ラファエロ

精選版 日本国語大辞典 「ラファエロ」の意味・読み・例文・類語

ラファエロ

(Raffaello Santi (Sanzio) ━サンティ(サンツィオ)) イタリアの画家、建築家。ルネサンスの巨匠の一人。父ジョバンニ=サンティやペルジーノに学んだのち、フィレンツェに出て多くの聖母像などを描く。一五〇八年以後ローマで活躍。バチカン宮殿の多くの部屋の壁画装飾、サン‐ピエトロ大聖堂の設計にあたる。調和のとれた空間表現・人体表現などによってルネサンス古典様式を確立。代表作「サン・シストの聖母」「アテネの学堂」など。(一四八三‐一五二〇

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デジタル大辞泉 「ラファエロ」の意味・読み・例文・類語

ラファエロ(Raffaello Santi/Raffaello Sanzio)

[1483~1520]イタリアの画家・建築家。盛期ルネサンスを代表し、明晰めいせきで豊麗な、生命感あふれる古典様式を確立した。また、サンピエトロ大聖堂の造営に参画。

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百科事典マイペディア 「ラファエロ」の意味・わかりやすい解説

ラファエロ

イタリア盛期ルネサンス,フィレンツェ派の画家,建築家。ウルビノ生れ。初めペルジーノに学び,その抒情的作風にひかれたが,1504年フィレンツェに出,ミケランジェロレオナルド・ダ・ビンチなどの影響を受けながら,写実的な明暗法,肉付法を基礎としつつ,理想美を追求して古典主義芸術を完成した。1508年ローマに出て教皇ユリウス2世の厚遇を受け,バチカン宮殿の〈署名の間〉の壁面に《聖体の論議》《アテナイの学堂》(1508年―1511年)を制作し,次いで〈ヘリオドロスの間〉の装飾に従事,また〈火災の間〉に《ボルゴの火災》などを描いた(1514年―1515年)。これら壁画の大作のほかにラファエロ芸術の特色をよく示すものとして,《システィナの聖母》(1513年ころ,ドレスデン絵画館蔵),《グランドゥーカの聖母》(1504年,フィレンツェ,ピッティ館蔵)等多くの聖母像があり,肖像画にも傑作を残している。建築家としては1514年ブラマンテの死後,建築監督としてサン・ピエトロ大聖堂の建築に従事した。盛期ルネサンスの絵画理念を最も純粋に表現した芸術家として後世に大きな影響を及ぼした。
→関連項目アングルオーバーベックカラッチ[一族]サンガロ[一族]サン・パウロ美術館ジュリオ・ロマーノセバスティアーノ・デル・ピオンボソドマドレスデン国立絵画館バチカン美術館バトーニプッサンペルッツィボルジア[家]メングスラファエル前派

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改訂新版 世界大百科事典 「ラファエロ」の意味・わかりやすい解説

ラファエロ
Raffaello Santi(Sanzio)
生没年:1483-1520

イタリア・ルネサンス期の画家,建築家。英語ではラファエルRaphael。ウルビノに生まれ,ローマで没。古典主義絵画の大成者であり,その後西欧絵画の歴史のうえで,最高の範例と仰がれた。

