イギリスの経済学者。ケンブリッジ大学のセント・ジョンズ・カレッジで数学を専攻し、1863年第2位で卒業して同カレッジのフェローとなり、当初は分子物理学の研究を意図していた。だが、1867年、グロート・クラブに加入したころから、社会の貧困問題を契機としてしだいに社会問題に興味をもつようになり、哲学、心理学、倫理学などを遍歴したのち、1870年代初めごろにほぼ経済学に定着した。理論面の研究を進める一方、産業社会の現実の観察や経済史にも関心を向け、また、新興国における保護主義の実状をみるために1875年に渡米したころから、アメリカやドイツの台頭によって世界におけるイギリスの産業上の主導権が急速に失われつつあることにも深い関心を寄せるようになった。1877~1881年ブリストルのユニバーシティ・カレッジの学長兼経済学教授、1883~1885年オックスフォード大学のベリオル・カレッジのフェロー兼経済学講師を経たのち、1885年にケンブリッジ大学の初代経済学教授となり、多くの優れた弟子を養成して、古典学派の伝統を豊かに継承し、現実問題や政策論面にも鋭い関心をもつ、独自のケンブリッジ学派を創始した。1890年の王立経済学会の設立や、その機関誌『エコノミック・ジャーナル』Economic Journalの発刊(1891)、1903年のケンブリッジ大学における「エコノミック・トライポス」economic tripos(経済学卒業優等試験)の創設などにも尽瘁(じんすい)した。
マーシャルは、主著『経済学原理』Principles of Economics(1890)によって、世界の経済学界で不動の地位を確立したが、同書の基礎となった夫人と共著の処女作『産業経済学』The Economics of Industry(1879)も近年とみに注目をひいている。マーシャルの経済学は、しばしば部分均衡理論として特徴づけられ、L・ワルラスの一般均衡理論と対比されるが、マーシャルのこの分析手法の採用は、彼の供給分析への関心や、そこで演ずる時間要素の役割の重要視と不可分の関係をもっている。『経済学原理』のみからマーシャルが論じられることが多いが、彼の経済学の全容や、弟子に与えた絶大広範な影響を知るためには、前掲の処女作や、『産業と交易』Industry and Trade(1919、邦訳書名『産業貿易論』)、『貨幣・信用および商業』Money, Credit and Commerce(1923)、A・C・ピグー編『マーシャル追憶集』Memorials of Alfred Marshall(1925、邦訳書名『マーシャル経済学論集』)、J・M・ケインズ編『マーシャル公文書集』Official Papers by Alfred Marshall(1926)、J・K・ウィタカー編『マーシャル初期経済学論稿』2巻 The Early Economic Writings of Alfred Marshall 1867―1890(1975)なども必読である。
[早坂 忠]
『佐原貴臣訳『産業貿易論』(1923・宝文館)』▽『松本金次郎訳『貨幣・信用及び商業』(1927・自彊館書店)』▽『大塚金之助訳『経済学原理』全4冊(1928・改造社)』▽『馬場啓之助訳『経済学原理』全4冊(1965~1967・東洋経済新報社)』▽『A・C・ピグー編、宮島綱男監訳『マーシャル経済学論集』(1928・宝文館)』
アメリカの軍人、国務長官、国防長官。ペンシルベニア州ユニオンタウン生まれ。1901年バージニア陸軍学校、1908年陸軍大学校卒業。第一次世界大戦時にヨーロッパ派遣第一軍参謀長を務めたのち、1938年に参謀本部作戦部長となり、第二次世界大戦時には陸軍参謀総長の地位にあった(1939~1945)。また、ヤルタ会談、ポツダム会談など戦後処理に関する主要国際会議に出席。1944年陸軍元帥に昇進。1945年末からトルーマン大統領の特使として中国に派遣され、国共調停の工作にあたったが功を奏さず帰国した。1947年1月国務長官に任命され、戦後のヨーロッパ経済の復興を目的としたいわゆるマーシャル・プラン(ヨーロッパ復興計画)を推進。1953年にこの功績が認められノーベル平和賞を受賞。1950年9月には国防長官に就任したが、朝鮮戦争の終結がみられないまま翌1951年引退した。
