山口郷(読み)やまぐちごう

日本歴史地名大系 「山口郷」の解説

山口郷
やまぐちごう

鎌倉後期よりみえる郷名。旧武儀郡の南西部、長良川とその支流武儀川が合流する地点の北方の両河川に挟まれた地域に比定される。嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院領目録(京都大学蔵古文書集)に「美濃国山口郷」とみえ、仲成朝臣と二条僧都の知行であった。鎌倉末期の山口郷地頭は美濃佐竹氏の光基で(元弘三年六月八日「佐竹光基着到状写」秋田藩採集文書)、建武三年(一三三六)六月一一日には佐竹義基に「山口郷東西」などが勲功の賞として与えられた(「足利尊氏下文写」彰考館蔵古簡雑纂)。同四年三月一五日・一六日には佐竹義基は、根尾ねお(現本巣郡根尾村)徳山とくやま(現揖斐郡藤橋村)を拠点としている南朝方の佐竹義教と、武儀口(根尾方面に抜ける道、岩佐・中洞付近か)や山口郷井岡山(比定地不明)などで戦っている(同年四月七日「佐竹義基軍忠状写」秋田藩採集文書)


山口郷
やまぐちごう

現山口を遺称地とし、同所を含む一帯に比定される中世の郷。宗像社領であった。文永五年(一二六八)七月六日、宗像社の少宮司であった大中臣経実は、先祖より相伝の「宗像御神領内山口郷地頭職并地下沙汰人職」を宗像社に寄進している(「大中臣経実寄進状」宗像大社所蔵文書/鎌倉遺文一三、以下断りのない限り同文書)。同寄進状によれば当郷は往昔から宗像神領として「大宮司殿御管領之地」であった。同七年七月一〇日の大中臣経実請文(鎌一四)によれば、先の寄進に対し何らかの異論があったらしく、経実は当郷地頭職寄進のことを再度確認している。乾元二年(一三〇三)六月、宗像社公文所は当郷を含む一三ヵ郷を社領として注進した(宗像社家文書惣目録/宗像大社文書二)

建武元年(一三三四)一二月二七日の雑訴決断所牒(南一)には前年(元弘三年)九月一七日の後醍醐天皇綸旨および今年三月二〇日の雑訴決断所牒のとおり、重恒(山口村の名主と思われる)の濫妨を停止し、宗像大宮司氏範が「山口村」の所務を全うするようにとある。


山口郷
やまくちごう

和名抄」高山寺本・東急本・元和古活字本のいずれも訓を欠く。他国の山口郷には「也万久知」および「也末久知」の訓を伴うものがあり(ともに東急本)、当郷も「やまくち」と読んでよいものと思われる。初見は、平城宮出土木簡に、「山田郡山口郷」「米五斗」とみえるもので、国名を欠くが、「和名抄」によれば山田郡山口郷は尾張国にのみ所在しており、当郷のものとしてよかろう。この木簡は、奈良時代前半の資料と考えられる。

当郷は、「塵袋」に「尾張国山田郡山口郷内有張田邑はりたのむら尾州記云昔此間多はり俗謂之波里」と記されており、これは、張田邑の名の由来を、菅原清公の編纂と推定される「尾州記」の、榛の木が多かったからとする一文を引いて説明するものである。


山口郷
やまぐちごう

所沢市南西部、東流する柳瀬やなせ川流域に広がっていたとみられる。村山党の支族山口氏の名字の地で、推定郷域内に山口城跡根古屋ねごや城跡がある。応永四年(一三九七)八月二五日の足利氏満寄進状(北野神社文書)には「山口郷内北野宮」とあり、これに従えば室町期の山口郷は狭山丘陵北側の北野きたのまで含んだことになる。戦国期には小田原北条氏の勢力下に入り、小田原衆所領役帳によれば、他国衆の山口平六が山口内の大かね(大鐘)藤沢ふじさわ(現入間市)、小野(北野か)分四〇貫文の所領を与えられていた。


