交易(物のやりとり)(読み)こうえき

日本大百科全書(ニッポニカ) 「交易(物のやりとり)」の意味・わかりやすい解説

交易(物のやりとり)
こうえき

交易とは、広くは貨幣をも含めた物のやりとりすべてを示す語であるが、狭義には非市場社会での自給自足を補うための物と物との交換をさして用いられる。非市場社会での物々交換は、貨幣こそ欠いているものの、本質的にはわれわれの社会の売買と変わらないと人々が信じて疑わなかった時代がある。このころには交易とは功利目的で行われるものであることが暗黙了解となっていた。ところが20世紀初め、非市場社会における物のやりとりがかならずしも功利的交換ばかりではないことがマリノフスキーによって示されて以来、非市場社会の経済研究の枠組み自体がさまざまの形で問い直される結果となった。この過程において、交易という語は功利的であるか否かにとらわれずに広く物のやりとりすべてを示す語として用いられたりもしたが(現にマリノフスキーも非功利的交換にも相変わらず交易の語を用いている)、最近ではむしろ、広義の物のやりとりすべてをさすにはもっぱら「交換」という語があてられ、交易とはそのうちでも功利的に行われるものについていい、また非功利的交換には儀礼交換ないしは社会交換の語が用いられることが多い。しかしある交換が実際に功利的であるかないかは、交換する当事者間の認識のレベルと研究者の観察のレベルのどちらについていうのか、また特定の交換をその社会における文化的・社会的意味をも含めて功利的か否かを判断すべきかどうかなどの問題があり、個々の交換にこの語を当てはめるか否かは研究者によりかなり相違がある。

 かつては完全に自給自足を行う原初的家族経済モデルが想定されたこともあるが、少なくとも今日そのような民族をみいだすことはできない。それどころか考古学の成果によれば、先史時代にすでに世界各地黒曜石、こはく、緑石、貝などが原産地から遠く離れた地点にまで輸送されていたことが明らかであり、それらは交易ないしは交換の成果によるものと考えるのがもっとも適当であろう。そのような特産品は、部族から部族へ、集落から集落へと他のものに媒介されながらリレー式に取引されていたようで、こうした交易ルートは先史時代において世界各地に存在していたし、また今日においてすらいくつかの例がある。言語、文化、社会構造を異にするこれらの部族間で、次から次へと物のやりとりがなされたのは一見驚異的に思えるが、しかし実際には功利を目的とした交換としての交易は、共同体内部よりも共同体間において発達したものであるらしい。一般的に共同体内においては互酬的な贈与によって一時的な財の過不足を補うのに対し、共同体間では地理的な資源の偏在を交易によって補うのである。また、なんらかの形での「連帯」が必要であり、「和」が尊ばれる共同体内部にあっては、個人的な利潤のみを追求する交易が行われにくかったのは当然ともいえよう。その意味で、資料が断片的であるために疑念のもたれている沈黙交易も、交易の原初形態としての存在を否定できない。沈黙交易とは、言語も通ぜず、文化、社会組織も極端に異なる異部族間で、一定の交換レートに従っておのおのの特産品を無言のうちに交換する風習であり、互いの接触を極端に避けるために一定の場所に時間を変えて相互に品物を置いて交換することにより、顔をあわせることすらなしに交易を行うのである。しかしこれより一般的に行われているのは、異なる部族の成員同士がある種の習慣に基づいて他方を訪問したり、どちらかの共同体の外れで落ち合ったりして交易を行うことである。

 階層分化の少ない部族社会においては、交易を行う者が部族内で専門化することはあまりないが、近隣諸部族間を回り交易をもっぱらにする部族がときおり存在することは興味深い。ニューギニア島とニュー・ブリテン島との間のビシアス海峡の小島に住むシアシ人は、さしたる資源ももたないかわりに2本マストのカヌーを乗り回して海峡を結ぶ交易網を維持し、家畜農作物土器の壺(つぼ)、黒曜石などの仲買活動を行っている。同様の例は、歴史時代にはフェニキア人、ユダヤ人など、また砂漠のベドウィンや西アフリカの民族集団のハウサ、マンディンゴ、また東南アジアではマレー人などにもみいだすことができよう。

 利潤追求の交易と社会関係の円滑さを求めるための贈与に基づく交換(儀礼交換)とは、理念的には相反するものとして峻別(しゅんべつ)しうるが、実際に個々の交換がどちらなのか厳密に区分することはしばしば困難を伴う。たとえばマリノフスキーの記述したマッシム諸島におけるクラ交換についても、航海の主目的としての貝やウミギクの装飾品の交換は贈与によるものとしか考えられないが、これに伴い副次的に各地の特産品の交易が行われることに着目して、クラ交換の潜在的目的は交易であるとみなす学者もいる。また、互いにもしくは一方が相手の持つ品物を欲しがっていながら、手続としてはなんらかの習慣に従い、表面上は贈与という形式で互いに物を贈り合うことによって品物を入手する場合もある。とくに威信経済prestige economyの下では訪問者を手厚くもてなすのが美徳とされており、訪問者の持参した贈り物に見合う以上の返礼がなされることもしばしばである。ただしこのような形での交換を、人々はたてまえとしては「物が欲しいから行うのではない」と強調するのが普通である。実際に人々がいつもかならず合理的に判断して交換を行っているとは限らず、習慣に従って非合理的な交換をせざるをえないこともある。また人々がもうけることを自覚して行っている交易の場合ですら、パートナーが異部族といえども固定していたり、交易品に制限があったりなど慣習的ルールがかならず付きまとっているのである。

 儀礼交換や交易は貨幣や市場システムが未発達な段階でもっぱら行われるが、どの品物とどの品物が等価であるかという目安は多くの社会や地域に存在する。これを基に人々は儀礼交換において返礼すべき品物とその量を知り、また交易であれば多少の駆け引きを行うのである。ただし等価であればなんでも交換可能なのではなく、交換、交易に供される品物にはおのずと制限がある。このような品物のなかでもとりわけ頻繁にやりとりされるものは、交換を媒介する役割を果たす点で貨幣に似た機能をもつものとして古くより注目を集めている。これらの品々(交換財)は文化によって多種多様であるが、一般にはヤップ島の石貨をはじめとして使用価値をまったくもたないものや、メラネシア各地の貝貨のように装飾以外に用いられることのないものであることが多い。しかし一方、土器や石斧(せきふ)のような得がたい製品や黒曜石などのように使用価値の高いもの、東アフリカの牛、メラネシアの豚などの家畜(食物)がしばしば交換の媒体になっているのも事実である。

 結局交易とは、だれもが自由に好きな物を交換することのできる市場という場の存在しないところで、さまざまな制約の下にありつつも、できるだけ功利的に行われる取引である。制約を克服できずに非合理的選択をとらざるをえない場合もあるが、一方で習慣(制約)を利用して利潤を生み出すこともある。そもそも交易とは、純粋に功利的な交換とはなりえないのであって、単独ではなく互酬的な儀礼交換をも含めた交換一般のなかで考察されるべき問題であるといえよう。

[山本真鳥]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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