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ノルウェーの極地探検家。オスロ近郷ベズテンの生れ。母の希望で医学を学んだが,母の死後船員に転じた。1897年ベルギー探検船ベルギカ号に乗り組み南極海で初の越冬を果たした。1903年47トンの帆船ヨーア号で北磁極に到達,磁極の移動性を長期観測,そのまま太平洋へ抜け05年8月13日ヨーロッパ人300年間の夢だった北西航路樹立に成功した。北極点横断を志したがピアリーに先を越され南極点一番乗りを宣言した。ナンセンの探検船フラム号を入手,11年1月ロス海ホエール湾に基地設定,10月同行4人と犬ぞりで極点に向かい,12月14日宿願を遂げた。競ったR.スコットらに先立つこと35日であった。帰途クイーン・モード山脈を発見した。その後,空路で北極上空通過をはかり,26年5月11日ノビレ操縦の飛行船ノルゲ号でスピッツベルゲンから極点をへてアラスカへ飛び,13日安着。この際の功名をめぐりノビレと不和となったが,ノビレがイタリア号で北極飛行中遭難したと聞き,28年6月18日救出に飛び,スピッツベルゲン付近で乗機ラタム号ごと消息を絶った。著書に自叙伝や探検記多数がある。
執筆者:石山 洋
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ノルウェーの極地探検家。正確にはアムンセンという。7月16日に生まれる。青年時代医学を専攻。1897~1899年ベルギーの南極地磁気調査に加わってのち、北極調査の夢をもち地磁気学を修めた。1903~1906年小帆船ヨーアGjøa号で北極海の北西航路を初めて完走し、地磁気調査、民俗学的調査を行った。北極点初到達をアメリカのピアリーに奪われる(1909)と、南極探検に転じ(1910~1911)、1911年12月14日競争者イギリスのスコットに先んじて南極点初到達に成功した。この快挙後、資金の醵出(きょしゅつ)を得て装備を整え、1918年第一次世界大戦の戦火の下、元来の計画であった北極調査に向かった。1921年北極到達を果たせぬまま帰還したが、熱狂的歓迎を受けた。以後航空機による北極探検を再三試み、1926年にはアメリカのエルズワースLincoln Ellsworth(1880―1951)、イタリアのノビレUmberto Nobile(1885―1978)らと飛行船でスバールバル諸島―アラスカ間の横断を敢行した。1928年北極海で遭難したノビレ隊の捜索の途上、行方不明となった。なお、1927年(昭和2)に来日している。
[大島美穂]
ドビーで織った一種の梨地(なしじ)織。アムンゼンはもと梳毛(そもう)織物の一つで、特別の品種ではなく、単に梨地(繊維用語で、織物面にナシの外観に似せた小さな点を表したもの)に織ったものであった。1930年(昭和5)に、尾張(おわり)(愛知県)地方で、加工しにくかった梳毛織物の捺染(なっせん)が可能となり、市場に売り出されるが、その前に探検家アムンゼンが極地探検に成功し、来日していたので、それにあやかりこの名がついた。1950年(昭和25)ごろから木綿、化繊織物などに使われ、無地染め、捺染され、婦人子供服地に用いられている。
[角山幸洋]
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…後にスコットは南極点に到達する。ノルウェーのR.アムンゼンは北極へ向かう計画を立てていたが,1909年にアメリカのR.E.ピアリーが北極点に到達したのを知り,南極へ転じた。ロス海のホエールズ湾(鯨湾)で越冬し,11年12月14日南極点へ到達した。…
※「アムンゼン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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