改訂新版 世界大百科事典 「大衆演芸」の意味・わかりやすい解説
大衆演芸 (たいしゅうえんげい)
一般に,芸にたずさわる人が民衆の前で演じてみせる通俗的な諸芸をさしていう。〈大衆芸能〉の語もほぼ同じ意味で用いられる。大劇場で行われる演劇(いわゆる大衆演劇,商業演劇)とは一応区別して,主として寄席演芸のような大衆性をもつ芸能をいう。落語,講談,浪曲,漫才,奇術などは大衆演芸の代表的なものである。大衆演芸は,あくまでも広く一般の民衆に親しまれ,支持されるものでなければならないだろう。
落語が大衆演芸として民衆の盛んな支持を得るようになったのは,文化・文政・天保(1804-44)のころであり,江戸でも大坂でも多数の名手があらわれた。幕末期には単なる落し噺だけではなく,長ばなし,芝居噺,怪談噺,音曲(おんぎよく)噺,人情噺なども生まれ,明治・大正を経て昭和に至るまで大衆演芸として継承されている。明治時代には三遊亭円朝のような話芸の巨匠が出現し,幾多の名人が輩出した。昭和30年代以降テレビがあらわれ普及してからは,東西の噺家の中からタレントとして活躍するものもあり,落語の本質が変容した一面もあるが,大衆に広く享受されている。
講談や浪花節(浪曲)は,明治以後に名人上手が多数出て隆盛を誇ったときもあるが,第2次世界大戦後,時勢に合わない面が生じたせいもあって衰退し,今なおマスコミにも十分に乗りきれず,やや沈滞気味である。
奇術は,手妻,手品とも呼ばれるが,〈奇術〉の語は《日本書紀》に見えるほど古い。幻術が興行化したのは江戸時代に入ってからであるが,文政期の初代柳川一蝶斎の〈うかれ蝶の曲〉は有名であり,一蝶斎の名は襲名されて明治中期にまで及んだ。明治期には〈西洋手品〉と〈シナ手品〉が日本手品に加わった。1876年(明治9)にイギリス人のジョン・マルコムの手品が伝わり,88年にはノアトン一座が来日した。林屋正楽こと帰天斎(きてんさい)正一は,寄席に〈西洋手品〉という看板を出した。さらに松旭斎(しようきよくさい)天一,松旭斎天勝の出現が奇術の新しい発展を促し,昭和には石田天海のような世界的奇術師も出て現在もすこぶる隆盛である。
漫才は,伝統的な〈万歳〉が変化したものだが,1933年に大阪で吉本興業が初めて〈漫才〉と称し,エンタツ,アチャコらの活躍で急激に発展した。やがて東京に波及し,東西に名手があらわれた。テレビ出現後,漫才は,いよいよ人気を高め,今日では歌謡ショー,トリオという形もでき,大衆演芸の雄として活動している。
紙切りは,1914年(大正3)ごろに,大阪で巴家(ともえや)伯糸が知られた。これは客の注文で,即座に紙をさまざまな形に切って見せる芸である。大正末期に大阪では桂南天がこれを演じ,昭和では紙乃喜利平(かみのきりへい)が著名である。東京では昭和30年代以後林家正楽が紙切りとして一家をなしている。
声色(声帯模写)は,江戸時代から行われた大衆演芸の一つだが,昭和の現代に及んでも衰えていない。歌舞伎・新派・新国劇・新劇の俳優,浪曲師,歌手,政治家,テレビタレントの声から鳥獣の鳴き声までまねて人気がある。
江戸時代から明治にかけて盛んだった大衆演芸で,時流に合わずに消滅してしまったものも多い。たとえば,〈百眼(ひやくまなこ)〉などは江戸時代に大いに喜ばれたものであった。幾種類かの目鬘(めかつら)を取り替えて目つきを変え,変相して見せる芸で,文化・文政期に三笑亭可楽門人の三笑亭可上が名人といわれた。その後,この芸は,さまざまな有名人の顔を似せる芸に変化していった。それを百面相というが,今日では,まったく衰退してしまい,ときどき噺家が落語のあとに余興として演ずることがある程度となった。〈八人芸(はちにんげい)〉というものもあった。これは一人で8人前の芸をするということから出た名称であるが,のちには十二人芸,十五人芸,十八人芸もあらわれた。幕末のころ大坂の吉田流,江戸の川島流が栄え,明治時代には豊崎寿鶴斎,西国坊(さいごくぼう)明楽が著名だったが,後継者がなくてこの2名人を最後に消滅してしまった。写し絵も同じ運命をたどった。これは動く幻灯のことであり,すでに享和(1801-04)のころに,うつしゑ都楽(富士川都楽)が上野で見た〈阿蘭陀(オランダ)エキマン鏡〉を種にしてくふうし,風呂桶のような小箱に穴をあけ,ビードロを用いて絵を写して見せた。明治にも両船亭船遊,結城孫三郎,玉川文楽らがこれを演じたがしだいに消えた。
大正末期に無声映画の説明者(活動弁士,略して活弁)が,トーキーの発達によって職がなくなり,活路を見いだすために始めたものに漫談があった。1924年に活動弁士が主宰していた〈なやまし会〉で,大辻司郎が演じたのが最初といわれる。ユーモラスな口調で時事問題を扱う一種の話芸で,昭和初期には大いに流行し,寄席やラジオで人気があったが,現在は若い漫談家があらわれず,歌謡漫談が一時起こったものの,これも盛んではない。その他,義太夫,太神楽,曲独楽(きよくごま),俗曲(ぞつきよく)などもあり,剣劇,軽演劇,ストリップショーなどの中にも大衆演芸的な要素が包含されている。
執筆者:関山 和夫
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