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フリードリヒ[2世] フリードリヒ

百科事典マイペディアの解説

フリードリヒ[2世]【フリードリヒ】

シュタウフェン朝神聖ローマ皇帝(在位1220年―1250年),シチリア王(在位1197年―1250年)を兼ねる。ハインリヒ6世の子。教皇インノケンティウス3世の後見を受け,イタリア,シチリアの経営に没頭。
→関連項目モンテ城ロンバルディア都市同盟

フリードリヒ[2世]【フリードリヒ】

プロイセン国王(在位1740年―1786年)。フリードリヒ・ウィルヘルム1世の子。大王と呼ばれるオーストリアハプスブルク家に対抗してオーストリア継承戦争シュレジエン戦争七年戦争を戦い抜き,シュレジエンを獲得してプロイセンの地位を確立。
→関連項目クアンツ啓蒙絶対主義サンスーシ宮殿絶対王政フリードリヒ・ウィルヘルム[1世]プロイセンベルリン国立博物館ホーエンツォレルン[家]メンツェルリーグニツの戦

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世界大百科事典 第2版の解説

フリードリヒ[2世]【Friedrich II】

1194‐1250
シュタウフェン朝最後の神聖ローマ皇帝(在位1220‐50),シチリア王(在位1197‐1250)。ハインリヒ6世とシチリア王女コンスタンツェ(ノルマン朝シチリア王ルッジェーロ2世の息女)の間にパレルモ生まれる。1196年ハインリヒ6世はこの幼児をドイツ国王に選ばせたが,翌97年同帝の予測せぬ死により情勢は激変,ドイツにはウェルフェン家オットー4世とハインリヒ6世の弟フィリップ(シュタウフェン家)の二重王権の対立状態が現出する。

フリードリヒ[2世]【Friedrich II】

1712‐86
プロイセン王。在位1740‐86年。通称フリードリヒ大王Friedrich der Grosse。フリードリヒ・ウィルヘルム1世の子であるが,およそ文化に無関心な父と異なり,少年時代からフランス風の文芸や音楽を好み,即位の前年に著した《反マキアベリ論》で開明的な君主の理想を描いた。しかし王座に登るとまもなく,マリア・テレジアのオーストリア継承権に異議を唱えてシュレジエンを不法に占領し,マキアベリストの本質をあらわにする(オーストリア継承戦争)。

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世界大百科事典内のフリードリヒ[2世]の言及

【イタリア文学】より

…一方,吟遊詩人たちがオック語やオイル語(フランス語)の文学を北イタリアにしきりにもたらしているころ,プロバンスの恋愛詩を積極的に取り入れ,俗語詩を真っ先に開花させたのは,シチリアのホーエンシュタウフェン家の宮廷であった。フェデリコ(フリードリヒ)2世はパレルモの宮廷に各地から人材を集め,みずからも詩を書いたが,それは決して王侯の手慰みではなかった。彼は芸術,科学,哲学などを奨励したが,それらを保護しようとしたのではなく,現実にそれらをつくりだそうとしたのである。…

【シチリア王国】より

…しかし男系が絶えたため,グリエルモ1世の妹コンスタンツァと結婚したホーエンシュタウフェン家のハインリヒ6世が王位継承権を主張し,各地の抵抗を鎮圧して即位した(在位1194‐97)。彼の死後,王国は教皇インノケンティウス3世の仲介によってハインリヒの子フリードリヒ2世(在位1198‐1250)に受け継がれたが,その際に,教皇はノルマンのシチリア征服以来王国が教皇の封臣であることを宣言した。フリードリヒはノルマン朝の伝統を受け継ぎ,教会,都市,封建領主などの権利を厳しく制限し,官僚制を整え,裁判権を集中する一方,塩,鉄,絹などの国家独占によって財政基盤を強化した。…

