精選版 日本国語大辞典 「ザクセン」の意味・読み・例文・類語
ザクセン
- ( [ドイツ語] Sachsen )
- [ 一 ] ドイツ東部、チェコと国境を接する州。古くはゲルマン人の部族サクソン人の居住地。石炭、鉄などの地下資源が豊富でルールとならぶ工業地帯。州都ドレスデン。他にケムニッツ、ライプチヒなどの都市がある。ラテン語名サクソニア。
- [ 二 ] 「ザクセンちょう(━朝)」の略。
この地名は,今日,特別の限定なしに用いられる場合,二つの異なる地方を指示することができる。一つはドイツ連邦共和国を構成する州(ラント)の一つであるニーダーザクセンNiedersachsenを中心とする北ドイツ一帯であり,もう一つは東部のライプチヒ,ドレスデンなどを中心とするザクセン州一帯である。これを歴史的にさかのぼれば,前者はだいたい,初期中世におけるザクセン族の定住地域に行きつくのに対し,後者は近世におけるザクセン選帝侯国の中核部分だったところである。そして,両者を区別する必要のある場合には,一方のニーダーザクセンに対して,他方はオーバーザクセンObersachsenと呼ばれるのが常である。
西ゲルマン諸部族の一つ。カエサルやタキトゥスの記録には現れず,ギリシアの地理学者プトレマイオスの《地誌》(2世紀中葉)に,〈キンベル半島の首筋にかけてザクセン人が住む〉と述べられたのが史料初出。この史料その他から,ザクセン族はもともと,ホルシュタイン南西部に住んでいた小部族であったと考えられている。彼らはまもなく北西ドイツの海岸全域に活動の痕跡を残すようになったばかりでなく,4世紀後半から5世紀には,その一部はアンゲルン族とともにブリテン島へ渡り(アングロ・サクソン人),先住ブリトン人を征服してウェセックス,エセックスなどのサクソン諸王国を建てた。ほぼ7世紀末にはザクセン族は,すでに,エムス川からエルベ川までの北ドイツ一帯に定住し,しばしばフランク王国を脅かす大部族として歴史の舞台に現れているが,史料初出以来この時期にいたる5世紀間の部族形成史は,深い闇に包まれている。ただ,7~8世紀にザクセン族と呼ばれているものが単一の部族ではなく,多くの小部族をあるいは征服,あるいは吸収,あるいは連合によって合体し,複合的に形成されたものであることだけは疑いない。彼らのもとには王ないし共通の首長は存在せず,全体は四つの部族部分のゆるやかな統合体であった。すなわち,ウェーザー川流域のエンゲルンEngernを中央にして,その西方に住むウェストファーレン,東方に広がるオストファーレンOstfalen,北海海岸からエルベ川以北に住むノルトロイテNordleuteがそれである。そして,部族全体にかかわる大事が発生した場合には,ウェーザー川中流に沿ったマルクローMarkloで集会が開かれ,全体の意思形成がはかられた。
カロリング朝フランク王のカール大帝の時代に,ザクセン族の歴史は大きな転機をむかえる。カール大帝は長期にわたる一連の戦争(772-804)によってザクセン族を征服し,執拗に伝統的祭祀を守ろうとする彼らの抵抗を押しつぶしてキリスト教を受容させ,この強大な部族をフランク王国の中にくみいれた。カール大帝はザクセンの支配に当たり,反抗勢力に対しては大量殺戮,強制移住などきびしい強圧姿勢でのぞむ一方,既存の社会秩序には全体として手をつけることなく,友好的な有力豪族に伯(グラーフ)の官位を与えて統治の任に当たらせた。カール大帝が最も力を注いだのは,この地へのキリスト教の布教と教会組織の導入であり,そのために伝道の拠点としてコルバイなどの修道院を建てるとともに(コルビー修道院),ブレーメンをはじめとする一連の司教座教会を相ついで設けていった。この結果,早くもルートウィヒ1世治下の831年までには,改宗してまだ日の浅いザクセン全域を九つの司教区がおおい,教会組織の基礎は整えられた。またカール大帝は800年より少し遅い時期に〈ザクセン部族法典Lex Saxonum〉をラテン語で編纂,記述させたが,この成文法の現実妥当性はきわめて疑問視されている。なお,福音書から題材をとった長編叙事詩《ヘーリアント》は,840年ごろに書かれた古ザクセン語の最古の,そして最重要の作品である。
