ヨハネス4世(読み)ヨハネスよんせい(英語表記)Yohannes IV

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「ヨハネス4世」の解説

ヨハネス4世
ヨハネスよんせい
Yohannes IV

[生]1831
[]1889.3.10. スーダン,メテマ
エチオピア皇帝(在位 1872~89)。即位前の名はカッサ Kassa。前国王テオドロス2世(在任 1855~68)同様,進取の精神をもつ強力な統治者だったが,エジプト,イタリア,およびスーダンの軍事的脅威の対応に追われた。
エチオピア北部ティグレの首長で,帝位争いにおいて武器装備でまさり,テオドロス2世の死から 4年後の 1872年1月21日に即位した。即位をめぐってショアの首長サーレ・マリアム(のちのメネリク2世)と対立したが,1882年にヨハネス4世の息子とサーレ・マリアムの娘が結婚し,サーレ・マリアムの次期帝位が約束されたことで,ひとまず緊張は回避された。ヨハネス4世は,内政的には各地の首長ら支配層の力をそぎ,住民を強制的にエチオピア正教へ改宗させて統一的な支配を確立しようとしたが,一方でイスラム教徒の反発を招いた。
1870年代半ば,オスマン帝国のエジプト副王(ヘディーブ),イスマーイール・パシャ率いるエジプト軍が東と南から侵入してきたが,エチオピアは反イスラム十字軍さながらにこれを迎え撃ち,1875,1876年の北部山岳地帯での戦闘で決定的勝利を収めた。また,1885年に紅海沿岸のミツィワ(マッサワ)を占領し,内陸部のティグレ地方に進軍してきたイタリアを 1887年に撃退した。同じ 1887年には,みずからを「マフディー(救世主)」と称するイスラム教指導者ムハンマド・アフマドのスーダンがエチオピアに侵攻し,旧都ゴンダルを壊滅状態にした。ヨハネス4世は報復としてスーダンに侵入し,金鉱や奴隷,またナイル川の利用も視野に入れて戦ったが,1889年3月にメテマで戦死した。(→エチオピア史

ヨハネス4世
ヨハネスよんせい
Johannes IV

[生]?. ダルマチア
[没]642.10.12. ローマ
ダルマチア出身の第72代教皇(在位 640~642)。ローマで助祭長(→助祭)を務め,640年12月に教皇セウェリヌス(在位 640.5.~8.)の後継者として教皇に選出された。バルカン半島を侵略したスラブ人に捕われたキリスト教徒救出のため,使者を派遣した。アイルランドケルト人が習慣としている復活祭の日程には否定的であった。また,キリスト人格神格は不可分であり,父なる神の意志と子の意志には相違はないと説いたホノリウス1世(在位 625~638)の主張を擁護したが,641年に宗教会議を招集し,セウェリヌスの意志を継いで,7世紀に興ったキリスト単意説を糾弾した。

ヨハネス4世
ヨハネスよんせい
Johannes IV Lascaris

[生]1250
[没]1261?
ニカイア帝国皇帝 (在位 1258~61) 。ヨハンネス (ヨアンネス) 4世とも呼ばれる。テオドルス2世の息子で,父帝の死後,8歳で登位した幼児皇帝。摂政に父帝の信頼の厚かったムザロンを任命したが,彼はその9日後ミカエル (のちのビザンチン皇帝ミカエル8世 ) に暗殺され,ミカエル自身が摂政となり,副帝を称して (58) ,実権掌握。 1261年ラテン帝国の首都コンスタンチノープル奪回後,ミカエル8世により両眼をえぐられ,ビトニアに流されて没した。

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