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オーストリアの作曲家。弟子のベルクやウェーベルンと共に第2次ウィーン楽派と呼ばれ,また十二音技法を創案して20世紀の音楽に大きな影響を与えた。
ウィーンのユダヤ人商人の子として生まれ,子どもの頃からバイオリンやチェロを学ぶ。作曲は1894年に知り合ったツェムリンスキーに数ヵ月学んだほかは独学であった。1891-95年銀行に勤めたがその後作曲に専念。99年の弦楽六重奏曲《浄夜》は後期ロマン派の延長線上に独自の音楽を打ち立て,初期の代表作となった。以後十二音技法に至るまでの彼の作風は表現主義ともいわれる。2曲の弦楽四重奏曲(1905,08)や室内交響曲(1906)を通して,しだいに調性の世界から遠ざかり,《二つの歌曲》(1908)の第1曲や《ゲオルゲ歌曲集,架空庭園の書》(1909)によって無調の世界に入る。
無調時代(1909-16)は彼の第2期に当たり,最も表現主義的色彩の濃い時期である。この時期には《ゲオルゲ歌曲集》のほか《三つのピアノ曲》(1909),《五つの管弦楽曲》(1909),モノドラマ《期待》(1909),《ピエロ・リュネール》(1912)など怪奇な表出力をもった傑作が多い。特に《ピエロ》は無調時代の集大成であり,5人の特殊編成の室内楽は,第2次世界大戦後の色彩性を重んじた室内楽編成に影響を与え,また〈シュプレヒシュティンメ〉という新しい声楽の表現法は,後の歌曲のあり方に影響を残した。
第1次世界大戦中は1915,17年と2度召集を受け,創作活動が停止された。18-21年には〈私的演奏協会〉を組織して100回以上のコンサートを開き現代音楽の演奏・紹介に努め,同時に作曲ゼミナールを開いて新しい音楽作法を研究した。ここでの学生にH.アイスラー,J.L.ルーファーらがいる。
1921年の夏,ウィーンに近い避暑地メートリンクで十二音技法を完成し,7年ぶりに発表した《ピアノ組曲》(1921-23)は全体がこの技法によっている。第3期(1921-33)以降は十二音技法によって作曲,《第3弦楽四重奏》(1927),《管弦楽のための変奏曲》(1928),オペラ《モーゼとアロン》(1932。未完)などの傑作を書き,また25年ブゾーニの後継者としてベルリン芸術アカデミーの教授となった。しかしナチスの政権樹立によって,33年アメリカへ亡命。以後を第4期(1934-51)アメリカ時代という。
第4期では十二音技法の扱いがより自由になり,バイオリンとピアノの《ファンタジー》(1949)のほか,語り手,ピアノ,弦楽四重奏の《ナポレオンへのオード》(1942),語り手,男声合唱,管弦楽の《ワルシャワの生残り》(1947)などの傑作によって,ナチスへの抗議を行った。著書に《和声学》(1911)ほか多くの理論書があり,また多くの弟子を育て,第2次世界大戦後の理論的音楽思考の基礎を作った。
→十二音音楽
執筆者:佐野 光司
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オーストリアの作曲家。弟子のベルクおよびウェーベルンとともに「新ウィーン楽派」「第二次ウィーン楽派」を形成し、とくに「十二音音楽」という新しい技法による音楽を創造して、20世紀の芸術音楽の展開に決定的な影響を与えた。
1874年9月13日、ウィーンのユダヤ人商人の家庭に生まれる。早くから音楽に興味をもち、9歳のときにまったく独学で最初の作曲を試みた。91~95年、銀行に勤めるかたわら、アマチュア・オーケストラのチェロ奏者として活躍し、そのオーケストラの指揮者ツェムリンスキーAlexander von Zemlinsky(1872―1942)に数か月対位法を学んだ。この数か月のレッスンを唯一の例外として、彼は独学で本格的な創作活動を開始し、ブラームスやワーグナーなど後期ロマン派音楽の圧倒的な影響を受けながら、リヒャルト・デーメルの世紀末的題材によるテキストを新しい対位法の感覚で処理した『浄(きよ)められた夜』(1899)を発表した。