日本大百科全書(ニッポニカ) 「東南アジア文学」の意味・わかりやすい解説
東南アジア文学
とうなんあじあぶんがく
広大な東南アジア地域には種々の民族と言語が分布し、雑多な文化と国家社会が存在する。このような異なった民族的風土のもとに育った文学もまた多種多様である。たとえばインドネシア文学とマレーシア文学はもとは同根であったが、現代では別々の成長を遂げている。またフィリピンでは民族文学としてタガログ文学の存在はよく知られているが、ほかにビサヤ文学も無視できない。ビルマ(現、ミャンマー)にもモン人やカチン人など少数民族の文学がある。
[松山 納]
共通する三つの潮流
伝統的口承文芸
東南アジア文学の異質性と等質性を考えるため史的変遷をたどってみると、三つの潮流が各国文学に共通することがわかる。まず最初は土着または固有文学の伝統で、これは多くの国で民間伝承の形で継承されている。たとえばベトナムの歌謡(カーザオ)や諺(トウツク・グー)、カンボジアの説話(ニヤーイ)、タイ、ラオスの民話(ニターン)や民謡(プレーン)、ビルマの農民謡(アインジン)、マレーシア、インドネシアの四行詩(パントン)などは、もともと民衆の間から発生し語り伝えられた口承文芸で、これらのなかには文字化され文学的価値を認められたものもある。なお、東南アジアでも韻文は散文に先行し、伝統的に優位にたつ。この傾向は口承文学だけでなく書写文学にも示され、詩のほか物語、劇、格言、諺(ことわざ)、宗教法話に至るまですべて韻文体をとってきた。
[松山 納]
借用文学
次の段階は外来文化の移入による借用文学の発生である。古代における中国とインドの二大文化の摂取に始まり、中世のアラビア文化、近代の西欧文化の輸入が考えられよう。まず中国文学の影響はベトナムにおいてもっとも濃厚で、10世紀から18世紀にかけて漢文、漢詩が隆盛を極めた。しかし、これらはいわば直輸入文学で、漢学者の手すさびにすぎず、これがベトナム文学に根づくには、18世紀から20世紀前半にかけて発達した安南俗字による字喃(チュノム)文学を待たなければならなかった。阮(げん)朝のグエン・ズウ(阮攸)の長編詩『断腸新声』(別名『金雲翹(キムバンキェウ)新伝』)はその最高峰である。タイでは19世紀に『三国志演義』が翻案移入されて『サームコック』となるほか、多くの中国史話が翻訳された。『三国史』はラオスやカンボジアにもある。
一方インド文学の影響は、インドシナ半島の仏教圏はもとよりマレーシア、インドネシアにも及んでいる。インド古典『マハーバーラタ』『パンチャタントラ』『ラーマーヤナ』などが形をかえて各国に移植された。タイの『ラーマキエン』、ビルマの『ヤーマヤカン』、カンボジアの『ラーマケルティ』、ジャワの『ラーマーヤナ・カカウィン』、マレーシアの『ヒカヤット・セリー・ラーマ』はいずれも『ラーマーヤナ』の翻案である。また仏教説話『ジャータカ』(『本生経』)も東南アジア各地に伝わり、文学や演劇に豊富に取り入れられた。タイの『パンヤート・チャードック』、ラオスの『シップサート』、ビルマの『パーラーヤナ』はそれぞれの風土に溶け込んだジャータカ物語で、マレーシアのパントンもジャータカの動物説話から始まっている。
これら中国とインドの影響は文学の形式ばかりでなく言語や文体にも及んでいる。さらに借用文学の素養が、その時代の各国独自の文学を宮廷ないし学者の間に封じ込めた事実を特記したい。なお14、15世紀ごろマレーシア、インドネシアがイスラム化したが、文学の面ではヒンドゥー・ジャワ文学に吸収されたとみるべきである。
[松山 納]
国民文学の台頭
第3の段階は国民文学の台頭である。東南アジア各国では19世紀に入ってから、文学を特権階級から民衆のもとへ取り戻そうとする動きがおこった。
[松山 納]
文学近代化の動き
ベトナムでは前述の阮攸がその旗手で、タイではやや遅れてスントーン・プーが現れ同国最大の国民詩人の名を得た。ビルマでは演劇を宮廷から民間に移した先駆者ウー・チン・ウとその継承者ウー・ポン・ニャU Pon Nya(1807/1812―1866/1867)の名があげられる。このように文学近代化の動きは西欧文学によって火がつけられ、ついで各国独立運動の高揚につれて燃えあがった。インドネシアでは「プジャンガ・バル(新詩人)」、ベトナムでは「自力文団」などの文学近代化サークルが生まれた。前者ではタクディル・アリシャバナ、サヌシ・パネSanusi Pane(1905―1968)、アミール・ハムザーらが、後者ではニャット・リン、ホアン・ダオHoang Dao(1907―1948)、トー・フーTo Huu(1920―2002)らが活躍した。ビルマでは近代詩の父といわれるゾー・ジーZawgyi(1907/1908―1990)やミン・トゥ・ウンMin Thu Wun(1909―2004)らに代表される。フィリピンでは長い間スペイン語や英語で作品を発表せざるをえなかったが、1930年代からタガログ語でも書かれるようになり、1960年以降はタガログ文学が主流を占めた。植民地経験のないタイでも、20世紀になると西欧近代文学の手法を身につけた作家が輩出した。アーカートダムクーン・ラピーパット、シー・ブーラパーSri Burapha(1905―1974)らはその草分けである。
