日本と朝鮮半島との関係(第二次世界大戦後)(読み)にほんとちょうせんはんとうとのかんけい

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

日本と朝鮮半島との関係(第二次世界大戦後)
にほんとちょうせんはんとうとのかんけい

日本と朝鮮半島との間には、今日さまざまな問題が横たわっている。この項目では、第二次世界大戦後、現在に至るまでの日本と朝鮮半島との間の、主として政治的な問題について、戦後初期の日本と朝鮮半島との関係、日本と韓国(大韓民国)との関係(日韓関係)、日本と北朝鮮との関係(日朝関係)の大きく三つに分けて扱う。なお、古代から日本の明治時代に至るまでについては別項「日朝交渉史」を、日本の侵略から解放・独立に至るまでの日本と朝鮮との関係については「朝鮮史」の項目を参照されたい。

[川越敬三・並木真人]

第二次世界大戦後の関係を規定した条件

日本・朝鮮両国は、長い歴史を通して、基本的に平和な善隣関係を維持してきた。1910年(明治43)8月の「韓国併合」から満35年にわたった日本の朝鮮統治は、両国の歴史に重大な汚点を残した侵略であり、その本質は同化主義に基づく過酷な植民地支配であった。朝鮮民族に苦難の暮らしを余儀なくさせたこの植民地支配は、武装闘争を含む朝鮮人民の不断の抵抗と第二次世界大戦における連合国の対日勝利、とくに大戦末期のソ連軍の朝鮮半島北部攻略によって、1945年(昭和20)8月崩壊した。そのことは、本来ならば単一の主権国家としての朝鮮の再建の契機となり、また、日本・朝鮮両国の伝統的な善隣関係の回復に向けての新たな出発点になるべきものであったが、現実はそれとは異なった。朝鮮は日本の支配から脱したものの、大戦終結前後の複雑な国際情勢のもとで、南半部の韓国と北半部の北朝鮮とに分断されてしまった。そして、戦後の日本は、その一方の韓国とだけ関係を緊密化させたのである。これは、日本が戦後の占領期を通じて西側陣営に組み込まれ、政府の対外政策の基調が対米協調に置かれたことと深くかかわっていた。

[川越敬三・並木真人]

戦後初期の日本と朝鮮半島との関係

1951年(昭和26)9月のサンフランシスコ対日講和会議で調印された「日本国との平和条約」第2条a項には、「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び欝陵(うつりょう/ウルルン)島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」と明記された。この条項は、その時点での既成事実を法的に確認したものにすぎない。実際に朝鮮が日本の支配下から離れたのは、第二次世界大戦終結前後に米ソ両軍が朝鮮半島を分割占領したときである。それに続いて1948年8月には韓国が、同年9月には北朝鮮が樹立された。日本の支配はいち早く完全に払拭(ふっしょく)され、その点で朝鮮は、戦後の政治的独立のあとも旧宗主国の影響力がさまざまな形で残された、他の多くの旧植民地の場合とは違っていた。他方で、敗戦日本を占領した米軍が同時に南朝鮮で軍政を敷いたため、日本と南朝鮮=韓国との間には、戦後のきわめて早い時期から新しい関係が生まれた。

 占領下日本は外交権を失い、対外関係はすべて米軍を主力とする連合国最高司令部(GHQ)が管理した。これによって、ソ連軍が管理していた北朝鮮との政治的、経済的関係は遮断されたが、米軍軍政下の南朝鮮との間では早くも1945年秋から貿易が再開された。1950年6月には朝鮮戦争が勃発(ぼっぱつ)し、日本はたちまちこれに巻き込まれ、国土と産業はあげて韓国を支援する国連軍の作戦のために使われた。さらに、この戦争の真っただ中の1952年4月28日に対日講和が発効して日本の外交権が回復すると、日韓両国政府は同日付けの交換公文によって、それまでGHQ向けの外交機関として東京に設置されていた韓国政府在日代表部を日本政府向け代表部に切り換えて存続させることに合意した。日本政府の公的説明によると、この措置は日本が韓国に対して、国際法上のいわゆる「黙示の承認」を与えたことを意味した。日本が戦後初期の段階から南北朝鮮の一方の側に傾斜したことは、その後の日本と朝鮮半島との関係のあり方を大きく規制した。

[川越敬三・並木真人]

