ペルシア戦争(読み)ペルシアセンソウ

デジタル大辞泉 「ペルシア戦争」の意味・読み・例文・類語

ペルシア‐せんそう〔‐センサウ〕【ペルシア戦争】

前492~前449年、ギリシャペルシア帝国との間で行われた戦争。ペルシアは四度にわたってギリシャに侵攻、前480年にはアテネを占領したが、サラミスの海戦に大敗し、翌年プラタイアイの戦いにも敗れ、前449年の和議で正式に終結した。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「ペルシア戦争」の意味・読み・例文・類語

ペルシア‐せんそう‥センサウ【ペルシア戦争】

  1. 前四九二~前四四九年の古代ペルシア帝国とギリシア諸都市との戦争。前四九二年の遠征はペルシア艦隊が暴風雨で壊滅。前四九〇年にはペルシア軍がマラトンの戦いでアテネ軍に敗れた。前四八〇年にはペルシア王クセルクセスが大軍を率いてギリシアに侵入しアテネを焼いたが、サラミスの海戦でペルシア海軍が大敗。前四七九年のプラタイアイの戦いでギリシア陸軍が、ミカレ岬の戦いでギリシア海軍が大勝。その後、前四四九年ペリクレスがペルシアと和約を結び、度重なる戦争が終結した。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ペルシア戦争」の意味・わかりやすい解説

ペルシア戦争
ぺるしあせんそう

紀元前5世紀前半にペルシア帝国とアテネ、スパルタを中心とするギリシア諸都市との間で行われた戦争。

伊藤貞夫

イオニア反乱

戦いの発端は、小アジア西岸イオニア地方のギリシア諸市がペルシアの支配に対して蜂起(ほうき)した、いわゆる「イオニア反乱」にある。前500年、ミレトスの僭主(せんしゅ)アリスタゴラスは、自らその地位を退くとともに、他のイオニア諸市にも、当時ペルシアにより支配の手段として利用されていた僭主政を廃止するよう働きかけた。この呼びかけは、ペルシアの支配をはねのけようとする市民たちに広く受け入れられて、各市に反僭主・反ペルシアの運動が起こった。これらイオニア諸市は同盟を結び、ギリシア本土に来援を求めてペルシアと戦い、サルディス、ビザンティオン、キプロスを攻めて成果をあげたが、ペルシア軍はやがて反攻に転じ、前494年、ラデ島沖の海戦で勝利を収め、ミレトスを占領して大勢を決した。イオニア諸市はふたたびペルシアの支配に服することとなるが、僭主政は復活されなかった。

[伊藤貞夫]

ダリウス1世の遠征(ペルシア戦争第1回遠征)

反乱鎮圧後、ペルシアの目は、それぞれ20隻、5隻の艦船をイオニアに送ったギリシア本土のアテネ、エウボイア島のエレトリアの両市に注がれた。前492年に海路トラキア遠征を行ったのち、前490年、報復のためダリウス1世は大軍をギリシアに派遣した。ペルシア軍はエレトリアを制したのち、アテネを襲って北東岸のマラトン平野に上陸したが、約1万のアテネ軍はミルティアデスの作戦に従ってこれを破り、ペルシアのアテネ占領を阻んだ(マラトンの戦い)。

[伊藤貞夫]

クセルクセス1世の遠征(ペルシア戦争第2回遠征)

遠征に失敗したペルシアは、その後ダリウスの子クセルクセス1世の下で軍備を整え、前480年、第一次遠征軍をはるかに上回る大軍を王自らが率いて、ふたたびギリシア本土を目ざした。ギリシア側は、一部の都市を除き、スパルタとアテネを中心に結束を固め、エウボイア島の北端アルテミシオン岬と中部ギリシア北端のテルモピレー峠とを結ぶ線を海陸の防衛線と定めたが、二つの拠点はともに激戦のすえに破られ(アルテミシオンの海戦、テルモピレーの戦い)、ペルシア陸上軍はアテネに侵入する。この危機に際し、アテネの知将テミストクレスは、アテネ西方サラミス島東側の海峡にペルシア海軍を引き寄せて決戦を挑む策を連合軍の軍議で主張して、それを通し、陸上の玉座から観戦するクセルクセスの目の前でその大艦隊を壊滅させ、ペルシアのギリシア制圧の野望をくじいた(サラミスの海戦)。ペルシア陸上軍の一部は将軍マルドニオス指揮の下にギリシア北部にとどまったが、これも前479年、中部ギリシアのプラタイアイでギリシア連合軍に敗れ、撤退を余儀なくされた(プラタイアイの戦い)。同じころイオニアのミカレ岬でも、上陸したギリシア軍が大勝して、イオニア独立への道を開いた(ミカレ岬の戦い)。こののちペルシア軍とギリシア連合軍との戦いは、主戦場を東方に移して続行される。

