選挙とは、一般的には、一定の組織または集団にあって、投票など定められた手続に従い、代表もしくは特定のポストにつく人を選出することをいう。それは一国の元首から小学校のクラス委員の選出にまで及ぶ。それらのうち政治的に重要なのは行政府の首長や立法府の議員の選出である。
選挙は、政治の場に限定しても、さまざまな機能をもつ。すなわち、国民の側からいうと、選挙は代表選出ならびに政治的指導者創出の過程であるとともに、それぞれの候補者や政党が掲げる政策の選択過程でもある。そしてそれはまた同時に、それまで政党や政治家がなしてきたことへの審判の機会であり、さらに政治と民意のずれを正す機会でもある。他方、候補者の側からみれば、選挙は当選を目ざしての集票過程であり、それは同時に権力掌握への過程でもある。政党の側からみても、ほぼ同様なことが当てはまり、首長確保や、より多くの議席を獲得するための集票過程であり、権力掌握過程である。そして候補者と政党双方にとって、選挙はそれぞれが訴える政策の正当化、権力掌握の正当化の過程でもある。さらに議会選挙に限定して別の角度からとらえるなら、選挙は社会における諸利害の対立を議会内の党派の対立に置き換える過程ともいいうる。
こうした諸側面に照明をあてるためには、代表観念の検討、選挙運動の解明、投票行動の分析、選挙制度の検討が不可欠である。
[富田信男]
議会選挙との関連で問われ続けてきたのは、「代表とは何か」ということである。初め、スイスやアメリカのニュー・イングランドなどでは、あるべき民主制は直接民主制以外にないという観念が存在したが、そうしたところでも、人口の増加、居住地域の拡大、公務の増大などに伴い、全員が集まり、全員で討議し、全員で決定するということは物理的に不可能となった。アメリカの政治評論家トーマス・ペインによれば、そうした全員が集まるという「不便」を避けるために議会は設けられたというわけである。したがって直接民主制こそ理想であり、その不便を避けるために代議制をとっているにすぎず、議員は、彼を選出した者のかわりに出席する(represent)、あくまで「代理人」(派遣者=delegate)たるべきであった。それゆえ議員は、独自の考えで行動すべきではなく、選挙民の訓令(instruction)どおりに行動すべきものであった。
しかし歴史は下り、資本主義の進展は地域的封鎖性を打破し、利益の分化をもたらした。そうしたさまざまな利害が輻輳(ふくそう)する社会のすべてを、特定の人物が「代理」することは不可能となった。かくして、このような代理人的観念を否定し、議員を国民全体の「代表」としてとらえる観念が台頭し、それを最初に体系的に主張したのはイギリスの政治家エドマンド・バークであった。議会は、異なった敵対する利害から送られた使節の会議ではなく、「国民の審議会」だと彼は論じた。こうした近代的代表観念に最初の明確な表現を与えたのは、フランスの1791年9月3日の憲法である。
だが、国民が選出する代表は、国民全体の「代表」なのか、それとも地元や特定集団の「代理人的代表」なのか、投票行動を研究する限り、今日でもにわかには断定しがたい。
[富田信男]
国民はいったい何を基準にして政党や候補者を選定し、それに1票を投ずるのか。この点について初めて科学的な照明を与えたのは、アメリカの政治学者メリアムとゴスネルHarold F. Gosnell(1896―1997)である。彼らは1923年のシカゴ市長選挙における棄権者5310人の調査を手がけ、病気・留守などの身体上の問題、法的ないし行政的障害、投票への不信、無知・無関心・嫌気などによる不活動、の四つの範疇(はんちゅう)を設けて考察し、新しい研究方法を開拓した。しかし、今日の科学的調査の基礎を築いたのはアメリカの社会学者ラザースフェルドらによるエリー調査(Erie County Study)といってよい。彼らは1940年のアメリカ大統領選挙において画期的なパネル調査を行い、さまざまな社会的属性と投票行動との関連を分析するとともに、投票行動への各種のコミュニケーションの影響の研究をなし、「コミュニケーションの2段階の流れ」の仮説の提起、ならびにパーソナルなコミュニケーションの影響の予想外の強さを指摘した。
その後、社会的属性と投票行動との関連を追究する研究は精緻(せいち)の度を加え、性、年齢、学歴、職業などのデモグラフィック(人口統計学的)な要因を軸とした分析が重ねられている。その結果アメリカでは、人種、宗教、労組への加入・非加入などが投票を左右する重要な要因とみられている。日本でもいくつかの同様な研究があるが、日本の場合、企業、労組、宗教団体、利益集団などの所属集団が準拠枠組みとして重要な要因をなしているとする研究がある。