韓国との関係

日韓国交樹立への歩み

対日講和会議直後の1951年10月、GHQの斡旋(あっせん)で、国交樹立について協議する日韓両国政府間の交渉(日韓会談)の予備会談が東京で始まり、これは翌1952年2月から本会談に移行した。これをすすめたGHQの目的は、「日本国との平和条約」には盛りきれなかった日本と韓国の国交樹立を、同条約の発効までに個別の交渉で実現させることにあった。GHQは同じ目的で日本と台湾(中華民国)との交渉も斡旋した。しかし、日台交渉が簡単に妥結したのに反して日韓会談は難航し、中断と再開を繰り返したあげく、1953年10月いったん決裂した。交渉不調の最大の原因は、日韓双方の立場と利害がまっこうから衝突したことである。韓国側は、国交を開くためには、かつての日本の朝鮮植民地統治に対する謝罪と賠償が必要であると主張したが、日本側は、日本の統治には朝鮮の近代化に寄与した面もあったゆえ、一面的に非難されることはないと反論した。いわゆる久保田貫一郎(1902―77)発言であるが、これが韓国側を激高させた。また、当時の韓国大統領李承晩(りしょうばん/イスンマン)は、自分の独裁政治を正当化するために対日報復を呼号しており、1952年1月には韓国近海の広い公海上に立入禁止線(いわゆる李承晩ライン)を一方的に設定し、その線を越えた日本漁船の拿捕(だほ)を繰り返して日本側を強く刺激した。

 日韓会談は、岸信介(のぶすけ)内閣時代の1958年4月に再開された。日米安全保障条約改定を推進した岸内閣は、韓国の親米反共政権との連携を「新安保体制」の一環と考えていた。だが、このときの日韓会談も難航を続けたあげく、1960年4月韓国の「4月革命」(4・19革命)による李承晩政権の崩壊と日本の「60年安保闘争」のなかでの岸内閣退陣によって、挫折(ざせつ)した。交渉が軌道にのったのは、1961年5月の軍事クーデターで登場した朴正煕(ぼくせいき/パクチョンヒ)政権が対日接近に動き出してからである。その背景にはアメリカの対韓政策の軌道修正があった。アメリカ政府はアジア戦略における韓国の位置を重視する反面、財政難から対韓経済援助を削減せざるをえなくなり、韓国に自助努力としての経済開発の実施を求めるとともに、対韓援助の肩代りを日本その他の同盟諸国に働きかけた。日米新安保条約と日韓国交正常化に基づく日米韓地域統合戦略の実現こそが、アメリカの主眼であった。そこで、朴正煕政権は1962年1月から韓国初の経済開発計画である第一次五か年計画に着手し、その所要資金の一部を日本から引き出すために、日韓会談の妥結を急いだのである。こうして、1965年2月佐藤栄作内閣と朴正煕政権の間で国交樹立をうたった日韓基本条約(正式名称は「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」)の仮調印が行われ、同年6月同条約と四つの付属協定(経済協力、文化協力、漁業、在日韓国人の法的地位・待遇の各協定)の本調印となった。

 日本政府は日韓基本条約のなかで、韓国政府の施政権の及ぶ範囲が朝鮮半島南半部に限定されている事実に留意しながらも、同政府を「朝鮮にある唯一の合法的な政府である」と確認した(第3条)。この条文は、北朝鮮の存在を否認したものと解釈できる。植民地統治に対する謝罪と賠償については、その法的根拠となった1905年(明治38)の第二次日韓協約と10年の韓国併合条約に関連して、「1910年8月22日以前に大日本帝国と大韓帝国の間で締結されたすべての条約および協定は、もはや無効(null and void)であることが確認される」(第2条)と規定した。これは条約・協定の失効時期を明記せず、日韓基本条約締結時における無効を確認するのみのものであった。したがって、条文の解釈において、韓国側は条約・協定の締結当初に遡及(そきゅう)して無効であるという「源泉的無効論」を採用し、他方日本側は条約・協定自体は完全な意思と平等な立場において締結されたという「合法正当論」を展開した。この「玉虫色の解釈」が、後日の歴史認識をめぐる対立の淵源(えんげん)となるのである。このような解釈のずれは、経済協力に関する付属協定にも持ち込まれた。「源泉的無効論」に立脚して賠償責任の発生を主張する韓国側に対して、賠償権問題の不在を唱える日本側はこれを拒否し、そのかわりに「韓国の独立へのお祝い金」という名目で経済協力資金を供与するという態度を示した。そして、結局韓国側が譲歩し、日本側の主張に沿った決着をみた。

 これらの条約・協定に対しては、日韓双方の国内で激しい反対運動が展開され、北朝鮮が強く反発したのをはじめ、国際的にもさまざまな批判の声があがった。しかし、日韓両政府はそれを押し切ってそれぞれの国内手続を終え、同年12月18日批准書交換、発効にこぎ着けた。

[川越敬三・並木真人]