フランク王権が分裂,弱体化した9世紀後半以降,東フランク王国では諸部族の自立性が強まってゆく。ザクセンも東からのスラブ人の圧力,北からのノルマン人(北ゲルマン人)の侵入に対し自力で対抗せざるをえなかったが,その際,指導者としての頭角を徐々にあらわし,ついに部族全体に対する大公dux(ドイツ語ではヘルツォークHerzog)の地位を築くのに成功したのがオストファーレンに勢力をはるリウドルフィング(リウドルフ)家Liudolfingerであった。しかも同家のハインリヒ1世は,919年,コンラート1世の後をうけ,フランク族以外の出身者としてはじめてドイツ王位につく。これ以来,同家は1世紀余にわたりドイツ王国を支配したばかりでなく,オットー1世が皇帝位をえてからは(962),西方キリスト教世界全体を防衛,統治する任務をも負うことになった(ザクセン朝)。そこで,ザクセンにおける大公権の行使は,有力豪族の一つビルング家Billungerにゆだねられたが,その支配は部族領域全域には及ばなかった。
11世紀中葉ごろから,この地方も本格的な領主制形成期に入り,多くの豪族がそれぞれの拠点城郭を核とする自立的領域支配の形成へと向かう。叙任権闘争期におけるザリエル朝皇帝に対するザクセン貴族の鋭い反抗運動(1073-75)の背景には,そうした動きが伏在していたのである。一方,ザクセン大公位はビルング家からズップリンゲンブルク家Supplingenburger(王としてはロタール3世)を経て,相続により南ドイツ出身の大貴族ウェルフェン家Welfenの手へ移行する。そして,同家のハインリヒ獅子公は,事実上,旧部族領域全体に大公権を及ぼすとともに,北東方のスラブ人諸公国をも支配下におくことにより,ほとんど国王類似の地歩を北方に築くにいたった。しかし,このことが逆にシュタウフェン家の皇帝フリードリヒ1世との対立を不可避ならしめ,結局,1180年の裁判によって獅子公は失脚する。このとき,ザクセン大公領は解体され,大公権は,ケルン大司教に分与された南西部をのぞきアスカニア家Askanierに与えられたが,そのどちらもまた,後に再び大公位に昇格した(1235)ウェルフェン家も,みずからの大公権を基礎として旧ザクセン大公領を再建することができず,爾来この地域では多くの聖俗領邦の分立状態が定着する。そうした領邦の数は,帝国直属資格をもつものだけでも約30にのぼり,そのいずれも局地的な国家形象にとどまるのみで,〈ザクセン〉の名称をひきつぎうるものは一つもなかった。したがって,13世紀いらい,この地においては,政治的・国制的意味において〈ザクセン〉が語られることはなくなり,ただ言語,法,民俗生活のレベルについてザクセン的特色が云々されうるのみとなった。そうしたもののうち最も重要なものが,13世紀前半にアイケ・フォン・レプゴウによって作成された私撰の法書ザクセンシュピーゲルであったことはいうまでもない。
後のオーバーザクセン地方は,初期中世のザクセン部族とは何の関係もなく,もともとはスラブ人の定住地であった。10世紀にドイツ王権はこの地を軍事占領し,王国の辺境体制に編成したが,11世紀末までは依然としてその大半が未開地であり,ただ川筋に沿ってスラブ人集落が点在するにすぎなかった。しかし,12世紀初頭にドイツ人の開墾,入植活動がはじまり,それが同世紀の後半から,王権を含む諸領主の指導下に爆発的な勢いで進展したことにより,この地方の様相は急激に変貌する。すなわち,ザーレ川,エルベ川の間の地域には主としてチューリンゲン出身の農民により,またエルツ山地からなだらかに北へくだる高地には,東フランケンや北バイエルンからやって来た入植者により,競うようにして村落が開かれ,その間の交通上の結節点には多くの建設都市も誕生した(東方植民)。加えて,エルツ山地に発見された豊かな銀鉱の開発が13世紀に入ると大規模化するなど,この地方の人口は200年足らずの間に10倍以上にもなったといわれ,ここにまったく新しいドイツの一地方が出現することになったのである。
