下島村(読み)しもじまむら

日本歴史地名大系 「下島村」の解説

下島村
しもじまむら

[現在地名]南国市下島

物部ものべ川河口右岸、久枝ひさえだ村の西側に位置する農村で、南は土佐湾を望む。香美郡に属し、「土佐州郡志」は「東限久枝村、西限前之浜下田村、南限海浜、北限上田村物部村、東西五町南北十一町、(中略)其地多小石、原寺村惣曰下島村」と記す。物部川扇状地にあり、南端に砂丘(浜堤)が横たわり、その北側の三角洲性低地の部分を悪水川のまえ川が東流する。この低湿地の地域を「土佐日記」に記す大湊に比定する説がある。村の北部をしも街道が下田しもた村から当村を経て久枝村へ至る。

天正一六年(一五八八)の上島下島原寺三村地検帳のうち、近世の下島にあたる下島・原寺分は検地面積三七町四反六代三歩で、屋敷数三五、うち居屋敷二二。


下島村
しもじまむら

[現在地名]枚方市牧野下島まきのしもじま町・牧野北まきのきた町・下島・西牧野にしまきの三丁目

交野かたの郡に属し、淀川左岸沿いの沖積低地に位置する。穂谷ほたに川が村南端のさか村との境を西に流れ、淀川に注ぐ。北は上島かみじま村・養父やぶ村。淀川に沿って京街道が通る。古くはまき川島かわしま村に属し、寛永年間(一六二四―四四)上島・下島両村に分れたという(→上島村。貞享四年(一六八七)までの領主の変遷は上島村に同じ。元禄元年(一六八八)将軍徳川綱吉の母桂昌院の弟本庄宗資領、同六年再び幕府領と変化し、幕末に至った。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では六〇石余、小物成として葭島高三三石(幕府領)、延宝年間(一六七三―八一)の河内国支配帳では六八石余。


下島村
しもじまむら

[現在地名]平塚市下島

東境をたま(現渋田川)が流れ、西は小鍋島こなべしま村、北は大島おおしま村、南は打間木うちまぎ村に接する。「風土記稿」は当村一帯を古くはしまはらと称したと記す。康正二年(一四五六)四月四日の足利成氏書状写(県史三)に「相州嶋河原出張」とみえ、「鎌倉大草紙」には享徳四年(一四五五)四月二二日足利成氏の軍勢と上杉勢が「嶋河原」で戦ったとある。


下島村
したじまむら

[現在地名]上平村下島

西赤尾町にしあかおまち村の北、庄川左岸の低地に位置し、東の庄川対岸は中田なかだ村、西は山地。南北に五箇山ごかやま(飛州小白川村間道)が通り、北は漆谷うるしだに村を経て小瀬おぜ峠へ通じる。天文二一年(一五五二)一〇月二七日の五箇山衆連署申定(生田家文書)の「赤尾」の内に下嶋六郎左衛門尉の名がみえる。寛永七年(一六三〇)の高五三石余、免四ツ七分余、納所金子八両余(「検地見図帳並免定目録」川合家文書)


下島村
しもじまむら

[現在地名]守口市下島町・外島とうじま町・八雲北やくもきた町一―三丁目・新橋寺しんはしでら町など

北十番きたじゆうばん村の西南、南十番村の北西にある。下番しもばん村の一村で江戸時代初めには八番村の出在家であったが、のちに南十番村のなかに含まれ、元禄八年(一六九五)に分村独立した(守口市史)。一時は十一番じゆういちばん村とよばれたこともある(淀川両岸一覧)。元禄郷帳に村名がみえ幕府領。元文二年(一七三七)の河内国高帳によると高三五〇石余、ほかに新田分二斗余がある。領主の変遷は八番村に同じ。文化一〇年(一八一三)の家数四五・人数二三一(弘化五年「万控帳」田中家文書)。明治一六年(一八八三)八雲やくも村となる。淀川が村の北から西へ、さらに南へ曲がって流れているため三方を淀川堤に囲まれる。


