ウズベキスタン(読み)うずべきすたん(英語表記)Republic of Uzbekistan 英語

精選版 日本国語大辞典 「ウズベキスタン」の意味・読み・例文・類語

ウズベキスタン

(Uzbekistan) 中央アジア南部の共和国。一九九一年、ソ連邦解体に伴い独立。綿花・綿糸の産地。紀元前からシルクロードで栄えた。首都タシケント。ウズベク。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ウズベキスタン」の意味・わかりやすい解説

ウズベキスタン
うずべきすたん
Republic of Uzbekistan 英語
Uzbekiston Respublikasy ウズベク語
Республика Узбекистан/Respublika Uzbekistan ロシア語

中央アジアに位置する共和国。かつてはソビエト連邦(ソ連)を構成した15共和国の一つ、ウズベク・ソビエト社会主義共和国Узбекская ССР/Uzbekskaya SSRであったが、ソ連崩壊期の1991年8月連邦から独立、従来の地域名を採用してウズベキスタン共和国と改称した。カザフスタン、キルギス、タジキスタンアフガニスタントルクメニスタンの各共和国と接する。面積は44万7400平方キロメートル。人口2556万8000(2003年推計)、2956万(2012年推計)。首都タシケント(人口220万、2008年)。カラカルパクスタン共和国(面積16万4900平方キロメートル、人口157万、2007年推計)と12の州に分かれている。国民の80%はウズベク人で、ほかにロシア人(5.5%)、タジク人(4.8%)、タタール人(1.2%)など(1996)が住む。

[木村英亮]

自然

アムダリヤとシルダリヤ両河川の間を占め、国土の5分の4は平野部(トゥラン低地)で、山地は東端だけである。平野部はウスチュルトUstyurt台地とアムダリヤの沖積デルタ地帯、それにキジルクム砂漠の3部分に大別される。ウスチュルト台地は標高200~250メートルの起伏のある台地で、隣接する平野部との境界には明確な段がついている。

 山地部は天山山脈、ギッサール山脈、アライ山脈、およびその中間の渓谷である。最高点はギッサール山脈中の最高峰(4643メートル)である。東部のフェルガナ盆地、タシケント・ゴロドノステップ低地、中央部のゼラフシャン渓谷、カシュカダリヤ渓谷、スルハンダリヤ渓谷がこの方面のおもな低地である。

 気候は厳しい大陸性で、1年を通じて晴天が多い。1月の平均気温は北西部のヌクスで零下6.3℃、南部のテルメズで3℃である。7月の平均気温は26℃(ヌクス)から32℃(テルメズ)。年降水量は平野部で200ミリメートル、山地で1000ミリメートル以内。雨は主として冬から春にかけて降る。日照時間は190~220日。おもな河川はアムダリヤ、シルダリヤ、ゼラフシャン、カシュカダリヤなどで、主として灌漑(かんがい)に利用される。砂漠地帯には川がなく、住民は地下水を利用している。渓谷や山地からの河川の出口には、タシケント、フェルガナサマルカンド、ヒバなどのオアシス都市が開けている。

[加藤九祚・木村英亮]

歴史

ウズベキスタンでは16世紀初め、モンゴル系のティームール朝にかわってウズベク人のシャイバーニー朝が興り、ブハラを占領、ヘラトを落とし、フェルガナ、トランスオクシアナを併合、アブドゥッラー2世の治政期にもっとも栄えた。その後ブハラを首都として、アストラハン、マンギット両王朝が続いた(ブハラ・ハン国、18世紀のマンギット朝の下ではブハラ・エミール国)。他方ウズベク人の別派は16世紀にホラズムにヒバ・ハン国、18世紀フェルガナのコーカンドを中心としたコーカンド・ハン国を興し、この三つのハン国の間で抗争を繰り返してきたが、19世紀後半になってロシアに征服された。

 ロシアはコーカンド・ハン国を滅ぼし、ヒバ・ハン国、ブハラ・エミール国は保護国とし、1867年タシケントに総督府を置き、綿花栽培のモノカルチュア(単一耕作)植民地とした。

