来迎院(読み)ライゴウイン

デジタル大辞泉 「来迎院」の意味・読み・例文・類語

らいごう‐いん〔ライガウヰン〕【来迎院】

京都市左京区にある天台宗の寺。山号は、魚山。仁寿年間(851~854)円仁の創建と伝える。のち、良忍が大原声明しょうみょう(大原魚山流)の根拠地とした。所蔵の日本霊異記は国宝。

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精選版 日本国語大辞典 「来迎院」の意味・読み・例文・類語

らいこう‐いんライカウヰン【来迎院】

  1. 京都市左京区大原来迎院町にある天台宗の寺。山号は魚山。仁寿年間(八五一‐八五四)円仁が開創。梵唄声明(ぼんばいしょうみょう)の道場で、宮中法会の主職を参勤。中国の天台山を模し一峰の名を山号としている。天仁二年(一一〇九)良忍が中興し、融通念仏根源の聖地ともなっている。所蔵する「伝教大師度縁案並僧綱牒」一巻、「日本霊異記」二帖は国宝。大原寺。薬師さん。

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日本歴史地名大系 「来迎院」の解説

来迎院
らいこういん

[現在地名]左京区大原来迎院町

三千さんぜん院の東、川に沿った坂路上に位置する。魚山と号し、天台宗。近江延暦寺の別院の一。本尊薬師如来、脇士は左釈迦如来、右阿弥陀如来

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔草創と良忍の入寺〕

寺伝によれば仁寿年間(八五一―八五四)円仁が天台声明の道場として中国天台山の堂塔を模して創建といい、その後一時期衰退したが天仁二年(一一〇九)融通念仏の開祖良忍が魚山の号とともに再興、来迎院と称するようになったと伝える。「吉記」承安四年(一一七四)二月一六日条には「次向大原、(中略)次参来迎院、故良仁上人草創、本覚房上人当時止住之所也、次謁上人、尤可奉恭敬」とみえ、来迎院に関する早い記事である。

〔声明音律の寺〕

良忍は一二歳で比叡山に登り、嘉保元年(一〇九四)大原おおはらの別所に退き勝林しようりん(現左京区)の永縁、寛誓および尋宴、胆西らに従って声明梵唄の法を習い、諸流諸家の法を総合して一家をなし、天仁二年に来迎院・浄蓮華じようれんげ院を創立してその法を唱導し、永久五年(一一一七)に融通念仏を感得してそれより摂津・河内・紀伊を巡遊、天承二年(一一三二)二月一日に来迎院で没したと伝える(後拾遺往生伝・融通念仏縁起・声明源流記ほか)


来迎院
らいごういん

[現在地名]福知山市字池田

池田いけだ集落の北方山麓にある。久岳山法雲ほううん寺と号し、高野山真言宗、本尊阿弥陀如来。「丹波志」に、「真言宗同郡観音寺村観音寺下也、百年余以前観音寺住持ノ僧隠居所也、此村中野孫太夫俗縁ニ(ママ)テ、此所ニ隠居スト云(中略)阿弥陀堂・観音堂有」とある。

来迎院の過去帳によれば、中世栄えた坂室さかむろ医王いおう寺と堀越ほりこし大光だいこう寺が衰滅し、両寺の仏像が来迎院に安置されたという。今、境内の阿弥陀堂内に残る二枚の棟札の一に「合寺(中略)于時寛永十四丑年閏三月二十四日 願主泉識」などの文字が読める。二の札には「合奉建立 久岳山宝雲寺来迎院(中略)明暦三年三月廿一日 本願主祐尊云々」とある。


来迎院
らいごういん

[現在地名]金砂郷村大里

宿しゆくにあり、天台宗で光明山安養寺と号する。本尊は阿弥陀如来。

寺伝によると至徳二年(一三八五)の創建で、初めは真言宗に属したがのち改めたという。「新編常陸国誌」の大里おおさと村の項には当院について「茨城郡塩崎長福寺末、(中略)除地七石、初ハ鹿島郡磯浜村ニアリ、大洗明神ノ別当ニテ、大洗山普賢院般若寺ト号シ、神領朱印地ヲ支配シケルニ、天和三年、住(ママ)湛盈ノ時、大里村阿弥陀院〔真言〕ノ住持俊善犯戒ノコト有テ、国主ヨリ斬罪ニ処セラル、其地ヘ普賢院ヲ移サレ、朱印地ハ大洗ノ社司大塚氏ヘ賜ハリ、其代トシテ、大里ニテ除地七石ヲ充テラル、元禄五年十二月十六日、東叡山ヨリ(ママ)号ヲ改メラレテ、今ノ称トナル」と記される。


