出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
モンゴル帝国第5代のハーン(汗)として即位したが,治世中に生じた帝国の分裂の結果,中国を中心とする東アジアに拠って元朝の創設者となる。名はフビライKhubilai。世祖とはその廟号,モンゴル語での尊号はセチェン・ハーン。チンギス・ハーンの末子トゥルイの四男で,長兄は第4代モンケ・ハーン(憲宗),イル・ハーン国の始祖フレグは弟に当たる。1251年太宗オゴタイ・ハーン一門の反対を制圧してトゥルイ家の嫡流モンケが即位するや,フビライ,フレグの両名が中国,イランにおける朝廷直轄地の確保のためにその地の大総督に任命され,ともにその使命を完遂した。その結果,後年の帝国分裂に際して元朝,イル・ハーン国が西北3ハーン国に拮抗する勢力として出現できたわけである。フビライは漢地大総督に任ぜられて長城に近い漠南の金蓮川(灤河(らんが)上流域)に出鎮し,ほどなくその地に居城を築き(後の上都開平府),これを根拠として漢地の軍民統轄に従事した。とくに1252-53年にかけての吐蕃(とばん)(チベット),雲南征伐では吐蕃を招服し大理国を滅ぼし,さらに別将を派遣してアンナン(ベトナム)を服属させる戦果を上げた。その結果,中原駐屯のモンゴル軍-漢人軍閥との間に主従関係を強化することとなり,民政面にあってもトゥルイ家の分地(真定路八万戸)統治を通じて培われた漢人世侯,漢人知識人からの信頼も拡大深化した。
漢地におけるフビライの隠然たるこの勢力は,59年7月南宋親征中の憲宗が四川省の軍営で病没した直後から始まる帝国内有力諸王を中心とする分解の動きの中で,短期間にもせよ彼に帝国第5代のハーン位を許したのである。すなわち憲宗の死によって南宋攻略の挫折を知るやフビライ・ハーンは急ぎ鄂(がく)州(湖北省武昌)の囲みを解いて開平に北帰し,翌年3月自立して憲宗を継いだ。国都カラコルムでは相前後して憲宗の諸子,重臣がアリクブカを擁立したが,これに対して容易に勝利を博すことができた。ついで66年カヤリックに拠って自立したオゴタイ家の後王ハイドゥとの競合では,以後30年間に近い努力にもかかわらずついにこれを屈服させることができず,モンゴル帝国はここに最終的な分裂に陥った。
フビライ・ハーンの国家はハイドゥを支持する西北3ハーン国への宗主権を失い,その版図を東アジアに局限され,しだいに中国王朝への傾斜を深める。世祖フビライに至って初めて中統,至元の建元が実現し,国号は《易経》に基づいた大元,国都は新たに燕京(えんけい)(北京)に築いた大都と定めた。官制は中央に中書省・枢密院・御史台を設け,地方は行省・路・府・州・県に分かち,官人機構としては漢人世侯の廃止と銓転法(せんてんほう)の実施による官僚制への切換えを断行し,交鈔(こうしよう)(紙幣)による通貨の統一と両税法,専売法を根幹とする経済対策を樹立した。しかしこれらは,いずれも宋・金両王朝の遺制にすぎない。この傾向は元朝内に占める中国の比重が圧倒的である以上当然なのであるが,同時に大帝国の分裂に際して処した世祖の態度は中原王朝化への一方的なものに終始するのではなかった点を見落としてはならない。76年(至元13),南宋を併呑して全中国を統一すると引き続き兵を南海に出してチャンパ,カンボジア,ビルマ,ジャワ以下を従え,東は国初以来,叛服常ならざる高麗を藩国化し,さらには日本征服(モンゴル襲来)を図るなど漢,唐といえども及ばない東アジアの大統一を完成したばかりでなく,西方に対してもイル・ハーン国との親善関係を通じて困難な海陸両路の交通に努力しモンゴル帝国伝統の世界的国家の一面をよく回復した。
とくに外民族による中国支配王朝すなわち征服王朝としての性格は,遼,金と比べてけた違いにスケールが大きかっただけに,それだけ強く世祖の政策の中に見いだすことができよう。制度の中に重い位置づけをもって取り込まれたモンゴル的軍民官制(達魯花赤(ダルガチ),千戸長,世襲制),モンゴル人一般に許された政治・法律上の優遇規定,諸王・功臣に対する恒常的歳賜を通じて間接的にモンゴル民衆に及ぶ莫大な物質的賜与などはモンゴル至上主義として周知されるところである。このような主権者モンゴルの主体性保持を達成するため西域人を主とする治下の非漢文化諸種族を色目(しきもく)人として一括し,彼らに協力者としての特権を与えるとともにそれぞれ本俗法の維持を規定したのは実に異色ある政策であった。一つの全体社会の中に漢人,モンゴル,色目諸種族という個別社会が並存して元朝100年間の中国支配が維持できたとすれば,元朝創設者としての世祖の意義はそこにも認められるであろう。
執筆者:愛宕 松男
→順治帝
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朝鮮、李朝(りちょう)第7代の王(在位1455~68)。諱(いみな)は(じゅう)。第4代世宗の第2子。即位前は首陽大君を称した。甥(おい)の端宗(在位1452~55)即位後の1453年、皇甫仁(こうほじん)らの重臣を殺害して政権を握り(癸酉靖難(きゆうせいなん))、ついで王位を譲られた。官制改革、軍制(五衛制)の確立、職田(しょくでん)法の制定と貢物上納量の改定、『経国大典』の編纂(へんさん)など、統治体制の整備を進めて王権を強化する一方、東北の土豪李施愛(りしあい)の反乱を鎮圧し、国境外の女真(じょしん)を攻撃して武威をあげ最盛期をもたらした。
[糟谷憲一]
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