 1917年11月1日(新暦14日)、タシケントで、ロシア人鉄道労働者や兵士を中心とするソビエト政府が成立した。国内戦やヒバ・ハン国、ブハラ・エミール国における人民ソビエト革命を経て、中央アジアの民族的境界区分によってほぼ現在(2012年時点)の国境が形成され、1925年にトルクメニスタンとともにソ連の構成共和国として発足した。

 1990年3月24日、ソ連構成共和国では初めての大統領として、カリモフが選ばれ、同年11月1日には閣僚会議と首相のポストが廃止され、大統領が内閣を直接統率することとされた。1991年8月に勃発(ぼっぱつ)した、当時ソ連の副大統領であったヤナーエフГеннадий Янаев/Gennadiy Yanaev(1937― )らによるクーデター事件後の8月31日にソ連からの独立を宣言、ウズベキスタン共和国として9月1日を独立記念日とした。同年12月29日の大統領選挙でカリモフが大統領に選出された。カリモフは1995年3月には国民投票で任期を2000年まで延長した。ウズベキスタンではイスラム教徒がかなりの勢力をもっているが、イスラム原理主義は抑圧されている。1992年12月8日には新憲法を採択、1994年12月独立後初めての議会選挙で大統領与党ウズベキスタン人民民主党(旧共産党)が過半数を獲得した。1989年結成の人民戦線ビルリクは非合法化され、宗教政党は禁止されている。

 2000年の大統領選挙ではカリモフが再選を果たした。2002年に国民投票で憲法を改正し、大統領の任期を5年から7年へと変更した。2005年5月、東部の都市アンディジャンで武装勢力による刑務所などの襲撃や住民によるカリモフ辞任要求反政府デモなどが起き、その鎮圧の際に治安部隊の群衆への発砲で多数の死者が出た。2007年12月に行われた大統領選挙ではカリモフが大勝した。憲法には連続3選を禁止する規定があるが、1991年の初当選時は憲法制定以前であったことを理由に正当化された。議会は二院制で、議席数は上院100、下院150、任期はともに5年である。

 1991年12月21日、独立国家共同体(CIS)創設協定に調印し、CIS加盟国となった。また1992年1月に中国と、2月にアメリカと国交を開き、3月には国連に加盟した。1994年4月末にはカザフスタン、キルギスと関税の相互撤廃、二重課税防止、決済の障害排除を内容とする共通経済圏創設に関する条約に調印した。さらに同年7月には、中央アジア協力開発銀行の創立でも合意し、3国の大統領・首相による国家間会議も創設され、経済、外交、防衛政策で統一していくことになった。

 独立以来全方位外交を進めてきたが、2005年5月のアンディジャン事件をきっかけに、一時ウズベキスタン政府の対応に批判的な欧米諸国との関係が悪化し、ロシア、中国との関係強化が進んだ。すなわち、2006年1月にはユーラシア経済共同体(EAEC=East Asia Economic Caucus)に加盟、6月にはCIS集団安全保障条約機構(CSTO=Collective Security Treaty Orgnization)に復帰を決定した。総兵力は6.7万(陸軍5万、空軍1万7000)ほか。

[木村英亮]

産業・経済

ウズベキスタン経済の基盤は綿であり、かつてはソ連の生産の6割を占め、ソ連の綿工業を支えていた。しかし、投資効率の面からモスクワ周辺の工場の拡張に重点が置かれ、ウズベキスタンの織物工業は自国の住民の需要さえ満たしていなかった。ソ連解体後は、織物工場の建設を進めるとともに、綿の栽培を減らして小麦などを増やし、食糧自給も達成しようとしている。野菜とウリの栽培も盛んである。ブドウをはじめとする果樹の産額も、全中央アジアの半分以上を占める。