だが、前述の社会的属性や所属集団による分析は重要性をもつにしても、なおそれだけでは、内外情勢の変化に対応した投票行動の変化や、人間の心理的内面にまで及ぶ分析をすることは困難である。そうした研究で画期的な成果をあげたのは、キャンベルAngus Campbell(1910―1980)を中心とするミシガン大学サーベイ・リサーチ・センターのメンバーが試みた調査といいうる。彼らはまず記述的な分析をなし、そこでは政治的関心、投票決定過程、1948年選挙と1952年選挙の比較、党や候補者のイメージ、投票者と棄権者、共和党支持者と民主党支持者のデモグラフィックな特性の分析などをなした。そして次に投票行動の動態的な分析を試み、そこでは党、争点、候補者の三つの変数を動機づけのファクターとし、それらと政治参加の度合い、および投票の方向との関連の分析をなした。また三つの変数の相互作用ならびに交差圧力の研究もそこではなされている。そうした分析を可能とするために、彼らは、党支持の強度、争点へのかかわりの広さと深さ、候補者の魅力度を問い、変数を測定可能なものとしている。
ところで、こうした分析をなすためには、態度構造、認知構造、集団への忠誠構造などにメスを入れる必要がある。そのうち態度構造を考察するとき、もっと基底的な人の生き方まで問題としようとする分析が現れた。それが社会学者の飽戸弘(あくとひろし)(1935― )のライフスタイルの分析である。ここでは人の生き方の基本的スタイルまでが対象とされる。
何党に、あるいはだれに投ずるかは基底にライフスタイルがあり、性、年齢、職業、社会的地位、収入、所属団体などによって特定の傾向が生じ、それに党、争点、候補者といった変数が絡む。さらに支持政党といっても、そこに強弱があり、また情勢や候補者によって投票対象が異なる。さらに支持政党も、特定政党だけでなく、ある一定の複数政党を支持し、そのいずれでもよいという支持政党の幅がある。また逆に、この党や候補者はどうしても支持できないといったケースもある。さらに、好きな政党はないという無党派層も存在する。ひとりひとりの投票には、当人が意識しているとしていないとにかかわらず、複雑な要因が働いている。
さらに、議員は「国民の代表」または「地域社会全体の代表」たるべきだと理念的にはいいえても、無意識的にせよなんらかの代理人的要素を求める潜在心理が介在してくる。国民の利益とは、さまざまな相対立する利害のぎりぎりの線での妥協によって成立するものだとするならば、代理人的要素を一概に批判しさることはできない。議員選挙とは、種々の要因に規定されながらも、社会の諸利害の対立を議会内の党派の対立に置き換える作業であるし、首長選挙は、首長に多数意見を試みさせる機会を与えるものと解しうる。しかし、1人しか当選しない首長にしても批判票を無視することはできず、その意味では、社会における諸利害の対立は多かれ少なかれ首長を拘束し、首長の下でそれら利害の統合的作用が営まれるといいうる。
[富田信男]
前述したところは主として有権者の投票行動に焦点をあてたものであるが、それは、党や候補者のキャンペーンによっても多かれ少なかれ影響を受ける。とりわけマスコミを通しての宣伝は広く社会に行き渡る。
マスコミの影響力が認識されたのはかならずしも新しいことではない。古くは1874年(明治7)に自由民権運動が開始され、それが全国に燎原(りょうげん)の火のように広がった背景の一つは、彼らが民撰(みんせん)議院設立建白書を『日新真事誌』に発表したからであった。時代は下ってロシア革命前夜、レーニンは党機関紙を宣伝・扇動活動と組織活動に有効に結び付けた。1915年(大正4)の日本の総選挙に際して大隈重信(おおくましげのぶ)首相は、自己の演説を吹き込んだレコードを全国各地に配付して大きな成果を収めた。1933年にはアメリカ大統領F・D・ルーズベルトは、ラジオを通じて、あたかも国民ひとりひとりに訴えかけるように話して大きな反響をよんだ(炉辺談話)。戦後では1960年のアメリカ大統領選挙におけるケネディ対ニクソンのテレビ討論がケネディに勝利をもたらした一因であるとされた。年代、事例ともまちまちであるが、新聞、レコード、ラジオ、テレビなど、それぞれの時代の新しいメディアが政治キャンペーンに大きな影響を及ぼしたことがうかがえる。