 父ジョバンニも画家で,少年時代に最初父から絵画の手ほどきを受けたとされる。次いでペルジーノのもとに学び,おそらくはペルージアのカンビオの壁画装飾に協力,またペルジーノの影響の強い《聖母の結婚》(ブレラ美術館)を描いた。他に初期の作品として,《騎士の夢》(ロンドン・ナショナル・ギャラリー),《三美神》(シャンティイ,コンデ美術館)などがある。1504年秋ごろからフィレンツェに移り,フィレンツェ派,とくにレオナルド・ダ・ビンチの作品を学んで,静謐で安定した様式を完成した。この時期の代表的作品として,《聖母の埋葬》(ボルゲーゼ美術館),《アニョロおよびマッダレーナ・ドーニの肖像》(ピッティ美術館)のほか,《大公の聖母》(ピッティ美術館),《ひわの聖母》(ウフィツィ美術館),《牧場の聖母》(ウィーン美術史美術館),《美しき女庭師》(ルーブル美術館)など,多くの聖母子像が挙げられる。08年,教皇ユリウス2世に招かれてローマに赴き,ユリウス2世,レオ10世の下でバチカン宮殿の〈署名(セニャトゥーラ)の間〉(1508-11),〈エリオドーロの間〉(1511-14),〈ボルゴの火災(インチェンディオ)の間〉(1514-17),〈ロッジア〉(1517-19)などの装飾活動に従事した。とくに,〈署名の間〉の壁画《アテネの学園》《聖体の論議》は,変化に富んだ人物表現と完璧な全体構成によって,ルネサンス期の最高の傑作に数えられる。この〈署名の間〉は,四周の壁や天井の装飾にいたるまでラファエロの構想になり,制作もほとんど彼自身の手になると考えられるが,それ以後の装飾活動においては,しだいに多くの協力者の手を借りるようになり,〈ボルゴの火災の間〉や〈ロッジア〉の装飾などは,ラファエロの基本構想と下絵に基づいて,ジュリオ・ロマーノら多くの弟子たちが制作に参加した。また,システィナ礼拝堂を飾るタピスリーのための原寸大下絵〈使徒行伝〉のシリーズ(ビクトリア・アンド・アルバート美術館)を制作したり,14年,同郷の先輩建築家ブラマンテが世を去った後はサン・ピエトロ大聖堂造営の総指揮を任されるなど,教皇庁のためにデザイナー,建築家としても活躍した。さらに15年には,教皇レオ10世より古代遺物監督官に任命されて,多くの古代遺品の調査にあたった。

 ローマでのラファエロの活動は,教皇庁のためだけにかぎらず,多くの富裕な保護者(パトロン)にも捧げられた。とくに銀行家アゴスティノ・キージのためには,その別荘ファルネジーナ宮殿の装飾(《ガラテイアの勝利》の壁画ほか)や,サンタ・マリア・デル・ポポロ教会のキージ礼拝堂の設計と天井装飾および彫像のデザインを引き受けた。それとともに,タブローにおいても休みなく制作を続け,天上の音楽に魅せられる美しい《聖カエキリア》(ボローニャ絵画館)をはじめ,彼が最も得意とした聖母子像において,《フォリニョの聖母》(バチカン絵画館),《アルバ家の聖母》(ワシントン・ナショナル・ギャラリー),《システィナの聖母》(ドレスデン国立絵画館),《小椅子の聖母》(ピッティ美術館)などの卓越した名品をつぎつぎに生み出した。また肖像画においても,《ユリウス2世の肖像》(ロンドン・ナショナル・ギャラリー),《レオ10世と2人の枢機卿》などの高位聖職者をはじめ,ラファエロと親しかった人文主義者《バルタザーレ・カスティリオーネの肖像》(ルーブル美術館)や,彼の恋人を描いたとされる《ベールの女》(ピッティ美術館)などの絶品がある。

 これらの優れた作品や,残された多くのデッサン,あるいは版画複製などによって,ラファエロの作品はヨーロッパ中に知られ,最も完成された美の規準として,19世紀の新古典主義にいたるまで,西欧の絵画理念に最も大きな影響を与えた。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ラファエロ」の意味・わかりやすい解説

ラファエロ
Raffaello Sanzio

[生]1483.4.6. ウルビノ
[没]1520.4.6. ローマ
イタリアの画家。レオナルド・ダ・ビンチミケランジェロと並んで盛期ルネサンスの古典的芸術を完成した三大芸術家の一人。画家であった父に学び,1500年頃ペルジーノの工房に入った。1504年にフィレンツェに赴き,巨匠たちの作品から学び『テンピ家の聖母子』などを描き名声を得た。1508年にローマに移り,ユリウス2世のためにバチカン宮殿の教皇署名の間に『アテネの学堂』『パルナッソス』などの傑作を描き,1511年には同宮殿のヘリオドロスの間の壁画を制作した。ドナト・ブラマンテの跡を継いでサン・ピエトロ大聖堂の構築計画や古代遺跡発掘の監督も引き受けた。続いて教皇宮インチェンディオの間の壁面やキージ家礼拝堂の装飾など多面的な活動をした。そのほかの作品に『サン・シストの聖母子』 (1514頃,ドレスデン国立絵画館) など。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ラファエロ」の解説

