タイのアユタヤに首都を置いたタイ族(シャム族)の王国。1351-1767年。417年にわたる王国史にはウートーン王家(1351-70,1388-1408),スパンナプーム王家(1370-88,1409-1569),スコータイ王家(1569-1630),プラーサートーン王家(1630-88),バーンプルールアン王家(1688-1767)の5王家の交代支配が見られる。アユタヤはメナム(チャオプラヤー),ロッブリー,パーサック3河川の合流点にあって,14世紀前半にはすでに交易の中心として繁栄していた。ここに首都を定めて新王国を創始したラーマティボディ1世(在位1351-69)の出自については諸説がある。王は北方の要衝ロッブリーに王子ラーメースエンを派遣し,また西方のスパンブリーには義兄ボロマラーチャー(パゴア)を封じて支配領域の統合をはかった。王の死後,ロッブリー,スパンブリーの間にアユタヤの覇権をめぐる抗争がおこり,結局スパンブリー勢力が勝利をおさめ,スパンナプーム王家が160年間アユタヤを支配した。ボロマラーチャー2世(在位1424-48)は東方に勢力を伸ばし,クメール族のアンコール朝を滅ぼした(1431)。同王のとき北方の王国スコータイ朝はアユタヤ王国に併合された(1438)。総督としてピッサヌロークを治めた王子は父王の死後王位につき,トライローカナートを号した(1448-88)。同王は王国支配の中央集権化のため,中央官制,地方統治組織,サクディナー制などの諸制度を始めた王として知られている。これらは19世紀末までのタイの統治組織の基礎となった。ラーマティボディ2世(在位1491-1529)はマラッカから派遣されたポルトガル使節を受け入れ,ポルトガル人のアユタヤ居住とキリスト教の布教を認めた。1531年ビルマがタウングー朝のダビンシュウェティー王の下に統一されると,アユタヤはしばしばビルマ軍の侵攻を被り,69年にはついに首都は陥落した。15年後,スコータイ王家のナレースエン大王(在位1590-1605)は,ビルマ軍を撃退して独立を回復させた。17世紀に入るとオランダ東インド会社がアユタヤに進出し,皮革などを中心に活発な商業活動を開始する。日本からも御朱印船が来航しアユタヤに日本人町も形成されたが,鎖国令以後衰微した。1630年王位を奪して新王朝を開いたプラーサートーン(在位1630-55)は,王室独占貿易制度の導入によって王富の増大をはかった。ナライ王(在位1656-88)はヨーロッパ人を大臣に起用し宣教師を介してフランスとの関係を深めることによって,オランダ勢力を牽制しようとした。しかしペトラーチャー(在位1688-1703)のクーデタ以後,アユタヤと西欧諸国との関係は冷却した。バーンプルールアン王家は,ボロマコート王(在位1733-58)のとき学芸大いに栄え,仏教についてもセイロンに使節を派遣して衰微したサンガを再興させるなど,名声は海外に響いたが,その後衰退し,1767年ビルマ軍の侵略を受けて王国は滅亡した。
執筆者:石井 米雄
王都アユタヤを中心に栄えた美術は,一般に〈国民美術の時代〉といわれる。その理由はその王朝以前に栄えたスコータイ朝美術の様式をうけつぎ,まったくタイ独特の美術が開花した時代であったからである。仏教美術が主体のため,多くのブロンズ製,漆喰製(煉瓦を芯とする),砂岩製の仏陀像が造られた。これらの作風は基本的にはスコータイ様式を継承したものであるが,一般にスコータイ朝の仏陀像より作品に生気が失われ,逆に台座等に豊かな装飾性をおびるようになる。この装飾性を代表する例として,宝冠仏がきわめて多く造られた。宝冠をかぶり,身体中に装飾をほどこされた仏陀像の流行である。また砂岩製の仏陀像が17世紀前半に復活したことも注目される。これは,プラーサートーン王がカンボジアに遠征し,この結果,石仏を得意としたクメール美術がアユタヤに導入されたことによる。さらに,工芸美術のうえでも見るべきものが多い。例えば,木造建築の寺院の扉にほどこされた象嵌細工や木彫浮彫,黒漆に金泥で絵を描いた書箱等がある。