ところで、マスコミの影響とは何か。昨今の調査によると、マス・メディアを利用しての直接的な宣伝、あるいはマスコミの報道や解説がストレートに国民に影響を与えることは意外に少ないと報告されている。支持対象を決めるにあたっては、さまざまな複合的な要素が働く。たとえば、宣伝、報道、解説などは地元や特定集団のオピニオン・リーダーがいったん受け止め、そのオピニオン・リーダーの意見が影響を及ぼすということがある。いわゆるコミュニケーションの2段階の流れである。しかし、直接的であれ、間接的であれ、また影響を受ける人がわずか数パーセントであったとしても、選挙結果はその数パーセントで大きく変わりうることがあることに留意する必要がある。
そのほかマスコミの影響として、確認効果、アナウンス効果、争点形成機能の三つを選挙との関連であげうる。確認効果とは、Aを支持し、Bを支持しない場合、マスコミに接することで、やはりAはよく、Bはだめということを確認し、Aはよいという認識をさらに強める効果をいう。この背景には、好きなものだけ見聞きするという選択的接触の問題もある。ついでアナウンス効果とは、選挙予測がなされた場合、当確といわれたときに運動に緩みが生じたり、彼はだいじょうぶだからと票が他に移動したりすることをさし、これとは逆に接戦と予測されたとき、あるいは落選と目されたときは、また別の反応をおこす。これも無視できない問題である。第三の争点形成機能とは、各党・各候補者がそれぞれ重点政策を打ち出すものの、マスコミが今回の争点はこれだと打ち出すことで、その争点によって影響を受けることをさしている。このようにマスコミの機能も多角的であるが、なんらかの意味で影響を与えていることは事実で、それの影響力を無視していまや選挙を論ずることはできない。
ところで、選挙キャンペーンは、ある意味では商品販売合戦である。フランスの雑誌『エスプリ』編集長を務めたドムナックJean-Marie Domenach(1922―1997)は、アメリカ大統領選挙のパレードはチンドン屋の広告と違わないと述べているが、選挙用ポスターは一種の商品広告であり、シンボル・マークは商標であり、スローガンは商品上のモットーである。ここでは、戦時中の心理作戦のために開発された宣伝技術、それに昨今のコマーシャルの最新技術がどんどん取り入れられ、党や候補者のイメージアップが図られる。人格、識見、態度、風采(ふうさい)、肩書、職業、所属団体、出身校、出身地など、はったりでもなんでもよいからともかく売り込む。また、さまざまな公約を振りまいて利益誘導を試み、それを実現するだけの力があることを宣伝する。かくして候補者はしだいに一個の商品と化してゆく。知名度を高めるために、候補者名が繰り返し宣伝される。そして可能なら、対立政党、対立候補のイメージダウンもぬかりなく図る。
このように政党や候補者は、あらゆる機会をとらえて売り込みを図るが、それだけでは不十分で、同時に票田づくりをなす。親類縁者はもとより、地域集団、利益団体、同窓会、宗教団体など、人と人のつながりや利益が結ぶ線をたどって票田づくりが進められる。そうした人的コネの総合集大成が後援会ということもできる。
心理的側面からいうなら、候補者は垂直的威信を示すか、水平的親近感を抱かせるか、どちらにどれだけの比重を置くかが重要なポイントとなる。つまり一般庶民と異なる人格・識見あるいは才能などを宣伝することで、カリスマ的威信を示すか、あるいは庶民性を示すことで親近感を抱かせるかは、セールス上の岐路である。ヒトラーや吉田茂は前者に相当し、ルーズベルトや田中角栄は後者に該当するといえよう。いずれにしても威信ないしは親近感を徹底的に抱かせれば、キャンペーン上は成功したといいうる。
こうした売り込みを図るにあたって、既述の属性別の投票行動の特質、国民が希求しているものを調べる調査、各地域の特性などは有用な情報といいうる。アメリカ大統領選挙では、投票間近ともなると、国レベル、州レベル、さらにもっと細かなデータを日に2回もコンピュータにインプットし、毎日、情勢を評価する会議を開くというケースもみられる。選挙キャンペーンを請け負う企業も日本やアメリカでは輩出している。
だが、アメリカの1976年大統領選挙でのカーターの当選は、ベトナム戦争やウォーターゲート事件を抜きにしては考えられず、1967年(昭和42)の東京都知事選挙における革新系の美濃部亮吉(みのべりょうきち)の当選は、物価、公害、福祉などの諸問題が当時クローズアップされたことが一つの原因となっている。また同じ都知事選で1979年に保守系の鈴木俊一が当選した背景には、都の赤字や景気の落ち込みが大きく作用したといえるであろう。これら選挙の事例にみられるように、選挙にあたって有権者は政党や政治家の過去を裁き、新たな未来を選択しているといえる。そのことは、社会的属性や地域的特性、キャンペーンの巧拙、候補者の知名度、固定票の多寡などによって、投票行動は大きく規定されるものの、内外情勢の変化やその時々の争点にも左右されることを示す。したがって、選挙を考察するときには、前述のような多角的視野が要求されるのである。