この新開拓地において,諸他の権力とせりあいながら支配的政治勢力にのし上がったのはチューリンゲン出身の一貴族ウェッティン家Wettinerであった。同家はまず,ザーレ川下流域の植民活動を組織して堅固な実力基盤を築くとともに,12世紀初頭までにはマイセン辺境伯(マルクグラーフ)の地位を皇帝から受封し,事実上,王の支配権限をマルク全域にわたって代行する立場を獲得した。これ以後,ウェッティン家は首尾一貫して周辺への領地拡大につとめ,ハインリヒ3世貴顕侯Heinrich Ⅲ der Erlauchte(在位1221-88)の長い統治下で,1243年にはシュタウフェン朝王権の開発したプライセンラントPleissenlandを(領土の確定は1255),47年には二つの帝国諸侯領すなわちチューリンゲン邦伯領Landgrafschaftとザクセン宮廷伯領Pfalzgrafschaftとを獲得し(確定は1264),ドイツ諸侯中で最大の領土支配者になった。さらに,1423年フリードリヒ1世好戦侯Friedrich Ⅰ der Streitbare(在位1381-1428)は,上述ハインリヒ獅子公の失脚いらい2世紀半にわたってアスカニア家の手中にあったザクセン大公の地位を,選帝侯位ならびに帝国式部長官位とともにみずからの掌中にした。そして,これ以降,ウェッティン家の領有するその他の諸邦も,ザクセン選帝侯領Kurfürstentum Sachsenの名を冠して呼ばれることになったのである。
ところで,1485年の家産分割に際してこのウェッティン家の領土は2系に分けられ,エルンスト系Ernestinerは選帝侯位とウィッテンベルク,ならびにチューリンゲンの大部分を,他方のアルベルト系Albertinerはマイセン辺境伯領と旧プライセンラントなどを領有することになった。これ以後,両系のウェッティン家はそれぞれ別個の政策を追求し,例えば,宗教改革に際して,エルンスト系のフリードリヒ3世賢侯(在位1486-1525)がルターを支持し庇護したのに対し,アルベルト系のゲオルクGeorg der Bärtige(在位1500-39)はそれに反対し,彼の死後はじめて同系の支配領域にも改革が導入された。また,エルンスト系が遺領分割を通じていっそう細分化していったのに対し,アルベルト系は逆にその領土を拡大することができた。そして,1547年にはエルンスト系からザクセン選帝侯位とウィッテンベルク地方を獲得し,旧領と合わせてここにきわめて豊かで強力なウェッティン家のザクセン選帝侯国ができ上がった。この国は選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世Friedrich August Ⅰ(在位1694-1733)の時代に最盛期をむかえ,ポーランド王も兼ね(在位1697-1733)いわゆるドレスデン・バロックの文化も花開いた。1806年,フリードリヒ・アウグスト2世はナポレオンの支援をうけて王位につくが,敗戦の後,ウィーン会議により北チューリンゲンからラウジッツに至る広い領土をプロイセンに割譲した(プロビンツ・ザクセンProvinz Sachsenの成立)。
第1次世界大戦の末期,1918年11月革命によって王制を廃止したザクセンは,その後,ワイマール期,第三帝国期を通じてドイツの諸邦と共通の運命をたどったが,第2次世界大戦後はソ連占領時代を経てドイツ民主共和国に属することとなる。そして,同国が52年,首都と14の県Bezirkに新編成されたとき,旧ザクセンの大部分はライプチヒ,ドレスデン,カール・マルクス・シュタット(現,ケムニッツ)の3県に分けられた。73年の統計によれば,3県を合わせた面積は全国土の16%ほどにすぎないのに対し,人口は約530万人余で全体の32%を占め,首都ベルリンを除けば最も人口密度の高い地域であった。また,工業生産全体に占める3県の割合36%,同じく手工業生産全体に占める割合39%という数字は,ひじょうに早くから工業化の進んだこの地域の産業的特色をよく表現していた。90年のドイツ統一でこの3県を合わせてザクセン州が創設された。面積1万8412km2,人口458万(1995)。州都はドレスデン。
ドイツの一州(ラント)を構成するニーダーザクセンは,第2次世界大戦後の1946年,旧プロビンツ・ハノーファーProvinz Hannoverを中心として四つのラントが合わさって作られた新しいラントである。この地域は,オストフリースラント部分を除いて,すべて,かつてのザクセン部族定住領域に属し,ラントの名称もそれに由来する。このニーダーザクセンという名称がはじめて現れたのは1354年の一文書においてであり,旧ザクセン部族領域のうち,ウェーザー川からバルト海にいたる北部一帯を呼ぶのに用いられた。ついで1512年に神聖ローマ帝国のクライスKreisの一つとしてニーダーザクセン管区がおかれ,それは一応,帝国国制上の一単位の名称となる。しかし,それはこの地方における複雑な領邦分立状態のゆえに,国政上でほとんど実質的意味をもたず,したがって,ニーダーザクセンの名称は長い間,ハノーファー選帝侯国とかブラウンシュワイク公国といった諸国名の背後にしりぞいていた。