その後一時ベルリンに居を移し、文芸キャバレーの指揮者や音楽学校の教師を勤めながら作曲活動を続け、弦楽四重奏曲第1番(1905)、室内交響曲(1906)などで、表現主義的な無調音楽という独特の音楽様式を確立していった。初期のスタイルの代表作は、アリベール・ジローの詩による『月に憑(つ)かれたピエロ』(1912)である。ここではソプラノと5人の室内楽奏者が、歌と語りの中間の「シュプレッヒゲザング」という新しい声の技法と、長調、短調など調性の中心音を感じさせない無調の技法によって、「夜」と「血」のイメージを描き出し、この作品によってシェーンベルクの作曲家としての名声は決定的なものになった。
『月に憑かれたピエロ』以後は、彼自身のことばによると、「調性という手段に頼らずに、堅牢(けんろう)な形式と統一性を獲得することができるか」という問題を追求し、五つのピアノ曲(1920)、セレナーデ(1923)、ピアノ組曲(1923)の三つの作品で、「相互の間にのみ関連づけられる12の音による作曲技法」、すなわち「十二音技法」をつくりだした。この新しい作曲技法は、バッハ以来の西洋音楽の合理的な音楽語法を組み替えたもので、シェーンベルクはこの音楽の新しい「知の体系」によって、精緻(せいち)な音の秩序をもつ傑作『オーケストラのための変奏曲』(1928)を書いた。ヒトラーに追われて1933年アメリカに渡った彼は、ロサンゼルスに居を定め、36年以降カリフォルニア大学で教授活動のかたわら作曲を続け、41年にはアメリカの市民権を得ている。この時代の作品には『ナポレオンへのオード』(1942)や『ワルシャワの生き残り』(1947)など、ナチズムに対する激しい抗議の音楽がある。51年7月13日ロサンゼルスで没した。
[船山 隆]
『W・ライヒ著、松原茂他訳『シェーンベルク評伝』(1974・音楽之友社)』▽『R・レイボヴィッツ著、船山隆訳『シェーンベルク』(1974・白水社)』
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1874~1951
オーストリアのユダヤ系の作曲家。12音技法の創案者。1890年代後半から作曲活動に入る。後期ロマン主義から表現主義の時代をへて無調の世界に至り,1921年に12音技法を完成。25年ベルリン芸術アカデミーの教授に任じられたが,ナチスに追われてアメリカに亡命。
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… 一方,20世紀のウィーン楽派は〈第2ウィーン楽派〉あるいは〈ウィーン無調楽派〉とも呼ばれる。これはシェーンベルクを中心に,彼に師事したベルク,ウェーベルンらによって構成される。表現主義的な語法と明確な理論的主張を特徴とするが,とりわけ無調音楽の書法(1907ころ以降)と音列技法および十二音技法(1920ころ以降)の理論は,後の西洋音楽に大きな影響を与えた。…
…それはR.ワーグナーの楽劇における半音階の多用によって,また一方ではドイツ・ロマン派の過度な感情表出に反対して外界の印象を直観的に音で形象化しようとしたドビュッシーが,教会旋法や全音音階を導入し,和音の機能的関連を否定して個々の和音の独立的な色彩価値を重要視したことによって生じた。20世紀にはA.シェーンベルクが調性を全面的に否定して無調音楽を書き,それを組織化して12音の音列技法を創始した。弟子のA.ウェーベルンがそれをさらに徹底させたのち,第2次世界大戦後は音高以外の要素もセリー化するセリー音楽が生まれた。…
…
[第1期 拍節と調性の崩壊]
