デジタル大辞泉
「本泉寺」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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本泉寺
ほんせんじ
豊吉川の右岸、通称御坊山(オハナ山とも)の麓に位置。松扉山青光院と号し、真宗大谷派。本尊は阿弥陀如来。本願寺八世蓮如の旧跡として著名。「反古裏書」に本願寺六世巧如の子で越中井波瑞泉寺(現富山県井波町)に入った如乗が「二俣トイヘル山中」に一宇を開いたとある。「二又村坊」「二俣ノ坊」ともよばれ、「瑞泉ヲ以テ為本号」といい、のちに本泉寺と称したというが(「拾塵記」など)、長享年間(一四八七―八九)蓮悟(蓮如七男)が若松に一坊を設け、のちに若松本泉寺と称されるようになると、「若松」が本泉寺の別称となった。以下の記述では二俣本泉寺・若松本泉寺の双方を扱う。
如乗の本泉寺創建は嘉吉二年(一四四二)とされるが、本願寺五世綽如が明徳元年(一三九〇)越中に赴く途次、二俣に逗留したことにちなんですでに草庵が結ばれており、そこに如乗が入ったのだという。また蓮如が宝徳元年(一四四九)から三年間当地に居住し堂舎を整備したとも伝える(貞享二年寺社由緒書上)。如乗はもとは京都青蓮院の子院青光院に住したが、将軍足利義教によって追放され、瑞泉寺に下り(日野一流系図)、二俣に移住した(賢心物語)。如乗は二俣で勝如(綽如の三男周覚の娘)と結婚し如秀をもうけ、やがて如秀に蓮如の次男蓮乗を迎えた。寛正元年(一四六〇)の如乗没後、蓮乗は二俣坊と井波瑞泉寺を兼帯したが、病弱であったため文明一二年(一四八〇)以降二五年間勝如が実質的な住持であった(「日野一流系図」など)。
本泉寺
ほんせんじ
[現在地名]四條畷市蔀屋本町
松扉山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。所在地は字杭ヶ淵と称し、もと教光寺という寺があった。その上寺が大坂天満鳴尾町(現北区)にあった本泉寺で、明治三一年(一八九八)教光寺を合併、移転してきたものである。本泉寺の由緒によれば、当寺は嘉吉二年(一四四二)加賀国二俣(現金沢市)に本願寺六世巧如の子、如乗が開いたのに始まり、続いて二世蓮乗、三世蓮悟、四世実悟と、蓮如の子息が次々住持した。三世蓮悟の長享元年(一四八七)加賀国若松郷(現金沢市)に、実悟の時に河内へ移り本泉寺を復興(守口市の→護念寺)、五世教恵の天正四年(一五七六)、本願寺正院家の寺格の勅許があったという。
本泉寺
ほんせんじ
国鉄水郡線野上原駅の北三〇〇メートルに位置し、鳥喰山唯院と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。寛文三年(一六六三)の開基帳(彰考館蔵)によると宝治二年(一二四八)の寺立で百姓旦那二九人を有したとある。同年唯円が那珂郡鳥喰村(現那珂町豊喰)に創建したのが始まりで、額田阿弥陀寺(現那珂町)に伝わる「太祖聖人面授口決交名記」には、高弟二四人中の第二四番目に「トリバミ唯円」と記される。
本泉寺
ほんせんじ
[現在地名]瀬戸市矢形町
教春山と号し、真宗高田派。本尊阿弥陀如来。専修寺(現三重県津市)の三世顕智が尾張にきて法を説いた時、上菱野村の地頭山田泰親は顕智に帰依し、弘安四年(一二八一)出家して浄顕と号し、同六年本泉寺を創建したという(愛知県史)。もとは三〇〇メートルほど南の低地にあったものを慶長一八年(一六一三)に現在地の丘陵端に移したが、この地は泰親の隠居城(山口城)の跡であるという(尾張志)。
本泉寺
ほんせんじ
[現在地名]新市町相方 平ノ下
相方山の東北麓、芦田川の南側にあり、山号旭照山、本尊十界大曼荼羅。単立寺院。「備陽六郡志」に「天文、弘治の比、先蔵院日継大徳開基す、いかなる故にや、京都本能寺、摂州本興寺の両末寺なり、日継は天正十年正月十五日遷化す、第六世顕隆院迄は過去帳さへなくて古き墓なと有といへとも、誰と云事相しれす、往古は観音寺と云真言地なりけるよし、口碑に伝へたる計なり、鐘、享保年中に鋳、無銘」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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