 エネルギー資源としては天然ガスがもっとも豊かである。主要な産地はブハラ付近のガズリのほか、カシュカダリヤ流域、フェルガナ盆地などである。石油はフェルガナ盆地とブハラで、石炭は主としてアングレンで採掘されている。石油は輸出も可能になった。

 冶金(やきん)と化学工業はベカバド、チルチク、サマルカンド、機械類はタシケント、チルチク、コーカンド、アンディジャンなどで生産される。軽工業ではタシケントをはじめ各地に綿織物の工場がある。絹織物の中心はナマンガンマルギランである。

 1992年1月10日価格自由化政策を導入したが、市場経済化は政府の統制下に行われ、地域市場の形成、世界経済への参加へ向け改革を進めており、この点では中国に似ている。

 工業労働者は依然としてロシア人が多いので、ウズベク人の都市への進出が期待されている。人口の1%弱の朝鮮人の活躍も目だっている。これに関連して、韓国の進出も目覚ましく、韓国資本との合弁企業が生産した乗用車が走っている。また韓国のソウルとの間に定期航空便も通じている。1994年の工業生産は1990年の99.1%で、CIS諸国のなかではもっとも落ち込みが小さかった。それでも経済成長率は独立以降マイナスが続いたが、1995年になって、農業生産の拡大および好調な輸出に支えられてマイナス0.9%にとどめることができた。その後、経済成長率は高水準で推移。国内総生産(GDP)は389.8億ドル(2010)、1人当りGDPは1199ドル(2009)で、経済成長率は8.1%(2009)に達している。

 貿易額は輸出130.4億ドル、輸入88億ドル(2010)。おもな輸出品目は石油、天然ガス、石油製品、綿繊維、金、エネルギー製品、おもな輸入品目は機械設備、食料品、化学製品である。おもな貿易相手国は輸出がロシア、中国、トルコ、カザフスタン、アフガニスタン、輸入はロシア、中国、韓国、ドイツ、カザフスタンである。日本との貿易額は、輸出151億円、輸入68億円(2010)で日本の輸入超過となっている。日本へは金、綿繊維などを輸出し、日本から自動車、ゴム製品などを輸入している。

 ウズベキスタンへの主要援助国はドイツ、日本、アメリカ、スイス(2009)などで、日本の援助は2010年度までの累計で、有償資金協力約1249.75億円、無償資金協力約214.63億円、技術協力実績約129.6億円、となっている。

 通貨は、1993年11月15日にスム・クーポンが導入されたが、1994年7月1日にスムに変更された。

[木村英亮]

アラル海問題

ウズベキスタンを中心とするソ連の綿の生産は、1913年の74万トンから1980年には910万トンへと増大したが、灌漑(かんがい)のためアムダリヤ、シルダリヤの水が利用されたため、アラル海が干上がり、水位が下がって、1980年代後半には北部の小アラル海と南部の大アラル海に分かれた。水位の低下はさらに進み、1960年には53メートルであった海面高度が2000年には34メートルとなり、海面面積はもとの3分の1になった。2005年ごろには南部の大アラル海が東西二つに分断され、東側は2006年から2009年の4年間に8割が失われた。全体として、海面面積は最大時の2割以下になったとみられる。

 干上がった海底から、投入された化学肥料や農薬、塩などが飛散し、人々の健康を害し、カラカルパクスタンの幼児死亡率はウズベキスタン全体の平均の4倍である。湖の縮小は、塩分を濃くして魚類を死滅させ漁業を破滅させたばかりでなく、気候にも深刻な影響を与えている。小アラル海はコカラル堤防の完成により海面面積も広がり、塩分濃度も下がりつつあるが、大アラル海の縮小は依然続いている。早急に上流河川の国々を含めた利害関係を調整し、灌漑システムを近代化することが急務である。

[木村英亮]

教育・文化

ウズベキスタンの教育制度は小学校4年、中学校5年、高等学校3年の四・五・三制で、その上に大学4年がある。義務教育は7歳から18歳まで(小学校~高等学校)の12年間。大学にはタシケント国立東洋学大学、タシケント国立法科大学、タシケント国立経済大学、サマルカンド外国語大学などがある。公用語はウズベク語で、ロシア語も共通語として使われている。

