小平村(読み)おだいらむら

日本歴史地名大系 「小平村」の解説

小平村
おだいらむら

[現在地名]平田村小平

阿武隈高地の山間部、北須きたす川の支流平田川の流域に位置し、西は中倉なかぐら村、東は駒形こまがた村、南は中倉・駒形両村。元禄五年(一六九二)の松平結城白河藩領分村高調(白河市史)では、中倉村西山にしやま村・東山ひがしやま村・駒形村は「小平村ノ内」と注記されており、中世にはこれら四ヵ村を含む地域が小平とよばれ、のち分村したと考えられる。字小平に中世小平氏の居城であった小平城跡がある。建武二年(一三三五)八月二八日の武石胤顕軍勢催促状(飯野八幡宮文書)によると、同年の中先代の乱に際して「小平輩」は北条時行方として安達郡木幡こはた(現東和町)に立籠り、これに対して陸奥守北畠顕家は伊賀盛光らに攻撃を命じている。


小平村
こだいらむら

[現在地名]万場町小平

神流かんな川が南流する船子ふなこ川を村央で合して北東流し、東は森戸もりど村・黒田くろだ村、西は船子村など、南は武蔵国秩父ちちぶ藤倉ふじくら(現埼玉県秩父郡小鹿野町)と接する。神流川右岸沿いに十石じつこく街道が通る。近世はおおむね幕府領。寛文郷帳には元禄郷帳では当村の枝村とある坂井さかい村・(大)井土いど村がみえ、高五石余・二一石余はすべて畑方。


小平村
おひらむら

[現在地名]湯布院町下湯平しもゆのひら 小平

幸野こうの村の南、大分川右岸の扇状地に立地。東は大分郡上淵かんぶち(現庄内町)。小倉藩慶長人畜改帳に村名がみえ、家数三一・人数七五(うち庄屋・肝煎二、本百姓一〇・名子七)、牛一一・馬五。小倉藩元和人畜改帳では高一〇六石余、家数二八・人数七六(うち本百姓・小百姓一三、坊主三・名子八)、牛一三・馬四。寛永九年(一六三二)の由布院之内御蔵納御物成目録(溝口家文書)によると田高八六石余・畑高二〇石余、物成は米二三石九斗余・大豆四石二斗余。


小平村
こびらむら

[現在地名]鹿角市花輪はなわ 小平

間瀬ませ川の北側舌状台地上に位置し南は高市たかいち村。毛馬内けまない―花輪を結ぶ道が通る。享保七年(一七二二)の知行小高百姓年貢帳(十和田図書館蔵)に村名が出る。

近世初期の「鹿角郡由来記」に「小平村 小平彦次郎領知 本名奈良也 小枝指之末弟也 館有」とみえ、中世後期には開村していた。集落西側舌状台地先端に中世後期の館跡があり、三条の空堀を南北に施し、連郭状の館を構成する。比高はほぼ一五―一六メートル、一、二段の腰郭を南および北側に巡らす。空堀は幅一〇メートル前後で深さは現状で五―六メートル、付近に下館しもたて天王平てんのうたい八幡平はちまんたいの小字名を残す。


小平村
こだいらむら

[現在地名]望月町小平

望月もちづき宿の南西、丘陵地上にあり、その北には三井みつい村が続く。南方で接する大谷地おおやち村を越えて、八丁地はつちようじ川上流には鳶岩とびいわ・八丁地・菅原すがはらの分郷があった。

天正六年(一五七八)上諏訪大宮同前宮造宮帳に「瑞籬一間 志津田郷」のうち「小平之郷」とあるのが文献上の初出であるが、この時は既に甲斐武田氏が佐久郡を制圧していた。

望月氏の全盛期に木曾義仲の軍に加わり、のち源頼朝の下にあって、建久四年(一一九三)八月鶴岡八幡宮放生会における流鏑馬の騎手を務めた(吾妻鏡)望月重隆などがいて、この辺りも望月氏の支配下にあったことは疑いない。

佐久が徳川の手に帰してのち所領変転し、元禄一五年(一七〇二)松平又四郎領(下県しもがた陣屋)、明和二年(一七六五)からは幕府領となった二六四石余の村(寛保年間の佐久郡村々高附帳)


小平村
こだいらむら

[現在地名]児玉町小平

那賀なか郡に所属。身馴みなれ川の南岸に位置し、東は秋山あきやま村、西は児玉郡元田げんだ村・河内こうち村、北は同郡長沖ながおき村・高柳たかやなぎ村。南は陣見じんみ(五三一メートル)から西に延びる山並にあるえのき峠・間瀬まぜ峠を境に、秩父郡矢那瀬やなせ村・野上下郷のがみしもごう(現長瀞町)に接する。河内村との境を身馴川の支流間瀬川が流れ、現在間瀬湖が形成されている。天正一九年(一五九一)五月、安藤彦四郎(直次)は徳川氏から小平で二三二石余を宛行われた(記録御用所本古文書)