日韓関係の緊密化

国交樹立に伴う日本の対韓資金供与は、具体的には、1965年末から向こう10年間に、3億ドル相当の物資と役務を無償で提供し、また2億ドルの長期低利の公共借款を供与するものと決められた(韓国側はこれらの資金を国内向けに「対日請求権資金」と名づけた)。それとあわせて、同じ期間内に日本から3億ドル以上の民間商業借款を供与するよう努力するとの取決めもなされた。これによって、日本は韓国の経済開発に対してある程度の発言権をもつことになった。両国政府は多面的な協力を発展させるという理由で、1967年から定期閣僚会議の開催を制度化し、それに対応して双方の政財界、文化界にも各種の協力推進団体が生まれた。日本の民間企業の韓国への進出は、当初はおもに商業借款供与という形でなされたが、韓国政府が1960年代末に外国人直接投資誘致の方針を打ち出して投資環境の整備を進めたことから、1970年代には直接投資も急増した。とくに1977年からは、韓国の重化学工業化計画の始動によって、日本の大企業の対韓進出が本格化した。それより先1971年日本政府は、韓国側の要請により「対日請求権資金」とは別枠の公共借款供与を続けることに同意した。こうして、国交樹立から1984年末までの20年間に韓国に投入された日本の資金は、政府資金が累計7182億円(うち無償分1067億円)、商業借款が累計32億5700万ドル、民間直接投資も累計10億0723万ドルに達し、日本はアメリカに次ぐ対韓投資国となった(民間直接投資だけをとればアメリカよりも多い)。貿易面でも、日米両国は韓国の輸出、輸入における第1位、第2位を争っている。

 この間、1973年8月には韓国中央情報部(KCIA)が来日中の野党指導者金大中(きんだいちゅう/キムデジュン)を拉致(らち)するという事件を引き起こしたが、当時の田中角栄内閣は韓国政府の「遺憾」表明だけで事件を不問に付した。また、1979年10月の大統領朴正煕射殺と翌1980年5月の将軍全斗煥(ぜんとかん/チョンドファン)の権力掌握で韓国政情が混乱したとき、従来両国の政界を結んでいた人的パイプが切れて日韓関係は一時冷却した。1983年1月、首相就任後まもない中曽根康弘(なかそねやすひろ)は訪米に先だってソウルに飛び、向こう7年間に総額40億ドルという巨額の公共借款供与を約束して、韓国政府との関係を修復し、全斗煥との間で「新次元の日韓関係の幕開き」をうたい上げた。

 日韓関係緊密化の根底には安保問題がある。1969年11月に訪米した首相佐藤栄作はアメリカ大統領ニクソンとの共同声明のなかで「韓国の安全は日本自身の安全にとって緊要である」と言明した。ともにアメリカの同盟国である日韓両国の「運命共同体」的関係を確認したこの文言は「韓国条項」とよばれ、以後、歴代の日米、日韓政府間で絶えず再確認されるようになった。日本政府の対韓借款供与は単なる経済的支援ではなく、「反共の防壁」とされる韓国に対する安保借款として供与されたのである。1983年1月の中曽根・全斗煥共同声明に掲げられた「新次元の日韓関係」ということばも、その直後にワシントンで「日本列島不沈空母化」論を唱えた中曽根康弘と、「北東アジア安保」のための韓国の戦力増強を図る全斗煥との提携を意味した。全斗煥が翌1984年9月、現職の韓国大統領として初めて日本を公式訪問したとき、昭和天皇は歓迎の挨拶(あいさつ)のなかで、かつての朝鮮植民地支配に対する「遺憾」の意を表明した。天皇自身がどう考えていたかは別として、全斗煥が天皇のことばを日韓安保協力強化に対する韓国国民の抵抗感を柔らげる材料として使おうとしたことは、確かである。

 1988年2月盧泰愚(ろたいぐ/ノテウ)の大統領就任式に首相竹下登が出席(同年9月オリンピック・ソウル大会開会式にも出席)し、以後ほぼ歴代の首相が韓国を訪問する慣例が定着した。1991年(平成3)1月首相海部俊樹(かいふとしき)は、盧泰愚との会談で在日韓国人の法的地位の改善を約束し、これは同年11月すべての在日朝鮮人(韓国籍・朝鮮籍)に対する「特別永住」資格の付与と、1993年4月指紋押捺(おうなつ)制度の廃止として結実した。さらに、サハリン残留韓国人や在韓被爆者に対する支援も約束された。1992年1月首相宮沢喜一の訪韓は、いわゆる「従軍慰安婦問題」に対する韓国世論の厳しい批判のなかで行われ、同問題を含む日本の植民地支配に対する首相の公式謝罪の後、対日貿易赤字解消のための「実践計画」の策定などに関して合意をみた。

 他方、盧泰愚も1990年5月と1992年11月の二度にわたり日本を訪問した。初訪日の際、天皇は昭和天皇の発言より一歩踏み込んで、過去の植民地支配に対して「痛惜の念を禁じえない」と述べ、以後、首脳会談の際の日本側の「謝罪」が論議を醸すこととなった。

 非自民連立政権と文民政権という新しいパートナーの組合せとして注目された、1993年11月首相細川護熙(ほそかわもりひろ)と大統領金泳三(きんえいさん/キムヨンサム)との韓国の慶州での会談では、日本側の植民地支配に対するこれまでになく率直な陳謝が評価され、「未来志向型」の関係構築で両者は合意した。これと前後して、同年3月には、韓国政府は「従軍慰安婦問題」に関して日本の物質的補償を求めないことを言明した。一方、日本政府は初の聴き取り調査に基づき、同年8月「従軍慰安婦」に関する調査結果を発表した。このなかで、政府は「慰安婦募集」に「強制」の側面があったことを認定、謝罪した。