ラファエロ
Raffaello Sanzio

1483~1520

イタリア盛期ルネサンスの画家,建築家。ウルビーノに生まれ,ローマで没。父に画技を学んだのち,温雅な画風のペルジーノの工房に入る。1504年からフィレンツェに移り,レオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロらの影響を受けて,調和のとれた明晰な構成と華麗な色彩で盛期の優美な古典様式を確立する。08年,教皇ユリウス2世の招きでローマにおもむき,ヴァチカン宮廷画家として栄華のうちに夭折。後年の画風は,理想化をきわめて自然の模倣の域を脱し,主観主義的なマニエリスム様式への展開を示した。代表作は,聖母子像の規範となった多くの「聖母子」画,ヴァチカン宮壁画「アテネの学堂」など。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ラファエロ」の解説

ラファエロ
Raffaello Sanzio

1483〜1520
イタリアの画家・建築家
ルネサンスの巨匠のひとり。1504年フィレンツェに行きレオナルド=ダ=ヴィンチ・ミケランジェロの影響を受け,このころ一連の聖母像を描く。その後,ローマ教皇ユリウス2世・レオ10世の寵を受け,ヴァチカン宮殿に多くの壁画を描き,37歳の若さで死んだ。聖母像のほかに「アテネの学園」などが有名。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ラファエロ」の意味・わかりやすい解説

ラファエロ
らふぁえろ

ラファエッロ

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世界大百科事典(旧版)内のラファエロの言及

【イタリア美術】より

…しかし,16世紀に入るとこの均衡は再び崩れ,芸術は,より新しい主観主義へと傾く。ラファエロは,教皇ユリウス2世の古代ローマ再建の壮大な意志を表現する大構図作者であったが表面的に過ぎ,ミケランジェロは初期には古代彫刻を超える肉体の官能性を表現したが,16世紀とともに危機に向かうイタリアの世界観を表現し,新たな象徴主義へと向かった。システィナ礼拝堂の《最後の審判》はその危機の表現である。…

【マニエリスム】より

…彼は,15世紀の芸術家が単に自然を模倣しこれを整理する理法を知ったのに反し,16世紀の芸術家は〈マニエラを知る〉ことによって〈自然〉を超えた〈優美〉をもつにいたった,と述べ,ここでマニエラは,〈自然〉に対して,人間の〈イデア(理念)〉を付加する高度の芸術的手法と考えられるようになった。バザーリとその同時代の理論書では,ミケランジェロとレオナルド・ダ・ビンチ,ラファエロの〈手法〉を知ることにより高度の理想美が実現できると考えられたが,これは,芸術表現において初めて,意識的に〈様式〉の自覚が行われたことを意味し,古代ギリシア以来のミメーシス(模倣)の理論に対する一つの変革であった。 しかし,17世紀のバロック古典主義,バロック自然主義のいずれもが,16世紀の主知的様式主義を芸術の堕落として敵視し,とくに美術理論家G.P.ベローリは,このマニエラを自然から離れた虚偽の人為的な芸術であり,芸術のデカダンスであると非難したため,新古典主義が主導権を握った17~18世紀を通じて,マニエラとマニエリスムの双方が著しく価値をおとしめられ,19世紀にいたるまで,マニエラは〈型にはまった同型反復〉,マニエリストは〈巨匠の模倣をする,創造性を欠く追従者〉として位置づけられた。…

【ライモンディ】より

…画家・金細工師のF.フランチアのもとで修業した後,1508年ころベネチアに赴き,とくにデューラーの木版画の模刻をするが剽窃(ひようせつ)罪で訴えられる。10年ころローマに移住し,ラファエロの工房で師のデッサンに基づく多量の複製版画を制作し普及に努めた。師の死後,同胞G.ロマーノと共作するが,作品の猥褻(わいせつ)性のため投獄される。…

※「ラファエロ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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