20世紀初頭から第1次世界大戦までの第1期の音楽は,19世紀のロマン主義の延長線上に成立している。印象主義の作曲家ドビュッシーと表現主義の作曲家シェーンベルクは,R.ワーグナーやマーラーの後期ロマン主義から出発し,18世紀と19世紀音楽の基盤となっていた規則的な拍節構造と明確な調性構造をしだいに弱体化して崩壊に導く。すなわち,明確な中心音をもつ古典的な機能和声の法則は,自在で豊かな響きを求めるF.リストやワーグナーなど後期ロマン派の作曲家によって弱体化され,とくにワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》の前奏曲で崩壊寸前の状態に達していたが,ドビュッシーとシェーンベルクは,さらに機能和声の体制と規則的なリズムと拍節の構造を崩壊させたのである。…
…1800年以前の音楽は,作曲当時の演奏規模で演奏するのが理想であるという考え方に基づいて,古い時代の作品が室内管弦楽団のおもなレパートリーとなったが,20世紀の作曲家たちの中にも,いたずらに巨大化した編成による作品のみでなく,こうした小編成の緊密なアンサンブルによってのみできる表現に目を向けた人々が現れて,新しい作品が多く提供された。シェーンベルクの《室内交響曲》(1907),ブリテンの《シンプル・シンフォニー》(1925)等はその好例である。イ・ビルトゥオージ・ディ・ローマ(通称〈ローマ合奏団〉),イ・ムジチ室内合奏団,シュトゥットガルト室内合奏団,ロンドン・シンフォニエッタ,ハンガリーのリスト室内管弦楽団,ザルツブルク・カメラータ・アカデミカ等がすぐれた演奏で知られる。…
…音階中の諸音を,主音や主和音の支配の下にまとまりを形づくるものと考える従来の調性による音楽に対して,十二音技法は新しい音楽表現の追求から,平均律の12種の音を均等に用いた作法。十二音技法にはハウアーJoseph Matthias Hauer(1883‐1959)とシェーンベルクの方法があるが,今日通常はシェーンベルクのものを指す。ハウアーは《音楽的なるものの本質についてVon Wesen des Musikalischen》(1920)によって,シェーンベルクより早くこの技法を提唱したが,広まることなく終わった。…
…ウェーベルンはこのような関係の音列を好んで用いた。また図1はI6の前半とO1の後半(その逆も)の諸音は同じとなり,シェーンベルクが好んで用いたもの。彼はこれを〈奇跡の音列〉と呼んだが定義があいまいなため,のちにその名称を取り下げた。…
…19世紀末にはこうした傾向がますます強くなり,同時に調性の力は弱化した。20世紀初頭にはドビュッシー,スクリャービンらは中心音性は残しながらも機能和声法に拠らない新たな和声語法を創案し,シェーンベルクは中心音性すら否定した無調音楽を生み出した。第1次大戦後,シェーンベルクが十二音技法(十二音音楽)を創案(1921)したことによって,調性の時代は事実上終わった。…
… また,《古着屋》の主役ピエロの持つもう一つの側面,すなわち〈犯罪者のピエロ〉は,不安な潜在意識につき動かされる近代人のグロテスクさを持ち,そこにはドイツの劇作家G.ビュヒナーの《ボイツェック》などとの共通点が見いだせる。作曲家A.シェーンベルクの《ピエロ・リュネール(月に憑かれたピエロ)》(1912)は,こうした世紀末の時代における病的な死の想念にとりつかれたピエロ像を描いて,ドビュローの〈白いピエロ〉に対して,〈黒いピエロ〉ともいうべき病める精神の道化を創造している。 T.ゴーティエも,みずからピエロを主人公とした劇作《死後のピエロ》を書き,当時(19世紀中葉)の演劇の主流だったメロドラマやF.ポンサール風の悲劇よりも,バレエやパントマイムを評価した。…
…A.シェーンベルクの無調時代の代表的な作品(作品21)で,1912年に作曲され,〈初演者ツェーメ夫人に心からの友情をもって〉献呈された。邦訳名は《月に憑(つ)かれたピエロ》。…
…原初的表現への志向は,バイエルンの農民ガラス絵に触発された〈ブラウエ・ライター〉派にもみられるが,彼らはそこにひそむ精神的なものを表現手段(点,線,面,色彩)の自律的な構成にふりむけ,抽象への道をたどった。それはウィーンにおける無調音楽への営みと結びつき,彼らはシェーンベルクらの協力を得て《ブラウエ・ライター》誌を刊行している。また新生を求めるシェーンベルクの悲劇的パトスは,クリムトの影響を脱したウィーンの若い表現主義の画家,つまりココシュカの幻視的人物像やシーレの死を秘めた自画像などにも暗示的な姿で現れている。…