[松山 納]
植民地支配への抵抗
東南アジアの文学は、欧米の文学よりもはるかに遅れて日本に知られるようになったために、一般的な存在感はまだ薄い。それは東南アジア地域に文学が古くから存在しなかったからではなく、「植民地化」などの歴史的に不幸な事件があったために、無視されたり、しかるべく伝えられたりしなかったためである。
明治時代からの「脱亜入欧」政策は、日本の近代化を推進したが、その反面、同じ地域にあるアジアへの文化的な接近、相互の文化的な交流をおろそかにしてきた。また「大東亜共栄圏」開拓の時代には、東南アジア諸国に武力的な侵攻を行ったために、日本軍が引き起こした戦争と、そのなかでのたうつ人間を描いた小説がよく書かれた。たとえばシンガポールを舞台にした苗秀(びょうしゅう)(1920―1980)の『残夜行』(1976)は、シンガポールに住む華僑(かきょう)の目に日本軍が人間性を欠いた悪魔の権化として映っている姿を、マラヤ抗日地下組織の一員であるヒーローの救国活動を通して描いた残酷物語である。
インドネシア文学の名作として名高いプラムディア・アナンタ・トゥールPramoedya Anata Toer(1925―2006)の『すべての民族の子』(1980)は、19世紀末から20世紀初頭にかけてのオランダ支配下にあるジャワ島を舞台にした小説で、植民地支配下の恐怖や過酷さがひしひしと胸を打つ物語である。
マレーシアの傑作小説として名高いサマッド・サイドの『サリナ』(1961)は、日本軍政の傷跡が残るシンガポール島を舞台に、貧しい庶民の生活や人間が生きる悲しみを描いた。
ビルマは、イギリスの植民支配に苦しんだ国だが、テイン・ペー・ミィンTein Pe Myint(1914―1978)の大河小説『東より日出ずるがごとく』(1958)は、第二次世界大戦前夜のビルマを描き、高まる独立闘争のうねりのなかで、祖国を愛する青年たちが、悩み、模索を続けながら、やがては抗日闘争に動き出す姿を壮大なスケールで描いた長編である。
フィリピンは300年以上もの長きにわたってスペインの過酷な植民地支配を受け、次にはアメリカに統治された国であるが、宗主国のスペインは植民地フィリピンに対して極度の愚民化政策をとった。有色人種は劣等であるという偏見からであり、同時に植民地支配を円滑に進めるためでもあった。このことに少年時代から気がつき、フィリピン人は劣等ではないということを自ら証明したのは、天才詩人のホセ・リサールであった。『ノリ・メ・タンヘレ』(わが祖国に捧げる、1887)という小説を書いてスペイン支配の腐敗を徹底的に抉(えぐ)り出した。これがフィリピン人を目覚めさせ、やがて独立運動に立ち上がらせたのである。しかし、リサールは、そのためにスペインの支配者に銃殺された。また、カルロス・ブロサンCarlos Bulosan(1911/1913―1956)の長編『我が心のアメリカ』(1946)は、1930年の世界恐慌の嵐のなかで、「夢の国・アメリカ」を目ざした17歳のフィリピンの農村出身者の物語である。しかし「夢の国」で彼を迎えたのは黄色い肌に対する社会的差別や人種的偏見であった。
1940年代におけるベトナムは、日仏両国の共同支配期にあたり文化的には閉塞(へいそく)状態にあった。太平洋戦争の終結後、ベトナム民主共和国として独立、「文学は社会主義的な正義を志向すべきもの」となってから、南北が分断、アメリカの軍事介入によるベトナム戦争、そして終結、その後のドイモイ(刷新)政策で文学界に春が訪れたかにみえたが、ソ連崩壊後、社会主義文学理論が崩れ、新しい模索の時代に入った。
タイは、東南アジア諸国のなかで欧米諸国からの植民地化を脱した唯一の国であった。伝統文化は他国に陵辱されることなく、20世紀に入ってイギリスをはじめとする諸外国の文学を吸収しながらタイ独自の近代文学が花開いたが、1958年、時の独裁政治家で元帥のサリットが徹底的な思想弾圧を開始して以来、文学も不幸な歴史の暗闇(くらやみ)に閉ざされた。しかし、1973年に血なまぐさい10月政変が起こったのを契機に、民衆が目覚め、文学の潮流も大きく変わった。新しい民衆の心を鋭い感性のアンテナでとらえ、みごとな現代詩に表現したナワラット・ポンパイブーンNaowarat Phongphaibuun(1940― )その他の詩人をはじめ、歴史の暗闇のなかに閉じ込められていた反体制の詩人ナーイピーNaaiphii(1918―1987)やチット・プーミサックChit Phumisak(1930―1966)の作品に啓発されたタイの「怒れる若者たち」が次々に新しい作品を発表した。