下島村
しもじまむら

[現在地名]下蒲刈町下島

三之瀬さんのせ町の西に位置し、近世には行政的には蒲刈島に含まれたが庄屋が置かれていた。宝永二年(一七〇五)の下島村控(「芸南蒲刈島誌」所収)や同時期の下島請野帳(同書所収)などによれば、高三八八石余・畝数六〇町七反余(うち八反余は上黒島)、戸数一二〇、人口七一〇、舟一八。畝数のうち、田が一六町五反余であるのに畠は四二町四反余もあり、また役家は三四戸である。

芸藩通志」に蒲刈島の干潟新開一四町(うち六町は塩田と伝える)とみえるのは、天神鼻てんじんばな白崎しろさきに囲まれた下島の深い入江奥にあたり、現在でも下蒲刈島内随一の広さをもつ平地である。


下島村
しもじまむら

[現在地名]和束町大字下島

撰原えりはら村の西南方和束川左岸に位置し、村中を信楽しがらき街道が通る。東南は山を負い西北和束川に面する側のみ開ける。古くは有地うち牧と称したという(京都府地誌)が詳細は不明。字地名に古橋ふるばし横枕よこまくら椀兵わんひよう小正次こしようじ茶屋ちややまえ雨堤あまつつみ檜平ひのきひらがある。

江戸時代には和束郷の一村で、高一二九・七〇三石、禁裏新御料(享保一四年山城国高八郡村名帳)


下島村
しもじまむら

[現在地名]静岡市下島・登呂とろ六丁目

西島にしじま村の東に位置し、南は駿河湾に面する。集落は砂丘上に立地する。中世は下島郷と称された。領主の変遷は中島村と同じ。慶長一四年(一六〇九)七月の下島村御検地帳(長田家文書)が残る。小島藩領はま四ヵ村の一つ。元禄一一年(一六九八)名寄帳(同文書)によれば、田方三九五石余・三三町三反余、畑屋敷三三石余・四町四反余、名寄人四九(うち寺一)、最大持高者は一〇六石余・九町一反余、一町歩以上は八名、五反から一町歩未満八名、一反から五反歩未満二一名、一反歩未満一二名。


下島村
しもじまむら

[現在地名]堀之内町下島

魚野うおの川左岸にある。北の対岸は新道島しんどうじま村、東は徳田とくだ村・しも新田・田川たがわ村、西は和南津わなづ(現川口町)。集落は三国街道沿いにある。正保国絵図では高二〇七石余。天和三年(一六八三)の検地帳(堀之内町史)では田二三町九反余・畑八町三反余。


下島村
しもじまむら

[現在地名]利賀村利賀

下利賀村から道を下り利賀川を渡った左岸に位置し、西は山地、南は上流の北島きたじま村、北に村はなく谷が深い。正保郷帳に村名がみえ高九石余、畑方のみで六反余。以後幕末まで高に変化なし。明暦二年(一六五六)の免四ツ五歩一厘、同年以後、納所金子一両三匁五分余・塩硝役金子五分余・手上金子三分余、蝋・漆・蓑・紙役金子四分余、計二両五分余を課せられており、この代銀九九匁余を夏成・冬成の両度に納めた(天保一〇年「草高免付百姓数品々帳」利賀村公民館蔵)


下島村
しもじまむら

[現在地名]伊奈村下島

中島なかじま村東南に所在。板橋いたばし村より福原ふくわら村・中島村を経て藤代ふじしろ(現北相馬郡藤代町)に至る小道に沿う街村。近世に入って新開され、古くは右馬之介うまのすけ新田といった。享保三年(一七一八)に土浦藩土屋氏領(谷原下郷組)となって廃藩置県に及び、「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)の村高六二五・六四八石。


下島村
しもじまむら

[現在地名]滑川市下島

上市かみいち川東岸、早月はやつき川との複合扇状地に位置し、西は菰原こもはら村、北は田中たなか村。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高二九二石、免三ツ七歩(三箇国高物成帳)。所属組は寺家じけい村と同じ。享保一八年(一七三三)の新川郡村廻帳(川合家文書)に「無家、肝煎滑川掛作惣右衛門相勤ル、但掛作十二人」とあり、歴代他村からの掛作百姓が当村肝煎を勤め、嘉永二年(一八四九)には田中村の久助であった(早川家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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