遊牧民の族長の称号。ハン,カーン(カン)とも呼ばれる。もともとはアルタイ系のトルコ,モンゴル系の北方遊牧民がモンゴル高原において使っていた称号で,カガンqaghan(漢字の転写で〈可汗〉)ないしは,それがつづまったカンqan(〈汗〉)がもとの形である。4世紀末の柔然の族長,社崙(しやろん)が丘豆伐可汗Kültebüri Qaghanと称したのが史料にみえる最初で,その後,北アジア,中央アジアに建国したトルコ系の突厥帝国内で広く用いられた。この帝国では地方の遊牧封建領主に〈小可汗〉の称号を与え,帝国の唯一・最高の主権者である中央の君主は〈大可汗〉と称した。
突厥の後,中央アジア,イラン,イラク,アナトリアに民族移動してイスラムに改宗したトルコ・モンゴル系の遊牧民は,ペルシア語,アラビア語の影響をうけてqaghan,qanの音韻をqān,qāān,khānと転訛させていった。最初にイスラム化した中央アジアのトルコ系国家,カラ・ハーン朝の君主はイレグ・ハーンIleg Khān(イレク・ハーンIlek Khān)と称した。次いで,イラン,イラク,アナトリアに入って西アジア・イスラム世界をアッバース朝のカリフに代わって支配したセルジューク朝トルコでは,族長層で地方の支配権をゆだねられた者はいずれもハーンkhānと称した。これは諸王を意味するアラビア語のアミールやマリクと同義で使われており,王朝の支配者はこれと区別する意味でスルタンの称号を採用した。これは,イスラム世界の聖俗の支配を握っていたカリフから世俗の支配権をゆだねられた者の意味である。
モンゴル帝国でも,帝国を構成して地方を分割統治する権限を許されていた諸王家の支配者は,たとえばイル・ハーン,チャガタイ・ハーンのごとくハーンの称号を名のったが,彼らの上に立つモンゴル高原のカラコルムの最高君主はカーアーンqāān(〈カンの中のカン〉),ないしはハーカーンkhāqān(〈ハーンの中のハーン〉)と呼ばれた。
14世紀以降,モンゴル時代をすぎるとハーンは本来の意味を失い,族長層でなくとも安易にこの称号を使うようになった。たとえば,サファビー朝では,ハーンといえば大きな州の支配者を意味するようになった。
執筆者:坂本 勉
ドイツの核化学者。フランクフルト・アム・マインの生れ。若いころから化学に興味をもち,マールブルクおよびミュンヘン大学に学ぶ。1904年ロンドンに留学,W.ラムゼーの指導を受けて放射性物質に興味をもち,05年モントリオールのE.ラザフォードの研究室に移り,さらに06年にはベルリン大学のE.フィッシャーの研究室に入って放射性物質の単離の研究を続けた。この間,ラジオトリウム(1905),ラジオアクチニウム(1906),メソトリウム(1907)を発見している。12年にカイザー・ウィルヘルム化学研究所が新設されると,彼は放射能部門の主任研究員になり,ベルリン大学時代からの共同研究者L.マイトナーと共に研究に従事,17年新しい同位元素プロトアクチニウムを発見した。さらに21年には最初の核異性体の例(ウラニウムZ)を発見した。30年代に入り,中性子や人工放射能が発見されると,ハーンは重い元素に中性子を照射して生成される元素の同定の研究に取り組み,38年にはシュトラースマンFriedrich Strassmannとともにウランに中性子を照射したときの生成物中に放射性バリウムを見いだした。まもなくL.マイトナーによって,これは核分裂が起こったものであることが明らかにされた。44年ノーベル化学賞を受賞。ドイツの敗戦により,46年春までイギリスに抑留されたが,同年帰国後再建されたカイザー・ウィルヘルム協会(のちにマックス・プランク協会と改称)の総裁に就任,以後60年までその職にあり,ドイツの科学の興隆に努力するとともに,核兵器の使用に反対する科学者の運動にも重要な役割を果たした。