[藤本 博]
オーストラリアの生理学者。1974年に西オーストラリア大学卒業後、王立パース病院、アメリカのバージニア大学教授を経て、1997年から西オーストラリア大学教授となる。ピロリ菌に関する一連の研究成果により、2005年、ウォーレンとともにノーベル医学生理学賞を受賞した。
従来、胃の中には強い酸があるため細菌類は生息できないと考えられていたが、1979年、王立パース病院の同僚であったウォーレンから、胃潰瘍(いかいよう)の患者の胃の幽門には螺旋(らせん)状の細菌が多数存在すると聞き、二人はこの細菌を培養して調べ始めた。しかしその細菌は他の細菌に比べて増殖速度が遅いことに気づかず、うまく増殖させられなかった。たまたま復活祭の休暇で数日間放置したところ、増殖してコロニーを形成しているのを発見した。
二人はこの細菌を「胃の幽門にいる螺旋状の細菌」という意味の「ヘリコバクター・ピロリ」と名づけ、胃潰瘍はこの細菌が発症させるものと予測した。1984年に、それを実証するために自らピロリ菌を飲んだところ、急性の胃炎になり、胃炎組織の中にピロリ菌が生息していることを証明した。この発見によって胃潰瘍、胃炎、胃癌(いがん)の原因はピロリ菌の感染であることがわかり、治療と予防に画期的な成果をもたらした。
[馬場錬成]
アメリカの法律家、政治家。9月24日バージニア生まれ。独立戦争に参加し、1794年のジェイ条約締結にフランスに派遣された。その後、連邦下院議員を経てJ・アダムズ治下の国務長官を務め、フェデラリスト党の下野とともに最高裁首席判事となり、以後34年間この地位にとどまった。その間、マーベリイ対マディソン事件(1803)に際しては、1789年の連邦司法法第13条を違憲とし、事実上初めて違憲立法審査権を発動し、また、1819年のマカロック対メリーランド事件にあたっては、「包含された権限」を論拠として、連邦議会のアメリカ合衆国銀行設立にかかわる権限を認めるなど、合衆国の司法権の確立に努めた。「合衆国憲法の父」ともよばれているように、憲政史に重要な足跡を残した。1835年6月6日没。
[中谷義和]
イギリスの経済学者。ロンドンに生まれケンブリッジ大学を卒業。1885年から1908年までケンブリッジ大学の経済学教授を務め,A.C.ピグー,J.M.ケインズをはじめとする一群の経済学者を育てて,ケンブリッジ学派を形成した。主著《経済学原理》(1890)はその後30年間にわたって8版を重ね,当時の支配的学説として世界中に影響を及ぼした。スミス,リカードからイギリス経済学の正統を引くJ.S.ミルの《経済学原理》(1848)は,1871年にミル自身による最後の改訂版として出版されたが,そのころマルクスの《資本論》(1868),ジェボンズの《経済学の理論》(1871),メンガーの《国民経済学原理》(1871)など新しい動向を象徴する著作が現れるようになっていた。それは時代の変化とともに権威を失いつつあった古典学派(古典派経済学)に対する反乱の時代であった。その影響は経済学のさまざまな分野に及んだが,価値の理論の分野では,リカードのあいまいさに対するジェボンズの反発から生じた論争が,商品の価値の決定において生産費と需要の演じる役割をめぐって闘わされた。マーシャルは,価値が供給と需要の均衡する点において決定されるという命題を基盤として,経済の世界のあらゆる要素を相互的に位置づけることによって,この論争に終止符を打った。すなわち生産物の価値の決定においては,古典学派の強調した生産費を供給側の要素として,またジェボンズの強調した効用を需要側の要素として位置づけた。マーシャルはこうして,古典学派が需要の諸力よりも供給の諸力を強調したのは彼らの正しい直観に従ったものであると主張した。経済学では,一つの時代を支配した学説は時代遅れとして簡単に片づけられない真理を含んでいるものである。このような古典学派の復活を意味するマーシャルの経済学は新古典派経済学(狭義)と呼ばれる。
