ビューロー

デジタル大辞泉 「ビューロー」の意味・読み・例文・類語

ビューロー(bureau)

官庁などの局・部・課。
事務所。案内所。「ツーリストビューロー
引き出し付きの事務机。また、鏡台の付いた箪笥たんす

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精選版 日本国語大辞典 「ビューロー」の意味・読み・例文・類語

ビューロー

  1. 〘 名詞 〙 ( [英語] bureau )
  2. 官庁などの局・部・課。〔外来語辞典(1914)〕
  3. 事務所。
    1. [初出の実例]「ビューローでリストの照合が終わると」(出典:プレオー8の夜明け(1970)〈古山高麗雄〉)
  4. 案内所。フロント。
    1. [初出の実例]「帝国ホテルの帳場(ビュウロウ)を呼び出し」(出典:魔都(1937‐38)〈久生十蘭〉三一)
  5. 背の低い箪笥(たんす)の上に鏡台のついた家具。また、引き出しつきの事務机。

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百科事典マイペディア 「ビューロー」の意味・わかりやすい解説

ビューロー

ドイツの指揮者ピアノ奏者。ドレスデンに生まれ,早くから楽才を発揮する。《ローエングリン》を聴いてワーグナーに傾倒し,ワーグナーとリストのもとで学んだのちピアノ奏者としての名声を確立。リストの娘コジマと結婚後1867年ミュンヘンの宮廷楽長に就任し,《トリスタンとイゾルデ》《ニュルンベルクマイスタージンガー》の初演を指揮。コジマがワーグナーのもとへ走ってからはワーグナーと袂(たもと)を分かち,当時のドイツ楽壇をワーグナーと二分していたブラームスの側に与(くみ)した。J.S.バッハ,ベートーベン,ブラームスを〈三大B〉と称えたことは有名。1887年−1893年,発足まもないベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の初代常任指揮者を務め,ドイツ屈指のオーケストラに育成。その指揮ぶりは,近代指揮法の典型を示すものといわれている。チャイコフスキーに献呈された《ピアノ協奏曲第1番》の初演者としても知られる。→R.シュトラウス/H.リヒター

ビューロー

ドイツの政治家。1897年ドイツ帝国外相,1900年宰相。膠州湾租借,バグダード鉄道建設など海外進出政策を推進し,1905年モロッコ事件を起こした。国内では国会に与党ブロックを形成して施政に当たったが,1909年ブロック諸党と衝突して辞職。
→関連項目ホーエンローエ

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改訂新版 世界大百科事典 「ビューロー」の意味・わかりやすい解説

ビューロー
bureau

事務机または書きものテーブルのこと。ビューローの語は書きものをするテーブルやチェスト(櫃)の上にかけた,厚手の粗い毛織物(ビュールbure)に由来し,17世紀の家具の分化と発達の結果,ルイ14世時代に書きもの専用の机ができるようになってから,事務机または書きものテーブルそのものの名称となった。四脚の上に横長の甲板をのせ,その下部に引出しをつけたものが普通の形式で,17世紀後期のフランスで流行した。先が渦巻形の脚と左右の袖に三つの引出しをつけ,〈ブール象嵌〉(A.C.ブール)で飾った机は〈ビューロー・マザランbureau Mazarin〉,小型のものは〈書きものテーブルbureauà écrire〉などと呼ばれた。18世紀には〈ビューロー・ア・シランドルbureau à cylindre(シリンダー・ビューロー)〉と称して机の上に整理棚と引出しをセットした戸棚があり,その戸棚を4分の1円筒形の上げ下げ扉で閉じるようになったものや,〈ビューロー・ア・パントbureau à pente〉と称して,傾斜した蓋が取りつけられ,本や紙をのせることができ,これを前方に開くと書きもの机として使用することもできるものが現れた。これら新形式のうち前者は男子用,後者は鏡や化粧品を入れるスペースを備えてあるので婦人用として使われた。イギリスでは下部が簞笥chest of drawers,上部に整理棚と引出しを組み込み,傾斜した開閉できる蓋をつけた形式のものを,またアメリカでは寝室用の簞笥をビューローと呼ぶ。

執筆者:


ビューロー
Hans von Bülow
生没年:1830-94

ドイツの指揮者,ピアノ奏者。近代指揮法の確立に貢献,後に続いた指揮者たちに大きな影響を及ぼした。ピアノを学び演奏家として活躍を始めたが,ライプチヒ大学に入学,法律を専攻。しかし1850年R.ワーグナーの《ローエングリン》初演に接し,音楽を志す。53年ドイツとオーストリアを演奏旅行,ピアノ奏者として名を挙げ,57年リストの娘コジマと結婚。64年ミュンヘン宮廷歌劇場指揮者,67年宮廷楽長となり,その間に《トリスタンとイゾルデ》《ニュルンベルクのマイスタージンガー》の初演を指揮。69年コジマがワーグナーのもとに去ったため,フィレンツェに移る。以後ワーグナーとは不仲になり,ブラームスに加担,その作品を積極的に紹介するようになった。77-79年ハノーファー宮廷劇場楽長。80-85年マイニンゲン宮廷楽長,87-93年ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団常任指揮者を務めた。ピアノ教師としても有能で,ベートーベンやショパンのピアノ作品の校訂版を出している。
執筆者:


