい,と批判されている。
こうして法実証主義は近代法概念の理論というあり方から自己の哲学的諸前提の根本的批判を行いつつ,現代の国家・社会状況にふさわしい法理論へと脱皮していくことを迫られている。
執筆者:森際 康友
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