江戸時代の俳人の手になる一種の詩的散文。散文の要素は当時文学的と意識された伝統的雅文,漢文読みくだし文,和漢混淆文であり,詩の要素はいうまでもなく俳諧性である。文章上の特色は,俗語と雅語,漢語と和語の混淆が著しいこと,和歌,俳句,歌謡の調べ,和歌的な掛詞・縁語,漢詩的対句などが多く,一種のリズムを持つこと,連句に似た飛躍した文脈で,文章の論理性よりも含蓄と余韻を尊ぶことなどがあげられる。初期の貞門,談林時代は,〈俳言(はいごん)〉を伝統的な和文の中にはめこむことで滑稽と卑俗美を出すことに努めた。季吟の《山之井》,元隣の《宝蔵》,友悦の《それぞれ草》などがある。
しかし俳文の文学的達成は,芭蕉をまたなければならなかった。彼は1690年(元禄3)〈誹文御存知なきと仰せられ候へ共,実文にたがひ候はんは,無念の事に候〉(去来宛書簡)と述べたが,〈俳文〉の語はこれが初出であろう。芭蕉の俳文は《幻住庵記》で完成され,芭蕉の生前に公刊された唯一の作品として《猿蓑》に発表されたが,同時に企画された〈猿蓑文集(さるみのもんじゆう)〉は門人たちの作が芭蕉の気に入らず沙汰やみとなった。のちに森川許六(きよりく)がそれらの作品を中心に,《本朝文選》(のちに《風俗文選》)を刊行,これが蕉門における俳文ジャンルの確立となった。漢文の文体にならった辞,賦,記などを中心とした編集で,内容的には洒脱,隠逸味に富むものが多い。芭蕉は《おくのほそ道》以下の紀行,日記にも独自の境地を開いた。蕉門の俳文集には,ほかに支考の《本朝文鑑》《和漢文藻》がある。その後,諧謔味にあふれ技巧的に俳文の極地を示した也有の《鶉衣(うずらごろも)》,離俗の姿勢を持つ蕪村の《新花摘(しんはなつみ)》があり,一茶の《父の終焉日記》《おらが春》,友水の《風狂文草》,自得の《芙蓉文集》,蟹守の《新編俳諧文集》,月化の《秋風庵文集》などがある。
執筆者:井上 敏幸
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
主として俳人によって書かれた俳諧(はいかい)的な味わいのある文章。簡潔な表現で、省略や飛躍を伴うが、詩的で含蓄に富み、世俗を超越した風流な気分を表すものが多い。多くは短文で、文章に俳句が挿入されることもある。論理より感覚を重んじるが、和漢の故事を引用し、機知的な比喩(ひゆ)を多用し、また滑稽(こっけい)味を強く出すこともある。山岡元隣(げんりん)著『宝蔵(たからぐら)』(1671)が俳文集の最初のものとされているが、それより早い北村季吟著の季寄(きよせ)書『山の井』(1648)の季題解説の部分に俳文の芽生えがあるとも考えられている。「俳文」の語は芭蕉(ばしょう)の元禄(げんろく)3年(1690)と推定される書簡中にみられるのが最初で、芭蕉やその門下の人々によって、「俳諧の文」「俳諧の文章」などともよばれた。芭蕉の紀行文も広い意味での俳文と考えてよいが、狭い意味での俳文は、芭蕉とその門下の俳文を集めた許六(きょりく)編『本朝文選(もんぜん)』(1706刊、のち『風俗文選』と改題)において確立したと考えられる。
江戸時代を通じて、優れた俳人は優れた俳文を残していることが多く、蕪村(ぶそん)著『新花摘(しんはなつみ)』(1797)、一茶(いっさ)著『おらが春』(1820)などにそれをうかがうことができる。也有(やゆう)著『鶉衣(うずらごろも)』(1787)は、趣味的な飄逸(ひょういつ)の態度が徹底していることと、「続編」「拾遺」をあわせて大部であることによって影響を与えるところが大であった。江戸時代の俳文を大きくみると、風雅の趣(おもむき)を主とする芭蕉の行き方と、飄逸滑稽の趣を主とする也有の行き方の二つの流れがあった。近代においては正岡子規(しき)一派の写生文が俳文の範囲にあり、その門下の高浜虚子(きょし)に『新俳文』(1933)の著がある。
[山下一海]
『麻生磯次他校注『日本古典文学大系92 近世俳句俳文集』(1964・岩波書店)』▽『松尾靖秋・丸山一彦他校注・訳『日本古典文学全集42 近世俳句俳文集』(1972・小学館)』▽『松尾勝郎著『近世俳文評釈』(1983・桜楓社)』
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…とはいえ中世にもなお俳諧を高く評価する者は少なく,俳諧といえばもっぱら漢詩,和歌,連歌のうち正雅とは認めがたい作品を指していう言葉であった。ところが中世も末期になると〈俳諧之連歌〉がしだいに盛んになり,江戸時代に入ると,それは純正な連歌とは別個の新しい独立した文学と認められるまで成長し,俳諧という言葉は俳諧之連歌を基盤として生まれた発句,連句,俳文など,いわゆる俳諧文芸全般を総称する名辞として定着するにいたった。なお,江戸時代では,俳諧の語をとくに狭義に用いて,連歌形式の俳諧作品(連句)を指していうことが多い。…
※「俳文」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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