[伊藤貞夫]

終結まで

前478年ギリシア軍はキプロス島の諸都市の反乱を助け、ビザンティオンを攻めて、いずれもペルシア支配からの解放に成功する。前477/8年デロス同盟成立後もギリシア側の攻勢は変わらず、前467年アテネの将軍キモンの指揮の下に、小アジア南岸エウリメドン河口でペルシア軍を破り、前459年にはエジプトでの反乱を助けるべく兵を送っている。しかしエジプト遠征軍は前454年に大敗を喫し、キプロスでもペルシア側の反攻にあって、前450年これを放棄するのやむなきに至った。この戦いでキモンが死亡したことは、アテネに和平の機運を生じさせ、前449/前450年ギリシアとペルシアとの間に正式に和議が結ばれて(カリアスの和約)、ここに半世紀にわたるペルシア戦争は終結した。イオニア諸市は独立を認められ、ペロポネソス戦争末期に至るまでペルシアの支配から逃れえた。

[伊藤貞夫]

意義

ペルシア戦争は、東方の大国ペルシアと西方ギリシアの小国家の連合とが戦い、兵力において格段に劣るギリシアが世界の戦史に輝く大勝を陸上、海上を問わずに博したことで名高い。この勝利をギリシア側からみれば、各ポリスの市民たちが、自ら享受していた自由と平等を、1人の専制王と彼に服属する臣民とからなる異民族の大軍に対して守り通したことを意味した。アテネをはじめギリシア諸市は、当時、民主政をほぼ確立し、市民たちの間には自らの国家を守る気概が満ちわたっていた。そのことがギリシア防衛を成功させた究極の原因とみられるが、このときの勝利はまた、東方の専制王国とは対照的な、自由な市民たちからなる世界についての自覚をギリシア人の間に芽生えさせ、以後のギリシアにおける政治と文化の著しい発展の重要なばねとなった。

[伊藤貞夫]

『ヘロドトス著、松平千秋訳『歴史』(『世界古典文学全集10』1967・筑摩書房)』『ヘロドトス著、松平千秋訳『歴史』上中下(岩波文庫)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「ペルシア戦争」の意味・わかりやすい解説

ペルシア戦争 (ペルシアせんそう)

前5世紀にギリシア人とペルシア人との間で戦われた歴史的戦争。前5世紀初頭のイオニア反乱に端を発し,前490年の第1回ペルシア戦争,その10年後の前480-前479年の第2回ペルシア戦争を経て,アテナイ・ペルシア間の交戦状態は前449年の〈カリアスの和約〉まで続くが(スパルタ・ペルシア間の講和条約は同世紀末まで待たねばならない),第2回ペルシア戦争終了後のアテナイ主導の〈ペルシア戦争〉は,それ以前のものとは歴史的性格を著しく異にしており,同一の枠では扱えない。本項ではイオニア反乱から第2回ペルシア戦争までを主題とする。ペルシア戦争を書き綴った〈歴史の父〉ヘロドトスも,前479年のセストス陥落をペルシア戦争最後の事件として取り扱っている。