[岩城雄次郎]
国際交流と未来への思い
以上みてきたように、タイを除けば、20世紀の東南アジア文学は植民地下における抵抗の文学であった。タイにしても時の政権の圧政に対する抵抗の文学であったといえる。21世紀を迎えて、その文学の様相に変化の兆しがみえる。その一つは、東南アジア諸国間において政治・経済だけでなく文学の世界でも交流や連携が進んでいること。1979年に創設された「東南アジア文学賞」の主催国はタイであるが、現在ではASEAN(東南アジア諸国連合)10か国にまたがる国際文学賞となり、東南アジア諸国の文学の活性化と東南アジア諸国の文化交流に、同賞は大きく貢献している。もう一つは、文学のテーマが変わりつつあること。タイではミレニアムの年に、ウイモン・サイニムヌワンWimon Sainimnuan(1955― )の未来の人間社会に思いを馳(は)せた小説『永遠への願い』(2000)が東南アジア文学賞を獲得した。この物語は、現代社会を支配する消費主義的思想と東洋の仏教的価値観を対峙(たいじ)させるというかたちでストーリーが進行し、実業界の大立者である主人公が、クローン人間をつくって身体の手足や臓器を取り替えたりするが、それが人間性やモラルの問題にまで発展する。この物語の際だつ特徴は、未来にはかならず起こるであろう問題を想定してフィクションのなかに描き出したことであり、今後このような未来小説や人間による環境破壊の問題を取り上げる小説が増えることだろう。東南アジアの文学は、これまでは欧米中心の物差しで眺められがちであったために、日本ではその存在がほとんど知られなかったが、よい翻訳者にさえ恵まれれば、今後は欧米の文学と対峙し、ときには脅かす存在にもなるだろう。
[岩城雄次郎]
各国文学
タイ
タイの文学は、20世紀に入ってからの急速な近代化の波とそれに伴う散文の発達によって、宮廷中心の貴族文学から脱皮し、立憲革命(1932)前後を境目にして、近代文学らしい形式と内容をもつに至った。
[岩城雄次郎]
軍事政権下における文学者の役割
タイの文学にとってなによりも幸運だったことは、近隣諸国のような西欧列強による植民地化を免れたために、自己のアイデンティティ(民族的自覚)を失うことなく伝統文化に基づく独自の文学を発展させることができたことである。一方、立憲革命以後数十年を経てもなお根づこうとしない民主主義を背景に、時の軍事独裁政権による思想弾圧の犠牲になった社会的正義追求型の文学者たちの担った役割は大きく、そういった文学者の受難時代が長かったことは不幸である。
1973年の血塗られた10月政変は、すでに台頭しつつあったスチャート・サワッシーSuchart Sawatsi(1945― )やウィッタヤコーン・チエンクーンWitthayakon Chienkun(1946― )、スチット・ウォンテートSujit Wongthes(1945― )らタイの「怒れる若者たち」の発言力とともに「民衆のための文学」志向をこれまでになく高め、書かれる対象の裾野(すその)と書き手の階層が広がった。しかし、これと同時に、王侯貴族のために存在した過去の文学に対する反発もおこり、それが古典文学焚滅(ふんめつ)運動にまで発展したことがあるが、それはいつのまにか立ち消えになった。
1976年の軍事クーデターは、社会の変革を目ざす若い文学者たちの多くをジャングルへ追いやり、ふたたび弾圧の谷間に突き落としたかにみえたが、1981年に、「過去の政治的な責任は問わないから、投降して元の職場などに復帰すべし」というプレム新政府の時宜にかなった呼びかけに応じて、森林に住む非合法の共産党分子の考え方や活動方針に不満を抱いていたほとんどの文学者たちやジャーナリストがこぞって投降、バンコクに戻ってふたたび文学活動を始めた。軍事クーデターが起こったとはいえ、1973年の政変が生み出した新しい時代への流れを止めることはできなかったのである。
[岩城雄次郎]
タイ主導の「東南アジア文学賞」
1970年代の後半は、タイの文学者にとって苦節の時代ではあった。が、1977年にはスチャート・サワッシー編集による文芸誌『読書界』が新人の登竜門ともいうべき「チョー・カーラケート短編文学賞」を設けて有能な作家を輩出させる糸口をつくったし、1979年には、オリエンタル・ホテルやタイ航空などが資金を出して「東南アジア文学賞」を新設した。
この賞は、現在はASEAN(東南アジア諸国連合)加盟の10か国(タイ、マレーシア、シンガポール、ブルネイ、インドネシア、フィリピン、ベトナム、ラオス、ミャンマー、カンボジア)にまたがる国際文学賞で、作品の選考などは各国の委員会に委ねられる。この賞は、自国の文学の活性化と東南アジア諸国間の文化交流が目的で、賞金その他はタイがすべて負担する。タイでは、授賞対象の作品ジャンルは、長編、詩集、短編集に分けられ、3年に一度この対象ジャンルが回ってくる。すなわち、初年度が長編だったので、次は詩集、そしてその次が短編集という順序である。
