改訂新版 世界大百科事典 「バレエリュッス」の意味・わかりやすい解説
バレエ・リュッス
Ballet Russe
ロシアの芸術愛好家ディアギレフの主宰により,1909年より29年まで主としてヨーロッパを中心に活動したバレエ団。ロシア・バレエ団ともいう。最初はバレエのみでなく歌劇も交えて上演し,セゾン・リュッスSaison Russeと呼ばれたため,現在もロシアの文献ではこの名称が用いられる。第1回公演は1909年5~6月にパリのシャトレ座で開催された。演目はすべてM.フォーキンの振付によるものであった。フォーキンは当時のバレエが踊り手の技術を見せるためにのみ制作されることに強く反対し,個々のバレエの内容そのものが要求する表現をとることを主張した。このとき上演された《アルミードの館》《レ・シルフィード》《クレオパトラ》などは,その具体例であって,19世紀的なものからの完全な脱却ではないが,技巧に走ることを慎み,19世紀のバレエの常套的衣装をできるだけ避けるなどの改革が示された。また当時ロシアのみに保たれていた厳格な古典舞踊教育機関(ペテルブルグ帝室マリインスキー劇場舞踊学校)の養成したA.パブロワ,T.P.カルサビナ,ニジンスキーの演技はパリの観衆に熱狂的に迎えられた。さらにボロジンのオペラ《イーゴリ公》第2幕における男性舞踊手群の勇壮な戦士の踊りが,この公演を決定的なものとした。この成功によりディアギレフはパリの芸術社会で注目を浴び,多くの才幹がその周囲に集まったばかりでなく,バレエ・リュッスの作品に進んで協力することになった。その結果生まれたのが詩人ボードアイエJean Louis Vaudoyer(1883-1963)の提案による《バラの精》(1911),J.コクトー台本の《青い神》(1912)であり,《ダフニスとクロエ》(1912),《遊戯》(1913)には,それぞれラベル,ドビュッシーが新曲を書き下ろしている。しかしこの時期においては上演作品の主流はロシア・エキゾティシズムであり,ストラビンスキーはそのディアギレフの意図を踏まえて《火の鳥》(1910),《ペトルーシカ》(1911),《春の祭典》(1913)を作曲し,新進作曲家として世に出た。この時期の作品の舞台美術や衣装を多く担当したブノワ(ベヌア),バクストもそのロシア的色彩によって名を成した。これまでがバレエ・リュッスの第1期であり,上記に加えてニジンスキーの天才舞踊家としての名声の確立および古典舞踊の基礎をすっかり否定した彼の振付による作品《牧神の午後》(1912),《春の祭典》の成功がこの時期の特徴である。
第2期といわれるのは1917年から21年初頭までで,退団したニジンスキーの後を継ぐべく抜擢されたマシンの振付になる作品群を中心に展開された。この時期にはエキゾティシズムはほとんど影をひそめ,一座の国際的な性格が顕著となる。これは第1次大戦とロシア革命によりディアギレフが故国を失ったこと,およびロシアからの踊り手補給の道が断たれたことと関係があろう。まずコクトーの台本,ピカソの舞台美術,サティの音楽による未来派の作品《パラードParade》(1917)となって現れ,同じくピカソの美術による《三角帽子》(ファリャ曲。1919)の上演,ドラン(《奇妙な店》1919),マティス(《うぐいすの歌》1920)の起用という美術家重視の方向へ引き継がれる。
演劇的内容の濃い作品を作ったマシンの退団,《眠れる森の美女》のロンドン長期公演(1921-22)の失敗などによって足踏みをしたバレエ・リュッスは1923-29年には第3黄金期を迎える。ニジンスカ,バランチンの2人の振付家を世に出し,のちにマシンが復帰して数多くの傑作を生み出した。上演作品は多様性を示し,ロシア・フォークロア的な《結婚》(1923),フランス上流社会を描いた《ブルー特急》(1924),社会主義ロシアを題材にした《鋼鉄の歩み》(1927),ギリシア神話からの引用《ミューズを導くアポロ》(1928)などである。第2期と同じく,パリ美術界との接触は深く,ローランサン(《牝鹿》1924),ブラック(《うるさ方》1924),ユトリロ(《バラバウ》1925),エルンストとミロ(《ロミオとジュリエット》1926),キリコ(《舞踏会》1929),ルオー(《放蕩息子》1929)ら20世紀美術の新たな方向性を示す作家が参加した。またプーランク(《牝鹿》),オーリックGeorges Auric(1899-1983。《うるさ方》),ミヨー(《ブルー特急》),ソーゲHenri Sauget(1901-89。《牝猫》),プロコフィエフ(《鋼鉄の歩み》《放蕩息子》)などの新進作曲家が作品を書き下ろしている。
バレエ・リュッスは29年のディアギレフの病死によって解散するが,以上のようにディアギレフは,ロシア芸術の紹介として始めたバレエ・リュッスを,当時のパリ芸術界の動向を先取りしつつ一つの芸術運動として脱皮させた。これらの実現は彼自身が主題の決定から各部門の担当者の選定までを行い,作品の生成の過程を見守り,部分的改良を命じ,最後までその統一に責任をもったことによって可能となった。そしてバレエは,ディアギレフの手によって初めて,文学,音楽,絵画,舞踊が一つに融合した総合芸術の道を歩み始めるのである。ディアギレフなくしてバレエの近代化はありえなかった。このことはバレエ・リュッスを経験していないロシアのバレエが近年まで前近代性から脱却しえなかったことが物語っている。
さらにまた,沈滞していたフランス・バレエを救ったS.リファール,バレエの存在しなかったイギリスに一流のバレエ団をつくり上げたド・バロア,アメリカ・バレエを育てたバランチンがバレエ・リュッスから出発していることからも明らかであろう。
執筆者:薄井 憲二
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