前499年,アケメネス朝ペルシアの支配下にあって経済的繁栄を回復し,〈イオニアの華〉に返り咲いていたミレトス市の僭主代行アリスタゴラス(僭主ヒスティアイオスダレイオス1世の側近に登用され,スーサにあって留守)は,市の有力市民と協議のうえ,ペルシアに対して反乱蜂起することを決定した。彼が提唱してペルシア軍まで動員させて敢行したナクソス島遠征が完全な失敗に終わったので,ペルシア側からの責任追及を恐れたのが直接のきっかけとして伝えられている。彼はミレトス市の僭主政廃止を宣言したばかりではなく,小アジア西岸一帯のギリシア植民市に対して,ペルシアに擁立された傀儡(かいらい)政権とも呼ぶべき僭主政の廃止を呼びかけた。イオニアの反乱は,これに応じたミレトスとその同盟勢力によって敢行されたのである。翌年,反乱勢力はギリシア本土のアテナイとエレトリアの加勢を得てサルディスを急襲した。反乱の火の手は瞬時にヘレスポントス地方,キプロス方面にまで拡大してペルシア王ダレイオスを悩ませたが,やがてペルシア側の反撃体制が整い,いまや〈イオニア連合〉の結束を固めるまでに至った反乱勢力を前495年ころのラデ沖の海戦で切り崩し,前494年,反乱の拠点ミレトスを陥落させて反乱を鎮圧した。しかし,ペルシア側は露骨な僭主擁立政策の放棄を宣言せざるをえなかった。

前498年の春1度きりとはいえ,イオニア反乱にギリシア本土のエレトリア,アテナイの両国が支援軍を送ったことはダレイオスを激怒させ,前492年にトラキア,マケドニア方面の安全を確かめたのち,前490年,両国に対する報復船隊にエーゲ海横断の出動を命じた。ペルシア軍の最初のギリシア本土侵攻である。エレトリア攻略後,ペルシア軍をアッティカ北東のマラトンに導いたのは,前510年アテナイ僭主の地位を追われ,政権奪回の期待をこめてペルシア船隊に同行していたヒッピアスであった。しかし内応者は集まらず,それどころかペルシア軍上陸の報を得たアテナイ重装歩兵軍は迅速に行動を起こしてマラトンに出動し,ペルシア軍のアテナイ進撃を阻みつつ,両軍対峙数日後,ミルティアデスの的確な判断からアテナイ軍のほうから戦端を開き歴史的な合戦(マラトンの戦)が展開された。ペルシア軍撤退に際して,アテナイ市内の内応体勢完了を告げる合図があり,ペルシア船隊はエレトリアの捕虜収容後,スーニオン岬を迂回してアテナイののど元のファレロンに迫ったが,アテナイ重装歩兵軍が待機しているのを知り,空しくアジアに引き上げた。

 ダレイオスは第2次ギリシア遠征の準備にかかったが,エジプトの反乱に阻まれ,志を果たせないまま前486年この世を去った。この頃アテナイでは,対ペルシア路線をめぐる対立が有力政治家の抗争を激化させ,オストラキスモス(陶片追放)の投票が連年施行されるなかで,テミストクレスに代表される反ペルシア路線が固まっていった。

ダレイオスの遺志を継いだクセルクセス1世は,陸海呼応の大兵力でギリシアを征服する準備にかかった。マケドニア,テッサリア地方の味方陣営内への確保が保証されたものと思われる。一方,ギリシア本土諸国は,クセルクセスがスーサを発った前481年になって,アテナイ,スパルタの発起によりペルシア抗戦集団〈ギリシア(ヘラス)連合〉を形成した。アテナイはラウリオン銀山の国庫収入を投じて200隻の軍船(3段櫂船)を整えつつあった。ヘロドトスはペルシア軍の兵力を戦闘員だけで264万という数を伝えているが,これは途方もない誇張である。

 スパルタが総帥権を握るギリシア連合軍は前480年テンペ峡谷まで出動したが,テッサリア地方を自陣に引き入れることができず,アルテミシオン-テルモピュライを第1次防衛線に設定した。近年発見された〈テミストクレス決議碑文〉は連合軍のアルテミシオン出動以前に,アテナイが住民の全員国外退去を決定していたことを教えている。テルモピュライの玉砕(テルモピュライの戦)で第1次防衛線は崩壊し,連合軍海上部隊はサラミスに集結して待機し,アクロポリスをはじめアッティカの土地がペルシア軍により荒廃に帰されるのを傍観した。しかし,テミストクレスの計略にかかってペルシア船隊がサラミス水道に侵入し,この歴史的海戦(サラミスの海戦)でペルシア船隊は敗退した。フェニキア船隊が完全に戦意を失い,クセルクセスはアジアに敗走した。