 これに対して、1994年3月金泳三も日本を訪問し、細川護熙と北朝鮮の核問題などをめぐって会談した。

 さらに、1994年7月首相村山富市も韓国を訪れ、前政権の対朝鮮半島政策を踏襲することを表明した。これは、長年北朝鮮と密接な関係を保ってきた社会党の変貌(へんぼう)として、評価された。村山富市は、同年8月「従軍慰安婦問題」に関して、民間基金による見舞金支給の構想を発表し、1995年7月「女性のためのアジア平和国民基金」として発足した(1997年1月韓国人元「慰安婦」7名に「償い金」支給)。これに対して、韓国内の元「慰安婦」と支援者の団体は、あくまでも日本政府の個人補償を要求して、激しい抗議行動を展開している。1995年8月村山富市は植民地支配など「国策の誤り」を謝罪する談話を発表し、「戦後50年プロジェクト」の一環として、日韓歴史共同研究を推進することで韓国政府と合意した。また、同年10月国会で「日韓併合条約は当時、法的には有効に締結された」と発言したことは、韓国世論の激しい反発を引き起こし、韓国国会は「併合条約の無効と日本の歴史認識の正しい確立」を求める決議案を採択するに至った。

 1996年6月首相橋本龍太郎も韓国済州島を訪問し、大統領金泳三と会談、4月に米韓両国が提唱した四者会談(南北朝鮮・アメリカ・中国)の早期実現に向けて緊密に協力することで合意をみた。この間、5月には2002年サッカー・ワールドカップ日韓共同開催も決定し、両国が新たな友好関係を築くことが期待された。さらに、1997年11月から顕在化した韓国の経済危機に際しては、日本政府は国際通貨基金(IMF)と韓国政府との経済構造改革をめぐる合意を受けて、100億ドルの金融支援を行うことを決定した。

[川越敬三・並木真人]

「未来志向型」に転換した日韓関係

1984年(昭和59)の大統領全斗煥の訪日に始まる日韓両国首脳の会談では、「未来志向型」「同伴者型」の新たな両国関係の構築が話題とされることが多かった。これは、逆説的にみれば、「過去」の残影がなお両国の間に立ちはだかっていることの現れでもあった。実際、「未来志向」というスローガンとは裏腹に、歴代の首脳会談や天皇との会見では、「過去」の植民地支配に対する謝罪の内容が最大の関心事となっており、その評価をめぐり両国はむしろ対立することが多かった。

 とくに、旧朝鮮総督府庁舎の撤去断行など「歴史の立て直し」を追求していた金泳三政権においては、「反日」カードが政権の正統性の確保とその基盤の強化にしばしば利用された。先にも述べたように、元「慰安婦」に対する補償問題において、「女性のためのアジア平和国民基金」による事業が、日本政府の責任を隠蔽(いんぺい)するものであるとして、かえって韓国側の強い反発を招く結果となったことは、その一例である。これに対して、韓国の激烈な「反日」民族主義に当惑する日本国内では、ややもすれば「嫌韓」ムードが高まることとなり、1990年代後半に至り日韓関係は急激に悪化した。

 ところが、1998年(平成10)3月金大中が大統領に就任すると、日韓関係は大きく変化していくこととなった。

 懸案の一つであった日韓漁業協定の改定問題は、金泳三政権末期には決裂状態にあり、1998年1月日本はいったん協定破棄を通告した。韓国はこれに強く反発し、両国の水産業界では緊張が高まった。しかし、同年3月外相の小渕恵三(おぶちけいぞう)が訪韓して大統領金大中と会見し、4月実務者協議が再開された。交渉は、両国が領有を主張している竹島(韓国名・独島(トクト))周辺の共同管理水域の設定と両国の排他的経済水域(EEZ)内での漁獲量の割当てをめぐり紛糾したが、9月基本合意に達し、1999年1月ようやく協定が発効した。

 1998年4月金大中は、映画・歌謡曲・漫画など日本の大衆文化に対する段階的開放の方針を指示し、12月には日本映画(北野武(きたのたけし)監督『HANA―BI』)が初めて劇場公開された。その後開催された日本人歌手のコンサートも概(おおむ)ね好感をもって迎えられた。1998年5月には韓国に対するIMF(国際通貨基金)の融資条件を履行する一環として、外国人の株式投資限度枠が完全に撤廃された。その結果、日本と韓国との合弁企業などを通じて日本企業による増資や株式の買取りが増大し、日本からの直接投資が増加した。6月には事実上の対日輸入禁止政策であった輸入先多角化制度が見直され、日本製自動車などの輸入が解禁された。

 1998年10月には金大中が来日し、天皇と会見したほか、小渕恵三と会談し、共同宣言を発表した(日韓共同宣言)。その際、金大中は、従来両国首脳の会談のたびに大きな課題となっていた植民地支配に対する謝罪の問題を今後は持ち出さない旨の発言を行った。ここに、「未来志向型」の日韓関係が初めて実現されることになったと評価できる。そして、「21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップのための行動計画」を作成し、日本は韓国に対する官民の投融資の促進を約束した。また、このなかで、両国首脳が少なくとも年1回は会談することを取り決めた。

