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ペルシア戦争 ペルシアせんそうGreco-Persian War

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ペルシア戦争
ペルシアせんそう
Greco-Persian War

ギリシア=ペルシア戦争とも呼ばれる。前 546年頃から前 448年頃にかけてギリシア諸都市とアケメネス朝ペルシアとの間で戦われた戦争。ペルシアは前 546年にリュディアのクロイソスを倒して以来小アジア沿岸のギリシア諸都市を服属させていた。前 514年ダレイオス1世はヨーロッパ征服の準備を始め,スキタイ攻撃には失敗したが,トラキアに橋頭堡を確保。次いで前 499年ナクソス遠征を試みたが,失敗した。その結果イオニア諸都市は,ミレトスのアリスタゴラスの扇動でアテネとエレトリアの援助を受け,ペルシアに対する反乱を起した。しかし前 493年までに鎮圧された。イオニア諸都市を制圧したあともダレイオスはギリシアにペルシアへの服従の印である「土と水」を要求し続け,前 490年にペルシア軍はエウボイアに上陸し,エレトリアとカリュストスを征服,9月にアッチカ北東マラトンに上陸した。アテネはスパルタに急使を送る一方,ミルチアデスの提案に基づき,重装歩兵 (ホプリタイ ) 隊をマラトンに派遣,未明にペルシア側の騎兵の不在をついて攻撃,重装歩兵の強みを発揮して圧勝し,ペルシア軍を退けギリシアの独立を守った。この遠征の失敗後,ペルシアはより大規模なギリシア侵入を試みた。前 480年ダレイオスの息子クセルクセス1世は陸海の大軍を擁してヘレスポントスを渡った。ギリシア側は連合し,スパルタに指揮権を与え,陸軍はスパルタ,海軍はアテネが主力であった。陸ではテルモピュレの隘路,海ではアルテミシオンで攻防が行われ,ギリシア側は2日間持ちこたえたが,3日目裏切りによりテルモピュレでレオニダス指揮下のスパルタを中心とした隊が全滅すると,海軍はサラミス水道へ撤退した。ギリシア連合軍の会議では,ペロポネソス勢はコリント地峡を防衛線とし,艦隊のアルゴス湾撤退を主張したが,アテネのテミストクレスはスパルタ提督エウリュビアデスの支持を受け,サラミスでの決戦を主張,詭計を用いてペルシア艦隊を狭いサラミス水道に誘い込むことに成功し,ペルシア側に大打撃を与え,制海権を失ったクセルクセスを帰国させた。ギリシア側は翌年マルドニオス指揮下のペルシア残留軍をプラタイアイとミュカレに破り,ペルシアの侵略を終息させた。以後アテネはデロス同盟を組織して攻勢に転じ,一連の勝利の結果,前 449/8年カリアスの平和が結ばれ,ペルシアはヨーロッパと小アジアのギリシア人の諸国家の自由を認めた。この結果ペルシア艦隊はエーゲ海から締出され,ギリシアはオリエントに対する優越感をいだくようになった。

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デジタル大辞泉の解説

ペルシア‐せんそう〔‐センサウ〕【ペルシア戦争】

前492~前449年、ギリシャペルシア帝国との間で行われた戦争。ペルシアは四度にわたってギリシャに侵攻、前480年にはアテネを占領したが、サラミスの海戦に大敗し、翌年プラタイアイの戦いにも敗れ、前449年の和議で正式に終結した。

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百科事典マイペディアの解説

ペルシア戦争【ペルシアせんそう】

前499年から前449年にわたるペルシア帝国とギリシア諸都市の戦争。発端は前499年から前494年にかけての小アジアのイオニア諸植民市のペルシア支配に対する反乱であった。
→関連項目アイスキュロスアクロポリスアテネアリステイデスエフェソスギリシア(古代)ダレイオス[1世]マケドニア王国ミレトス

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世界大百科事典 第2版の解説

ペルシアせんそう【ペルシア戦争】

前5世紀にギリシア人とペルシア人との間で戦われた歴史的戦争。前5世紀初頭のイオニア反乱に端を発し,前490年の第1回ペルシア戦争,その10年後の前480‐前479年の第2回ペルシア戦争を経て,アテナイ・ペルシア間の交戦状態は前449年の〈カリアスの和約〉まで続くが(スパルタ・ペルシア間の講和条約は同世紀末まで待たねばならない),第2回ペルシア戦争終了後のアテナイ主導の〈ペルシア戦争〉は,それ以前のものとは歴史的性格を著しく異にしており,同一の枠では扱えない。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ペルシア戦争
ぺるしあせんそう

紀元前5世紀前半にペルシア帝国とアテネ、スパルタを中心とするギリシア諸都市との間で行われた戦争。[伊藤貞夫]

