ルブラン(英語表記)Lebrun, Albert

デジタル大辞泉 「ルブラン」の意味・読み・例文・類語

ル‐ブラン(Charles Le Brun)

[1619~1690]フランスの画家・装飾家。ルイ14世の首席宮廷画家。美術行政全般を支配し、ベルサイユ宮殿の装飾などを主宰、絵画・装飾において華麗な様式を創出した。

ルブラン(Maurice Leblanc)

[1864~1941]フランスの推理小説家。怪盗ルパンを主人公とする一連の作品で知られる。作「水晶の栓」「奇巌城きがんじょう」「813」など。

ルブラン(Nicolas Leblanc)

[1742~1806]フランスの化学者。ルブラン法を発明して、ソーダ工業を創始した。

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精選版 日本国語大辞典 「ルブラン」の意味・読み・例文・類語

ルブラン

[一] (Charles Lebrun シャルル━) (ルブランは Le Brun とも) フランスの画家。ルイ一四世の宮廷画家。王立アカデミー会長として、美術行政全般を支配するとともに、ベルサイユ宮の造営、装飾・工芸の指導にあたった。肖像画、歴史画、宗教画を描き、作風は華麗だがやや深みを欠く。(一六一九‐九〇
[二] (Nicolas Leblanc ニコラ━) フランスの化学者。オルレアン公の主治医を務めた。「ルブラン法」として知られる、塩からソーダを得る方法を発明した。(一七四二‐一八〇六
[三] (Maurice Leblanc モーリス━) フランスの推理作家。怪盗ルパンを主人公とする一連の推理小説を書いた。代表作「水晶の栓」「奇巖城」など。(一八六四‐一九四一

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ルブラン」の意味・わかりやすい解説

ルブラン
Lebrun, Albert

[生]1871.8.29. メルシールオー
[没]1950.3.6. パリ
フランスの政治家第三共和政第14代,かつ最後の大統領(在任 1932~40)。第2次世界大戦が開戦した 1939年,国内の政治対立やドイツの軍事的脅威のなかでフランスの統一を保とうと努めたが,有効な指導力を発揮できなかった。ナンシーの国立高等中学校(リセ),エコール・ポリテクニクエコール・ナシオナル・シュペリュール・デ・ミーヌ(国立高等鉱業学校)で教育を受けた鉱山技師だった。1900年ロレーヌの下院議員に選出され,1920年上院議員,1931年上院議長となった。この間,1911~13年,1913~14年植民地大臣,1913年戦争大臣などを歴任。穏健保守派のルブランは 1932年5月,全派閥に受け入れられる妥協的選択をおもな理由に,共和国大統領に選出された。調停役として,また国家統一の象徴として,左右どちらの政権にもうまく順応し,閣僚の任命や政策に政治的影響力を行使することはほとんどなかった。1939年4月大統領に再選。第2次世界大戦の初期にドイツがフランスに侵攻すると,亡命政権を率いることを望んだが,1940年6月の閣議決定をまとめてドイツと休戦条約を結んだ。同 1940年7月には不本意ながらビシーで憲法の改正を承認し,フィリップ・ペタン元帥が国家主席として政権を引き継いだ(→ビシー政府)。グルノーブル近郊のビジルに隠居後,1943~44年にドイツ軍によってチロルのイッターに抑留された。連合軍によってフランスが解放されると,シャルル・アンドレ・ジョゼフ・マリ・ドゴール将軍を暫定政府の首長と認めて政界から引退。自伝 "Témoignage"(1945)のなかで,この混乱の時代の出来事を解明しようと試みている。

ルブラン
Lebrun, Charles-François, Duc de Plaisance

[生]1739.3.19. ノルマンディー,サンソーブールランドラン
[没]1824.6.16. セーヌエオアーズ,サンメーム
フランスの政治家。 1789年全国三部会の代議員。恐怖政治期に投獄されたが,五百人会に入り,ブリュメール十八日クーデターを支持。 99~1804年第三統領。 04~14年帝政下の財政総監。 10年オランダ王ルイ・ボナパルトの譲位後,11~13年総督。