 1999年3月には首相小渕恵三が訪韓した。大統領金大中との会談で、日本側が、「テポドン発射」問題をめぐって悪化する北朝鮮に対する牽制(けんせい)として韓国の協力を求めたが、北朝鮮に対して柔軟な「太陽政策」を進めていた韓国側は、日本の「強硬」な姿勢には同意しなかった。これは、冷戦的思考からの脱却が東アジアにおいてもようやく完了し、かつての「反共」を基盤とする日韓同盟関係が完全に消滅したことを意味するものであった。加えて、この会談で、韓国側は、在日韓国人に対して地方参政権を与えるように要請した。このことも、韓国における強烈な民族主義に基づく同胞意識に徐々に変化が生じつつあることを示唆するものであった。

 2000年に入って、5月に首相森喜朗(よしろう)が訪韓して大統領金大中と協議し、対北朝鮮政策に関して、日韓の連携を緊密にすることを確認した。9月には金大中が来日し、森喜朗との会談において、永住外国人に地方参政権を与える法案について、年内の成立を要望した。また、金大中は、6月の南北首脳会談の成果を踏まえて、日朝国交正常化交渉を積極的に支援する姿勢を示し、あわせて北朝鮮に対する日本の積極的な経済支援を要請した。南北和解の進展に伴い、韓国には資金問題の重圧がのしかかることが予想される。そこで、巨額の日本の資金が北朝鮮に流入し、その経済的困窮が少しでも改善されることを期待したのである。これは、南北関係の改善に日本を関与させようとする韓国の戦略の一つであろうと思われる。ただし、永住外国人地方選挙権付与法案に関しては、法案提案者である自民党など与党内の一部から強い反対論が表明された。

[並木真人]

残された課題

以上のように、日韓関係は、2002年に行われたサッカー・ワールドカップ共同開催もあって、基本的には緊密さを深めている。しかしながら、一方では現在でも未解決の問題が少なくない。これらは、大きく三つに分けて考えることができる。

 第一は、歴史認識にかかわる問題である。日韓会談中の久保田貫一郎発言に端を発し、1982年(昭和57)と1986年の教科書問題を経て、歴代の閣僚・政治家の靖国(やすくに)神社参拝や日本の朝鮮植民地支配を擁護する「妄言」に対する批判にみられるように、韓国の世論は日本の為政者や国民の歴史認識に拭(ぬぐ)いがたい不信感を抱いてきた。また1990年代に入ると、「自由主義史観」に基づく歴史教育の見直しを唱える勢力が登場して一定の支持を集めつつあることも、韓国の世論を刺激している。2000年(平成12)9月「新しい歴史教科書をつくる会」が提案する、韓国併合を正当化する内容の中学校用歴史教科書が、文部省に検定申請中であるという報道がなされると、韓国政府はただちに「憂慮の意」を表明した。日韓の歴史学界や研究者・教育者の学術交流の深化にもかかわらず、この問題はいつでも再燃する危険性があるといわざるをえない。

 第二は、政治的・軍事的膨張の問題である。自衛隊の海外派遣を通じた国連のPKO(平和維持活動)などへの日本の参加やそれに付随する憲法の改定論議の高まりは、日本が「軍事大国化」への道を歩むものであるという韓国世論の疑念を強めている。また、国連安全保障理事会の常任理事国入りを目ざす日本の外交戦略は、「経済大国」から「政治大国」の復活を企てる動きとして、韓国側のいっそうの反発を招いている。これには、長年の懸案である竹島(独島)問題も関連する。1999年1月日韓新漁業協定の発効においては、竹島(独島)の帰属問題をひとまず棚上げすることで決着したものの、2000年1月島根県の一部住民が竹島に戸籍を移すと、韓国外務省がただちに日本政府に厳重抗議をしたように、今後領土問題がふたたび浮上し、両国関係が悪化する可能性も否定できない。

 第三は、経済摩擦の問題である。韓国経済の急成長に伴って、日本資本による「経済再侵略」のおそれよりも、むしろ両国の産業構造の類似に基づく「競合」の問題が深刻化してきている。他方で日本の技術や部品、工作機械への依存による対日貿易赤字の累積の問題やその解決策である技術移転の遅滞などの問題は、いまだ完全に解決されたとはいいがたい。ただし、造船業・製鉄業や最先端の情報集約型の電子機器産業の一部では、すでに韓国は日本を凌駕(りょうが)しつつある。いわゆる情報技術(IT)化においては、日本を圧倒する高速インターネットの普及にみられるように、1997年の経済危機以来韓国社会の構造変化は目覚しい。これに対して、政府のたび重なる「IT革命」の提唱にもかかわらず、日本は完全に出遅れた。したがって、「先進日本―後進韓国」という垂直的な経済摩擦の問題には変化がうかがえる。