[富田信男]
選挙は、その制度によっても影響を被る。まず選挙区制についていうなら、大別して小選挙区制、大選挙区制、比例代表制の三つに分けられる。小選挙区と大選挙区は、1選挙区当りの議員定数が単数であるか複数であるかによって分けられる。日本の衆議院選挙区は1946年(昭和21)総選挙を除き、1925年(大正14)の選挙法改正から1994年(平成6)まで中選挙区制が施行されたが、これは原則として各県を1選挙区とする大選挙区制と区別するために中選挙区制と名づけられたもので、学問的には大選挙区制の一種である。比例代表制は、各党の得票数に応じて議席を配分することを基本としている。なお、イギリスおよびアメリカ、カナダをはじめ旧英領植民地で後に独立した国々はおおむね小選挙区制を採用しており、ヨーロッパ大陸は比例代表制を導入している国が多い。
ところで、前記の選挙区制のうち小選挙区制と大選挙区単記制を多数代表法といい、大選挙区連記制と比例代表制を少数代表法という。多数代表法は多数党に有利な制度であるということからそう名づけられたもので、一般的にはそういいうる。つまり、各党得票率が全国的に平均化していれば、小選挙区制や大選挙区連記制は多数党に断然有利である。しかし、各党得票率に地域的偏差がある場合、一概に多数党有利とはいいきれない。ちなみに、A・B・C・D4党があり、それぞれの得票率がA40%、B30%、C20%、D10%とし、甲・乙・丙・丁の4選挙区があり、4選挙区とも4党すべてが候補者をたてたとすると、数字的にはA党が4議席独占のケースから、A党ゼロ、B党1、C党2、D党1というケースまで18通りが考えられる。
なお、少数代表法は民意を正しく反映しない場合があると批判される。ちなみに、イギリスで、サッチャーが率いる保守党が圧勝した1983年の総選挙でも、同党の得票率は42%であり、1997年の総選挙においても、ブレアが率いる労働党が得票率44.4%にもかかわらず全当選者の64%を占める大勝利を博したことを指摘しうる。しかし、選挙は政治的統合的機能を一つの重要な役割としてもっているわけで、特定の時点での議会内の多数意見をいちおう国民の意思とみなすことで、政治のスムーズな運営が可能となる。政治的自由、言論の自由が保障されている限り、その多数意見とされたものを否定するチャンスは次の選挙にあるわけで、選挙が民意と政治のずれを正す自動調節作用を営むなら、小選挙区制など多数代表法を排する理由はとくにない。むしろ、小選挙区制は野党連合を促す契機となり、与野党逆転の可能性を増大させるかもしれない。それは、共産党の進出を抑制するためにフランスで1958年にドゴールが復活させた小選挙区2回投票制が、1973年以降かなり長い期間、左翼連合に有利に機能したことでも例証されよう。ただしフランスは1986年に比例代表制に再度変更したり、また小選挙区2回投票制に戻ったりしている。
ところで比例代表制など少数代表法は、少数党も得票に応じて議席を確保できるし、死票はゼロに近くなるという利点がある。また選挙を政党本位とする点では比例代表制がもっとも優れている。ただし比例代表制では人物が選びにくいという批判がある。完全拘束名簿式であれば、老朽議員、無能議員、灰色議員などを国民は排除しえない。そこで、比例代表制を採用している国でも、スウェーデンやスイスのように人物を選びうる配慮を種々なしている国が少なくない。なおドイツは小選挙区比例代表併用制を採用しており、全議席の政党別配分は第2投票である比例代表制で決まり、当選者をだれにするかというとき、全議席の半分は第1投票である小選挙区で当選した者をあて、残りの半分は党があらかじめ定めておいた名簿の順に従って当選者を定める。この方式では、当選者数は党派別得票数で決まるが、全議席の半分は人の要素を生かしているといいうる。
日本では1994年(平成6)に政治改革関連4法が成立し、その一つとして衆議院に小選挙区比例代表並立制が導入された。議員定数は当初500(小選挙区選出300、比例代表選出200)であったが、2000年の公職選挙法改正で比例代表選出180となり、2012年の改正で小選挙区選出は295となった。この制度は、中選挙区制下においてみられた、同士討ちや金権選挙を排除しようという意図で採用された。比例代表は少数政党でも代表を出しうるようにという配慮で導入されたものだが、小選挙区と比例代表区の重複立候補を認めたこと、小選挙区選挙での多額な金の費消、各党支部と個人後援会の同一化とそれによる政治資金収支の不明瞭(ふめいりょう)化などの批判があるほか、理念の異なる小選挙区制と比例代表制を並立させたことにも批判がある。