1980年に国民詩人として名高いナワラット・ポンパイブーンが同賞を受けて以来、タイの現代文学は少しずつ上昇気流にのった。1982年度に長編『風評の裁き』で同賞を得たチャート・コープチッティChart Kobjitti(1954― )は、スチャート・サワッシーの主宰する「チョー・カーラケート短編文学賞」でデビューした作家であるが、『風評の裁き』は、なんの正当な根拠もない、いい加減な世間の風評によって断罪され、その風評を軽く信じてしまう人たちと偽善者のエゴに翻弄(ほんろう)されて破滅していく人間の姿を、説得力のある文で描いたタイの残酷小説である。チャート・コープチッティは、1994年度にも、老人ホームを扱った『時』という長編で再度の東南アジア文学賞を獲得し、注目を浴びた。
1990年代に入ると、これまで支配的だった社会的な問題を告発する小説に加えて、芸術性の高い長編や短編、未来に起こりうる問題を先取りした小説などが少しずつ増えてきた。詩のジャンルでは、自由詩で、絵画性を帯びながらも伝統的な古典詩の美しさを響かせる異色の詩人サックシリ・ミーソムスープSaksiri Meesomsueb(1957― )が出現、国民詩人ナワラット・ポンパイブーンをはじめ、アンカーン・カンラヤーナポンAngkarn kalayanapong(1926―2012)、チラナン・ピットプリーチャーChiranan Pitpreecha(1955― )、スチット・ウォンテート、パイワリン・カーオガームPaiwarn khao-ngam(1961― )らが最前線で活躍した。現代におけるタイの詩人たちの活躍ぶりは、いまの日本と比べると、その人数は少ないながらも、確かに顕著である。
20世紀末は、バブル経済の崩壊とともに経済不況のあおりを受けて、月刊の文芸誌が廃刊、前述の「チョー・カーラケート短編文学賞」もとだえたままであるが、いずれ復活して新しい作家を輩出するだろう。
[岩城雄次郎]
ベトナム
ベトナム文学は時期に応じて、(1)古典文学、(2)近代文学、(3)現代文学と3分類される。
[川口健一]
古典文学(北属期~19世紀中葉)
古典文学は、口承文学(昔話、諺(ことわざ)、歌謡=カーザオ)、漢文文学(漢詩、説話、小説など)および字喃文学からなる。
昔話にはベトナムの建国・護国にまつわる「聖人ゾン」などの英雄伝説やさまざまな民話がある。また、労働生産、家庭・社会生活における民衆の知恵から生まれた諺や民衆の素朴な生活感情を表現した歌謡など、口承文学はベトナム民族の精神世界を示す文化的資料でもある。
漢文文学は科挙制と相まって形成され、歴代王朝下、正統文学とみなされた。歴代王朝のさまざまの皇帝による御製詩集や儒者・文人による漢詩集が残されている。漢文説話はかなり古い時代から出現していたが、現存しない作品もある。『越甸(えつでん)幽霊集』(14世紀)と『嶺南摭怪(れいなんせきかい)』(15世紀)はよく知られた伝奇説話であるが、いずれも後世にさまざまな手が加えられ、種々の異本が今日に伝わっている。『伝奇漫録』(16世紀)は怪異小説の傑作であるが、中国明代の『剪灯(せんとう)新話』(14世紀)の影響がみられる。
字喃文学は13世紀に始まるが、興隆するのは18~19世紀においてである。字喃文学は豊かな表現性をもつ文学ジャンルとして、長編韻文詩物語を中心に発展し、グエン・ズウの『金雲翹(キムバンキェウ)新伝』を頂点にさまざまな作品が生み出された。
[川口健一]
近代文学(19世紀後半~20世紀前半)
ベトナム近代文学はフランス植民地下、西欧(おもにフランス)近代文学の影響を受けて形成される。20世紀初期の二つの新聞『インドシナ雑誌』と『南風』による西欧近代文化・文学の翻訳紹介が、1920~1930年代に形成されるベトナム近代文学の端緒を開いた。『トー・タム』(1925)は出版されるや都市の青年男女に熱烈に迎えられた。自我意識と封建思想をテーマとした悲恋物語であるこの小説は、フランス近代小説の翻案であるが、これまでにない新しい手法による小説としてベトナム近代文学の誕生を告げる作品となった。
ベトナム近代文学の形成に主要なかかわりをもったのは「自力文団」の作家、詩人たちである。彼らは機関紙『風化』およびこれに続く『今日』によって多くの長・短編小説を発表した。近代詩の形成にかかわったテー・ルーThe Lu(1907―1989)やスアン・ズィエウXuan Dieu(1916―1985)らの詩人もこのグループに属していた。