 ほとんど無傷のままテッサリア地方で越冬したマルドニオス麾下のペルシア陸軍は,前479年の春とともに行動を起こし,アテナイを再び劫掠(ごうりやく)したのち,ギリシア連合軍をボイオティア地方のプラタイアイの野におびき寄せて殲滅(せんめつ)を計ったが,勝をあせって敗退した(プラタイアイの戦)。同じ頃,サモス島に出撃したギリシア連合の船隊は,ペルシア軍をミュカレ半島で破り(ミュカレの戦),〈第2回イオニア反乱〉を惹起させた。

 これらの2回にわたるペルシア戦争でギリシアはペルシア軍を退け,それ以後,ペルシア軍のギリシア侵攻は生じなかった。ペルシア戦争はギリシア人全体によって〈自由のための戦い〉として理解され,ギリシア人の民族と歴史の発見につながった。アテナイにおいては〈マラトン戦士(マラトノマコイ)〉は市民の理想像となった。後日,アレクサンドロス大王の東征,また近代ギリシアの独立戦争も〈ペルシア戦争〉と意識された。
ギリシア →ペルシア帝国
執筆者:


出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ペルシア戦争」の意味・わかりやすい解説

ペルシア戦争
ペルシアせんそう
Greco-Persian War

ギリシア=ペルシア戦争とも呼ばれる。前 546年頃から前 448年頃にかけてギリシア諸都市とアケメネス朝ペルシアとの間で戦われた戦争。ペルシアは前 546年にリュディアのクロイソスを倒して以来小アジア沿岸のギリシア諸都市を服属させていた。前 514年ダレイオス1世ヨーロッパ征服の準備を始め,スキタイ攻撃には失敗したが,トラキアに橋頭堡を確保。次いで前 499年ナクソス遠征を試みたが,失敗した。その結果イオニア諸都市は,ミレトスのアリスタゴラスの扇動でアテネとエレトリアの援助を受け,ペルシアに対する反乱を起した。しかし前 493年までに鎮圧された。イオニア諸都市を制圧したあともダレイオスはギリシアにペルシアへの服従の印である「土と水」を要求し続け,前 490年にペルシア軍はエウボイアに上陸し,エレトリアとカリュストスを征服,9月にアッチカ北東マラトンに上陸した。アテネはスパルタに急使を送る一方,ミルチアデスの提案に基づき,重装歩兵 (ホプリタイ ) 隊をマラトンに派遣,未明にペルシア側の騎兵の不在をついて攻撃,重装歩兵の強みを発揮して圧勝し,ペルシア軍を退けギリシアの独立を守った。この遠征の失敗後,ペルシアはより大規模なギリシア侵入を試みた。前 480年ダレイオスの息子クセルクセス1世は陸海の大軍を擁してヘレスポントスを渡った。ギリシア側は連合し,スパルタに指揮権を与え,陸軍はスパルタ,海軍はアテネが主力であった。陸ではテルモピュレの隘路,海ではアルテミシオンで攻防が行われ,ギリシア側は2日間持ちこたえたが,3日目裏切りによりテルモピュレでレオニダス指揮下のスパルタを中心とした隊が全滅すると,海軍はサラミス水道へ撤退した。ギリシア連合軍の会議では,ペロポネソス勢はコリント地峡を防衛線とし,艦隊のアルゴス湾撤退を主張したが,アテネのテミストクレスはスパルタ提督エウリュビアデスの支持を受け,サラミスでの決戦を主張,詭計を用いてペルシア艦隊を狭いサラミス水道に誘い込むことに成功し,ペルシア側に大打撃を与え,制海権を失ったクセルクセスを帰国させた。ギリシア側は翌年マルドニオス指揮下のペルシア残留軍をプラタイアイとミュカレに破り,ペルシアの侵略を終息させた。以後アテネはデロス同盟を組織して攻勢に転じ,一連の勝利の結果,前 449/8年カリアスの平和が結ばれ,ペルシアはヨーロッパと小アジアのギリシア人の諸国家の自由を認めた。この結果ペルシア艦隊はエーゲ海から締出され,ギリシアはオリエントに対する優越感をいだくようになった。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