執筆者:川合 葉子
文芸評論家,小説家。日本名は小泉八雲。ギリシアのレフカス島でイギリス進駐軍の軍医チャールズ・ブッシュ・ハーンと島の女ローザとの間に生まれた。幼時ダブリンに移ったが母と生別し,大伯母に育てられた。フランスのイブトーとイギリスのアショーのカトリック系の学校で教育を受けたが,家庭の崩壊,カトリック神父に対する反発,左眼の失明,大伯母の破産などの不幸に遇い,19歳のとき,イギリスを捨てアメリカに文無しで渡り,シンシナティで苦労しながら新聞記者として名をなした。ニューオーリンズに行き,フランス文学の翻訳紹介,仏領西インド諸島の探訪記事を書物の形で刊行した。1890年来日,島根県立松江中学校の英語教師となり,翌年熊本の第五高等中学校へ移った。神戸で一時英字新聞記者を務めた後,96年から6年半にわたって東京大学で英米文学を講義し,早稲田大学に移った1904年に亡くなった。小泉八雲は日本に帰化したときに選んだ名前である。
ハーンの十数冊に及ぶ日本時代の著作の中で,出雲の生活を描いた《知られぬ日本の面影》,日本人の内面生活をとらえた《心》,また日本の怪談の再話はとくに著名である(《怪談》)。邦訳は《小泉八雲作品集》が良く,アメリカ時代の作品を中心とする《ラフカディオ・ハーン著作集》もある。妻小泉節子に〈思ひ出の記〉がある。
執筆者:平川 祐弘
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ドイツの化学者.マールブルク大学で,1901年有機化学で学位を取得し,同大学化学教室の助手になる.1904年秋から1年間ロンドン大学のユニバーシティ・カレッジのW. Rumsay(ラムゼー)のもとに遊学し,放射化学の研究をはじめ,1905年秋から1年間,カナダのマギル大学のE. Rutherford(ラザフォード)のもとで研究した.1907年ベルリン大学化学教室の私講師に就任(1910年教授)し,この年の暮にオーストリアからきたL. Meitner(マイトナー)との共同研究を開始.1912年にカイザー・ウィルヘルム協会化学研究所に移り,放射化学研究室を主宰.第一次世界大戦中,毒ガスの軍事使用に関する研究開発に従事し,1917年Meitnerと91番元素プロトアクチニウムを発見した.1930年代,Meitner,F. StrassmannとともにE. Fermi(フェルミ)らによる諸元素に対する中性子衝突実験を追試し,1938年末にウランからバリウムが生成していることを発見した.スウェーデンに亡命していたMeitnerは甥のO. Firschとともに,この知らせを中性子によるウラン核の分裂と正しく解釈して核分裂(fission)と命名した.原子核分裂反応の発見により1944年ノーベル化学賞を受賞.1946年からマックス・プランク協会(カイザー・ウィルヘルム協会の改称)総裁を務め,ドイツの科学再建に尽力した.また,ドイツの核武装に反対し,核戦争防止の科学者の運動にも熱心に取り組んだ.