浪漫(ろうまん)主義的な「自力文団」の文学に対し、貧困、不正などの社会問題に主たる創作テーマをみいだしたグエン・コン・ホアンNguyen Cong Hoan(1903―1977)、ゴ・タット・トーNgo Tat To(1894―1954)、ナム・カオNam Cao(1915―1951)など社会派作家たちの存在もベトナム近代文学に豊かさを加えている。
1940年代前半は日仏共同支配期に当り、文化的には閉塞・暗黒の時期とみなされている。しかし、文学創作面では1930年代のような生彩はなかったものの、「春秋雅集(スアントゥ・ニャタップ)」などいくつかの文学者・文化人グループによる創造的な文化活動が行われたことも事実である。
[川口健一]
現代文学(20世紀中葉~)
1945年9月のベトナム民主共和国成立以降、ベトナム文学は共産党指導による社会主義文学を指向するようになる。1946年からの第一次インドシナ戦争と1954年のジュネーブ協定、南北分断、1960年代のアメリカ合衆国の軍事介入による第二次インドシナ戦争(ベトナム戦争)の発生・拡大、1973年のパリ和平協定、1975年のサイゴン(現、ホー・チ・ミン市)解放、そして翌1976年の南北統一へとベトナムは長い苦難の歴史を歩む。さらに、その後のカンボジア紛争と中越戦争により、1991年までその試練が続く。このような政治・社会状況のなかでベトナム現代文学はどのような役割を担ってきたのか。それは、国家の政治的要請にいかにこたえるかということに尽きる。その要請にこたえるために文学者たちを統轄する組織として、1957年にベトナム作家協会が設立された。
1950年代なかばに文芸創作の自由を求める文学者たちの反体制的な動きはあったものの、1945~1975年のベトナム文学は政治に従うことにおいて忠実であった。しかし、このことは文学者たちが文学の本質的なあり方である、言語表現の多様性を試みられなかったという代償を伴っていた。
1976年以降今日に至る現代文学の状況はどうであろうか。1986年には対外開放のドイモイ(刷新)政策が開始され、文芸界にも活気がよみがえったかにみえた。バオ・ニンBao Ninh(1952― )やズオン・トゥー・フオンDuon Thu Huong(1947― )などの優れた作家が文壇に現れた。とくに、1991年に世に出たバオ・ニンの長編『戦争の悲しみ』は世界的な評価を受け、日本を含む世界各国のことばに翻訳された。このような特記すべき動きはみられるものの、しかしソ連崩壊による社会主義文学理論の失墜などを要因に、1990年代初頭からベトナム現代文学は再び困難な状況に直面している。反体制的な創作活動により1991年に一時期逮捕、拘禁されたズオン・トゥー・フオンは、その後発表の機会を奪われたままであったが、2006年にはベトナムを去り、パリに創作の場を得た。ドイモイ政策が進行しベトナム社会が大きく変わりゆくなか、文学者たちは時代に合った新たな文学のあり方を模索している。
[川口健一]
ミャンマー
ミャンマー(旧、ビルマ)の近・現代文学の先駆は、コンバウン朝後期、19世紀前半から中葉にかけて活躍したウー・チン・ウおよびウー・ポン・ニャの戯曲にあるといわれる。またミャンマーでは伝統的に韻文詩が多く書かれ愛好されてきたが、その伝統的手法に西欧近代詩の手法を取り入れて詩の近代化を図ったのは、1930年代から活躍したゾー・ジーやミン・トゥ・ウンなど、いわゆる「キッサン・サーペー」(「時代を探る」の意)詩人であった。日常性に素材を求めて、平易な文体で描くところにその特色があった。この形式はゴェーターイーNgwe Tar Yi(1925―1958)やミン・ユ・ウエーMin Yu Wai(1928―2021)などの戦後派詩人に受け継がれたが、他方、伝統的な定型詩にゆさぶりをかけたダゴン・ターヤーDagon Taryar(1919―2013)やチー・エー(1929―2016)などを輩出した。加えて1968年には、散文詩について詩人の間で活発に議論が交わされたが、やがて1980年代に新たな潮流として、音節や押韻にまったくこだわらない散文詩も登場し、詩壇に一大変革がもたらされつつある。
他方、近代小説の萌芽(ほうが)は、1930年代から1940年代にかけて風靡(ふうび)したいわゆる「キッサン・サーペー」文学、すなわちテイッパン・マウン・ワTheippan Maung Wa(1899―1942)をはじめ、前出の詩人ゾー・ジー、ミン・トゥ・ウンらの作品に始まる。平易で簡潔でかつ流麗な文体で、内容はありふれた日常的なものであった。このほか、同時代には反植民地主義者で進歩的文学作品を書いたテイン・ペー・ミィンなどが出た。第二次世界大戦後の小説は、議会制民主主義時代(1948~1962)と「ビルマ式社会主義」時代(1962~1988)以降の2期に大別される。第1期は独立後の混乱期ではあったが、自由な創作活動が行われ、作品の内容も恋愛、歴史、社会、政治などを扱い多種多様化した。