イオニア反乱

戦いの発端は、小アジア西岸イオニア地方のギリシア諸市がペルシアの支配に対して蜂起(ほうき)した、いわゆる「イオニア反乱」にある。前500年、ミレトスの僭主(せんしゅ)アリスタゴラスは、自らその地位を退くとともに、他のイオニア諸市にも、当時ペルシアにより支配の手段として利用されていた僭主政を廃止するよう働きかけた。この呼びかけは、ペルシアの支配をはねのけようとする市民たちに広く受け入れられて、各市に反僭主・反ペルシアの運動が起こった。これらイオニア諸市は同盟を結び、ギリシア本土に来援を求めてペルシアと戦い、サルディス、ビザンティオン、キプロスを攻めて成果をあげたが、ペルシア軍はやがて反攻に転じ、前494年、ラデ島沖の海戦で勝利を収め、ミレトスを占領して大勢を決した。イオニア諸市はふたたびペルシアの支配に服することとなるが、僭主政は復活されなかった。[伊藤貞夫]

ダリウス1世の遠征(ペルシア戦争第1回遠征)

反乱鎮圧後、ペルシアの目は、それぞれ20隻、5隻の艦船をイオニアに送ったギリシア本土のアテネ、エウボイア島のエレトリアの両市に注がれた。前492年に海路トラキア遠征を行ったのち、前490年、報復のためダリウス1世は大軍をギリシアに派遣した。ペルシア軍はエレトリアを制したのち、アテネを襲って北東岸のマラトン平野に上陸したが、約1万のアテネ軍はミルティアデスの作戦に従ってこれを破り、ペルシアのアテネ占領を阻んだ(マラトンの戦い)。[伊藤貞夫]

クセルクセス1世の遠征(ペルシア戦争第2回遠征)

遠征に失敗したペルシアは、その後ダリウスの子クセルクセス1世の下で軍備を整え、前480年、第一次遠征軍をはるかに上回る大軍を王自らが率いて、ふたたびギリシア本土を目ざした。ギリシア側は、一部の都市を除き、スパルタとアテネを中心に結束を固め、エウボイア島の北端アルテミシオン岬と中部ギリシア北端のテルモピレー峠とを結ぶ線を海陸の防衛線と定めたが、二つの拠点はともに激戦のすえに破られ(アルテミシオンの海戦、テルモピレーの戦い)、ペルシア陸上軍はアテネに侵入する。この危機に際し、アテネの知将テミストクレスは、アテネ西方サラミス島東側の海峡にペルシア海軍を引き寄せて決戦を挑む策を連合軍の軍議で主張して、それを通し、陸上の玉座から観戦するクセルクセスの目の前でその大艦隊を壊滅させ、ペルシアのギリシア制圧の野望をくじいた(サラミスの海戦)。ペルシア陸上軍の一部は将軍マルドニオス指揮の下にギリシア北部にとどまったが、これも前479年、中部ギリシアのプラタイアイでギリシア連合軍に敗れ、撤退を余儀なくされた(プラタイアイの戦い)。同じころイオニアのミカレ岬でも、上陸したギリシア軍が大勝して、イオニア独立への道を開いた(ミカレ岬の戦い)。こののちペルシア軍とギリシア連合軍との戦いは、主戦場を東方に移して続行される。[伊藤貞夫]

終結まで

前478年ギリシア軍はキプロス島の諸都市の反乱を助け、ビザンティオンを攻めて、いずれもペルシア支配からの解放に成功する。前477/8年デロス同盟成立後もギリシア側の攻勢は変わらず、前467年アテネの将軍キモンの指揮の下に、小アジア南岸エウリメドン河口でペルシア軍を破り、前459年にはエジプトでの反乱を助けるべく兵を送っている。しかしエジプト遠征軍は前454年に大敗を喫し、キプロスでもペルシア側の反攻にあって、前450年これを放棄するのやむなきに至った。この戦いでキモンが死亡したことは、アテネに和平の機運を生じさせ、前449/前450年ギリシアとペルシアとの間に正式に和議が結ばれて(カリアスの和約)、ここに半世紀にわたるペルシア戦争は終結した。イオニア諸市は独立を認められ、ペロポネソス戦争末期に至るまでペルシアの支配から逃れえた。[伊藤貞夫]