 さらに、これまで政治・経済に偏りがちであり、またヒト・モノ・カネ・情報など日本から韓国への一方的な流入が顕著であった両国の関係に、変化の兆しがみえる。たとえば、日本の教育研究機関での朝鮮関連講座の拡大や、高校生の修学旅行をはじめとする両国間の頻繁な人的往来など、民間レベルでの相互交流が盛んになってきたのは、その表れである。2000年9月の日韓首脳会談で、2003年より大学入試センター試験に朝鮮語を採用することが決定されたのも、高校レベルでの朝鮮語学習者の増加を反映したものである。

 若年層を中心に日本人の観光旅行の渡航先として韓国が絶大な人気を博していることや、キムチ・焼き肉など朝鮮料理が日本人の食生活に完全に定着したことは、日韓関係が一部専門家のかかわる種類のものではなく、一般庶民のものとなっている証拠として、注目に値する。量的側面では、日韓関係はきわめて緊密であるといってよい。次の課題は、質的側面の充実である。

[並木真人]

北朝鮮との関係

日朝国交正常化への遠い道程(みちのり)

日本と北朝鮮の間には国交がなく、政府レベルの二国間実務協定もほぼ皆無である。第二次世界大戦後すでに半世紀が経過し、世界中のほとんどすべての国と国交が開かれ、往来が自由になったもとでのこの異常な状態は、他方での日韓関係の緊密さの裏返しである。1960年(昭和35)日米新安保条約の締結や、1961年5月韓国軍事政権の登場とそれに対するアメリカの承認によって構築された日・米・韓の「三角安保体制」は、北朝鮮にとって大いなる脅威であった。1961年7月に北朝鮮が中国・ソ連と締結した二つの「友好協力相互援助条約」も、この体制を警戒した軍事同盟条約であった。その後も1965年日韓基本条約の締結によって北朝鮮は危機感を募らせていき、1969年在日米軍基地を組み込んだ米韓合同軍事演習(チーム・スピリット)の開始とともに、「日本軍国主義の復活」を激しく非難し、またこれに対峙(たいじ)する軍事力の強化に邁進(まいしん)した。

 他方、北朝鮮が安全保障の確保のために、かねてから日本との関係改善を提唱してきたことも見落とせない。早くは、朝鮮戦争休戦後の1955年2月、外相南日(なんにち/ナムイル)が声明を発表して、「貿易・文化関係およびその他の関係の樹立と発展のために話し合う用意がある」と日本政府に呼びかけた。同趣旨の発言はその後もたびたび行われたが、日本側はいつも黙殺してきた。だが、この間、両国の間になんの変化も起こらなかったわけではない。徐々にではあるが、人の往来と経済・文化の交流が進展した。それは日本の民間の努力が政界を動かし、政府を動かしてきた結果である。

 1959年8月には、それまで海外渡航が許されなかった在日朝鮮人に北朝鮮への集団帰国の道を開く、在日朝鮮人帰還協定が日朝両赤十字間で締結された。その結果、1960・1961年の2年だけで7万名を超える人々が帰還し、その総数は、1984年までに約9万3000名に達した。これらの人々は、朝鮮戦争からの復興過程で不足していた労働力を補充するものであったが、帰還事業を機とする日朝関係の緊密化は韓国政府を狼狽(ろうばい)させ、韓国では激しい「北送」反対運動が展開された。1963年1月には、札幌での国際競技開催を契機に、北朝鮮スポーツ選手団の入国が認められるようになった。さらに1971年から1974年にかけて、一般民間人の北朝鮮への渡航と北朝鮮からの入国に対する規制が一部緩和され、北朝鮮政界人の入国もケース・バイ・ケースで認められることになった。1977年には超党派の日朝友好促進議員連盟の協力で、日本漁船の北朝鮮近海での操業に関する民間協定が、両国の漁業団体の間で締結された。北朝鮮との貿易は、日本の業界が1956年に日中貿易の形を借りて始めたのが最初で、1961年には政府の許可を得た直接取引に変わり、1974年には輸出入計3億6000万ドルにまで成長した。ただし、この貿易は取引品目に制約が多く、日本輸出入銀行(現国際協力銀行)の融資も1974年に2件について認められただけであった。おまけに1970年代後半から北朝鮮側の貿易代金決済の停滞という悪材料が加わったため、その後の取引は低迷を続けた。北朝鮮は、1984年1月外交関係のない資本主義諸国を含む諸外国との経済・技術交流の拡大に努力するという新政策を決定し、同年9月には合営法を制定して日本からの資本・技術の受け入れにも意欲をみせたが、日本経済界の反応は鈍かった。そして、事実上債務不履行となった決済に対して、日本側の商社は政府の保障を求めるに至った。

 ついに、1986年1月通産省は、朝鮮貿易を行う商社30社に対して総額300億円に上る輸出保険を適用した。その結果、貿易の停滞はいっそう深刻になり、北朝鮮の対外債務の累積は破産同然の状況に至った。1988年1月日本政府は前年11月に発生した大韓航空機爆破テロ事件に関連して、北朝鮮に4項目の制裁措置をとると発表した。これと関連して、1987年10月から始まった日本人観光客の受入れも一時中断された。

