徳昌寺(読み)とくしようじ

日本歴史地名大系 「徳昌寺」の解説

徳昌寺
とくしようじ

[現在地名]与板町与板 馬場丁

市街地のほぼ中央西寄りの山手にある。曹洞宗、香積山と号し、本尊十一面観世音菩薩。創建は文明一一年(一四七九)開基は直江氏の昌山一徳居士と伝え、直江氏の菩提所。文禄三年(一五九四)の定納員数目録には、与板在番衆の中に知行高七一石余の徳昌寺がみえる。慶長三年(一五九八)の直江氏の米沢移封に随従して移転。「旧職備考」(米沢市立図書館蔵)によると、当時の知行高は一三五石八升。同六年の上杉景勝の米沢入封後、同氏の菩提所林泉りんせん(現上越市)との間に確執が起こり、寛永(一六二四―四四)頃再び与板に戻る。


徳昌寺
とくしようじ

[現在地名]八日市市上羽田町 北

上羽田かみはねだ町北部にある。多福山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は薬師如来。初め五山派京都東福寺末であったとされるが、創建の詳細については不明。眉山を開基とし、六角氏家臣羽田氏の菩提寺として創建されたという。羽田某(湯蓮居士)応仁元年(一四六七)の馬淵合戦で戦死した一周忌にあたり、当時近江に来遊していた京都妙心寺僧横川景三を導師に仏事を営んでおり(東遊集)、一五世紀中頃には妙心寺派寺院であったものか。


徳昌寺
とくしようじ

[現在地名]田島町田島

大門だいもん川東岸、近世の田島ひがし町外れにある。曹洞宗、興国山と号し、本尊釈迦如来。中世に南山みなみやまを領した長沼氏の菩提寺。山寺と通称する。鎌倉時代に結城長沼ながぬま(現茨城県結城市)から当地に来た長沼五郎(家政)が、僧養室を開山として創建、菩提所としたという(新編会津風土記)。永享(一四二九―四一)頃長沼大和守政明が、僧通覚を開山として創建したとの説もある。「異本塔寺長帳」は弘治元年(一五五五)のこととして徳昌寺の住職明察が富士山から行石を持帰って西峰に富士権現を祀ったと記す。明察が当寺に住したのは長沼実国の時代で(会津旧事雑考)、明察は下野国都賀つが大中だいちゆう(現栃木県大平町)から来住しており、中興とみられる。


徳昌寺
とくしようじ

[現在地名]鳥栖市神辺町

松本まつもとの山麓にある。福寿山と号し、臨済宗南禅寺派。本尊は釈迦如来。文永元年(一二六四)鉄壁の開山と伝える。境内に薬師堂・不動堂があり、門前に堂の前どうのまえ門前もんぜんの地名がある。

寺内に天保四年(一八三三)対馬藩田代領内に勧請された基肄養父やぶ八十八ヵ所の一番札所がある。石仏は台座および舟形光背付の半肉彫坐像で、光背に「釈迦 第壱番 霊山寺」の銘がある。


徳昌寺
とくしようじ

[現在地名]笹神村村岡

村岡むらおか集落南方、北のじんヶ峰の山裾にあり、鷲林山と号し、曹洞宗。本尊は華厳釈迦牟尼仏。寺伝によれば、応仁(一四六七―六九)の頃、当地一帯に多数の鷲が生息し、付近の幼児をさらって食べるので村人は難儀したという。そこで熊野若宮王子が大弓で鷲を退治し、白骨と化した幼児の霊と鷲の霊を回向するため当寺を建立したと伝える。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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