[富田信男]
選挙区制とは別に平等選挙ということが民主政治の大前提である。「1人1票、1票の等価値」one man one vote, one vote one valueこそが民主政治の要である。かつてはどこの国も制限選挙であった。財産、納税額、性、人種などによって差別し、貧困者、女性、そしてアメリカなどでは黒人は選挙から排除された。つまり、だれもが1票をもつという民主政治の基本原則が貫かれていなかったのである。ちなみにフランスの1791年憲法下の選挙人(能動的市民)の数は国民の0.2%弱にすぎず、日本では1890年(明治23)時、有権者の数は国民の1.1%にすぎなかった。フランスでは財産により、日本では納税額によって差別が設けられた。こうした制限選挙を打破しようとしておこったのが各国における普通選挙運動である。かくして議会制民主主義の母国といわれるイギリスで男子普選が確立したのは1918年、男女普通平等選挙が確立したのは1928年である。それでもなおイギリスでは完全な平等選挙が実現したわけでなく、大学卒業生は居住地以外に大学選挙区でもう1票、一定の営業所の占有者も居住地以外に営業所所在地でもう1票行使しえた。それがすべて廃止されたのは1948年である。
日本で男子普選法が成立したのは1925年(大正14)、女性(婦人)参政権が確立したのは1945年(昭和20)である。今日では、いずれの国でも性、人種、宗教、言語、身分、財産などによる差別は皆無に近くなったといってよい。
ところで、1人1票が確立しても、1票の価値が異なっていては完全な平等選挙とはいいがたい。1票の価値が甚だしく違う事例としては等級選挙をあげうる。等級選挙には2級選挙法とか3級選挙法といったものがあるが、3級選挙法を例にとれば、納税総額を三分し、納税額の多いものから順次数え、その累計納税額が納税総額の3分の1になったところで打ち切り、それを1級選挙人とし、次の3分の1を充当するものが2級選挙人、残ったものが3級選挙人で、各級とも同数の議員を選出するものである。そのため1級選挙人の1票の重みは3級選挙人の何十倍、何百倍にも達した。この制度はかつてプロイセンやルーマニアで、日本では1889年より1926年まで地方選挙で実施された。
等級選挙法のような制度は今日ではまったくみられないが、別の面で1票の価値に格差が生じている。それは人口移動を原因としている。日本を例にとると、第二次世界大戦後の衆議院各選挙区の議員定数は初め1946年(昭和21)の人口を基準にして定められた。1946年といえば、戦時中の疎開、空襲、出征などで大都市人口がきわめて少なかった時期である。しかし、その後の経済復興、高度成長で人口の都市集中が進み、そのため議員1人当りの人口に大都市と農村とでは著しいアンバランスが生じた。その格差是正のため、1964年と1975年に定数是正が行われたが、小幅な是正にとどまり、なお格差が残り、1983年の総選挙時には4.40倍に達し、最高裁は1985年にこれに対して「違憲」の判決を下した。このため1986年に再度定数是正がなされた。
こうした定数と人口のアンバランスに対し、ドイツでは各選挙区とも格差は全選挙区の平均値人口数から上下3分の1以内でなければならないとされ、アメリカでは許容範囲はほぼ1.2倍以内とされる。もっともアメリカでは、1対1.06で違憲としたミズーリ州の判決もある。許容限度を何倍以内とするかは政治的判断の問題だが、1票の価値のあまりの不均衡は、民主政治の1票の等価値という大原則から外れているといわざるをえない。
[富田信男]
選挙とは、究極的には、大は国際的諸団体から小は私的サークルまで、それらの集団にあって、構成員の意思に添った運営がなされるため、その衝にあたる人々を選ぶ手続である。もしその過程で腐敗手段が用いられたり、制度にゆがみがあれば、構成員の意思が正しく反映されないことになる。しかし、構成員の意思とは何か。集団が大きくなればなるほど、その意思は多元的で複雑になる。そこで、選挙の研究にあたっては、民意測定のための調査、客観的指標を用いての分析などが必要となる。そして構成員の意思はどのように形成されるのか、その意思と選挙結果との間にずれがないか、ずれがある場合はどこに問題があるのかなどの考察が肝要である。そうした研究は選挙の本質をつかむうえで不可欠なことといえよう。
[富田信男]