ところで,19世紀初頭の神聖ローマ帝国の解体からウィーン会議にいたる時期において,この地方の政治地図も大きくぬりかえられた。とくに,ウェルフェン家のハノーファー選帝侯はナポレオンに対する解放戦争にみるべき戦功をあげていないにもかかわらず,同時にイングランド王を兼ねるというその地位を利用してウィーン会議における領土交渉を有利に展開し,ヒルデスハイム,ゴスラーに加えて,フリースラントをも併合することに成功した。かくして,すでに1803年の聖界領接収の際に獲得していた旧オスナブリュック司教領国と合わせて,今日のニーダーザクセンの大半を占める約3万8000km2にのぼるハノーファー王国ができ上がったのである。王国は1866年,力によるドイツ統一を決意したプロイセンの前に敗北して併合されたが,旧王国領はそのままプロイセンの一州として(プロビンツ・ハノーファー)ワイマール共和国末期まで存続した。第2次世界大戦の後,この地域はイギリスの占領下におかれたが,占領諸国による戦後処理政策の一環としてうちだされた1946年11月1日の軍政令第55号により,ラント・ニーダーザクセンの樹立が決定される。そして,それは旧ハノーファーを中心として,同じくウェルフェン公家領に由来するブラウンシュワイク,旧オルデンブルク伯領に由来するオルデンブルクOldenburg,およびウェーザー川沿いの小伯領に由来するシャウムブルク・リッペSchaumburg Lippeを合わせて構成されることになった。
ニーダーザクセンは面積4万7609km2をもつドイツ第2の広いラントである。その大半は北海にむかって開ける広大な低地であるが,南部と南西部は中部山脈へとせり上がる変化に富んだ高地となっている。州の人口は772万(1995),州都ハノーファーは人口50万を数える大都市であるが,ラント全体の人口密度は162人/km2で,全国平均の228人/km2より低い。産業的には西ドイツ時代は最も後発的な地域に属し,基本的に農業が中心であったが,近年になって激しく工業化の波がおしよせ,ハノーファー,ブラウンシュワイクの古い工業地帯に加えて,ザルツギッターの鉄鋼業,ウォルフスブルクの自動車工業,エルベ川下流の原子力発電所群などは,この地域ののびやかな自然景観を急速に変えつつある。
執筆者:山田 欣吾
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ドイツの歴史的地域名。ラテン語名サクソニアSaxonia、英語名サクソニーSaxony。その範囲は時代によって変遷しているが、1180年以前は、ドイツ北部のライン川とエルベ川の間、ザクセン人の居住地域をさし、現在のドイツのニーダーザクセン州にその名が残る。
1423年以後はエルベ川の上流、旧東ドイツ(ドイツ民主共和国)南東部の地域をさし、ドレスデン、ライプツィヒ、カール・マルクス・シュタットの3県の範囲にほぼ相当した。この地域は、1947年から52年まで東ドイツの一州をなしていた。当時の面積は1万6993平方キロメートル、人口約555万8000であった。なお、1990年のドイツ統一によって、前記3県の範囲をもって新たにザクセン州が設けられた。州都はドレスデンである。今日でも石炭、鉄などの地下資源に恵まれており、ドイツの重要な工業地帯となっている。ほかにケムニッツ、ライプツィヒなどの都市がある。
[中村賢二郎]
ドイツ北部には古くより西ゲルマンのザクセン人が居住し、8世紀末カール大帝に征服されてフランク王国の一部となり、キリスト教化した。9世紀後半に強大なザクセン公国が形成されたが、1180年ハインリヒ獅子(しし)公の失脚によって瓦解(がかい)、その所領の一部とザクセン公位を継承したアスカニア家(1356年選帝侯位を取得)も1423年断絶し、ザクセンの範囲は縮小して、マイセン辺境伯のウェッティン家がその所領と選帝侯位を得た。以後このウェッティン家の支配地域であるエルベ川上流の地がザクセンとよばれることになる。