山口郷
やまぐちごう

「和名抄」諸本のうち高山寺本・名博本は「山田」に作るが、伊勢本・東急本・元和古活字本の「山口」に従い、伊勢本・東急本・元和古活字本の訓「也万久知」から「やまぐち」と読む。「太宰管内志」は「山田」の誤りとし、現那珂川なかがわ山田やまだ付近に比定する。


山口郷
やまぐちごう

「和名抄」諸本にみえる郷名。東急本に「也万久知」の訓がある。「遠江国風土記伝」は道脇どうわき(現掛川市)以下の一五村、「掛川誌稿」も「西は馬喰村より以東駅路の左右、佐野の中山、菊川に至るまでの諸村」にあたるとする。現掛川市東部のさか川流域、日坂につさかから東山口ひがしやまぐち・西山口付近に比定される。


山口郷
やまぐちごう

現成田市山口に比定される。埴生はぶ庄のうち。正和四年(一三一五)二月一日の慈性寄進状(武州文書)に「はふのしやうのうち、山くちの郷、ならひにみなみすたくのむら」とみえ、北条氏一門金沢顕時の妻慈性(安達泰盛女)によって同地が金沢称名寺に寄進されている。建武三年(一三三六)一二月一日にも埴生庄内山口郷南栖立村などが称名寺に安堵されたのをはじめ(「足利直義安堵状案」金沢文庫文書)、以後同寺領として推移する。しかし支配は安定せず、貞治四年(一三六五)には守護使大須賀越後守代官某・民部丞師順らの派遣があり(一〇月一五日「民部丞師順請文」同文書)、年月日未詳ながら「右馬頭殿」との係争もあったようである(「某書状」同文書など)


山口郷
やまぐちごう

「和名抄」所載の郷で、同書高山寺本など諸本とも訓を欠く。現東金とうがね油井の作畑ゆいのさくはた遺跡から出土した九世紀とされる土師器坏の墨書銘に「山口家」「山口万」「栗戸川」、同山田水呑やまだみずのみ遺跡から出土の九世紀前半という土師器坏には「山口舘」「山辺大」とみえる。うち山口万は大網白里おおあみしらさと一本松いつぽんまつ遺跡から出土の九世紀中頃から後半という土師器坏に「山万所」、同町小西平台こにしひらだい遺跡から出土の九世紀とされる土師器坏に「山辺万所」とあることにより、万所は政所と考えられる。


山口郷
やまぐちごう

「和名抄」所載の郷。諸本とも訓を欠くが、ヤマグチであろう。「出雲国風土記」によれば島根郡八郷の一つで、郡家の南四里余に郷長の家があり、地名は都留支日子の命(須佐能袁命の子)が「吾が敷き坐さむ山口の処なり」といったことに由来するという。


山口郷
やまぐちごう

「和名抄」高山寺本・流布本ともに「山口」と記し、流布本は「也万久知」と訓ずる。「日本地理志料」は「宇摩郡山口郷、領大町、寒川、具定、中荘、三島、中具定、柏村、村松、岩原瀬、寒川山、平野山、苧川十二邑」とし山田やまだ郷の西、現伊予三島市の地域にあてる。


山口郷
やまぐちごう

「和名抄」所載の郷。同書東急本に「也末久知」の訓がある。円山まるやま川の上流域、現朝来町南部、同川右岸の山口を遺称地とし一帯に比定される。朝来郡の生野いくの(現生野町)が播磨国に含まれていた古代前期には但馬国の最南端であり、中国山地山越えの口に位置するのでこの郷名が発生したと伝える。


山口郷
やまぐちごう

「和名抄」所載の郷。東急本の訓注に「也末久知」とある。仁安元年(一一六六)頃の飛騨国雑物進未注進状(宮内庁書陵部蔵)に在家布が未進となっている所として、小島こじま八賀はちがとともにみえる山口と同一であろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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