意義

ペルシア戦争は、東方の大国ペルシアと西方ギリシアの小国家の連合とが戦い、兵力において格段に劣るギリシアが世界の戦史に輝く大勝を陸上、海上を問わずに博したことで名高い。この勝利をギリシア側からみれば、各ポリスの市民たちが、自ら享受していた自由と平等を、1人の専制王と彼に服属する臣民とからなる異民族の大軍に対して守り通したことを意味した。アテネをはじめギリシア諸市は、当時、民主政をほぼ確立し、市民たちの間には自らの国家を守る気概が満ちわたっていた。そのことがギリシア防衛を成功させた究極の原因とみられるが、このときの勝利はまた、東方の専制王国とは対照的な、自由な市民たちからなる世界についての自覚をギリシア人の間に芽生えさせ、以後のギリシアにおける政治と文化の著しい発展の重要なばねとなった。[伊藤貞夫]
『ヘロドトス著、松平千秋訳『歴史』(『世界古典文学全集10』1967・筑摩書房) ▽ヘロドトス著、松平千秋訳『歴史』上中下(岩波文庫)』

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世界大百科事典内のペルシア戦争の言及

【アテネ】より

…僭主となるおそれのある有力者を市民たちの投票によって10年間の国外追放に処した陶片追放(オストラキスモス)の制度も,クレイステネスの創案によると伝えられる。
[ポリス民主政の確立]
 前7世紀から前6世紀にかけ政治・経済・軍事の諸分野でスパルタ,コリントス,アイギナなどの諸ポリスにむしろおくれをとっていたアテナイを,前5世紀前半にギリシア第一の地位にまで押し上げたきっかけは,ペルシア戦争での勝利である。平民の政治参加に制度上の道を開き,市民団の団結を固める前提を整えていたこと,有力な重装歩兵集団を擁したばかりか,ラウリオン銀山での大鉱脈の発見によって国庫が潤い,艦船の増強に成功したこと,ミルティアデス,アリステイデス,テミストクレスといった人材に恵まれたことなどの諸条件が幸いして,アテナイはこの戦争で抜群の働きを見せた。…

【ギリシア】より

…アテナイの僭主政打倒にもスパルタ人はかかわっていた。
[ペルシア戦争と古典期ギリシア]
 アテナイ民主政が成立してほどなく,ギリシア諸市とアケメネス朝ペルシアは正面衝突することとなった(ペルシア戦争)が,その原因は前6世紀中葉小アジアのギリシア諸市がペルシアの支配下におかれたことにあった。前5世紀の初めミレトスの僭主アリスタゴラスが自己の保身に不安を感じてかえってペルシアへの反乱(イオニア反乱)を企てると,アテナイはこれに援軍を送ったが,反乱軍は一時サルディスを陥れたものの数年にして敗れ,ペルシアは報復としてギリシア本土への侵入を企てるにいたった。…

【コリントス】より

… スパルタの支援で倒された僭主政のあとは,穏健な寡頭政体制をとり,ペロポネソス同盟に加入,前6世紀中ごろから前5世紀前半までは他のギリシア諸国,とりわけアテナイとは友好的な関係を保ち,商工業も繁栄を続けた。ペルシア戦争では大部隊を派遣して各戦いに参加する。しかし戦後のアテナイの急速な興隆とその西方への介入はコリントスの脅威となり,ケルキュラとポテイダイアをめぐるアテナイとの争いは,前431年に勃発したペロポネソス戦争の直接的原因となった。…

【戦争】より


[重装歩兵戦術]
 ギリシアでは初め貴族からなる騎兵や戦車兵が勝敗の鍵を握っていたが,民主政治の成立と並行して一般市民からなる重装歩兵戦術が主力としての地位を確立する。3回にわたったペルシア戦争(前492,前490,後480)で歩兵密集戦列の優位が確証され,この戦法は決戦の基本的な型としてローマに受け継がれ,かつ大規模に組織された。ローマの戦争は基本的に正規軍による多種多様な諸民族軍との戦いであった。…

【ペルシア帝国】より

サトラップ制や税制の改革,欽定貨幣の鋳造,駅伝制と行政通信体系の整備など,彼の施策によって中央集権体制は強化され,その後2世紀にわたる帝国支配の基礎が確立された。 前5世紀に入ると,イオニア諸都市の反乱(イオニア反乱)を契機としてギリシアとの対立が生じ,ペルシア戦争が起こった。しかし,帝国にとっていっそう重大な問題は,ダレイオスの末年からクセルクセス1世の初期にかけて相次いで起こったエジプト(前486)とバビロニア(前484および前482)の反乱であった。…

【レオニダス】より

…在位,前488‐前480年。第2回ペルシア戦争においてギリシア側はテルモピュライとアルテミシオン沖を結ぶ線を第1次防衛線とした。彼はギリシア連合軍を率いてテルモピュライに布陣し,戦いは3日にわたったが,ペルシア軍が間道を迂回してギリシア陣を挟撃すると勝敗は決した(テルモピュライの戦)。…

※「ペルシア戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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