ウェッティン家は1485年エルンスト系とアルブレヒト系に分かれ、エルンスト系が選帝侯位を相続し、宗教改革時代にはルターを庇護(ひご)したフリードリヒ賢公(3世)を出して、新教派諸侯のリーダーとなったが、シュマルカルデン戦争に敗れて選帝侯位と所領の一部はアルブレヒト系に移り、以後アルブレヒト系がザクセンの中心的存在となった。フリードリヒ・アウグスト1世(在位1694~1733)と同2世(在位1733~63)の時代に絶対主義的統治機構が整い、学芸が栄え、繊維工業を中心として産業も発展し、ザクセン選帝侯はポーランド王位を兼ねた。当時の首都ドレスデンがバロック風の華麗な都市となったのもこの時代である。しかしポーランド王位を兼ねたことから北方戦争(1700~21)に巻き込まれ、また七年戦争(1756~63)でオーストリア側について大打撃を被った。1806年にはナポレオンにくみしてライン同盟に加入し、ナポレオンから王国を名のることを許されたが、ウィーン会議(1814~15)でその領土のなかば以上をプロイセンに割譲させられた。フランスの七月革命(1830)の影響のもとに暴動が起こり、1831年憲法を発布したが、48年ドイツに起こった三月革命以後は反動的政治に傾いた。プロイセン・オーストリア戦争ではオーストリア側にたって敗れ、1866年北ドイツ連邦に加盟、以後ドイツ帝国、ワイマール共和国へと引き継がれた。第一次世界大戦後の1919年王制が廃止され、ナチス支配下の33年ドイツ(第三帝国)の一州となった。第二次大戦後はドイツ民主共和国に属して一州を構成した。
[中村賢二郎]
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出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
中部ドイツ,エルベ川中流域の領邦。金印勅書で選帝侯国の地位を認められ,15世紀以降マイセン辺境伯出のヴェッティン家のもとで強大化。同家は1495年以降エルネスト系とアルベルト系に分かれて争うが,ザクセン(首都ドレスデン)は後者の支配下で繁栄,ドイツのバロック文化の中心地になる。1806年ナポレオンにより王国に昇格。ウィーン会議で領土を削られるが,そのまま存続して今日のザクセン州になる。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…やがて民族大移動期に展開する東ゲルマン諸部族のあの活発かつ遠距離への迅速な移動の可能性は,一つにはこうした歴史的背景があったせいである。逆にいうならば,その歴史的環境からみて,ゲルマンの故地からきわめて漸次かつ長期にわたって南西方へ移動した西ゲルマン諸族(フランクFranken,ザクセンSaxen,フリーゼンFriesen,アラマンAlamannen,バイエルンBayern,チューリンガーThüringerなど)には,ローマ文明との融合現象があり,北ゲルマン諸族(デーネンDänen,スウェーデンSchweden,ノルウェーNorwegerなど)には,古いゲルマン的伝統を保持する可能性が強かったということになる。民族大移動【増田 四郎】。…
…その一つは,移動前,ゲルマニアの東部にいた東ゲルマン諸族,次はその西部にいた西ゲルマン諸族,そしていま一つは北方スカンジナビア半島やユトランド半島にいた北ゲルマン諸族である。東ゲルマンに属する部族としては,東ゴート,西ゴート,バンダルWandalen,ブルグントBurgunder,ランゴバルドLangobardenなどが数えられ,西ゲルマンでは,フランクFranken,ザクセンSachsen,フリーゼンFriesen,アラマンAlamannen,バイエルンBayern,チューリンガーThüringerなどが,また北ゲルマンでは,デーンDänen,スウェーデンSchweden(スベアSvear),ノルウェーNorwegerなどが挙げられる。このうち北ゲルマン諸族は,前2者よりやや遅れ,8世紀から11世紀にかけ,ノルマン人の名でイングランド,アイルランド,ノルマンディー,アイスランドならびに東方遠くキエフ・ロシアにまで移動し,それぞれの地に建国したため,通常これを第2の民族移動と称する。…
※「ザクセン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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