…同誌は〈大いなる精神の時代〉を予見する両編集者の論文をはじめ,抽象芸術に関する論考をロシア,ドイツ,フランスなど国際的規模で収め,抽象を志向する今世紀前衛芸術の先駆的な一里程標となった。彼らの抽象志向は諸芸術総合の理念と密接な関係にあり,それは当時画家でもあった作曲家シェーンベルクの寄稿,カンディンスキーの音と色と運動を総合する舞台構成論と,さらにそれを具体化した《黄色い響き》などに端的に表れている。また多数収録された古今の図版,とくに民衆的,民俗的,原始的な図像や児童画は,抽象志向と芸術の根源的探求との強い結びつきを示している。…
…六人組の各人はやがて各自の個性を追求していくのであるが,両大戦間の動向をフランスに関して大づかみに要約すれば,新古典主義的モダニズムということになるであろう。シェーンベルクらの試みは,フェルーPierre Octave Ferroud(1900‐36)らの現代音楽発表のための国際的機関である室内楽協会〈トリトン〉が鋭意紹介に当たったが,大勢は占めなかった。 その間にみられた当時の音楽のある種の抽象性に抗議して,メシアン,ジョリベ,ダニエル・ルシュール,Y.ボードリエら4人がグループ〈ジュヌ・フランス〉を1936年に結成した。…
…ミュジック・セリエルとはこの構成要素それぞれを単位として〈列(セリー)〉化(用いる単位の順序を一定の列として規定すること)し,そのセリーに従って作曲する技法である。 音高のセリー化はシェーンベルクの十二音音楽(1921)において行われたが,音価,音色,音強のセリー化は,それが独立した単位として認識されるまで持ち越された。音高以外の要素への関心は,ストラビンスキーの《春の祭典》(1913)におけるリズム(音価)の強調,シェーンベルクの《五つの管弦楽曲》(1909)における音色旋律などに早くからみられており,ウェーベルンの《管弦楽のための変奏曲》(1940)における音価のセリー的処理,メシアンの《アーメンの幻影》(1943)におけるリズム・カノンなどでしだいに明確化されてきた。…
…広義には中心音をもたない音楽のことで,シェーンベルク,ウェーベルン,ベルクらの1908‐10年ころの作品から十二音技法による諸作品,同時期以降のスクリャービンのいくつかの作品,またその後今日に至るまでの,特定の中心音をもたない音楽全般を指す。その意味では,シェーンベルクの十二音技法は無調音楽の理論的組織化といえる。…
…ポーランド出身のフランスの音楽理論家,教育家,指揮者,作曲家。幼時にバイオリンを学んだのち,1926年パリに移住,その後ウィーンでA.ウェーベルン,ベルリンでA.シェーンベルクに師事し,パリに戻ってM.ラベルから管弦楽法,P.モントゥーから指揮法を教わる。45年以後50年代60年代パリを中心にして幅広い活動を展開した。…
…
[音楽]
ワイマール文化のモダニズム的革新性と虚妄性の逆説的結合は,音楽の領域においても顕著だった。ベルリン音楽院作曲科の教授として,F.ブゾーニに続いてシェーンベルクが招かれたことは,執拗に反対した保守派に対するアバンギャルドのコスモポリタニズムの一時的勝利ではあったが,ベルクの《ウォツェック》を除けば,〈無調性〉の音楽は結局一般の支持を受けることはできなかった。ブレヒトの《三文オペラ》のためにクルト・ワイルが作曲したソングは圧倒的な成功を収めたが,この消費音楽の音素材はまことに陳腐なものだった。…
※「シェーンベルク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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