そして陶器としては,ベンチャロンと呼ばれる五色の茶碗が知られている。その他,絵画の世界では,やわらかなタイ独自の筆法による,身体をくねらせた人物などの描かれた紙絵の折畳みの絵本(仏教の説法画など)があげられる。当時の建築としてはアユタヤに多くが残り,特に重要な寺院には,ワット・プッタイサワン(初期),ワット・プラ・シー・サンペット(中期),ワット・チャイワタナラームやワット・プーカオ・トーン(後期)等があげられる。建築の形式もスコータイ朝からの継承ではあるが,特にタイ建築用語でプラ・プラーンと称する塔堂には,きわめて高く積み上げられた構造のものを見る(例,ワット・ラーッブラナ等)。
執筆者:伊東 照司
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アユタヤに首都を置いたタイ人の王朝(1351~1767)。中国史料の暹羅(せんら)、日本ではシャムロの名で知られる。ヨーロッパ人はこれをSião, Siamとよんだ。王朝の始祖はラーマティボディ(在位1351~1369)。歴代の王は北方、東方、南方に向かって版図の拡大を図り、チェンマイ、カンボジア、マラッカに支配権を及ぼした。1432年のアンコール攻略以来、文化的にはカンボジア化したインド文化の強い影響下に置かれた。西方のビルマ(現、ミャンマー)とはしばしば戦争を繰り返し、1569年にはビルマ遠征軍の攻撃を受けて首都アユタヤは陥落し、15年間ビルマの支配下に置かれた。ナレースエン大王(在位1590~1605)はアユタヤを解放し、ビルマから版図も取り戻した。アユタヤ朝は建国以来、宮廷が中心となって、中国、琉球(りゅうきゅう)などと盛んに貿易を行った。16世紀末から17世紀に入ると、商港である王都アユタヤには、日本人、ペルシア人商人などのほか、オランダ東インド会社も商館を開設して活発な交易活動を行った。ポルトガル、フランスによってキリスト教の布教が行われたが、国王の手厚い保護を受けて社会の各層に深く浸透したスリランカ系の上座部仏教の厚い壁に阻まれ、教勢は振るわなかった。ナライ王(在位1657~1688)は、フランスのルイ14世と使節を交換した。18世紀の中葉を過ぎるころから衰退に向かい、1767年、ビルマ軍の攻撃によって首都は壊滅的打撃を被り、アユタヤ朝は416年の歴史の幕を閉じた。
[石井米雄]
1351~1767
タイ中部の王朝。『王朝年代記』によれば,1351年に建都,1767年にビルマに攻略されて滅亡するまで約400年間続いた。16世紀半ばにビルマの侵略を受けていったん滅ぶまでの前期アユタヤはアヨードヤと呼ばれ,人脈に頼る組織としての脆弱さを抱えながらも港市国家として発展,アンコール王国を破壊し,スコータイ朝を併合した。16世紀末にナレースエン王により独立を回復した後期アユタヤは,南シナ海とベンガル湾の両通商ルートの結節点にあたる地の利を活かした国際的な中継港として知られ,また後背地の森林物産の積出港ともなって繁栄した。諸王は王室管理貿易を営む商人であり,専門職を諸外国人に委ねて権力を強化すると同時に,仏教の擁護者として君臨した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…スコータイは,南方のマレー半島と西方の下ビルマを経てスリランカから上座部仏教を受容したが,これは王制とともに現在まで続く政治・文化の基盤となった。
[アユタヤ朝]
1351年,チャオプラヤー・デルタ下流部の河港アユタヤを中心に,新たなタイ族の国家アユタヤ朝が成立し,北方に向かってその勢力を拡張すると,スコータイはやがてこれに併合され,政治的独立を失った。アユタヤとその周辺は,かつてモン族の国ドバーラバティの支配下にあった地域である。…
※「アユタヤ朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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