彼の研究分野は価値の一般理論のみならず,さまざまな特殊研究の分野にもわたっており,とりわけ貨幣理論は彼の得意とする領域であった。その領域での研究は,後にケインズが進む道を整えた。しかし,彼の研究のこの部分はケンブリッジ大学での講義を通じて口頭で伝えられたため,十分には伝わらなかった。それらが《産業と貿易》(1919),《貨幣,信用,商業》(1923)として公刊されたのは彼の晩年であったため,外の世界に対する影響力は損なわれていたのである。日本においては主著《経済学原理》は1928年に翻訳・出版されている。
執筆者:白井 孝昌
アメリカの裁判官。バージニア州出身。ジョン・アダムズ大統領のもとで国務長官(1800-01)を務めたのち,アダムズにより第4代の合衆国最高裁判所首席裁判官に任命され,1801年から35年までその地位にあった。その説得力ある議論によって他の裁判官に大きな影響を与え,発足まもない最高裁判所の進路を決定した。マーシャルは連邦派(フェデラリスツ)の立場に立っており,それが憲法の解釈に色濃く反映する。すなわち,彼は,マーベリー対マディソン事件(1803)で,当時の諸説のうち最も広範囲かつ強力な形で違憲立法審査権を樹立した。憲法の解釈については,文言に拘束される厳格解釈を退け,これを自由に解釈する立場をとる。そして,連邦の権限の範囲に関する条文を拡張解釈するのみならず,連邦には憲法には明示されていないが論理上黙示的に認められる権限があるとして,連邦の地位を強化した。連邦法銀行national bankの設立を合憲としたのも,この黙示的権能の理論doctrine of implied powersによるものである。基本権の面では,ロック的な既得権の理論に従い,有産者の権利を保護した。とくに,合衆国憲法中の〈州は……契約上の債権債務関係obligation of contractsを害する法律を制定……してはならない〉との条項(contract clause)を拡張解釈して,既得権を侵害する(とマーシャルが考えた)数多くの州法を違憲とした。
執筆者:田中 英夫
アメリカの軍人,政治家。第2次大戦時の戦争指導に卓越した手腕を発揮した陸軍参謀長(1939-45)であり,また戦後国際的責任の拡大したアメリカの外交指導を担った国務長官(1947-49)。第1次大戦時にはヨーロッパ派遣軍の参謀として対独反攻作戦に加わり,戦間期にはJ.J.パーシング陸軍参謀長の副官を務めた。1939年に陸軍参謀長に任ぜられ,陸軍の規模と編成を一新する改革を遂行して,地球的危機に対応する戦時体制を整えた。陸軍内の行政,統合参謀本部(JCS)の指導,F.D.ローズベルト,H.S.トルーマン両大統領への助言と政軍関係の調整,米英間の軍事協力,グローバルな戦略・作戦の決定と実施等に顕著な貢献をなし,〈勝利のオーガナイザー〉と称えられた。戦後は,国共関係の調整という実りのない工作のため中国へ赴いた(マーシャル・ミッション)あと,47年には国務長官に就任した。外交機関の参謀部にあたる政策企画部を創設して国務省を効率的な組織に再生させんと試みたり,またマーシャル・プランにより欧州復興を助けて,増大するアメリカの国際的役割を方向づけようとした。
執筆者:五百旗頭 真