 このように冷却した関係を大きく転換させたのが、日朝国交正常化交渉である。1990年(平成2)9月自民党(金丸信(かねまるしん)、1914―1996)と社会党(田辺誠、1922―2015)の代表団が北朝鮮を訪問し、朝鮮労働党との間で、「自主・平和・親善」の理念に基づく国交正常化を推進することを訴える「三党共同宣言」を発表した。これに基づき、1991年1月政府間会談が平壌(へいじょう/ピョンヤン)で開始された。会談は、1992年11月まで8回行われたが、両者の交渉は曲折の連続であった。すなわち、北朝鮮側が植民地支配など過去の歴史的関係の再評価と清算(交戦権に基づく戦時賠償と戦後の敵対政策に対する「償い」)を行ったうえでの関係樹立を求めたのに対して、日本側は核開発疑惑問題や大韓航空機事件の犯人の日本語教育係とされる「李恩恵(りおんけい/リウネ)問題」を討議することを要求し、両者の議論がかみ合わないまま、交渉は中断した。その後1995年3月連立与党3党(自民党・社会党・新党さきがけ)の代表団が訪朝し、朝鮮労働党との間で日朝会談再開のための「四党合意書」を採択したが、新たな進展はみられなかった。

 これと前後して、食糧危機にあえぐ北朝鮮は、1995年5月日本にコメ支援を要請した。日本政府は、これにこたえて同年6月30万トン(無償15万トン・有償15万トン)、10月20万トン(有償)の供給を行った。しかし、韓国の同様の支援に対する北朝鮮の処置や、1996年9月の北朝鮮潜水艦の韓国への侵入事件に反発した韓国政府の牽制(けんせい)、さらに北朝鮮による日本人拉致事件(らちじけん)(当時は北朝鮮政府が拉致の事実を否定していたため「拉致疑惑」の呼称が使われていた)の浮上などで、1996年度は政府レベルの支援は中断した。

 そうしたなか、1997年8月になって、ようやく国交正常化交渉再開に向けた両政府代表者の予備会談が開催された。日本側は、本来の国交交渉再開問題に加え、北朝鮮在住の日本人配偶者の里帰り問題や日本人の「拉致疑惑」問題も議題とした。その結果、日本人配偶者の里帰りは、11月第一陣15名の一時帰国が実現した。また、同月訪朝した連立与党代表団との交渉により、「拉致疑惑」も一般の「行方不明者」として調査される可能性がでてきた。この背景には、食糧支援を求める北朝鮮の柔軟な対応があった。

[川越敬三・並木真人]

積極外交に転じた北朝鮮

1998年(平成10)1月には、2回目の北朝鮮在住日本人配偶者の一時帰国が実現した。その一方で、6月、日本人「拉致疑惑」問題に関連して、北朝鮮赤十字会は「北朝鮮国内に行方不明者はいない」との調査結果を発表し、また3回目の一時帰国対象者が申請を取消したとの発表も行われた。日本政府はこれに反発し、国交正常化交渉の再開や食糧支援を見合わせる措置をとった。8月には北朝鮮のいう人工衛星「光明星1号」が発射されて日本の上空を通過したが、日本政府はこれを中距離弾道ミサイル「テポドン1号」であると主張して北朝鮮に抗議した。そして、KEDO(ケドー)(国際事業体「朝鮮半島エネルギー開発機構」)への資金供与の凍結などの対抗措置をとった(10月凍結解除)。9月には1994年に急死した金日成(きんにっせい/キムイルソン)の後継者である国防委員長金正日(きんしょうにち/キムジョンイル)の指導体制が正式に発足したが、事実上断絶状態にある日朝関係の進展はみられなかった。

 1999年3月日本海で発生した「不審船」侵入事件をめぐり、日朝両国は相互に非難しあう結果となり、日朝関係は悪化の一途をたどった。これに対して、8月北朝鮮は、日朝関係に関して「対北朝鮮圧殺政策の放棄、過去の罪に対する謝罪と補償」などを求める政府声明を発表した。この声明は、文言の厳しさとは逆に、日本政府の対応しだいでは関係改善の用意があることを示唆するものであり、水面下では、3、4、10月に日朝外交当局者の非公式協議が行われた。12月には元首相の村山富市を団長とする超党派の代表団が訪朝し、国交正常化交渉の早期再開を促すことで、朝鮮労働党と合意した。同月の日朝赤十字会談でも、食糧支援と「拉致疑惑」をめぐる論議が交わされ、国交正常化交渉再開に向けた予備会談も開始された。これを契機に、北朝鮮に対する制裁は全面的に解除され、関係改善の糸口がようやくみつかった。