百科事典マイペディア 「ペルシア戦争」の意味・わかりやすい解説

ペルシア戦争【ペルシアせんそう】

前499年から前449年にわたるペルシア帝国とギリシア諸都市の戦争。発端は前499年から前494年にかけての小アジアのイオニア諸植民市のペルシア支配に対する反乱であった。ペルシアは前492年ギリシア北部トラキアを制圧。前490年ダリウス1世派遣のペルシア軍はギリシア本土に侵入したが,マラトンの戦で敗退(第1回ペルシア戦争)。前480年クセルクセス1世指揮下のペルシア軍はトラキアから南下,テルモピュライの戦でギリシア軍を撃破したが,海軍はサラミスの海戦で大敗,前479年プラタイアイの戦,ミュカレの海戦でもペルシア軍は敗れ,遠征は完全に失敗した(第2回ペルシア戦争)。以後アテナイはデロス同盟を結成し,前449年カリアスの和約でイオニア植民市の独立を回復し,戦争は終結。
→関連項目アイスキュロスアクロポリスアテネアリステイデスエフェソスギリシア(古代)ダレイオス[1世]マケドニア王国ミレトス

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「ペルシア戦争」の解説

ペルシア戦争(ペルシアせんそう)

前500年から前449年にわたるギリシア人とアケメネス朝ペルシアとの抗争で,世界史上の戦争で最も意義深いものの一つ。前500年に起こったイオニア植民市のペルシアへの反抗はやがて鎮圧されたが,アテネなどがこれを応援したために,ペルシアのギリシア本土への復讐の大遠征を招いた。前492年にトラキア征服を行ったのち,前490年ペルシアの大軍が海路アッティカのマラトンに上陸したが,ミルティアデスの率いるアテネ軍のために大敗した。前480年ペルシア王クセルクセスは,みずから大軍を率いてギリシアに侵入,テルモピュレーの戦いに勝ったものの,サラミスの海戦に大敗し,陸軍はその翌年プラタイアイの戦いで敗れ,遠征は完全に失敗した。前449年ペリクレスがペルシアと和約を結び,イオニアの独立を認めさせて半世紀の抗争を終わらせた。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「ペルシア戦争」の解説

ペルシア戦争
ペルシアせんそう
Persian Wars

前500年から前449年にわたる,アケメネス朝(ペルシア)とギリシアの戦争
アケメネス朝は前6世紀半ばごろ,イオニアのギリシア植民市を征服し,これを圧迫した。これに対し,イオニア諸市は前500年ミレトスを中心に反乱を起こし,これをアテネなどが援助したのでダレイオス1世はアテネを討つことになり,戦争が始まった。アケメネス朝はおもな遠征を3回行った。
【第1回】前492年,アケメネス朝軍はアトス沖で海軍が難破して撤退。
【第2回】前490年,ダレイオス1世は大軍を派遣したが,マラトンの戦いで敗れた。
【第3回】前480年,クセルクセス1世はみずから大軍を率いて海陸からギリシアに侵入,テルモピレーの戦いで勝ち,サラミスの海戦でテミストクレスの率いるアテネ海軍に大敗した。 前479年,ギリシアはプラタイアの戦いで陸軍が,ミカレー岬の戦いで海軍が大勝した。戦争の最終的終了は前449年カリアスの和による。
 一般的に,ギリシアの市民的自由がアケメネス朝の専制政治に勝利したといわれるが,アケメネス朝はその後もギリシアの諸ポリスに多大な影響力をふるい続けた。また,戦争の中心となったアテネの力が強まり,デロス同盟をもとにギリシアに覇を唱え,ペリクレス時代を迎えた。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のペルシア戦争の言及