現代イギリス社会学,社会政策論の代表的研究者。ロンドン生れ。ケンブリッジのトリニティ・カレッジで歴史学を専攻し,ケンブリッジ大学のフェローとなる。1925年から56年まで,ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに奉職して,その間,1944年から50年まで社会科学部長,その他多くの要職を歴任した。56年から60年までパリのユネスコの社会科学部長,1959年から62年まで国際社会学会会長と,その活動は広範多岐にわたっている。彼の社会学の主要な関心は社会階層論であり,この方面での業績は,《市民権と社会階級Citizenship and Social Class》(1950),《岐路に立つ社会学Sociology at the Crossroad》(1947,63)としてまとめられている。社会政策論では,イギリスの社会政策分野の古典ともいうべき《20世紀英国における社会政策Social Policy in the Twentieth Century》(1965,67,70,75),そして晩年の《福祉に対する権利Right to Welfare》(1981)が主要著書である。
執筆者:社本 修
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(内海孝)
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1880~1959
アメリカの軍人,政治家。第二次世界大戦中の陸軍参謀総長。戦後大統領特使として中国の国共内戦の調停に従事したが,成功しなかった。帰国後国務長官(在任1947~49)として冷戦初期の封じ込め政策を遂行した。朝鮮戦争勃発後,元職業軍人としては例外的に国防長官に就任した。
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…A.マーシャルは,産業の規模が拡大することによりその産業内の企業の生産効率が高まることを外部経済と呼び,企業の規模が拡大することによりその企業自身の生産効率が高まることを内部経済internal economiesと呼んだ。後者は企業の生産技術における規模に関する収穫逓増に対応する。…
…この財の価格の変化割合と,それによる数量の変化割合の関係を記述・測定するのが価格弾力性という概念である。A.クールノーやJ.S.ミルの著作の中にも同種の考えはみられるが,需要量の%変化(⊿q/q)を価格の%変化(⊿p/p)で除したものを〈弾力性elasticity〉と最初に名づけたのはA.マーシャルである。ある財の需要の価格弾力性は,その財に対するよい代替財が存在するとき大きくなるため,一般には一企業の直面する需要の価格弾力性は,産業全体のそれより大きい。…
…価値は価格にとって内面的inherentもしくは内在的intrinsicであるとされたのである。このいわゆる真実価値real valueの根拠を定めるのが,A.スミスからA.マーシャルにいたる古典派および新古典派の価値論における一つの重要な仕事であった。注意しなければならないのは,このような価値と価格との密接な連関のために,両者がしばしば混同されるということである。…
…彼は学派を形成せず孤立した存在であったといわれるが,その問題意識はある意味でF.Y.エッジワースの《数理心理学》(1881)にひきつがれ,現代の一般均衡理論につながっている。 古典派経済学以後のイギリスの経済学を支配したのは,《経済学原理》(1890)の著者A.マーシャルに始まるケンブリッジ学派であった。マーシャルは,古典派経済学を否定するのではなく一般化するかたちで,効用と費用,需要と供給ははさみの二つの刃のように重要であると論じた。…
…A.マーシャルを創設者とするケンブリッジ大学中心の経済学の流れをケンブリッジ学派または(狭義の)新古典派経済学あるいは新古典学派,新古典派とよぶ。しかし普通,新古典派というときは,この学派のほかにローザンヌ学派,オーストリア学派をも含めた限界分析を基礎とする均衡理論を総称することが多い。…
…この一般均衡理論の創設者の貢献は,彼に先だって複占市場の均衡を分析したA.クールノーのそれとともに,均衡分析の歴史の中で不朽の光を放つものである。 一般均衡理論の簡略型ともいうべき部分均衡理論は,ケンブリッジ学派のA.マーシャルによって多くの問題に有効に援用された。彼は,たんに需要曲線と供給曲線を用いての今日標準的となった分析を有効に活用しただけでなく,安定条件についての独自の分析を行い,時間の長短によって均衡を区別するなど,後の発展のためにも多くの用具を提供した。…