来迎院
らいごういん

[現在地名]笠岡市甲弩

甲弩こうぬ神社の南東にあり、古くは同社の別当寺神宮寺とも称した。神護じんご寺と号し、真言宗大覚寺派。本尊は阿弥陀如来・不動明王・愛染明王。天平年間(七二九―七四九)行基の開基と伝える。本堂の永禄一一年(一五六八)一〇月六日銘の棟木には神宮寺とあり、大檀那として小田政清・高清父子の名が、天正一五年(一五八七)一〇月一五日の本堂再興棟札(当寺蔵)には同じく高清・元家父子の名がみえる。また同一四年銘のある古瓦が残る。延宝五年(一六七七)の甲怒村検地帳(笠岡市史編さん室蔵)によれば除地として屋敷七畝余(古検五畝)と藪九歩半、大坊屋敷一畝余(古検二畝)、畑はみやノたわ・藤原などに八反二畝余、田は大本・みやまえなどに一町一反三畝余があった。


来迎院
らいこういん

[現在地名]天川村大字坪内

舟岡山と号し、真言宗醍醐派。本尊は大日如来。寺伝によると、大宝年間(七〇一―七〇四)役行者の創建という。坪内つぼのうち弁天社(現天川村天河神社)の神宮寺の一つ。「大和名所図会」では、元弘年間(一三三一―三四)護良観王(大塔宮)の寓居となったともいう。現在は小堂のみで、明治一一年(一八七八)の再建。堂内の大日如来像はもと宝塔(「延文元年丙申五月日覚忍」在銘)に祀られていたが、明治の廃仏毀釈の際に移された。


来迎院
らいごういん

泉涌寺の北に位置する塔頭。空海の創立と伝えるが、中興は泉涌寺四世智鏡。智鏡は入宋の折蘭渓道隆と親交をもち、道隆は来日後しばらく当院に住した(元亨釈書)。本尊阿弥陀如来。後方の荒神堂にある木造荒神坐像(鎌倉時代)は国指定重要文化財

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「来迎院」の意味・わかりやすい解説

来迎院
らいごういん

京都市左京区大原来迎院町にある天台宗の寺。魚山(ぎょさん)と号する。本尊は薬師如来(やくしにょらい)・釈迦(しゃか)如来・阿弥陀(あみだ)如来の三尊仏。平安初期に慈覚大師円仁(えんにん)が天台声明(しょうみょう)の道場として開山したと伝える。その後1109年(天仁2)聖応(しょうおう)大師良忍(りょうにん)が来迎院を建立した。円仁の伝えた声明は魚山流声明として集大成され、天台声明の主流となった。寺宝の「伝教大師度縁案並僧綱牒(ならびにそうごうちょう)」1巻は最澄に関する根本史料で、『日本霊異記(りょういき)』2帖(じょう)(中・下巻)とともに国宝に指定されている。また本尊の三尊仏、来迎院如来蔵聖教文書類、石造三重塔は国重要文化財に指定されている。

[田村晃祐]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「来迎院」の意味・わかりやすい解説

来迎院
らいごういん

京都市左京区大原にある天台宗の寺。魚山と号し,大原寺ともいう。仁寿年間 (851~854) に円仁が中国天台山の一峰の名を移して天台声明の本拠とした。その後,融通念仏宗祖の良忍が中興した。門弟相次いで声明音律を伝え,勝林院の流とあわせて大原二流と称された。現存最古の『日本霊異記』 (2帖) などの国宝を蔵する。

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デジタル大辞泉プラス 「来迎院」の解説

来迎院

茨城県龍ケ崎市にある寺院。1556年に建てられたとされる多宝塔は、国の重要文化財に指定されている。

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