前出のテイン・ペー・ミィンやダゴン・ターヤーをはじめ、この期の作家や作品の数は枚挙にいとまがない。またジャーネージョー・マ・マ・レーJournal Kyaw Ma Ma Lay(1917―1982)、キン・フニン・ユKhin Hnin Yu(1925―2003)、モゥ・ウェー(1927―1967)らの女性作家も輩出した。第2期では、第1期の傾向を継承しながら多くの作家や多様な作品が生まれているが、マウン・ターヤーMaung Thaya(1931― )のほか、モゥ・モゥMoe Moe(インヤーInya、1944/1945―1990)、マ・サンダーMa Sandar(1947― )、サン・サン・ヌエSan San Nweh(1945― )などの女性文学者などが、人生模索的な小説を書いている。しかし、ビルマ式社会主義体制のもとでイデオロギー教育が漸次国民に浸透し、また言論・思想および出版統制のもとで文学作品の内容もおのずから規制されてきた。すなわち、「人の人による、民族の民族による搾取のない社会主義社会の建設」という政治目標に沿って、文学もまた国家と民族への奉仕を義務づけられていた。このような方向に沿った国民文学賞も授与されている。この時期にルードゥ・ウー・フラLudu U Hla(1910―1982)により40編余りの国内諸民族の民話集が出版されたのは興味深い。
1988年の「民主化運動」により、ネ・ウィン社会主義政権は崩壊した。その後に登場したソウ・マウン政権(1992年よりタン・シュエ政権)は、軍人主導による国粋主義ないしナショナリズム路線を鮮明に打ち出した。政府の情報管理は依然として厳しく、言論・出版の自由は著しく制約されている。したがって、小説、随筆などの文芸作品が、新刊本のみならず多数出回るようになった雑誌にも掲載されるようになったが、強大な国家建設にそぐわない内容のものは、排除される傾向にある。
ちなみに現在、ミャンマーには『ミャワデイー』『ングエターイー』『シュマワ』などの政府系文芸雑誌のほか、『サンダー』『ダナ』など多くの綜合雑誌が発刊されており、これまで数多くの短編小説、随筆、戯曲、詩などが掲載されてきている。
[奥平龍二]
マレーシア
マレーシアの古典文学から近代文学の先駆的役割を果たしたのは、アブドゥッラー・ムンシAbdullah Munshi(1796/1797―1854)である。彼の自叙伝『アブドゥッラー物語』(1849)が印刷・出版され、近代文学の開始が告げられた。日常のできごとを観察して記録し、社会批評をするなど、これまでの宮廷文学とは異なる創作活動を行った。しかし、その後20世紀初頭まで新しい発展はみられなかった。
[佐々木信子]
1920~1930年代
1920年代に入ると、中東でイスラム学を学んだ宗教知識人がエジプトの新しい文学の翻訳を始めた。その中心がサイド・シェイク・アルハディSyed Sheikh Al-Hady(1867―1934)で、『ファリダ・ハヌム物語』(1925~1926)は翻案ながらも最初のマレー語の小説である。続いて、アフマッド・タルAhmad Talu(1889―1939)によって、マレーの地、マレー人を主人公にした『真の友人』(1927)が発表された。この時代は、マレーの都市に住みながらも古い伝統に縛られた青年男女の恋愛、強制結婚をテーマにし、教訓的なものが多かった。
1930年代は短編小説が定着してきた時代で、文学活動の中心になったのは、インドネシア語文芸雑誌(『新詩人(プジャンガ・バル)』ほか)の読者でもあったマレー語学校の教師グループ、続いて新聞記者グループを中心に、詩、短編小説に関心が向けられ、民族的自覚の萌芽(ほうが)がみられる。この時代の小説は、恋愛、結婚、貧困を題材にしたものが多い。主要な作家は、「短編小説の父」アブドゥル・ラヒム・カジャイAbdul Rahim kajai(1894―1943)と、「反植民地文学の父」と称される、イシャク・ハジ・ムハマッドIshak Haji Muhammad(1909―1991)である。詩では、ムハマッド・ヤシン・マッモールMuhammad Yasin Maamor(1910―1971)の『大海の中で』(1933)が近代詩の先駆である。
第二次世界大戦前の文学の担い手は宗教知識人、マレー語教師、新聞記者であった。宗教的なものから、しだいに政治、社会、民族問題へとテーマが移った。インドネシア文学の影響も忘れてはならない。日本軍政時代の文学は活動を制限され、あまり大きな動きはみられない。
[佐々木信子]
第二次世界大戦後
第二次世界大戦後、シンガポールが文学の中心になり、1920年代生まれの詩人・作家の文学活動が活発になった。「社会のための文学」をスローガンとした「50年代作家グループ」が登場し、言語面でも重要な役割を演じた。文学の社会性が強調され、政治的、啓蒙(けいもう)的な作品が多くなった。このグループはマレー語の発展と、作家の地位の向上に努めた。代表的作家に、短編小説の旗手、クリス・マス、詩人のウスマン・アワンUsman Awang(1929―2001)、マスリ・サルクンMasuri Salikun(1927―2005)がいる。