『富田信男・堀江湛編著『選挙とデモクラシー』(1982・学陽書房)』▽『西平重喜著『選挙の国際比較』(1969・日本評論社)』▽『富田信男著『議会政治への視座』(1978・北樹出版)』▽『飯坂良明・堀江湛編著『議会デモクラシー』(1981・学陽書房)』▽『堀江湛・富田信男・上条末夫編著『政治心理学』(1980・北樹出版)』▽『吉田善明著『選挙制度改革の理論』(1979・有斐閣)』▽『辻清明監修『世界の議会』全12巻(1983・ぎょうせい)』▽『三宅一郎著『政党支持の分析』(1985・創文社)』▽『小林良彰著『計量政治学』(1985・成文堂)』▽『Norman H. Nie, Sidney Verba, John R. PetrocikThe Changing American Voter (1976, Harvard University Press, Massachusetts)』▽『David Butler, Howard R. Penniman, and Austin Ranney ed.Democracy at the Polls : A Comparative Study of Competitive National Elections (1981, American Enterprise Institute for Public Policy Research, Washington D.C.)』
選挙とは,集団あるいは団体において,その構成員中の一定の資格を備えた人々,すなわち有権者の投票によって,代表者や役員を選出する方法である。選挙は,国家,地方自治体などの政治組織に限らず,私企業,労働組合,学校,社交クラブ等多くの人的組織において広く行われている。選挙の手続には,まず代表者や役員になる資格のある人々,すなわち被選挙権者から投票の対象となる候補者を確定する手続があり,次いで,有権者が投票という行為によって各自の選択を表明する手続があり,最後に,投票を集計し,所定の方法で選挙結果を決定する手続がある。これらの手続は,選挙が行われる集団あるいは団体,選出される役員などの職,また,時代によっても異なり,きわめて多様である。
集団あるいは団体等の人的組織が存立していくためには,なんらかの形での組織的決定が必要である。すなわち,個々の構成員が組織に参加し,他の構成員と協力しながら活動していくためには,一定の秩序規律が必要であり,また,構成員の意見を集約して組織としての決定をつくりだす必要がある。組織的決定をつくりだす方法として,構成員のすべてが一堂に会して討議し決定を下すしかたがある。古代ギリシアの都市国家における民会や,株式会社における株主総会がその例である。しかし,民会や総会を頻繁に開くことには限度があり,緊急な場合に必ずしも機敏に対処し決定を下すことができない。また,組織の規模が大きくなれば,構成員のすべてが一堂に会すること自体が物理的に不可能となる。したがって,あらかじめ特定の人を選定しておいて,組織の日常的運営や組織的決定を構成員に代わって行わせることになる。ここに,集団内において,選ぶ者と選ばれる者の分離が生じている。選挙はこのような役員を選出する一つの重要な方法として発達してきたのである。
選挙によらなくとも選出する方法はある。抽籤は選出されうる人々の中から無作為に選出する方法である。選出されうる各人が現実に選出される確率はすべて等しい。この選出方法では,各人の能力,性格など個人的属性はいっさい無関係であり,選出結果にはまったく影響を及ぼさない。また,任命によって選出することもできる。任命では,任命する権限を特定の個人あるいは少数の人々に与え,その人々の自由裁量により役員を決定する。選出された人は組織の運営や組織的決定を行う権限を付与されるわけであるが,その権限の根拠は選出方法により異なっている。抽籤の場合,それは,選出されうる確率がすべて等しいという平等性に基づいている。役員として組織的決定を行える確率が他の構成員と等しかったゆえに,たまたま選ばれた人の意思が組織的決定に反映するということである。選ばれた役員がその仕事にふさわしいか否かということについて,抽籤はいっさい無関係である。ふさわしさを保障するためには,候補者に一定の資格要件を要求するなど別の考慮が必要であろう。任命の場合,役員の権限の根拠は任命されたという事実である。したがって,任命権者の権威が役員の権限を保障することになる。組織の構成員が任命権者の権威を認めている限りで役員の権限は保障され,任命権者の権威が揺らげば役員の権限は根拠を失う。