ルブラン
Leblanc, Maurice

[生]1864.12.11. ルーアン
[没]1941.11.6. ペルピニャン
フランスの推理小説作家。 1892年から『ジル・ブラス』誌に風俗小説を発表,のち推理小説に転じ,怪盗アルセーヌ・ルパンを主人公にした一連の傑作を発表して世界的な人気を得た。『怪盗紳士アルセーヌ・ルパン』 Arsène Lupin,gentleman cambrioleur (1907) 以下,『813』 (10) ,『水晶の栓』 Le Bouchon de Cristal (12) など。

ルブラン
Lebrun, Pierre-Antoine

[生]1785.12.29. パリ
[没]1873.5.27. パリ
フランスの劇作家,詩人。悲劇『メアリー・スチュアート』 Marie Stuart (1820) ,『アンダルシアシッド』 Le Cid d'Andalousie (25) はロマン主義演劇の先駆となった。ほかに『ナポレオン軍に捧げるオード』 Ode à la Grande Armée (05) 。

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改訂新版 世界大百科事典 「ルブラン」の意味・わかりやすい解説

ル・ブラン
Charles le Brun
生没年:1619-90

フランスのアカデミーの指導的画家,装飾家。Lebrunとも書く。パリ生れ。ブーエの工房で修業をし,1642年にローマに赴き,プッサンのもとで学ぶ。そのとき習得した理論が,のちにフランスのアカデミズムの根幹となったといわれる。さらにピエトロ・ダ・コルトーナなどからバロック的装飾の技術も学ぶ。46年パリに帰り,翌年ノートル・ダム大聖堂のために祭壇画を出品し,それが成功作となり,48年に創立された王立絵画・彫刻アカデミーの中心人物となった。58年宰相フーケのためにボー・ル・ビコント城の装飾に着手,61年からルイ14世と宰相コルベールの下で美術方面の権力を得,ベルサイユ宮殿の装飾にあたる。貴族となるとともに,63年にゴブラン織製作所の総指揮にあたり,翌年〈王の首席画家〉となった。65年,当時イタリア最高の彫刻家・建築家ベルニーニがパリにやって来たが,ル・ブランはベルニーニのルーブル宮殿設計案に対する妨害や,その仕事への圧迫を加えたとされる。いずれにしても,このイタリア彫刻家の力強い〈バロック〉様式に対して,彼の折衷的な〈古典様式〉は,共鳴音を奏でたとは考えられない。この訪問でベルニーニがフランスにもたらしたものは,壮麗な国王の胸像(ベルサイユ宮殿)1点だけであったといわれる。プッサンに学んだ〈古典主義〉理論にもかかわらず,ル・ブランの代表作《大法官セギエの行進》(1655ころ)は写実的な北方絵画の影響を受け,〈アレクサンドロス大王伝〉4点もプッサン的というより〈バロック〉的傾向を見せる。ベルサイユ宮殿〈鏡の間〉(1679-84)の装飾も,明快な〈古典性〉にもとづくというより,そこには擬古的なバロック性が存在する。
執筆者:

ルブラン
Nicolas Leblanc
生没年:1742-1806

フランスの化学者。イスダンの生れ。パリで医学と化学を学び,1780年からオルレアン公の主治医となり,かたわら結晶学などの研究を行った。84年ころから人造ソーダの製造に興味をもつようになり,アカデミー・デ・シアンスの懸賞募集に応じて,89年食塩から炭酸ナトリウム(ソーダ)を工業的に製造する〈ルブラン法〉を発明,91年その特許権を取得した。直ちにオルレアン公の資金援助を得て,サン・ドニにソーダ工場を建設したが,93年公の処刑とともに革命政府に没収され,操業は中止された。1802年工場はルブランに返還されたものの,資金の調達ができないために操業にいたらず,絶望のうちに,06年自殺した。ソーダ工業の祖と呼ばれている。
執筆者:

ルブラン
Albert Lebrun
生没年:1871-1950

フランスの政治家。政治歴は地味であったが,1931年上院議長,翌年大統領ポール・ドゥメールが暗殺され後任に選出される。39年5月再選され,ファシズム台頭期から第2次世界大戦に至る危機の時代に大統領の地位にあったが,自己の政治力を発揮するというより状況に従い,40年7月,議会がペタン元帥に立憲上の全権を与えたとき,これに抵抗せず第三共和政の終末に立ち会った。戦後の著書に《証言》がある。
執筆者:

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化学辞典 第2版 「ルブラン」の解説

ルブラン
ルブラン
Leblanc, Nicolas

フランスの化学者.パリで医学と化学を学び,1780年フランスの王族オルレアン公Louis Philipe Joseph(1747~1793年)の主治医となり,かたわら化学の研究を行った.1789年化学者J. Darcetの助手ディゼとともに,硫酸塩を石灰と木炭とともにしゃく熱すると,水に不溶の硫化カルシウムと可溶の炭酸ソーダが得られる方法,すなわち,ルブラン法を発明した.1791年その特許を取得し,Louis Philipe Josephの支持を得てサン・ドニに最初のソーダ工場を建設した.しかし,1793年Louis Philipe Josephは処刑され,工場は革命政府に没収された.その後,工場は返還されるが,資金の調達に窮して操業に至らず,ついに失意のうちに自殺した.ルブラン法はかれの死後フランスにおいて工業化され,さらにイギリスに渡り,1818年にC. Tennantの工場,そして1823年にJ. Musprattによる初の大規模工場が建設された.以後,ルブラン法による製造はヨーロッパ中に拡大し,ソルベー法が出てくるまでアルカリ製造業を支配した.

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百科事典マイペディア 「ルブラン」の意味・わかりやすい解説

ルブラン

フランスの推理作家。初め心理小説を書いたが,怪盗アルセーヌ・ルパンを主人公とする推理小説で成功,《怪盗紳士アルセーヌ・ルパン》(1907年),歴史のからむ《奇巌城》(1909年),時事ニュースに取材した《水晶の栓》(1912年)など一連のルパンものを発表した。

ルブラン

フランスの外科医,化学者。パリで医学と化学を学び,1780年オルレアン公の主治医。アカデミー・デ・シアンスの懸賞募集に応じて1789年食塩から炭酸ナトリウムをつくる工業的製法(ルブラン法)を発明した。フランス革命期は工場を没収されるなど不遇。自殺。

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世界大百科事典(旧版)内のルブランの言及

【ゴブラン織】より

…また,すぐれた織匠だけではなく,すぐれた下絵画家の必要も叫ばれ,ルイ13世(在位1610‐43)時代には当代一流の画家S.ブーエが王の下絵画家に任命された。 62年,ルイ14世時代に,宰相コルベールはゴブラン家の館を王の名で買い取り,67年ここに王立家具製作所Manufacture des meubles de la Couronneを設立し,画家C.ル・ブランを総監督に任命した(ここでは,タピスリーばかりでなく,家具,金銀・宝石細工など王家用の調度品すべてが生産されることになった)。パリの各地に散在していたタピスリー工房はすべてここに集められ,ル・ブランの厳格な監督のもとにおかれ,徒弟のための学校も設置された。…

【バロック美術】より

…この間のフランス・バロックのもっとも重要な特色は,建築,彫刻,作画,工芸,造園の総合的演出のもとに,壮大と秩序と豪奢を追求したことである。1648年王立絵画・彫刻アカデミーが設立され,ブーエの弟子ル・ブランがその中心人物となる。コルベールは織物,陶磁器,木工,金工の大工房を保護し,王立家具製作所(ゴブラン製作所)をル・ブランに指導させ,〈ルイ14世一代記〉などの豪華なタピスリー連作を作らせた。…

※「ルブラン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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