 新聞には政府系のプラウダ・ボストーカ、ナロードノエ・スロボ、独立系のウズランドなど、通信社には国営のウザ、ジャホンのほかムスリム・ウズベキスタンなどがある。放送には国営のテレビ、ラジオがある。

[木村英亮]

『下斗米伸夫著『独立国家共同体への道』(1992・時事通信社)』『中村泰三著『CIS諸国の民族・経済・社会――ユーラシア国家連合へ』(1995・古今書院)』『中津孝司著『ロシア・CIS経済の変容と再建』(1996・同文館出版)』『清水学編『中央アジア――市場化の現段階と課題』(1998・アジア経済研究所)』『木村英亮著『ロシア現代史と中央アジア』(1999・有信堂)』『小松久男・梅村坦他編『中央ユーラシアを知る事典』(2005・平凡社)』『高橋巌根著『ウズベキスタン――民族・歴史・国家』(2005・創土社)』『樋渡雅人著『慣習経済と市場・開発――ウズベキスタンの共同体にみる機能と構造』(2008・東京大学出版会)』『ティムール・ダダバエフ著『社会主義後のウズベキスタン』(2008・アジア経済研究所)』


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改訂新版 世界大百科事典 「ウズベキスタン」の意味・わかりやすい解説

ウズベキスタン
Uzbekistan

基本情報
正式名称=ウズベキスタン共和国Ozbekistan Jumhuriyäti/Republic of Uzbekistan 
面積=44万7400km2 
人口(2011)=2780万人 
首都=タシケントTashkent(日本との時差=-4時間) 
主要言語=ウズベク語(公用語),ロシア語 
通貨=スムSum

独立国家共同体(CIS)を構成する中央アジアの共和国。旧ソ連邦を構成したウズベク・ソビエト社会主義共和国が1991年独立し,改称したもの。CIS諸国のうち,面積は4位であるが,人口はロシア,ウクライナに次ぎ3番目,中央アジア5共和国の人口の42%を占めるばかりでなく,経済的にも中核をなしている。カラカルパクスタン自治共和国をなかに含む。

古くからこの地域はウズベキスタンと呼ばれてきたが,その大部分はトゥラン低地キジルクム砂漠であるが,東部と南部に天山,ギサル,アライ山脈があり,その間にフェルガナ,ゼラフシャン,チルチク,アングレン等の盆地があり,アム・ダリヤシル・ダリヤの支流,ゼラフシャン川等による灌漑農業が行われている。気候は大陸的で雨量は少なく乾燥している。このような自然条件は綿花栽培に適している。革命当時は原住諸民族の労働者はわずかであったが,1970年代末には工業部門で労働者の36.2%(1977)がウズベク人等原住諸民族によって占められていた。その内訳は男20.8%,女15.4%である。女性の地位は1920年代後半以降根本的変化を遂げた。しかしまだ,農村部では6割以上の女性が家事労働にたずさわっている。

 共和国の民族構成はウズベク人71.4%,ロシア人8.4%,タジク人4.7%,カザフ人4.1%,タタール人2.4%,カラカルパク人2.1%,朝鮮人0.9%(スターリンによる強制移住で,1937年にロシア極東から中央アジアに追放された朝鮮人の多くがこの地にいる)などである(1989)。ソ連解体後ロシア人がロシアなどへ移住し,1993年6.9%と減少,ウズベク人が74.5%となった。なお,タジク人はサマルカンド,ブハラなどに多く住んでいる。また人口は,1926年466万,39年644万であったが,59年812万,95年2256万と,この70年に5倍に増大している。これは出生率の高さと死亡率の低下によるもので自然増加率は1000人当り22.8(1994)と,ロシアの-6.1と際だった対照をなしている。また,灌漑農業が行われている諸州では人口が密集しており,たとえば,アンディジャン州の人口密度はモスクワ州を抜いている。