…A.マーシャルにより,〈消費者がそれなしですますよりはむしろ支払おうとする金額と,彼が実際に支払う金額との差額〉と定義されている経済学上の概念。消費者余剰は,需要曲線の図を用いれば次のように表される。…
…元来はA.スミス,D.リカード,J.S.ミルらのイギリス古典派経済学に対して,限界革命以降のA.マーシャルを中心とするA.C.ピグー,D.H.ロバートソンらのケンブリッジ学派の経済学を指す。 古典派(古典学派ともいう)と新古典派(新古典学派ともいう)との基本的な相違は,前者が商品の交換価値(〈価値〉の項参照)はもっぱらその生産に投下された労働価値によって決まるとしたのに対して,後者は価値の由来を生産費とならんで需要側の限界効用に求める点にある。…
… このように与件の変化の前と後との二つの均衡点を比較することにより,与件の変化の経済的影響について分析するのが比較静学の方法である。部分均衡理論の枠組みの中で比較静学の方法を援用することにより多くの興味深い結論を導いた経済学者としては,ケンブリッジ学派のA.マーシャルの名が知られている。彼の手法は後にJ.R.ヒックスやP.A.サミュエルソンらにより一般均衡理論の枠組みにおいても援用可能な形に拡張されるに至った。…
…インダス川流域を中心に前2300‐前2000年ごろ最盛期をむかえたインドの古代文明。1920年ハラッパーがサハニD.R.Sahaniにより,ついでモヘンジョ・ダロがバネルジーR.D.Banerjiにより発見され,22‐27年にマーシャルJ.Marshallが,27‐31年にマッケーE.J.H.Mackayがモヘンジョ・ダロを,また33‐34年にバッツM.S.Vatsがハラッパーを発掘した。
[王宮・王墓を欠く文明]
遺跡分布の最大限は,東はデリー付近,西はアラビア海沿岸のイラン国境付近,南はボンベイの北200km,北はシムラ丘陵南端に及び,オクサス河岸にも1ヵ所ある。…
…古くはバドラシーラと呼ばれたが,アレクサンドロス大王遠征時代にはすでにタッカシーラないしタクシーラ(タッカ族の町)と言い,ギリシア語やラテン語でタクシラと写された。19世紀にA.カニンガムが調査し,1912‐34年にJ.マーシャルが大規模に発掘してその歴史や文化を明らかにした。当地は,北はカシミール,北西はガンダーラを経て中央アジアや西アジアに通じ,南東はガンジス流域,南はインダス川からアラビア海沿岸に通じる四通八達の地。…
…モエンジョ・ダーロとも呼ばれる。1922年にバネルジーR.D.Banerjiがハラッパーと同じ遺物を発見したことにより注目され,22‐27年にはJ.マーシャルが,27‐31年にはE.H.マッケイが大規模に発掘し,遺跡の性格を明らかにした。50,65年にも小規模な発掘があったが,地下水位が異常に高く,自然層はおろか,地表下5m以下の遺構状態は全く不明であり,この都市の歴史のごく一部しか判明していない。…
…インダス川流域を中心に前2300‐前2000年ごろ最盛期をむかえたインドの古代文明。1920年ハラッパーがサハニD.R.Sahaniにより,ついでモヘンジョ・ダロがバネルジーR.D.Banerjiにより発見され,22‐27年にマーシャルJ.Marshallが,27‐31年にマッケーE.J.H.Mackayがモヘンジョ・ダロを,また33‐34年にバッツM.S.Vatsがハラッパーを発掘した。
[王宮・王墓を欠く文明]
遺跡分布の最大限は,東はデリー付近,西はアラビア海沿岸のイラン国境付近,南はボンベイの北200km,北はシムラ丘陵南端に及び,オクサス河岸にも1ヵ所ある。…
※「マーシャル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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