これらに対して,選挙は組織の構成員中の有権者が個々に行う投票によって,組織の役員となる人を選出する方法である。個々の有権者は彼自身の基準に基づき,候補者に対する選好を投票によって表明する。候補者個人の属性は当然のことながら,有権者個々人の判断材料となりうる。むしろ,候補者相互の差異こそが有権者の選択の判断材料である。投票結果は機械的に集計され,多数の票を獲得した候補者が役員になる。したがって,選ばれた役員の権限の根拠は,有権者個々人の選択以外にない。有権者個々人の選択の集計結果が役員の権限を保障し,正統性を付与することになる。この意味で,選挙は有権者個々人の選択能力にかかっているのである。
選挙の歴史は古く,紀元前6~5世紀の古代ギリシアですでに公職者の選出が選挙によって行われていた。しかし,そこでは選挙は必ずしも公職者選出の最良の方法とは考えられておらず,抽籤に基づく輪番制が一般的であった。政治的職務は市民が等しく負う義務であると考えられていたからである。選挙は軍事指導者など特殊技能を要する公職者の選出のために用いられていた。古代ローマでは,市民が直接,公職者の選挙に参加することはなかった。各部族は民会に代表者を送り,民会で重要な国事の決定や高官の選出が行われた。民会における決定方式は部族単位ごとの投票であった。中世になると,古代の選挙の伝統はむしろカトリック教会に受け継がれた。教会内における選挙は,階統制内における上位官職を直近の下位官職者で構成された有権者の投票によって選出するものであった。ローマ教皇の選出は枢機卿の投票によって行われており,12世紀までは全員一致による決定方式がとられていたが,それ以降は3分の2の多数決制になり,今日に至っている。
近代の選挙制度の起源となったのは中世における等族会議の召集であった。等族会議は封建君主の下の家臣会議から発達したものであり,のちに僧侶階級および自由都市からの代表者を別々に召集した会議もひろく行われたので三部会ともよばれる。三部会は,封建君主が課す徴税を承認させるためのものであり,また,その際に君主に対する請願も行われた。三部会の構成はそれぞれ異なる身分階級からの代表者から成っていた。このうち,庶民階級の代表者は君主からの召集状が各都市,各州に届き,そこで選任が行われた。会議への代表者派遣は課税への同意をさせられることになるため,派遣には消極的であり,地方長官の指名による代表選出が行われていたが,しだいに財産所有者の投票による選挙によって代表選出が行われるようになって,近代議会制および選挙制度の萌芽が形成されていった。絶対君主制の確立に伴い,君主は同意を必要とせずに国民に直接課税するようになり,等族会議は17世紀ころまでには,消滅するか勢力を失っていったが,イギリスだけでは存続した。国民代表の理論が整備されるに伴い,被治者の同意が君主の統治の正当な権力の源泉であるという原理が確立されて,等族会議は,君主の諮問機関,課税に対する単なる同意機関から,より実質的な決定機関としての権力をもつようになって,民主政の中心的な役割を担うことになった。そして,各国における革命によって国民議会が登場した。
選挙制度の改革は,議会に送られる代表者がより広範な基盤に立って選出されることを目ざして進行した。19世紀では有権者が財産や納税額の多寡により制限された選挙であったが,制限はしだいにゆるめられて,20世紀に入り男子普通選挙,さらに婦人参政権の確立となった。イギリスでは1832年の選挙法改正により腐敗選挙区が廃止され,67年の改正では都市労働者に,84年には農業および鉱山労働者に選挙権が与えられ,1918年には男子普通選挙制となり,同時に一部の婦人にも参政権が認められた。アメリカでは19世紀中ごろに各州においてしだいに男子普通選挙となり,1870年には黒人に,そして1920年には婦人に参政権が認められた。フランスでは革命以来財産基準による制限選挙が行われていたが,1849年に男子普通選挙,1945年には婦人参政権が認められた。日本では1889年の選挙法で25歳以上の男子で直接国税15円以上の者に選挙権を与える制限選挙制であったが,1925年には納税制限を取り除き男子普通選挙となった。第2次大戦後の46年には20歳以上の男女に選挙権が拡大された。
選挙制度はきわめて多様であるが,現代日本の選挙において確立された原則は,普通,平等,秘密,直接,任意の五つの原則である。
(1)普通選挙 選挙権を身分,財産,納税,信仰,教育,人種,性別などによって制限せず,原則として一定の年齢に達したすべての国民に選挙権を与える制度である。