 中央アジアでは1928-29年にラテン文字が採用されたが,39-40年以後はロシア文字をもとにした文字が使用され,独立後はふたたびラテン文字にもどしている。1913年2.9%であった識字率は現在は100%に近い。87年に153万6000人の中・高等教育をうけた専門家が働いている。それでも工業化があまりに急速であるため有資格労働者養成がまにあわず,生産の発展を妨げる要因の一つとなっているほどである。医者の数は91年7万5000人で1万人当り35.5人である。

ウズベキスタンではコーカンド,ヒバ,ブハラの3ハーン国が相争っていたが,ロシアは19世紀後半,コーカンド・ハーン国を滅ぼし,ついでヒバ,ブハラ両ハーン国を保護国とした(19世紀以前の歴史については,〈ウズベク族〉の項目を参照されたい)。1867年にはタシケントに総督府をおき,鉄道を敷き,綿花栽培を中心とする植民地とした。第1次世界大戦中の1916年後半の戦時後方労働への徴集反対の中央アジア大反乱が鎮圧されてまもなく,17年二月革命によって帝政ロシアは崩壊し,この地域には臨時政府のトルキスタン委員会と並んで,ロシア人の鉄道労働者を中核としてタシケント労兵ソビエトが成立したが,そのほかにジャディド(ジャディディズム)とウラマー(イスラム学者,宗教指導者)を中心にムスリム(イスラム教徒)の結集が試みられた。ジャディドはイスラム社会の近代化を実務的な口語教育の普及によって達成しようとして活動してきたグループで,青年トルコ党の革命に影響を受けていた。十月革命後,タシケントのソビエト政府は11月に成立したが,ムスリム勢力は別にコーカンドで政府を建てる。ソビエト政府はこの〈コーカンド自治政府〉を18年2月に倒し,5月にトルキスタン自治共和国成立を宣言する。国内戦・干渉戦のなかではロシア中央部から切り離されたが,19年末には孤立を脱し,ロシア人労働者の大ロシア民族主義と,ムスリムのパン・イスラム主義,地方民族主義の双方の抑制がはかられる。20年以降は,ヒバ,ブハラ両ハーン国の地域を拠点とする農民のバスマチ運動との戦いがつづいた。ヒバ・ハーン国では18年トルクメンのジュナイド・ハーンが独裁をしき,ウズベク農民を抑圧していたが,革命によって20年4月ホラズム人民ソビエト共和国が成立,23年10月に社会主義共和国となった。ブハラ・ハーン国でも20年夏の革命によって青年ブハラ党が政権をとり,10月にブハラ人民ソビエト共和国,24年9月ブハラ・ソビエト社会主義共和国となった。そして同年10月,トルキスタン,ホラズム,ブハラ3共和国の領域の民族的境界画定によってトルクメン・ソビエト社会主義共和国とともにウズベク・ソビエト社会主義共和国が成立する。

ウズベキスタンでは,1926-29年の土地・水利改革と,ひきつづく農業経営の全面的集団化によって,バイ(地主)やムラー(ウラマー)の政治的・経済的・文化的影響力は完全になくなった。28-40年,綿花精製工業生産は3.5倍以上,搾油は3倍弱と綿花の第1次加工部門が発展したが,その比率は機械製作,金属加工,繊維,食品等の部門の建設によって86.7%から38%へ下がった。トルクシブ(トルキスタン・シベリア)鉄道も開通し,直接シベリアと結ばれた。第2次大戦中はソ連邦の西部地域から,機械製作・鉄鋼業等の多くの大工場が疎開され,重工業の比率は1940年の13.3%から45年47.3%へ急増した。発電量は3倍,石炭3倍,石油4倍であった。戦後は戦前・戦中の建設を土台として全面的な工業化が進められ,60年代以降は天然ガス,非鉄金属などの採掘・加工の面でも飛躍的な発展を遂げ,綿花精製,綿実油搾油加工,紡績,製糸,織物等綿花関係を中心としているが,機械製作,金属加工,軽工業,食品工業等も発展している。