小平村
こだいらむら

[現在地名]六戸町小平

東流する奥入瀬おいらせ川の右岸にあり、西を後藤ごとう川が北流する。北は柳町やなぎまち村、北東は鶴喰つるばみ村、東は上吉田かみよしだ村、西は伝法寺でんぼうじ(現十和田市)などに接する。

正保四年(一六四七)の南部領内総絵図には記載がないので、鶴喰村のうちに含まれていたのであろうか。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付に村名がみえ、高五二・一八二石で、七ヵ年平均の免は二ツ五分三厘一毛とある。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」には伝法寺村の項に「小平村 百六十石三斗余」とあり、柳町・鶴喰の両村とともに「此三村高同民戸入于伝法寺村」とあって、伝法寺村の支村のように扱われている。


小平村
おだいらむら

[現在地名]大間々町小平

小平川上流の谷間に位置し傾斜地が多い。西は浅原あさばら村、南は長尾根ながおね村、東は尾根を境に上仁田山かみにたやま(現桐生市)。北から小友おとも茂木もてぎ狸原たぬきばら細谷戸ほそかいどなどの集落がある。天正一二年(一五八四)北条氏から阿久沢彦二郎に与えられた地に「仁田山之内 小平」がある(同年五月二八日「北条家朱印状」阿久沢文書)。寛文郷帳では田方一一石余・畑方七六石余、館林藩領。天和二年(一六八二)分郷配当帳では高三〇三石余、旗本甲斐庄領。


小平村
こだいらむら

[現在地名]山元町小平

南は鷲足わしあし村、北は大平おおだいら村、東は吉田よしだ(現亘理町)と接し、西は山地で伊具いぐ藤田ふじた(現角田市)と境する。本村北方にきたたての字地がある。正保郷帳では田二三貫八五二文・畑三貫二〇五文。年未詳の「宇多亘理風土記」(「山下村誌」所収)では、田三七貫七五一文・畑三貫三九八文で、人頭一四。亘理伊達氏の一円知行地


小平村
こだいらむら

[現在地名]庄和町小平

下吉妻しもきつま村の南、江戸川右岸に立地する。寛永年間(一六二四―四四)以降に開かれ、慶安(一六四八―五二)頃に小平新田とし、延宝元年(一六七三)に小平村と称したという(郡村誌)。元禄郷帳に村名がみえ、高六四九石余。初め幕府領であったとされるが、のち旗本による相給となり、文化元年(一八〇四)の関宿領・庄内領惣新田組村高地頭姓名書上帳(石川家文書)には旗本都筑領二一六石余、同酒井・松井両領は一四八石余、同中根・松平両領は六七石余となっている。


小平村
こびらむら

[現在地名]院内町小平

恵良えら川の支流あまり川に沿って続く谷筋の最奥部にあたり、東は滝貞たきさだ村、西は栗山くりやま村。永享八年(一四三六)一〇月一八日の滝貞兵衛三郎証状(滝貞文書)に「又小平も拝殿御領分とふの尾下道お作り通候」とみえる。天正年間(一五七三―九二)と思われる二月一五日の小野安道書状(同文書)に「仍小平ニ被居候与三次郎事、以御拵被帰候処、如何候哉」とみえ、小平村にいる与三次郎のことについて衛藤兵庫允に調停を依頼している。


小平村
おたいらむら

[現在地名]遠野市早瀬町はやせちよう二丁目・松崎町白岩まつざきちようしらいわなど

白岩村の西にある。村の西をさるいし川が南流し、南を早瀬川が西流する。寛永四年(一六二七)の南部利直知行宛行状(三翁昔語)によれば、小平村(小三郎分)の高一四石余が八戸弥六郎直義(遠野南部氏)知行地となった。


小平村
おびらむら

昭和三一年(一九五六)から同四一年まで存続した自治体。昭和三一年小平村が鬼鹿おにしか村を編入して成立。同時に新村の建設計画策定。同年の戸数二千五六二・人口一万五千七四(住民登録異動報告綴)。同三二年新農山漁村振興建設指定村となる。同年小平森林鉄道は廃止となる。昭和二六年に設置された留萌高等学校鬼鹿分校は同三三年に校舎新築、同三四年本郷ほんごう分室設置。


小平村
おびらむら

昭和二三年(一九四八)から同三一年まで存続した村。昭和二三年小平蘂おびらしべ村が村名変更、小平村となる。同村の一七字を引継ぐ。村役場は字小平町に設置。同年の戸数一千七六五戸・人口一万二九〇人(道庁戸口統計)。戦後開拓や炭鉱の開設により人口が急激に膨張し、農村部や炭鉱地域に役場支所や小中学校が設置された。


小平村
こびらむら

[現在地名]匹見町澄川すみかわ

匹見川の支流、北流する石谷いしたに川の下流西方に位置し、北東は澄川村、西は滝谷たきだに(現日原町)。元和五年(一六一九)の古田領郷帳に村名がみえ、高三二石余、年貢高は田方一六石余・畑方三石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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