(2)平等選挙 有権者各人の投票の効果が平等な選挙制度であり,一人一票同一価値の原則に基づく。これに対するものとして,有権者を財産などで等級に分類し,等級ごとに代表者を選出する等級選挙制(階級選挙制ともいう)や,1人が2票以上をもつ複数投票制がある。等級選挙制は第1次大戦前のドイツで実施された例がある。複数投票制は納税した地区で投票を認めるイギリスで1947年まで行われていたが,49年の人民代表法により一人一票となった。
(3)秘密選挙 以前は,有権者が投票所で口頭で投票したり,記名したうえで投票する公開選挙制が各国で採用されていた。しかし,公開投票は社会的弱者が自由な意思の表明を妨げられるおそれがあり,また,買収などの腐敗行為を助長する結果となるため,秘密選挙制が一般的となっている。日本では1889年から記名捺印して投票する公開選挙制をとっていたが,1900年以降,秘密選挙制に改められた。
(4)直接選挙 有権者が直接公職者を選出する制度である。これに対し間接選挙は,有権者が中間選挙人だけを選出し,中間選挙人が公職者を選出する選挙である。間接選挙はまれであり,アメリカ合衆国の大統領選挙がそうである。間接選挙の趣旨は,一般の有権者は政治に通暁しておらず,適切な候補者を見いだしがたいということである。しかし,もし中間選挙人が有権者の望む人を選出するならば,それは無用の手続であり,また望まない人を選出するならば,それは有害な制度である。アメリカ大統領選挙の場合には,中間選挙人はあらかじめ候補者支持を表明しているので,有権者の投票によって獲得した選挙人の数で事実上当選者が決まり,中間選挙人による選挙会は形骸化している。
(5)任意選挙 投票は有権者の権利であって義務ではなく,棄権してもそれに対して制裁を加えられないのが任意選挙制である。これに対して,棄権が増大することは選出された公職者の支持基盤が小さくなり,選挙制度の正当性にとって危険であることから,棄権者に対して譴責(けんせき),罰金や氏名の公示等の制裁を行うのが強制選挙制である。
執筆者:川人 貞史
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(蒲島郁夫 東京大学教授 / 2007年)
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…例えば1263年(弘長3)の公家新制において,諸国の国司に知行国主の家僕や任料を拠出した凡卑の輩が推挙され,あるいは僧綱(そうごう)に律師の任料を納めたものが吹挙されたといわれ,また他方,若狭国太良(たら)荘の百姓の地頭非法に対する訴訟が,本所の東寺の挙状により取り次がれていた(《東寺百合文書》)ように,吹挙の風は国制の中央から在地の民衆の世界にまで浸透し,ひとつの制度的慣行にまで転化していた。なお現在では,官職就任の多数決投票を意味する選挙の語も,本来は吹挙や薦挙に近い意味の用語であった。【保立 道久】。…
…イギリスの場合,のちの保守党,自由党へと発展していくトーリー派とホイッグ派の対立は,17世紀に始まる。そして18世紀初頭のR.ウォルポールや,18世紀末から19世紀初頭のW.ピット(小)の活躍により,議会内の多数派が政権を担当する議院内閣制が確立するに至り,さらに1830年の総選挙でのトーリー党の敗北によって,50年ぶりにホイッグ党が政権に復帰し,32年の選挙法大改正前後のころから保守党と呼ばれるようになったトーリー党とホイッグ党の交互の政権担当により,〈議会主義の黄金時代〉が現出されることになった。この間に,ホイッグ党は,19世紀半ばころから自由党と呼ばれるようになるが,やがて19世紀から20世紀への移りめの時期における,労働者階級に基盤をおく政党の急速な台頭によって,イギリス政党制は新しい段階に入ることになる。…
…また家族の連坐は,夷三族,族誅などと称されて古くから存在したが,唐律ではこれを縁坐と呼んで区別している。【植松 正】
[選挙法上の連座]
個人責任の思想が確立された近代国家においては,連座制は原則として行われないが,例外として,選挙法上,候補者以外の者による選挙犯罪を理由に候補者の当選を無効にし,また,一定期間立候補を禁止する制度が,広く世界の国々において採用されている。これは通常,候補者と一定の関係にある者による悪質な選挙犯罪は当該候補者の選挙運動が,全体として悪質な方法により行われたことを推測させ,当該候補者が当選しえたのは不正な手段によるものであることを推認させるからである,などと説明されるが,今日〈連座制〉というときには,この選挙法上の制度を指す場合が多い。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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