 農業は綿花生産に重点がおかれ,その生産量は529万t(1989)で,ソ連全体の6割を占めた。綿花は革命前から栽培されていたが,革命後はさらに力を注がれ,1ha当りの収穫量も1924年の780kgから80年には3320kgへと増大した。しかし,綿花栽培の灌漑のためアム・ダリヤ,シル・ダリヤ両河からの大規模な運河建設をおこなったため,アラル海が干上がり,塩分増大で漁業ができなくなり,大きな環境問題となっている。その他の農業生産物としては,米,小麦,カラクリ羊,絹などがあり,果樹栽培もさかんである。

ペレストロイカ期には,独立と民主化をめざし,民族文化の振興や綿作モノカルチャーに起因する環境問題への対策を要求する人民戦線運動〈ビルリクBirlik〉(〈統一〉の意)が1988年11月発足したが(90年2月にはビルリクから穏健派が分かれて〈エルクErk〉を結成),ビルリクは当局から弾圧されていた。91年モスクワでの8月クーデタの失敗後,ウズベキスタンとして同年8月31日に独立を宣言し,9月1日を独立記念日と定めた。もとウズベク共産党第一書記であったカリモフ大統領と,共産党を改称した人民民主党の政府は,反対派の一掃を図っている(91年末の大統領選ではビルリク党の候補登録は不認可,エルクの候補が次点となったが,以後は封じ込めの対象となっている)。なお,イスラムはかなりの勢力をもっているが,宗教政党は禁止されている。

 92年1月価格自由化政策を導入したが,市場経済化は政府の統制の下に行われており,生産の落込みは少ない。通貨は1994年7月1日からスムSumを使用している。1992年1月に中国,2月にアメリカと国交を開き,3月に国連に加盟した。すでに韓国の〈大宇〉との合弁会社が生産した自動車が走っている。日本は93年にタシケントに大使館をおいた。

 中央アジア5ヵ国のなかでも人口が多く,経済的比重はもっと大きく,天然資源にも恵まれているこの国は,将来の中央アジアの中心的な国として,重要な役割を果たすであろう。
ウズベク族
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百科事典マイペディア 「ウズベキスタン」の意味・わかりやすい解説

