不動寺(読み)フドウジ

デジタル大辞泉 「不動寺」の意味・読み・例文・類語

ふどう‐じ【不動寺】

群馬県甘楽かんら南牧なんもく村にある黄檗おうばくの寺。山号は、黒滝山。開創は嵯峨天皇の時代という。江戸時代潮音道海が中興。

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精選版 日本国語大辞典 「不動寺」の意味・読み・例文・類語

ふどう‐じ【不動寺】

群馬県甘楽郡南牧村にある黄檗宗の寺。山号は黒滝山。元正天皇(在位七一五‐七二四)のころに存在した古寺で、嵯峨天皇の勅願寺。延宝年間(一六七三‐八一)道海潮音が中興、排仏論批判の拠点となり黒滝派(潮音派)といわれた。

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日本歴史地名大系 「不動寺」の解説

不動寺
ふどうじ

[現在地名]大津市田上森町

太神たなかみ(五九九・七メートル)山頂近くにある天台寺門宗寺院。太神山成就院と号し、本尊不動明王。同山は古代より岩座を神体とする原始信仰の山で、太神は「田の神」から転じた名称といわれ、農耕の神が宿る山として信仰されてきた。境内の数百年の樹齢をもつ老杉はひときわ目立つ大樹である。

〈近江・若狭・越前寺院神社大事典〉

〔開創伝承〕

開基は九世紀にさかのぼると伝え、寺蔵の太神山不動明王像略縁起には次の経緯を記す。清和天皇の代、園城おんじよう(三井寺)を照らす金色の光があるため円珍は杣人を遣わしたのち太神山に登った。「誠に此山は不動尊の全体、八峯は八大童子、八谷は八大竜王」と信心を深くしていると老翁が現れ、円珍にこの峯で長く師を待っていた、林中に紫雲が覆う奇樹があり、夜には金色の光を放ち天照大神が山頂に来往する、この霊木で明王像を刻み岩窟に安置すれば鎮護国家の霊地となるだろうと告げた。

不動寺
ふどうじ

[現在地名]内浦町不動寺

不動寺集落の北にある。医王山と号し、高野山真言宗。本尊は不動明王。開創年代は不明であるが、貞享二年寺社由緒書上によれば、当寺をはじめ満泉まんせん寺、時長の願成ときながのがんじよ寺、布浦ぬのうら薬師寺上の光明かみのこうみよう院、宮犬みやいぬの弥勒院、秋吉の清水あきよしのせいすい寺、松波の神宮まつなみのじんぐう(廃絶)の八ヵ寺の前身を医王山木郎もくろう寺と総称し、近江日吉社の山王権現を勧請、社頭・拝殿・講堂があったという。このため現在いずれも山号を医王山と号する。不動寺の初見は寺蔵の天文一五年(一五四六)一二月一三日銘の山王社(現日吉神社)棟札で、鎮守山王宮上葺を不動寺順智が願主となり、弥勒院・願成寺・松之坊・常定坊などが奉加して完成している。

不動寺
ふどうじ

[現在地名]南牧村大塩沢 黒滝

黒滝くろだき(八七〇メートル)の南東側中腹にあり、背後に日東につとう巌・星中せいちゆう巌・月西げつせい巌の三巌がそびえ、前方には五老ごろう峰が迫る。黄檗宗で黒滝山緑樹院と号する。本尊の不動明王像は行基の作と伝え、寺名は本尊によるという。古くは嵯峨天皇の勅願の道場であったとも伝える。中興は館林広済こうさい寺二世の潮音道海。「国志」に「開山潮音道海和尚、潮音和尚館林の広済寺を辞して後、南牧に遊歴す、これより先、黒滝山に山居の僧あり、師を延いて山居せしむ、師乃ち僧と共に往て巌窟の中に禅座す、其為地甚だ霊区なり」とあり、「名跡志」にも「後上野志ニ南牧黒滝山不動寺開山潮音道海和尚ト云」とある。

不動寺
ふどうじ

[現在地名]赤城村宮田 御嶽

奥沢おくさわ川と大久保おおくぼの沢が赤城山麓崖を深く削った舌状台地脚下の洞窟に祀られる不動明王像(国指定重要文化財)を本尊として、昭和一九年(一九四四)創建された寺院。山号宮田山、曹洞宗。以前は不動堂があり、「山吹日記」の作者奈佐勝皐も天明六年(一七八六)訪れており、「前橋風土記」にもその存在が記されている。不動明王像は立像、凝灰岩質石英斑岩の丸彫、総高一六六センチ。右手首を剣を握る形に腰に当て、左手は羂索を握って垂れた形をなし、岩座の上に立った一目諦視の忿怒相の像。

不動寺
ふどうじ

[現在地名]小千谷市岩沢 第一区

函山はこやま城跡の真下の平地にある。かつては後方の山腹不動林ふどうばやしとよぶ地にあった。真言宗智山派、岩沢山と号し、本尊不動明王。天平七年(七三五)行基がこの地に降り、神木の桂樹で不動明王を彫し、一宇を創建したという。弘仁元年(八一〇)空海が巡錫の折、住僧勝隆に法脈を伝え、これを開山とした。その後源義家・頼朝の戦勝祈願があったという。また上杉謙信の信仰厚く多くの土地物件を寄進されたと伝える。

不動寺
ふどうじ

[現在地名]下京区石不動之町

真言宗東寺派。青蓮山と号し、本尊は空海作と伝える石仏不動明王。古くは明王みようおう院と称し、俗に松原まつばら不動ともよばれる。寺伝によれば初め法相宗で、朱雀天皇の時代に道観が開創したという。開創当時この一帯はうっそうとした松林であったが、なかに丘があり、平安京開設の際に空海が石仏を造って安置したところという。また詔勅があり、王城鎮護のため平安京の四方において経文を石蔵に納めたが当地はその一つで、南岩倉みなみいわくらと称したともいう。現在も堂舎には「南岩倉」と書かれた額がかかるが、「京羽二重織留」には「南方の岩倉其所さだかならず、一説には王城の南方は雄徳おとこ山なり、しかれども此山八幡の神地なれば仏経を納がたし」とも記される。

不動寺
ふどうじ

[現在地名]御所市大字櫛羅

葛城かつらぎ山の中腹、櫛羅くじら滝の下に位置する。清滝山戒那かいな院と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。ほかに歓喜天、大威徳明王(もと金剛山朝原寺にあったという)役行者の像を安置する。櫛羅藩(旧新庄藩)藩主永井氏の菩提寺で、永井信濃守尚長の木像がある。開山は空海という。

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