平安中期,民間の浄土教の祖ともいうべき僧。弘也(こうや)ともいい,市聖(いちのひじり),阿弥陀聖,市上人(いちのしようにん)などと呼ばれた。民間布教僧として活動した空也は,みずからの経歴や思想について記述を残さなかったので,その生涯は不明の部分が多い。しかし,空也の活動は,同時代の文人貴族の注目する所となり,源為憲は《空也誄(るい)》を作ってその序に生涯の事跡を記し,慶滋保胤(よししげのやすたね)は《日本往生極楽記》の中に空也の伝を入れた。両書によると,空也は,すでに生存中から皇室の出であるという説があったが,みずからは父母のことをいわず,郷土を語らなかったという。少壮のころ,在俗の仏教行者として五畿七道を遍歴し,名山霊窟で修行するかたわら,道路の険しい所は岩石を削って平坦にし,水を必要とする所には井戸を掘り,荒野を行って死骸を見れば油を灌(そそ)いで火葬し,阿弥陀仏の名を唱えた。20余歳で,尾張の国分寺で出家し,空也と名のり,さらに修行を続けたが,播磨の岑合(みねあい)寺(峰相寺)で一切経を学んだときには,難解な所に出会えば夢に金人が現れて教えてくれ,四国の湯島で修行したときには,7日間腕の上で焼香すると,観音の尊像が光を放ったという。こうした修行の後,布教活動に転じた空也は,奥羽地方に赴いたが,天慶年間(938-947),京都の庶民に阿弥陀信仰を説いたので,人々は空也を市聖と呼び,空也が掘った井戸は阿弥陀井と名付けられた。948年(天暦2),比叡山に登って天台座主延昌について受戒し,光勝の名を与えられたが,その後も民間の布教僧として活動し,京都に疫病が流行すると,世人に呼びかけて,1丈の十一面観音像,6尺の梵天・帝釈天,および四天王の像を造り,大般若経600巻の書写をする願を発した。この大願は963年(応和3)に成就し,賀茂の河原で盛大な供養が行われ,その地に西光寺が建てられた。空也はこの寺で70歳の生涯を終えた。
橋をかけ道を造り,水利を整える僧は早くからあり,名山霊窟を巡る修行者も少なくなかったが,律令社会の貴族たちはそうした僧や修行者に積極的な関心を示さなかった。空也の行実がくわしく記されたのは,貴族の中に,民間の宗教者に対する強い関心が芽生えてきたことを示している。保胤は,空也の出現によって,それまでは人々の関心を引かなかった阿弥陀信仰が,広く庶民の心をとらえるようになったと記しているが,空也の時代は貴族社会の変質の中で来世への関心がたかまり,それが阿弥陀信仰へと収斂しはじめた時代であった。したがって空也は,浄土教を民間に布教した理想的な聖として貴族を引きつけ,民間で賛仰されることになった。その出生については,醍醐天皇の皇子(《帝王編年記》),仁明天皇の皇子常康親王の子(《本朝皇胤紹運録》)というように貴種として伝えられ,さらには水の流れから生まれた化現の人(《閑居友》《撰集抄》)とも説かれた。空也は鉦をたたきながら念仏を高唱して人々を教化したが,京都の町の家の門にはったという〈一たびも南無阿弥陀仏といふ人のはちすの上にのぼらぬはなし〉という歌は《拾遺集》にも収められた。また,囚人のために卒塔婆を建てて供養し(《打聞集》),父母を失った幼児を慰め(《古今著聞集》),病気を治し(《打聞集》《宇治拾遺物語》),松尾明神に着古した小袖を脱いで与える(《発心集》)など,民間の宗教者のさまざまな姿が説話集に記されている。空也は鹿の鳴声を愛していたが,その鹿を平定盛が射殺したために深く悲しみ,その毛皮で衣を作り,角を杖の頭につけて念仏を唱えた。そのことを聞いた定盛は悪業を悔いて空也に従い,念仏踊をはじめたという鉢叩の伝承は,中世の踊念仏の徒の姿を思わせる。空也とその伝承は,日本の民間信仰の諸要素をあわせそなえており,一遍をはじめとする民間布教僧に大きな影響を与えた。西光寺が発展したものと伝えられる六波羅蜜寺は,空也念仏の中心として,現代まで多くの人々の信仰を集めている。
執筆者:大隅 和雄
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「こうや」ともいい、弘也とも書く。平安中期の代表的庶民宗教者。僧名は光勝(こうしょう)。出自については不明であるが、皇統から出たという説がある。若いころから優婆塞(うばそく)として諸国を巡歴し、20歳余のとき尾張(おわり)(愛知県)の国分寺で剃髪(ていはつ)、自ら空也を名のったという。遊行(ゆぎょう)中、彼は、険しい道路を平らげ、橋を架け、井戸を掘り、荒野に風葬死者があれば火葬に付して、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)の名号(みょうごう)を唱えて葬った。また絶えずこの名号を唱えていたので俗に阿弥陀聖(ひじり)といわれ、掘った井戸は阿弥陀井とよばれた。938年(天慶1)京都に入ったが、町中を遊行して乞食(こつじき)し、布施(ふせ)を得れば貧者や病人に施したと伝える。