ウズベキスタン

◎正式名称−ウズベキスタン共和国Republic of Uzbekistan。◎面積−44万4103km2。◎人口−3049万人(2014)。◎首都−タシケントTashkent(222万人,2009)。◎住民−ウズベク人80%,ロシア人5.5%,タジク人5%,カザフ人3%など。◎宗教−イスラム(スンナ派)88%,ロシア正教。◎言語−ウズベク語(公用語),ロシア語。◎通貨−スムSum。◎元首−大統領,カリモフIslam Karimov(1938年生れ,1990年3月就任,2007年12月4選,任期7年)。◎首相−ミルジヨエフShavkat Mirziyoev(大統領が任命,2003年12月就任,2010年1月再任)。◎憲法−1992年12月制定,2002年1月改正,2003年4月改正。◎国会−二院制,上院(定員100,任期5年),下院(定員150,任期5年)(2009)。◎GDP−279億ドル(2008)。◎1人当りGNP−655ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−25.7%(2003)。◎平均寿命−男65.0歳,女71.7歳(2013)。◎乳児死亡率−44‰(2010)。◎識字率−99.3%(2009)。    *    *ウズベクとも。中央アジアの共和国。2500万人を超える人口は中央アジア5国の中で群を抜いている。国土はアラル海からパミール高原の間に横たわり,西部,中央部はキジルクム砂漠やステップ地帯,東部,南部はフェルガナ盆地とパミール高原などの山麓地帯。住民の7割強を占めるウズベク人のほか,ロシア人,タジク人,カザフ人などをはじめ多民族で,2%強のカラカルパク人は西部にカラカルパクスタン自治共和国(16万5000km2,人口約134万人,首都ヌクス)を持っている。アム・ダリヤシル・ダリヤ,1939年完成のフェルガナ運河などを利した灌漑(かんがい)が発達し,旧ソ連最大の綿花地帯であった。灌漑のための過度の取水により,アラル海の湖面は大幅に縮小した。小麦,米,ブドウなども産し,羊(カラクル),牛の畜産もある。タシケントを中心に機械・化学・織物工業が行われる。古来東西文化交流の十字路として多くの遺跡が残されている。 古くはイラン系民族が住んでいたが,トルコ系遊牧民が移動してくるのにともない,しだいにトルコ化され,イスラムを受容していった。16世紀に遊牧民ウズベクの版図にはいり,ブハラ・ハーン国,ヒバ・ハーン国,18世紀にはホーカンド・ハーン国が形成された。19世紀後半ロシアに支配され,1924年中央アジアの民族間境界画定をへてソ連内の共和国となった。1990年主権宣言をし,1991年独立した。1999年,グルジ(現ジョージア),ウクライナ,アゼルバイジャン,モルドバからなるGUAMに参加したが,2005年に脱退。2001年にはロシアや中国の主導する上海ファイブに加盟した(上海協力機構の成立)。またカリモフ政権は,2001年の米国での同時多発テロ(9.11事件)以降,米国の反テロ作戦に協力する姿勢を表明し,米軍に国内の基地を提供した。2005年5月,同国東部アンディジャンで政府に対する抗議行動が起こり,治安部隊が武力でこれを鎮圧,多数の死傷者が出た。この事件への対応に批判的な欧米諸国との関係は大きく悪化し,米軍が撤収を完了させると,ロシアと同盟関係条約を締結,2006年にはユーラシア経済共同体(EAEC)に加盟,さらにCIS集団安全保障条約機構(CSTO)に復帰した。しかし近年,EUや米国から政府高官が訪問して関係改善の方向が見えてきている。2008年にEAECに対する自国の加盟資格を停止して,西欧諸国への接近を図っている。 1980年代末からウズベク・ナショナリズムが高揚しており,隣接するトルクメニスタンキルギスタジキスタンなどのウズベク人集住地域の動向や,アフガニスタン戦争の展開するなかでのアフガニスタン北部のウズベク系住民の動向が注目される。また,サマルカンドブハラにはタジク系住民が多く,タジク・ナショナリズムとも深く関わっている。政府はイスラム急進派の活動を禁止しており,キルギス,タジキスタンとの国境付近におけるイスラム武装勢力の動きを警戒している。
→関連項目中央アジアトルキスタン