ビューロー
Bernhard von Bülow
生没年:1849-1929

ドイツ帝国の政治家,外交官。1897年外相,1900年帝国宰相に就任。国内では〈結集政策〉によって支配階級の結束をはかり,対外的には活発な〈世界政策〉を展開,また大海軍の建設を推進。このため英仏との対立が激化し,深まる孤立から脱するため05年第1次モロッコ事件をひきおこしたが失敗した。増大する軍事費調達のため財政改革を企図したが,議会の反対で挫折,09年失脚した。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ビューロー」の意味・わかりやすい解説

ビューロー
Bülow, Bernhard Heinrich, Fürst von

[生]1849.5.3. クラインフロトベク
[没]1929.10.28. ローマ
ドイツの政治家,外交官。 1874年ドイツ外務省に入り,ローマ,ウィーンなどの大使館に勤めた。 88年ブカレスト駐在公使,93年ローマ駐在大使,97年外相,1900年 C.ホーエンローエ=シリングスフュルストの跡を継いで帝国宰相,プロシア首相となった。外交政策については F.ホルシュタインの強い影響を受け,ウィルヘルム2世の世界政策を推進した。しかし3B政策の遂行にあたってまずイギリスと衝突して中東進出を阻止され,05~06年のモロッコ危機ではその主張を押し通すことに失敗。 08年のオーストリアのボスニア併合問題ではオーストリアを支持してロシアの不興を買い,次いでイギリスとの関係改善をはかったが,A.ティルピッツによる海軍拡張を阻止できずに失敗するなど,ドイツの国際的孤立化を招いた。内政面でも最も重要な帝国とプロシアの関係や選挙法改正などの問題を解決できなかった。 09年増税案を提出したが,皇帝,保守党,中央党などに反対され辞任。 14年全権大使としてローマに派遣されイタリアの中立化に努力したが実らなかった。著書『回想録』 Denkwürdigkeiten (4巻,1930~31) 。

ビューロー
Bülow von Dennewitz, Friedrich Wilhelm, Graf

[生]1755.2.16. ファルケンベルク
[没]1816.2.25. ケーニヒスベルク
ドイツ,プロシアの軍人。解放戦争に参加,1812年東・西プロシア長官。 13年グロースレーベン,デネウィッツでフランス軍を破り,ライプチヒの勝利の一因をなした。 14年オランダ,ベルギーのフランス軍を駆逐して北西方面からフランスに侵攻,同年デネウィッツ伯の称号を得た。 15年ワーテルローの会戦ではブリュッヒャー軍の一軍団長としてナポレオン軍の側面を突き,その敗北の主因をなした。戦後ケーニヒスベルク要塞司令官。

ビューロー
Bülow, Hans (Guido, Freiherr) von

[生]1830.1.8. ドレスデン
[没]1894.2.12. カイロ
ドイツの指揮者,ピアニスト。ピアノを F.ビークとリストに学び,ワーグナーや K.リッターのもとで指揮を学んだ。 1857年にリストの娘コジマと結婚,64年ミュンヘンのルートウィヒ2世の宮廷楽長となり,『トリスタンとイゾルデ』 (1865) などワーグナーの作品の初演をしたが,70年妻コジマはワーグナーのもとに去った。ビューローはその後もワーグナーの作品を紹介し,77~80年にはハノーバー,80~85年にはマイニンゲンで指揮した。

ビューロー
Bülow, Dietrich Adam Heinrich, Baron von

[生]1757. ファルケンベルク
[没]1807. リガ
ドイツ,プロシアの軍人,軍事著作家。 F.ビューロー将軍の弟。 1773年に陸軍に入り,プロシア軍の組織を非難したために捕われ,後日ロシア軍の手中に陥り獄死した。主著『近代軍制の精神』 Geist des neueren Kriegssystem (1799) ,『近代軍制の教則』 Lehrsätze des neueren Kriegs (1805) 。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ビューロー」の意味・わかりやすい解説

ビューロー(Bernhard Fürst von Bülow)
びゅーろー
Bernhard Fürst von Bülow
(1849―1929)

ドイツの政治家、外交官。1893年駐イタリア大使、1897年から外相、1900年帝国宰相(~1909)に就任。皇帝ウィルヘルム2世の信任を得て、国内で「結集政策」により支配層の結束に成功。対外的には帝国主義的「世界政策」を推進。バグダード鉄道の建設や艦隊増強を進め、大いに国威を発揚した。しかし、英仏との対立が激化し、1904年にイギリス・フランス協商が成立、ドイツの孤立が深まった。1905年英仏の仲を裂くため、第一次モロッコ事件(タンジール事件)を引き起こしたが失敗。また、増大する軍事費を調達するため、財政改革を行おうとしたが、保守党の反対にあって挫折(ざせつ)、皇帝の信頼も失って、1909年失脚した。