1960年代になると、文学の中心はシンガポールからクアラ・ルンプールに移った。1960年から1970年末に向けて技術的にも高い小説が数多く書かれたのは、DBP(国立言語図書研究所)主催の小説コンクール、中等教育を受けた読者層の成長、出版社の積極的な姿勢によることが大きい。植民地、日本軍侵攻、独立という混乱の歴史を背景に、大都市シンガポールのスラムに住む抑圧された人々を温かい視線で描いた、サマッド・サイドの『サリナ』(1961)は、国際的水準に達した最初のマレー語の小説と評価される。また出身地ケダの貧しい農民の生活を描いた、シャーノン・アフマッドShahnon Ahmad(1933―2017)の『いばらの道』(1966)も重要な作品である。女性の作家ではアディバ・アミンAdibah Awin(1936― )『スロジャの花はまた池に』(1968)、カティジャー・ハシムKhadijah Hashim(1942/1945― )の『白鳩はまた飛びたつ』(1972)がある。
政府の「文学賞」(1971~ )設置は、広い範囲の人々の創作意欲をかき立て、その結果出版活動もさらに活発になった。月刊誌『文学(デワン・サストラ)』(1972年創刊)は新旧作家のさまざまな実験の発表の場、討論の場として重要な位置を占める。
1970年代に登場した作家のうち注目すべきは『連帯』(1971)のアブドゥラ・フセインAbdullah Hussain(1920―2014)と、『ある芸人の最後の日々』(1979)のアンワル・リドワンAnwar Ridhwan(1949― )である。以後、1980年代にかけて若手グループの活躍以外にも、巨匠たちによって次々と大作が発表された。クリス・マスは、複合民族国家マレーシアの諸問題に取り組んだ長編小説『クアラルンプールから来た大商人』(1982)、シャーノン・アフマッドは、イスラム色が強くなったが、開発とイスラムの問題をテーマにした、『アル・シカク』(1985)、サマッド・サイドは、長編小説『朝の雨』(1987)を書いた。
マレー人の世界だけを対象にしてきたマレー小説も、1970年代からはマレー人、華人、インド人からなる複合社会を取り上げる作品も発表されるようになった。また1980年代の初めにマレーシア語(マレー語)で創作する非マレー系作家が登場し、彼らを対象とした短編コンクールも開催されるようになった。その代表的な作家にリム・スウェ・ティンがいる。
今後のマレーシア文学は、文学とイスラムの問題が重きを増すようになるであろう。また伝統が見直され、現代社会との調和を保ちながら、複合国家マレーシアの国民全体の文学となっていくであろう。
マレーシア最大の文学賞である国家文学賞受賞者は、クリス・マス(1981年受賞)、シャーノン・アフマッド(1982)、ウスマン・アワン(1983)、サマッド・サイド(1985)、アレナ・ワティArena Wati(1987年受賞、1925―2009)、ムハマッド・ハジ・サレーMuhammad Haji Salleh(1991年受賞、1942― )、ノルディン・ハサンNoordin Hassan(1993年受賞、1929― )、アブドゥラ・フセイン(1996)である。
[佐々木信子]
インドネシア
長い間オランダ植民地政府の支配下にあったインドネシアでは、1920年代の民族的覚醒(かくせい)とともに近代文学が成立したと考えられてきた。しかし最近の研究では、さらに19世紀末にさかのぼり、華人系、欧亜混血系の作家、新聞記者による、西洋・中国文学の翻訳・創作活動である、「平俗マレー語の文学」をその母体と考えるようになってきた。1896年出版のフランシスG. Francis(1860―1915)の『ニャイ・ダシマ物語』は、実際にバタビア(現、ジャカルタ)で起こった事件を、通俗的なマレー語で描いた短編小説である。
[佐々木信子]
近代文学以前
1917年オランダ植民地政庁が設置した「バライ・プスタカ」(政庁図書出版局)の目的は、植民地理念と抵触しない範囲で図書の閲覧と出版活動を行い、インドネシア人を啓蒙(けいもう)することにあった。編集部の大半はスマトラ出身のマレー語教師によって占められ、支配秩序を乱さない、公序良俗に反しないものしか許可されず、書き直しは字句だけでなく、内容にも及んだ。この政庁出版局からは、インドネシア文学の古典ともいうべき、マラ・ルスリMarah Rusli(1889―1968)の『シティ・ヌルバヤ』(1922)、アブドゥル・ムイスAbdul Muis(1886―1959)の『誤った教育』(1926、邦訳『西洋かぶれ』)が出版された。封建的社会秩序のなかで生きる近代人の姿を描き、伝統的・社会的通念への挑戦はあっても、ナショナリズムの概念はまだみられなかった。