 1999年から2000年にかけて、北朝鮮は積極的な外交政策に転じた。1999年9月の米朝高官協議に始まり、2000年に入ってからは、1月イタリア、5月オーストラリア、7月フィリピンと相次いで国交を樹立し、10月にはイギリス、ドイツ、スペイン、ベルギーなど、EU諸国とも早急に国交を樹立する方針が明らかになった。また、6月の首脳会談の実現に象徴される南北の急速な和解、10月の国防委員会第一副委員長である趙明録(ちょうめいろく/チョミョンロク)(1928―2010)の訪米とアメリカ合衆国国務長官オルブライトの訪朝を契機とする米朝交渉の進展など、日朝関係をめぐる環境は大きく変化した。とくに、南北首脳会談の模様が全世界にリアルタイムで報道されたことは、国防委員長(労働党総書記)金正日のイメージ・アップに貢献し、「謎の独裁国家」とみられがちであった北朝鮮に対する日本の世論の印象を大いに好転させた。

 しかしながら、植民地支配に対する「過去の清算」問題や「拉致疑惑」問題が横たわる日朝間では、硬直した関係がなお続いた。2000年3月日本政府は、国交正常化交渉の再開と「拉致疑惑」問題の解決を期待して北朝鮮に対するコメ支援を決定し、北京(ペキン)で開催された日朝赤十字会談でその旨を伝達した。これに対して、北朝鮮赤十字会は、「行方不明者」の調査再開を約束した。そして、3月には、1992年11月以来途絶えていた日朝国交正常化交渉の第9回本会談が再開された。会談では、植民地支配など「過去の清算」が論議の焦点となり、北朝鮮側が謝罪と補償を求めたのに対し、日本側は財産請求権として処理すべきであると主張した。そのため、議論は平行線をたどった。それでも7月には、バンコクで日朝両国の外相、河野洋平(こうのようへい)(1937― )と白南淳(はくなんじゅん/ペクナムスン)(1929―2007)が初めて会談し、8月には日朝国交正常化交渉の第10回本会談が再開された。ここでも、両国は基本的立場の表明を繰り返した。

 2000年9月に予定されていた日朝首脳級会談は、最高人民会議常任委員長金永南(きんえいなん/キムヨンナム)の訪米取り止めにより中止されたものの、同年約2年7か月ぶりに3回目の北朝鮮在住日本人配偶者の一時帰国が実現した。前述の副委員長趙明録訪米時の米朝会談では、アメリカによる北朝鮮に対する「テロ支援国家」指定解除の条件として、1970年(昭和45)3月よど号ハイジャック事件以来、北朝鮮内に滞在している元赤軍派関係者の国外退去の問題が論議された。日朝関係正常化の「障害」の一つとされる問題が、ようやく解決に向けて動き出したことになる。

 他方、2000年10月「拉致疑惑」問題に関連して、1997年11月の訪朝団(森喜朗総団長)が「行方不明者として第三国で発見」とする「解決案」を提案していたことが明らかにされ、外交上の「失策」として問題となった。また同月、日朝国交正常化交渉の促進のためという外交上の判断から、世界食糧計画(WFP)の要請量を大幅に上回る50万トンのコメ支援が決定された問題でも、1997年の訪朝団がコメ支援を前もって約束していたという密約説が登場し、政界は紛糾した。さらに、同月再開された日朝国交正常化交渉の第11回本会談は、1997年訪朝団問題をめぐる日本側の「混乱」と米朝交渉を優先する北朝鮮側の姿勢により、結局なんら合意に到達することができぬまま終了した。このように、日朝関係の正常化交渉は一進一退を繰り返し、早期の実現は容易ではなく、他国の関係改善に比べて「立ち遅れている」との指摘さえあった。

 ただし、一方で規模ははるかに小さいながらも、NGO(非政府組織)など民間主導の交流の動きが徐々に広がりつつあることにも注目すべきである。食糧危機の克服を図る農業指導の実施など地道な活動が、両国政府間の硬直した関係の扉を開く鍵になる可能性は否定できない。

 こうしたなか、2002年9月、日本の首相小泉純一郎と金正日による日朝首脳会談が実現した。両首脳は、日朝の国交正常化交渉を再開する、北朝鮮によるミサイル発射実験の凍結期間を延長する、などを内容とする日朝平壌宣言に署名した。また、同時に北朝鮮は日本人を拉致(らち)した事実を認め、拉致した日本人の生死に関する情報を提示した。2002年10月には事件被害者のうち5人の日本への帰国が実現。2004年5月、小泉はふたたび訪朝し、金正日との会談において日朝双方が日朝平壌宣言を履行することなどを確認、このとき、拉致被害者の家族8人のうち、5人の日本帰国が実現し、同7月には残り3人の帰国・来日が実現した。

[並木真人]

『李庭植著、小此木政夫・古田博司訳『戦後日韓関係史』(1989・中央公論社)』『小此木政夫編著『北朝鮮ハンドブック』(1997・講談社)』『和田春樹著『北朝鮮――遊撃隊国家の現在』(1998・岩波書店)』『高崎宗司著『検証 日韓会談』(岩波新書)』『高崎宗司著『「反日感情」――韓国・朝鮮人と日本人』(講談社現代新書)』『池明観著『韓国――民主化への道』(岩波新書)』『鄭大均著『韓国のイメージ』『日本(イルボン)のイメージ』(中公新書)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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