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…遅い中性子によって起こるウランの核分裂では,核分裂破片の質量比がほぼ95:140の場合がいちばん多い。
[発見と研究の歴史]
1938年O.ハーンは,F.シュトラスマンとともに,天然に存在するもっとも重い元素であるウラン(原子番号92)に中性子を照射し,その結果生ずる微量な反応生成物を注意深く化学分析して,ウランのほぼ半分の質量をもつバリウム(原子番号56)の存在をつきとめた。かつてのハーンの共同研究者L.マイトナーは,この実験結果を伝え聞くや,O.R.フリッシュとともに,この現象を,原子番号92のウランが原子番号56のバリウムと原子番号36のクリプトンに割れる核分裂として説明した。…
…そこで,ドイツ物理学界の長老でKWGとも縁の深かったプランクの名まえが選ばれ,46年,イギリス占領地区で,マックス・プランク協会の設立が宣言された。初代総裁にはO.ハーンが就任した。その後,マックス・プランク協会は,西ドイツの復興とともに発展・拡大を遂げ今日に至っている。…
…ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の短編小説集。1904年アメリカ,イギリスで刊行。…
…C.H.シュトラッツは日本人の顔の本質的な特徴を顔の楕円形が伸びて長細くなる傾向だとした(《生活と芸術にあらわれた日本人のからだ》)。L.ハーンは〈日本美術に描かれた顔について〉の中で,日本絵画では顔の表情を描かず紋切型だと指摘した上で,西欧近代画やギリシア芸術と比較し,日本絵画がギリシア美術に共通すること,個人の表情のもつ意味は道徳と関係しないことを共に認めていることを述べている。人相学【池沢 康郎】。…
…19世紀の文献学の隆盛期に日本学は〈盆栽的学問orchid science〉への傾向を強めた。この間フランス,イギリスの外交官のなかからは,L.パジェスをはじめ,E.M.サトー,W.G.アストンのような優れた日本学者となる人々が輩出し,B.H.チェンバレンをはじめ御雇外国人として来日したJ.マードック,L.ハーン(小泉八雲),アペールVictor George Appert,ブスケGeorge Hilaire Bousquet,サンソムGeorge Bailey Sansom(1883‐1965)らも日本の現実に基づいた研究の成果をあげたが,イギリス人を除いては本国の大学に戻れなかった。サンソムはイギリスでは教職に就かず,1935年,のちにハーバード大学と並んでアメリカの日本研究の中心の一つとなるコロンビア大学で教えた。…
…俳句には小林一茶のものをはじめとして数多くの句がある。L.ハーン(小泉八雲)が《新著聞集》の〈亡魂蠅となる〉を訳した〈蠅の話〉(《骨董》所収)では,玉という女中が死んでから,冬だというのに追っても追っても室内に入ってきて主人のまわりを飛びまわる大きなハエに印をつけ,家から遠く離れたところで放してまた戻るかどうかを調べることになっている。これこそまさに,現在さかんに行われているマーキングによる調査の古い記録であるというべきであろう。…
…(2)マドラサ ウラマー育成の高等教育施設で,構造としては,中庭に面した各辺の中央に,教場や礼拝場として使われるイーワーンを設け,その間に階上・階下ともに学生が起居する個室が配置される。(3)修道場(リバートribāṭ,テッケtekke,ハーンカーkhānqā,ザーウィヤzāwiya) 呼称はさまざまであるが,いずれもスーフィー(神秘主義者)が称名などの修行を行う修道場のことで,リバートは,元来は国境地帯につくられた砦をさした。建築的には,マドラサや下記のキャラバンサライと同様な構成をとる。…
…このような〈遊牧帝国〉とも呼びうる強大な国家が,中央アジア史上に華々しい活動を見せた,匈奴,突厥(とつくつ),ウイグル,モンゴル帝国等の諸国家である。 これらの遊牧国家ないし遊牧帝国の君長は,それぞれの国家ないし帝国の形成にあたって,その形成の中核となった特定の一氏族の成員の中から選出され,単于(ぜんう)ないしハーンの称号を名のったが,これらの君長の選出や,外国遠征等の国家の重要事は,その国家の構成メンバーである諸部族の支配者たち,すなわちベグないしノヤンと呼ばれた遊牧貴族たちから成る国会(クリルタイ)の議を経て決定された。すなわち遊牧国家の君長は,彼らが特定の氏族のみから選出されるというところに由来するある種のカリスマ性を具有していたにせよ,十分の統率力をもちあわせぬ場合には,ただちに遊牧貴族らによって交替させられるという意味において,決して絶対的な君主ではなかった。…
※「ハーン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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