948年(天暦2)比叡山(ひえいざん)に上り、天台座主(ざす)延昌(えんしょう)(880―964)について得度。光勝という僧名をもらったが、自らは空也の沙弥(しゃみ)名を名のり、庶民信仰の念仏を勧める聖(ひじり)であった。平安時代以降、貴賤(きせん)老若男女が念仏を唱えるようになったのは、空也のおかげであるといわれ、また東北地方を遊行して仏教を広めた功績は、この辺境の人々に長く記憶された。空也は生存時から市聖(いちのひじり)ともよばれたが、これは人の集まりやすい京都の東市、西市の市門に立って人々に念仏と浄土信仰を勧めたからである。その市門には「極楽(ごくらく)ははるけきほどと聞きしかど、つとめて(瞬時に)いたる所なりけり」と書きつけて、速疾往生(そくしつおうじょう)を説いた。そして念仏を広める運動として踊念仏(おどりねんぶつ)をしたので、後世、一遍(いっぺん)と時衆(じしゅう)の踊念仏も空也を祖とする。このように浄土往生の念仏を勧める一方、950年(天暦4)人々から浄財を集めて、1丈の観音(かんのん)像、6尺の梵天(ぼんてん)・帝釈(たいしゃく)・四天王の像を造立した。また金泥(こんでい)の『大般若経(だいはんにゃきょう)』1部600巻の書写を発願、13年間かかって963年(応和3)に完成し、賀茂川の東に西光(さいこう)寺(後の六波羅蜜寺(ろくはらみつじ))を建て、『大般若経』の書写供養を行うなど多角的な仏教を広めた。天禄(てんろく)3年9月11日入滅(にゅうめつ)。空也の名声は生存時から高かったとみえて、当時の貴族・文人との交遊を示す六波羅蜜寺供花会(くげえ)の詩文が残っている。
空也の遊行のありさまは絵画や彫刻に残っているように、短い衣を脛高(はぎだか)に着て草鞋(わらじ)を履き、胸に鉦鼓(しょうこ)台をつけて鉦(かね)を下げ、手に撞木(しゅもく)と鹿角杖(わさづえ)を持っていた。空也の意志を継ぐ遊行聖もこの姿であったので、彼らは阿弥陀聖とも鉦打(かねうち)とも鉢叩(はちたたき)ともよばれ、各地に空也を祀(まつ)る空也堂を建てて空也僧集団を形成した。のち空也堂が空也の墓といわれたために、全国各地に空也の墓と称するものが多数ある。しかし空也入滅後に書かれた『空也誄(くうやるい)』(1巻、源為憲(みなもとのためのり)作)によって、その墓が西光寺にあることは否定できない。
[五来 重 2017年6月20日]
『堀一郎著『空也』(1963・吉川弘文館)』▽『名畑崇著『天台宗と浄土教――空也をめぐって』(『日本浄土教史の研究』所収・1969・平楽寺書店)』
(勝浦令子)
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903~972.9.11
「こうや」とも。弘也・市聖(いちのひじり)・阿弥陀聖とも。平安中期の念仏聖。醍醐天皇の皇子などと伝えるが不詳。諸国を巡って道路開設・架橋・死骸火葬を行い,20余歳で尾張国国分寺で出家,空也と自称した。938年(天慶元)入京し,市中の民衆に狂躁的な口称(くしょう)念仏を広めた。948年(天暦2)比叡山延昌(えんしょう)のもとで受戒したが,戒名の光勝(こうしょう)はみずからは用いなかった。以後貴族層にも教化活動を広げ,貴賤に勧進して観音像・天部像の造立や経典書写を行った。963年(応和3)の13年間を費やした金泥(きんでい)の「大般若経(だいはんにゃきょう)」完成供養には,左大臣藤原実頼(さねより)以下多くの貴賤が結縁した。またこの頃流行した悪疫の鎮静を祈って東山に西光寺(六波羅蜜寺(ろくはらみつじ))を創建し,同寺で没した。
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…のちに不断念仏は命終のときに修されるようになり,臨終儀礼ともなった。平安中期に空也や源信が出るにおよんで,称名念仏はいっそう盛んとなった。空也は民間に念仏を広め,民間仏教史上に大きな足跡を残したが,その念仏は鎮魂呪術的な性格と機能をもったものとして民間に受容された。…
…寺域は京都の葬送地鳥辺野の入口で〈六道(ろくどう)の辻〉と呼ばれた地点にあり,古来葬送と死者追善の寺として庶民の信仰を集めてきた。963年(応和3)空也の建立で,当初は西光寺と称し,十一面観音像と脇士の二王・四王像を造立安置したという。977年(貞元2)中信が堂舎を修造し,寺号を六波羅蜜寺と改めて天台別院とし,法華八講や念仏を修して貴賤の信仰を集め,迎講(むかえこう)や地蔵講を行い,以後京都の諸人が講を行う寺として親しまれた。…
※「空也」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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