【十字軍】より

… 12世紀中葉から末期にかけて,十字軍側と,ファーティマ朝を打倒してエジプトとシリアにまたがるイスラム統一勢力を結集した英傑サラーフ・アッディーン(サラディン)を始祖とするアイユーブ朝(1169‐1250)の〈ジハード(聖戦)〉との戦いは,エルサレムの争奪をめぐって熾烈となり,1187年7月ヒッティーンの戦に大勝したサラーフ・アッディーンはエルサレムを同年10月に奪回した。これに対し西欧3大国の君主(イングランド王リチャード1世,フランス王フィリップ2世,神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世)が勢ぞろいした大規模な第3回十字軍(1188‐91)が編成され,両者の争いはその最高潮に達したが,結局西欧側の退勢を挽回し得ず,かろうじて1192年エルサレムへのキリスト教徒巡礼の自由通行を保障する協定の締結をもって幕を閉じた。
[中期十字軍]
 西欧側は臨時首都アッコを中心として,エルサレムなき残存領土の維持に努める一方,シリア・パレスティナの外周地域で間接的作戦を行いつつ,外交手段をもってエルサレム奪回を企てた。…

【シュタウフェン朝】より

…1138年から1254年まで,事実上連続してドイツ国王位につく。その間,フリードリヒ1世ハインリヒ6世フリードリヒ2世という3世代の英主は,いわゆる神聖ローマ皇帝としてヨーロッパ的覇権の樹立を目ざす。彼らの努力は結局挫折に終わるが,シュタウフェン諸帝の活躍は中世的皇帝権に最後の輝きを添えたものと評価されている。…

【第三帝国】より

…第3は聖霊の秩序で,全き知識と自由にみちた時代である。ヨアキムによれば,この第3期は1260年に始まり,そのときにはドイツ,イタリア両国にまたがって教会を支配しようとしたフリードリヒ2世がアンチキリストとなり,他方フランシスコ会修道士たちが指導して歴史を完成させ,再臨のキリストを迎えるに至る,という。この教えの信奉者たちは,フリードリヒが1250年に死んだことで期待を裏切られたが,アッシジのフランチェスコこそ第3期の最初の指導者であったとして,既成教会と対立した。…

【ナポリ大学】より

…1224年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世によって,教皇権と密接に関係したボローニャ大学に対抗する大学として設立された。ボローニャが学生組合主体の自生的大学であったのに対して,皇帝権という普遍的権力による最初の設立型中世大学として注目される。…

【パレルモ】より

…ノルマン王朝の下で,1130年,パレルモはシチリア王国の首都となり,イスラム文化の伝統とも共存し,いわゆる12世紀ルネサンスの一大中心地ともなった。続くシュタウフェン朝のフリードリヒ2世は,ドイツ国王とシチリア国王を兼ねる神聖ローマ皇帝としてパレルモに居を定め,その宮廷は国際文化交流の場として地中海文明の中心地ともなった。みずからも詩作をするフリードリヒ2世の宮廷からは〈シチリア派〉の詩人と呼ばれるイタリア俗語詩の優れた作家が輩出した。…

【フリードリヒ伝説】より

…神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世および1世にまつわる伝説。どのような社会にも危機に際してかつての黄金時代へ回帰しようとする願望が生まれるが,ヨーロッパ中世にも13世紀半ばころにヨアキム・デ・フローリスの世界の終末についての預言によって最後の皇帝への願望が生まれていた。…

【メッツォジョルノ】より

イタリア【堺 憲一】
【文学】
 メッツォジョルノが文学史に登場するのは,ラテン語から派生して,民衆語として各地域でばらばらに発達したイタリア語を,イタリア全土に共通する言語にまで洗練する必要が強く意識されるようになった13世紀初めであった。この時期に神聖ローマ皇帝に即位したフェデリコ(フリードリヒ)2世は,ギリシア語原典をラテン語に翻訳させるなどの文化政策を推進したため,イタリア各地やプロバンス地方からも多くの知識人がその宮廷に集まり,ここにシチリア派と呼ばれる一群の詩人たちが登場した。この詩派の最大の功績は,それまで単なる民衆口語にすぎなかったイタリア語を詩の言葉として洗練したことであり,ダンテは《俗語論》のなかで,彼らをイタリア語による文学の出発点として位置づけている。…

【メルフィ法典】より

…神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(1194‐1250)が1231年に南イタリアのメルフィで制定したシチリア王国の勅法集成。《皇帝の書Liber Augustalis》とも呼ばれる。…