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ウズベキスタン」の意味・わかりやすい解説

ウズベキスタン
Uzbekistan

正式名称 ウズベキスタン共和国 Ozbekistan Jumhuriyäti。
面積 44万8971km2
人口 3486万(2021推計)。
首都 タシケント

中央アジア中部の国。南はトルクメニスタン,西と北はカザフスタン,東はキルギスとタジキスタンに囲まれ,最南部でアフガニスタンと国境を接している。国内にカラカルパク自治共和国を含む。東西に細長く延びた国で,西部にウスチュルト高原,中部にクイズイルクム (キジルクム) 砂漠,東部にフェルガナ盆地がある。主要河川は南のトルクメニスタンとの境界にほぼ沿って流れるアムダリア,フェルガナ盆地を流れるシルダリア,南部を流れるゼラフシャン川。顕著な大陸性気候で,平均気温は夏は南部で 32℃に上り,冬は北部で-12℃となる。年降水量は 200mmと少なく,おもに冬と春に降る。住民の 70%以上はチュルク語系諸族のウズベク人,約6%がロシア人,ほかにもタジク人,カザフ人,タタール人などがいる。公用語はウズベク語。ウズベク人はスンニー派イスラム教徒が多い。この地域には旧石器時代から人類が居住し,古代にバクトリア,ホラズム,ソグディアナなどの地方に国家が栄え,その後ペルシア,ギリシア,アラブ,モンゴルなどの侵入があり,チムール朝が栄えたのち,16世紀にウズベク人が形成されたといわれる。ウズベク人はブハラ・ハン国,ヒバ・ハン国,コカンド・ハン (浩罕汗) 国の3ハン国をつくったが,19世紀中頃以降ロシアに併合された。 1924年ウズベク=ソビエト社会主義共和国成立。 1991年独立を宣言してウズベキスタン共和国に改称し,独立国家共同体 CISに加盟した。砂漠の多い乾燥地域であるが,河川や多くの運河により大規模な灌漑農業が発達し,住民の約 60%が農村人口である。主要農作物はワタで,播種面積の半分は綿作にあてられている。またカラクール種のヒツジの飼育,養蚕,ブドウその他の果樹栽培も盛ん。天然ガス,石油,石炭,非鉄金属,硫黄,岩塩などの地下資源にも恵まれている。特に天然ガスの産出は旧ソ連でも有数であった。工業は農産物加工の食品工業,繊維工業のほか,機械 (農業,繊維,食品,鉱山) ,化学 (肥料,染料,プラスチック) などの工業が発展してきている。主要交通路は鉄道,ハイウェーであるが,航空交通も発達している。観光地として知られる古都ブハラ,コカンド,ヒバなどがある。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ウズベキスタン」の解説

ウズベキスタン
Uzbekistan

中央アジア,ウズベキスタン共和国の領域。1924年のウズベク・ソヴィエト社会主義共和国の成立によって画定された。「ウズベク人の住地」を意味する。全般的に乾燥気候であるが,アラル海に注ぐアム,シル両河,ザラフシャン川流域などでは灌漑農業が発達し,古くからイラン系住民によるオアシス都市文化が栄えた。アラブの侵入を受け,8世紀から徐々にイスラーム化が進む一方,草原地帯からのトルコ人の移住によってトルコ化が進展した。イスラーム期にもこの地の文化的先進性は保たれ,多くの学者が輩出した。モンゴル帝国崩壊後,1370年に即位したティムールは,ここを拠点に西アジアに広がる一大帝国を築いた。ウズベク人の支配時代,ソヴィエト時代をへて今日に至っている。

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知恵蔵 「ウズベキスタン」の解説

ウズベキスタン

ウズベキスタンはイスラム・カリモフ大統領の独裁体制が旧ソ連時代から続いている。同大統領は、強硬な反イスラム政策を遂行してきた。その結果、ウズベク・イスラム運動(IMU)、イスラム解放党などのイスラム過激派がテロ活動を展開している。カリモフ大統領は2000年1月に再選され、02年1月の国民投票で大統領任期を5年から7年に延長する憲法修正案が承認された。経済改革は慎重な漸進主義の立場をとり、政治の民主化は進んでいない。従来、欧米諸国や国際通貨基金(IMF)などは、民主化と市場化に慎重な政府を批判してきた。経済は、公式数字上では成長しているが、実際には停滞気味。対外政策では、01年6月に上海協力機構の正式のメンバーとなった。01年の米同時多発テロ以後、米軍の駐留を受け入れたが、05年3月のキルギスの政変(チューリップ革命)、5月のアンディジャン事件後はロシアに急接近、同年7月、ハナバードの米軍基地を180日以内に撤去するよう求めた。

(袴田茂樹 青山学院大学教授 / 2007年)

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世界大百科事典(旧版)内のウズベキスタンの言及

【シャイバーニー朝】より

…16世紀に,ウズベク族が西トルキスタンを中心に建設した国家。1500‐99年。ジュチの第5子シバンShiban(シャイバン)を始祖とするためにこの名で呼ばれる。アブー・アルハイル・ハーンは,ウズベクを統一して,キプチャク草原に遊牧国家を建設したが,その孫のシャイバーニー・ハーンは,定住地帯に攻め入り,ティムール朝を破り(1500),これにかわって西トルキスタンからホラーサーンを支配する国家をうちたてた。…

※「ウズベキスタン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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