[木谷 勤]


ビューロー(Hans von Bülow)
びゅーろー
Hans von Bülow
(1830―1894)

ドイツの指揮者、ピアノ奏者。ドレスデンに生まれ、音楽と法律を学ぶ。1850年ワーグナーの『ローエングリン』初演に接して感激、ワーグナーに師事。同年指揮者としてデビュー。53年からはピアノ奏者としても活動を始め、57年リストの娘コジマと結婚。64年バイエルン王室歌劇場指揮者となり、『トリスタンとイゾルデ』『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を初演、ワーグナーの作品の紹介と普及に貢献。69年コジマと離婚。彼女のワーグナーとの再婚を機にビューローはワーグナーから離れ、ピアノ奏者として欧米各地に演奏旅行、名声を博した。80~85年マイニンゲン宮廷楽長、87~93年ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団初代常任指揮者。ワーグナーから離れたのちは、ブラームスやチャイコフスキーの作品の紹介に力を入れた。

[岩井宏之]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ビューロー」の解説

ビューロー
Bernhard Fürst von Bülow

1849~1929

ドイツの政治家。ローマ大使をへて1897年外相,1900年首相となり,膠州(こうしゅう)湾の租借,バグダード鉄道の建設,大艦隊の建設など世界政策を推進,ドイツの孤立を招いた。07年保守党から自由主義左派に至るビューロー・ブロックを形成して帝国主義政策の遂行にあたったが,09年財政改革問題をめぐってブロックが崩壊,辞職した。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

家とインテリアの用語がわかる辞典 「ビューロー」の解説

ビューロー【bureau】

ライティングビューロー。上部に鏡のついたチェストをいうこともある。⇒ライティングビューロー

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旺文社世界史事典 三訂版 「ビューロー」の解説

ビューロー
Bernhard Fürst von Bülow

1849〜1929
ドイツ帝国の外交官・政治家
ヴィルヘルム2世の下で1900年宰相となり,その世界政策の遂行につとめたが,逆に三国協商の成立をみ,ドイツの孤立化を招いた。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

367日誕生日大事典 「ビューロー」の解説

ビューロー

生年月日:1755年2月16日
プロシアの軍人
1816年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のビューローの言及

【ドイツ帝国】より

…在任1894‐1900)の時期には,皇帝が再び弾圧立法を提案したり,政府とその政策に足並みの乱れと動揺とが目だち,さらに議会主義やプロイセン邦議会の三級選挙法改正を求める世論の高まりが,支配層の危機感を深めた。皇帝と帝国宰相B.vonビューロー(在任1900‐09)はこの動揺を鎮め,支配層の結集をはかるため農業関税の再引上げや重工業の利益になる大艦隊の建造を進める一方,膨張主義的世界政策の展開によって国民の統合をはかった。しかし増大する軍事費の負担をめぐって支配層の内部にも対立が生まれ,帝国宰相ベートマン・ホルウェーク(在任1909‐17)はこの対立の打開に腐心したが解決策を見いだせず,左右から批判を浴びた。…

【平均律クラビーア曲集】より

…時代に先駆けたその進歩的な性格だけでなく,各曲の驚くべき多様性と芸術的な豊かさゆえに,この曲集は西洋音楽の最も偉大な古典の一つとみなされ,早くもベートーベンの時代から,あらゆる音楽教育の礎石をなしてきた。19世紀の大指揮者H.vonビューローがいみじくも呼んだように,《平均律》は音楽の旧約聖書,ベートーベンの32曲のピアノ・ソナタは新約聖書ともいうべき存在である。第1巻は1722年,第2巻は1742年ころに完成された。…

【レコード】より

… エジソンの円筒式蓄音機は録音・再生両用で,彼ははじめその効用を主としてことばの記録においていた。蠟管になってJ.C.ホフマン,H.vonビューロー(以上1888),ブラームス(1889)らのピアノ録音が行われた。1890年ころ現れたコイン投入式の商業用の蓄音機が音楽レコード生産のきっかけを与えた。…

【机】より

…これに伴いポータブル・デスクは急速に衰退した。フランスでは粗い毛織物ビュールbureを机にかけて書きものをしたことから,これをビューローbureauとよぶようになった。ビューローは17世紀後期から18世紀にかけて西欧で流行した代表的な机である。…

【机】より

…これに伴いポータブル・デスクは急速に衰退した。フランスでは粗い毛織物ビュールbureを机にかけて書きものをしたことから,これをビューローbureauとよぶようになった。ビューローは17世紀後期から18世紀にかけて西欧で流行した代表的な机である。…

※「ビューロー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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