【山】より

…山には王や英雄ばかりか軍勢まで死後にすんでいるという伝説が西ヨーロッパに多い。ドイツのハルツ山地にあるキュフホイザーKyffhäuserにはフリードリヒ2世(のち1世赤髭王に結びつけられる)が座ったまま待機していて祖国存亡の時がくると兵を率いて駆けつけるという(フリードリヒ伝説)。死者が山にすむという信仰から,山はまた小人や妖怪,悪魔,幽霊が寄り集まる所ともされた。…

【ランデスヘルシャフト】より

… ランデスヘルシャフトの形成過程はきわめて複雑であって,なんらかの要素(例えばグラーフ権力やグルントヘルシャフト)にその基礎を一元的に求めた旧学説と異なり,今日では,多様な諸権利を束ねて一つの実力的支配=保護権力を築いてゆく聖俗諸侯の政治的努力の過程が重要視されている。それは11世紀から12世紀にかけて聖界諸侯領で先進的に成立し,13世紀にはバイエルン,オーストリア,マイセンなど有力な世俗諸侯領において,とくに強力な展開を示したが,皇帝フリードリヒ2世(在位1220‐50)の時代における二つの勅法は,そうしたランデスヘルの地位と権限とを帝国法的に承認したものとして画期的な意義をもっている。【山田 欣吾】。…

【領邦国家】より

…しかし神聖ローマ帝国ないしはドイツ王国を構成しているか否かは,領邦国家という概念の絶対的条件ではなく,皇帝権または王権からの自立度が強く一円的な支配領域を形成する諸侯領は領邦国家といってよく,たとえばドイツ騎士修道会領も領邦国家と呼ばれる。 ドイツで領邦国家ないし領邦君主に相当する語が初めて用いられたのは,皇帝フリードリヒ2世が聖俗諸侯に与えた2法(聖職諸侯1220年,世俗諸侯1231か32年)においてのことで,この2諸侯法はドミヌス・テラエdominus terraeすなわち領邦君主(ランデスヘル)に関税徴収権,鋳貨権,築城権,裁判権などの帝国の重要なレガーリエン(国王大権)を承認している。しかしこれらの諸権利はこの2法によって初めて諸侯に与えられたのではなく,2法は既成事実を承認したものにすぎなかった。…

【ロンバルディア都市同盟】より

…12世紀後半~13世紀前半にドイツ皇帝の強力な支配政策に対抗して北イタリアの主要都市が2回結成した大同盟。(1)第1回 神聖ローマ帝国を再建し,イタリアの繁栄する新興諸都市から権力と富を引き出そうと考えたフリードリヒ1世は,1158年イタリア支配を明らかにしたロンカリア立法を制定し,63年北イタリアの雄ミラノを征服し,実際に支配を確立したかにみえた。しかし,これに対抗してミラノを助ける同盟,すなわち64年ベローナ同盟が,さらに67年クレモナとポンティダの両都市代表者会議でロンバルディア諸都市の同盟が結成された。…

【医薬分業】より

…しかし医薬分業の制度がヨーロッパ全域に広がるのには長い年月を要した。一般には,1230‐40年,フリードリヒ2世Friedrich II(1194‐1250)がナポリ王国に調剤術と医術を分離した医薬分業制度を発令したのが公の医薬分業の制度のはじまりであるとされている。この制度が成立した基盤を考えてみると,医療の歴史を画する,ギリシア,ローマ,アラビアの各時代を経て医薬品の種類,剤形が増大し,医・薬の兼学が困難となり,また医師としては薬の調製という,いわゆる手仕事はふさわしい仕事ではないとするエリート意識から,薬の調製を調剤師にまかせるようになった。…

【音楽の捧げもの】より

…BWV1080)と並んで対位法技術の最高峰を示している。全13曲は同じ主題とその変形に基づいているが,この印象的な主題は1747年5月,バッハがポツダムを訪れたおりにプロイセン国王フリードリヒ2世(大王)が与えたもので(〈王の主題〉),そのときバッハは3声のリチェルカーレを即興演奏したと伝えられる。残りの部分はライプチヒに帰ってから作曲・印刷し,同年7月7日付けでフリードリヒ2世に献呈した。…

