翻訳|road
フランスの宣教師,ベトナム語のローマ字正書法の考案者。アビニョンに生まれ,ローマでイエズス会士となった。1624年中部ベトナムに渡って布教に従い,ベトナム語に習熟したのち,27年北部ベトナムに入って新たに現地教団を設立したが,30年国外に追われた。その後マカオから3度ベトナムに渡り伝道を続けようとしたが,45年再び国外に追放され,49年ローマに帰った。ベトナムの言語と歴史に通じ,ベトナム語をローマ字で印刷した最も古い文献である《アンナン(ベトナム)語・ポルトガル語・ラテン語辞典》(1651)を編纂・刊行し,またベトナムの通史《トンキン王国史》をラテン語(1652)とフランス語(1653)で著した。ロードが考案したベトナム語のローマ字表記法は,わずかな修正を経て,現代ベトナム語の唯一の書記法である独特のローマ字体系クォク・グゥ(〈国語〉の意)となっているばかりでなく,その辞典の内容はラテン語とベトナム語の対訳による《贖罪を望みキリスト教の信仰に入らんとする者のための8日間の教理問答》(1652)に記述されたベトナム語とともに,17世紀のベトナムの言語を正確に伝える資料として高く評価されている。ペルシアで伝道中イスファハーンで没した。
執筆者:川本 邦衛
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イギリス国教会の聖職者、カンタベリー大主教。ヨークシャーのレディングに生まれ、オックスフォード大学に学ぶ。セント・デービズおよびロンドンの各主教を経て、1633年カンタベリー大主教に就任した。チャールズ1世の絶対主義を支持し、信従拒否者を厳しく処罰したため、ピューリタンの強い反感を買った。1637年スコットランド教会に祈祷(きとう)書使用を強制したため、主教戦争を引き起こし、ピューリタン革命のきっかけをつくり、1645年1月10日ロンドン塔外で処刑された。
[八代 崇 2018年1月19日]
イエズス会宣教師。フランスのアビニョンに生まれる。1623年マカオへきて、その後コーチシナ、トンキンへ赴き、その地の言語を修得し、布教活動を行った。トンキン禁教令のためマカオへ行き、10年間布教を続けた。マカオとコーチシナの間を四度往復し、多数を改宗させた。1645年強制的にヨーロッパへ追放されたが、1655年ふたたびトルコ布教のために派遣され、1660年ペルシアで没した。アンナンの言語、民族、歴史を研究し、ことに彼の編纂(へんさん)による『アンナン・ポルトガル・ラテン語辞典』(1651)は有名である。
[宮崎賢太郎 2018年8月21日]
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1573~1645
イングランド,チャールズ1世の親政時代(1629~40年)の国王の側近。国王に認められてイングランド国教会で異例の昇進をとげ,ロンドン主教をへて,33年カンタベリ大主教となり,ストラッフォードとともに,専制的な「徹底政策」を実行した。ピューリタンを弾圧し,スコットランドに国教会の共通祈祷書の強制を進言して,ピューリタン革命の原因をつくった。長期議会によって逮捕,投獄され,処刑された。
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(2014-1-29)
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…デュークとマーキスは,大陸の制度に倣ったもので,アングロ・サクソン時代にはさかのぼらない。 イギリスの爵位貴族nobilityはロードlordの敬称を帯び,サーsirの称号をもつ騎士knight階層から区別されるが,爵位は当該家門の長男によって世襲されるのが常であった。子爵の名は,中世初期に伯の職務を代行した役人vicecomesに由来し,ノルマン・コンクエスト後のイギリスではシェリフにこの名が適用されたが,これもやがて単なる爵位と化した。…
…国教会として確立するエリザベス朝では,大陸の神学者,とくにカルバンの教会論,職制論が支配的であったが,16世紀末にはバンクロフトRichard Bancroft,フッカーらが英国国教会を普遍的(カトリック)教会の一つの枝として位置づけ,使徒継承に基づく主教制の必要を唱えた。17世紀に入るとアンドルーズLancelot Andrewes,ロードWilliam Laudらがピューリタンに対して教会のカトリック性を強調し,ロードがピューリタン革命で処刑されたこともあって,王政復古時には高教会派が主導権を得た。名誉革命後,ウィリアム3世への臣従を拒否したものが高教会派に多かったため,教会と国家の首脳部が低教会派を優遇する時代が続いたが,キーブルJohn Keble,ピュージーEdward Bouverie Pusey,J.H.ニューマンらのオックスフォード運動によって,高教会派はふたたび活気づけられ,以後アングリカン・チャーチ内の一大勢力として今日に至っている。…
…国教会として確立するエリザベス朝では,大陸の神学者,とくにカルバンの教会論,職制論が支配的であったが,16世紀末にはバンクロフトRichard Bancroft,フッカーらが英国国教会を普遍的(カトリック)教会の一つの枝として位置づけ,使徒継承に基づく主教制の必要を唱えた。17世紀に入るとアンドルーズLancelot Andrewes,ロードWilliam Laudらがピューリタンに対して教会のカトリック性を強調し,ロードがピューリタン革命で処刑されたこともあって,王政復古時には高教会派が主導権を得た。名誉革命後,ウィリアム3世への臣従を拒否したものが高教会派に多かったため,教会と国家の首脳部が低教会派を優遇する時代が続いたが,キーブルJohn Keble,ピュージーEdward Bouverie Pusey,J.H.ニューマンらのオックスフォード運動によって,高教会派はふたたび活気づけられ,以後アングリカン・チャーチ内の一大勢力として今日に至っている。…
…16世紀に入ると,宗教改革を導入しようとして火刑に処せられたハミルトンPatrick Hamilton,ウィシャートGeorge Wishartの遺志を継いだJ.ノックスによってカルバン主義に基づく改革が実現し,1560年〈スコットランド信仰告白〉と〈規律の書〉による長老主義教会が確立した。1603年以降ジェームズ1世がイングランド王を兼ねたため主教制が導入されたが,37年カンタベリー大主教W.ロードによる祈禱書押しつけに反発して立ち上がり,長期議会との間に厳粛同盟を結び(1643),〈ウェストミンスター信仰告白〉と〈ウェストミンスター教理問答〉を受理して長老派教会として再建した。名誉革命(1688)後,〈スコットランドの教会〉としての地位を不動のものとして今日に至っている。…
…そのため第3議会は1628年〈権利請願〉を提出,イギリス国民の既得権に基づいて国王の失政を批判した。国王はいったんこれを認めたが,翌年議会を解散,以後11年間,カンタベリー大主教W.ロードとアイルランド総督ストラフォード伯の2人を側近として,専制支配を行った。不法な課税を強要し,星室裁判所などを利用して非国教徒への弾圧を強めたが,37年J.ハムデンの船舶税支払い拒否を契機として地方行政を担当していたジェントリー層の離反を招き,また同年スコットランドでは英国国教会の祈禱書強制に反対する暴動が起きた。…
※「ロード」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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