久昌寺(読み)きゅうしょうじ

精選版 日本国語大辞典 「久昌寺」の意味・読み・例文・類語

きゅうしょう‐じ キウシャウ‥【久昌寺】

茨城県常陸太田市新宿(あらじゅく)町にある日蓮宗の寺。山号は靖定山。山の御寺通称。延宝五年(一六七七水戸光圀が母の久昌院を追福して創建開山は日忠。くしょうじ。

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日本歴史地名大系 「久昌寺」の解説

久昌寺
きゆうしようじ

[現在地名]常陸太田市新宿町

日蓮宗で靖定山と号する。本尊は宗祖奠定の大曼荼羅。

「桃源遺事」「山吹日記」などによると、徳川光圀が生母の谷久子(久昌院靖定大姉)の十七周忌にあたる延宝五年(一六七七)に、稲木いなぎ村にあった佐竹氏の菩提寺禅宗天徳てんとく寺を新宿あらじゆくに移し、その後へ同年水戸城外から経王きようおう寺を引いて久昌寺と改称し、久昌院が帰依していた日忠を招いて開基としたという。山の御寺ともいい、朱印三〇〇石を有し、八ヵ寺の末寺をもつ独立本山であった。当時は七堂伽藍を完備し、経王宝殿・三十番神堂・中門・唐門・鐘楼鼓楼・多宝塔・聚石堂・菩薩閣・方丈・斎堂・浴室・図堂のほか一〇坊を建て、能化の居所として摩訶衍まかえん庵を置いた。

久昌寺
きゆうしようじ

[現在地名]宮古市田代

吾妻あづまにある。明白山と号し曹洞宗で、本尊は釈迦如来。江戸時代には花原市けばらいち華厳けごん院末で、報恩ほうおん(現盛岡市)の支配下にあった(邦内郷村志)。天正八年(一五八〇)に宮古村和見館間わみたてまに古常安じようあん寺を開いた華厳院六世三叟義門が同一八年に創建したものと伝える。所在地は田代たしろ館の大手口にあたり、地頭田代氏の菩提寺で、境内にある白山権現宮(現日月堂)は「御領分社堂」に「当村館主田代安芸為鎮守勧請」とあり、寛永二〇年(一六四三)源義里(田代治兵衛)妻源氏駒寄進の鰐口を蔵する。

久昌寺
きゆうしようじ

[現在地名]江南市小折

嫩桂山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。境内一千四四七坪。至徳元年(一三八四)宝厳浄珍の創建。領主林朝忠の開基。初め禅喜ぜんき寺と号し能登如意によい庵主実峯良秀に請い、開山とした。嘉慶元年(一三八七)慈雲山竜徳りゆうとく寺と改め、その後衰微したが文明年中(一四六九―八七)生駒家広が再興し、子豊政が臨済宗の道場とした。永禄九年(一五六六)現寺号に改め雄山源英を中興開山とし、能登総持そうじ寺末となったが、天正年中(一五七三―九二)名古屋万松ばんしよう寺の住職を当寺から出して以来、曹洞宗に改め万松寺末となった(徇行記)

久昌寺
きゆうしようじ

[現在地名]盛岡市大慈寺町

長松ちようしよう院の北隣に位置する。奕葉山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。内史略本「盛岡砂子」によると報恩ほうおん寺末で、「長松院、久昌寺は裏通手狭に仍て、御田地境中に入て、境内より御年貢、御役銭、諸郷役共に出す」と記される。寺伝によれば、寛永(一六二四―四四)初期祇陀ぎだ寺前住の奇山快秀が隠棲していたところ、六日むいか町の十一屋某が快秀に帰依して閑居として庵室を造り、久昌庵と号した。のち快秀と十一屋三代目高橋祐吉は、周囲の谷地を購入し新たに伽藍を建立。

久昌寺
きゆうしようじ

[現在地名]福知山市字寺

寺町てらまち筋の東北側、由良川堤防沿いにある諸寺の一番北西側に位置する。補岩山と号し曹洞宗。本尊観世音菩薩。

文禄元年(一五九二)高橋源太なる者の妻久昌妙信尼の開基により草創されたと伝える。開山は雲虎。その後寛文九年(一六六九)に入封した朽木家の菩提寺の一つとされ、一族位牌および墓がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報