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フランスのアカデミーの指導的画家,装飾家。Lebrunとも書く。パリ生れ。ブーエの工房で修業をし,1642年にローマに赴き,プッサンのもとで学ぶ。そのとき習得した理論が,のちにフランスのアカデミズムの根幹となったといわれる。さらにピエトロ・ダ・コルトーナなどからバロック的装飾の技術も学ぶ。46年パリに帰り,翌年ノートル・ダム大聖堂のために祭壇画を出品し,それが成功作となり,48年に創立された王立絵画・彫刻アカデミーの中心人物となった。58年宰相フーケのためにボー・ル・ビコント城の装飾に着手,61年からルイ14世と宰相コルベールの下で美術方面の権力を得,ベルサイユ宮殿の装飾にあたる。貴族となるとともに,63年にゴブラン織製作所の総指揮にあたり,翌年〈王の首席画家〉となった。65年,当時イタリア最高の彫刻家・建築家ベルニーニがパリにやって来たが,ル・ブランはベルニーニのルーブル宮殿設計案に対する妨害や,その仕事への圧迫を加えたとされる。いずれにしても,このイタリア彫刻家の力強い〈バロック〉様式に対して,彼の折衷的な〈古典様式〉は,共鳴音を奏でたとは考えられない。この訪問でベルニーニがフランスにもたらしたものは,壮麗な国王の胸像(ベルサイユ宮殿)1点だけであったといわれる。プッサンに学んだ〈古典主義〉理論にもかかわらず,ル・ブランの代表作《大法官セギエの行進》(1655ころ)は写実的な北方絵画の影響を受け,〈アレクサンドロス大王伝〉4点もプッサン的というより〈バロック〉的傾向を見せる。ベルサイユ宮殿〈鏡の間〉(1679-84)の装飾も,明快な〈古典性〉にもとづくというより,そこには擬古的なバロック性が存在する。
執筆者:田中 英道
フランスの化学者。イスダンの生れ。パリで医学と化学を学び,1780年からオルレアン公の主治医となり,かたわら結晶学などの研究を行った。84年ころから人造ソーダの製造に興味をもつようになり,アカデミー・デ・シアンスの懸賞募集に応じて,89年食塩から炭酸ナトリウム(ソーダ)を工業的に製造する〈ルブラン法〉を発明,91年その特許権を取得した。直ちにオルレアン公の資金援助を得て,サン・ドニにソーダ工場を建設したが,93年公の処刑とともに革命政府に没収され,操業は中止された。1802年工場はルブランに返還されたものの,資金の調達ができないために操業にいたらず,絶望のうちに,06年自殺した。ソーダ工業の祖と呼ばれている。
執筆者:斎藤 茂樹
フランスの政治家。政治歴は地味であったが,1931年上院議長,翌年大統領ポール・ドゥメールが暗殺され後任に選出される。39年5月再選され,ファシズム台頭期から第2次世界大戦に至る危機の時代に大統領の地位にあったが,自己の政治力を発揮するというより状況に従い,40年7月,議会がペタン元帥に立憲上の全権を与えたとき,これに抵抗せず第三共和政の終末に立ち会った。戦後の著書に《証言》がある。
執筆者:加藤 晴康
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
フランスの化学者.パリで医学と化学を学び,1780年フランスの王族オルレアン公Louis Philipe Joseph(1747~1793年)の主治医となり,かたわら化学の研究を行った.1789年化学者J. Darcetの助手ディゼとともに,硫酸塩を石灰と木炭とともにしゃく熱すると,水に不溶の硫化カルシウムと可溶の炭酸ソーダが得られる方法,すなわち,ルブラン法を発明した.1791年その特許を取得し,Louis Philipe Josephの支持を得てサン・ドニに最初のソーダ工場を建設した.しかし,1793年Louis Philipe Josephは処刑され,工場は革命政府に没収された.その後,工場は返還されるが,資金の調達に窮して操業に至らず,ついに失意のうちに自殺した.ルブラン法はかれの死後フランスにおいて工業化され,さらにイギリスに渡り,1818年にC. Tennantの工場,そして1823年にJ. Musprattによる初の大規模工場が建設された.以後,ルブラン法による製造はヨーロッパ中に拡大し,ソルベー法が出てくるまでアルカリ製造業を支配した.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
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…また,すぐれた織匠だけではなく,すぐれた下絵画家の必要も叫ばれ,ルイ13世(在位1610‐43)時代には当代一流の画家S.ブーエが王の下絵画家に任命された。 62年,ルイ14世時代に,宰相コルベールはゴブラン家の館を王の名で買い取り,67年ここに王立家具製作所Manufacture des meubles de la Couronneを設立し,画家C.ル・ブランを総監督に任命した(ここでは,タピスリーばかりでなく,家具,金銀・宝石細工など王家用の調度品すべてが生産されることになった)。パリの各地に散在していたタピスリー工房はすべてここに集められ,ル・ブランの厳格な監督のもとにおかれ,徒弟のための学校も設置された。…
…この間のフランス・バロックのもっとも重要な特色は,建築,彫刻,作画,工芸,造園の総合的演出のもとに,壮大と秩序と豪奢を追求したことである。1648年王立絵画・彫刻アカデミーが設立され,ブーエの弟子ル・ブランがその中心人物となる。コルベールは織物,陶磁器,木工,金工の大工房を保護し,王立家具製作所(ゴブラン製作所)をル・ブランに指導させ,〈ルイ14世一代記〉などの豪華なタピスリー連作を作らせた。…
※「ルブラン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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