【アテネ】より

…僭主となるおそれのある有力者を市民たちの投票によって10年間の国外追放に処した陶片追放(オストラキスモス)の制度も,クレイステネスの創案によると伝えられる。
[ポリス民主政の確立]
 前7世紀から前6世紀にかけ政治・経済・軍事の諸分野でスパルタ,コリントス,アイギナなどの諸ポリスにむしろおくれをとっていたアテナイを,前5世紀前半にギリシア第一の地位にまで押し上げたきっかけは,ペルシア戦争での勝利である。平民の政治参加に制度上の道を開き,市民団の団結を固める前提を整えていたこと,有力な重装歩兵集団を擁したばかりか,ラウリオン銀山での大鉱脈の発見によって国庫が潤い,艦船の増強に成功したこと,ミルティアデス,アリステイデス,テミストクレスといった人材に恵まれたことなどの諸条件が幸いして,アテナイはこの戦争で抜群の働きを見せた。…

【ギリシア】より

…アテナイの僭主政打倒にもスパルタ人はかかわっていた。
[ペルシア戦争と古典期ギリシア]
 アテナイ民主政が成立してほどなく,ギリシア諸市とアケメネス朝ペルシアは正面衝突することとなった(ペルシア戦争)が,その原因は前6世紀中葉小アジアのギリシア諸市がペルシアの支配下におかれたことにあった。前5世紀の初めミレトスの僭主アリスタゴラスが自己の保身に不安を感じてかえってペルシアへの反乱(イオニア反乱)を企てると,アテナイはこれに援軍を送ったが,反乱軍は一時サルディスを陥れたものの数年にして敗れ,ペルシアは報復としてギリシア本土への侵入を企てるにいたった。…

【コリントス】より

… スパルタの支援で倒された僭主政のあとは,穏健な寡頭政体制をとり,ペロポネソス同盟に加入,前6世紀中ごろから前5世紀前半までは他のギリシア諸国,とりわけアテナイとは友好的な関係を保ち,商工業も繁栄を続けた。ペルシア戦争では大部隊を派遣して各戦いに参加する。しかし戦後のアテナイの急速な興隆とその西方への介入はコリントスの脅威となり,ケルキュラとポテイダイアをめぐるアテナイとの争いは,前431年に勃発したペロポネソス戦争の直接的原因となった。…

【戦争】より


[重装歩兵戦術]
 ギリシアでは初め貴族からなる騎兵や戦車兵が勝敗の鍵を握っていたが,民主政治の成立と並行して一般市民からなる重装歩兵戦術が主力としての地位を確立する。3回にわたったペルシア戦争(前492,前490,後480)で歩兵密集戦列の優位が確証され,この戦法は決戦の基本的な型としてローマに受け継がれ,かつ大規模に組織された。ローマの戦争は基本的に正規軍による多種多様な諸民族軍との戦いであった。…

【ペルシア帝国】より

サトラップ制や税制の改革,欽定貨幣の鋳造,駅伝制と行政通信体系の整備など,彼の施策によって中央集権体制は強化され,その後2世紀にわたる帝国支配の基礎が確立された。 前5世紀に入ると,イオニア諸都市の反乱(イオニア反乱)を契機としてギリシアとの対立が生じ,ペルシア戦争が起こった。しかし,帝国にとっていっそう重大な問題は,ダレイオスの末年からクセルクセス1世の初期にかけて相次いで起こったエジプト(前486)とバビロニア(前484および前482)の反乱であった。…

【レオニダス】より

…在位,前488‐前480年。第2回ペルシア戦争においてギリシア側はテルモピュライとアルテミシオン沖を結ぶ線を第1次防衛線とした。彼はギリシア連合軍を率いてテルモピュライに布陣し,戦いは3日にわたったが,ペルシア軍が間道を迂回してギリシア陣を挟撃すると勝敗は決した(テルモピュライの戦)。…

※「ペルシア戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

部分連合

与野党が協議して、政策ごとに野党が特定の法案成立などで協力すること。パーシャル連合。[補説]閣僚は出さないが与党としてふるまう閣外協力より、与党への協力度は低い。...

部分連合の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android