【騎兵】より

…しかし,ピストルの発明に着目して軽騎兵をピストルとサーベルで武装したスウェーデン王グスタブ2世によって,騎兵は歩兵,砲兵と並んで戦闘3兵種として復活した。グスタブ2世の騎兵運用は砲兵,歩兵によって組織戦闘力を崩したのち敵の側方から襲撃をかけて勝利を決定するもので,プロイセンのフリードリヒ2世はさらに騎兵に小型砲を装備させて,いわゆる横隊三兵戦術を完成し,騎兵の襲撃を多用した。 近代に入ると,ナポレオンは諸兵種連合の師団を創設したが,騎兵は師団内において3兵種の一つとして活躍した。…

【軍楽隊】より

… 18~19世紀,各国は軍事力の拡張に伴い,軍楽隊はその重要性を増すこととなった。近代軍楽隊の整備に最も熱心だったのは,フリードリヒ2世(大王)のプロイセンで,ウィープレヒトWilhelm Friedrich Wieprecht(1802‐72)は軍楽隊長として代表的存在である。また長い歴史をもつ軍楽隊として有名なフランスの〈ギャルド・レピュブリケーヌLa Musique de la Garde Républicaine〉は1848年の二月革命のときにパリ防衛のために組織された国民軍のバンドとして誕生した。…

【啓蒙絶対主義】より

…この時代フランスを中心に展開した啓蒙思想を,君主自身が〈上からの近代化〉のために採り入れ,官僚行政の拡充を通じて,さまざまの改革を試みたもの。これを代表する君主には,フリードリヒ2世(大王),ヨーゼフ2世などがあり,初期のエカチェリナ2世もそれに含められる。 啓蒙絶対主義の思想的源流のひとつは,フランスの重農主義者が唱えた〈合法的専制主義despotisme légal〉に見いだされるが,その意味するところは,君主を啓蒙して〈自然の理法〉を信奉せしめ,独裁権力による立法活動を通じて,伝統的な諸特権を排除することにより,この自然法則を社会に貫徹させることにあった。…

【サンスーシ宮殿】より

…ポツダムにあるドイツの代表的なロココ宮殿。〈サンスーシ〉はフランス語で〈気苦労なし〉の意で,フリードリヒ2世(大王)が命名した。大王自らの構想に基づき,クノーベルスドルフが設計した別荘建築である。…

【徴税請負】より

…また,民間の資本形成の遅れたプロイセンは,その先進的・効率的な官僚機構を利して長く請負制を避けていた。フリードリヒ2世(大王)は七年戦争を機にこの制度を導入し,フランス人の請負人に関税,消費税などの徴収をゆだねて税収を一挙に増大させた。しかし,徴税吏の過酷な徴収に対する反発が高まり,住民は彼らを〈吸血鬼〉と呼んで流血の衝突も続発した。…

【プロイセン】より


[騎士修道会国家プロイセン]
 プロイセン人は固有の部族宗教を奉じ,10世紀の末プラハ司教アダルベルトがこの地に布教を試みて殉教したのをはじめ,その後ポーランド王による一時的な支配とキリスト教化の努力にもかかわらず,13世紀初頭まで頑強にその政治的・宗教的な独立性を保った。1126年,ポーランドのマゾビア(マゾフシェ)公が,プロイセン人を服属させるためにドイツ騎士修道会を招致すると,皇帝フリードリヒ2世も勅状によってこの企てを是認し,占領地に対する支配権を約束した。騎士修道会は,およそ半世紀に及ぶ激しい戦闘を通じて,83年までにプロイセンの征服をなしとげ,皇帝・教皇の支持のもとで,帝国諸侯のそれに匹敵する強力な領邦主権をこの地にうち立てた。…

【プロイセン一般ラント法】より

…フランス民法典(ナポレオン法典)やオーストリア一般民法典と並ぶ18世紀プロイセンの大法典。1780年フリードリヒ2世(大王)の命により,従来の継受ローマ法(ローマ法の継受)の適用を排し,新たに理性とラントの事情に適合し補充的効力をもつ一般法典をつくる目的で,法典編纂事業が開始された。その推進力となったのは,カルマーJohann Heinrich Casimir Carmer(1720‐1801)やスバレツCarl Gottlieb Svarez(1746‐98)らの啓蒙司法官僚である。…

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