[佐々木信子]
近代文学の目覚め
本格的な文学活動が始まったのは、月刊文芸雑誌『プジャンガ・バル』(新詩人、1933~1942、1948~1953)の発行からである。この雑誌は、1928年の「青年の誓い」以来、急速に高まりつつあった民族の統一を目ざす社会的状況のなかで、バライ・プスタカの出版物に不満を感じていた、各地に散在する西洋文学を学んだ若い詩人、作家たちを結集させた。タクディル・アリシャバナ、サヌシ・パネ、アミール・ハムザーを中心とし、言語・文学のみならず、広く文化、社会一般の問題を扱った。インドネシア語の改革、発展に大きく貢献し、インドネシアの国民文化の創造、近代化のあるべき姿、また教育をめぐって論争を展開した。西欧合理主義こそ近代化への道とするグループと東洋的な自然との調和、伝統文化の見直しを唱えるグループの論争で、活発な議論は当時の知識人たちに多大の影響を与えた。代表的な作品として、伝統的な因習と束縛を脱して、西欧的な合理主義を身につけた近代人を描いた、アリシャバナの小説『帆を上げて』(1936、邦訳『火焔樹』)、近代的自我に目覚める医者夫婦の三角関係を描いた、アルメイン・パネArmijin Pane(1908―1970)の小説『くびき』(1940、邦訳『桎梏(しっこく)』)、アミール・ハムザーの詩集『寂唱』(1937)がある。また北スマトラのメダンを中心とする、イスラム的色彩の強いハムカHamka(1908―1981)の文学活動も忘れてはならない。
[佐々木信子]
第二次世界大戦以降
1942年からの日本軍政期に入ると、雑誌『プジャンガ・バル』は、あまりに西欧志向であるという理由で発行を停止された。官製の啓民文化指導所の統制下では、戦意高揚をねらった作品が出版された。演劇の分野ではかなりの発展がみられた。1945年から1949年のインドネシアは、激動のなかにあった。独立戦争という過酷な条件のなかで「45年世代」とよばれる詩人・作家グループが生まれた。彼らは、「プジャンガ・バル」の理想主義的、啓蒙的、ロマンチシズムの作品に対し、厳しい現実を直視した作品を普遍的ヒューマニズムを基調に、簡潔な文体で描いた。この時代を代表するのは、国民詩人であるハイリル・アンワルの詩集『埃(ほこり)の中の轟(とどろ)き』(1949、邦訳『ヌサンタラの夜明け ハイリル・アンワルの全作品と生涯』)である。イドゥルスIdrus(1921―1979)の『地下の記録』(1948)は日本軍政下の民衆の生活を鮮明に描いた短編である。プラムディア・アナンタ・トゥルの『ゲリラの家族』(1950)、『ブローラ物語』(1952)、モフタル・ルビスの『果てしなき道』(1952)には、インドネシア革命のなかで苦悩する知識人の姿をみることができる。
1950~1960年代は「雑誌文学」、とくに雑誌『キサ』『サストラ』を中心とする「短編小説の時代」ともいわれ、このことからインドネシア文学の危機をめぐって論争があった。スカルノ政権末期の「レクラ」(人民文化協会)全盛期には、文学が政治的目的達成の手段となり、「文化宣言」(1963年、H・B・ヤシンが中心)に属した、普遍的ヒューマニズム派の文学者たちは、創造の自由を奪われて活動の場から追われ、社会主義リアリズム文学のみが許された。
スカルノ体制下の政治イデオロギー優先の時代が、1965年の九月三〇日事件により、突如幕を閉じたのち、現代文学では新旧両世代のさまざまな傾向の作家の活躍がみられる。スハルト新体制確立の移行期に数多くの「抵抗詩」がガリ版印刷で発表された。1966年に月刊文芸誌『ホリソン』がモフタル・ルビス、H・B・ヤシンによって創刊されると、表現と内容の両面での実験的な創作活動の発表の場となった。このころから、詩や散文のなかに宗教的傾向がみられるもの、また地方色(ジャワ)を色濃く投影する新たな文学作品もみられるようになってきた。
[佐々木信子]
現代インドネシア文学
現代インドネシア文学にとって心強いことは、プラムディア・アナンタ・トゥル、モフタル・ルビスの社会派大物作家が、いまなお長編小説を次々と発表していること、民族運動家の自伝・回想録が数多く出版されていること、商業主義にのったものではあるが、大衆小説、とくに女性ポップス・ロマンが若い世代の読者層を開拓していることなどである。さらに詩人・作家の出身地がインドネシア全域にわたり、文学の世界においても地方の伝統文化・芸術・価値観が見直され、インドネシア民族共有の財産として地位を築きつつあることである。
作家の、ウマル・カヤムUmar Kayam(1932―2002)、詩人で演劇界のリーダーのレンドラWillibrordus S. Rendra(1935―2009)、評論のグナワン・モハマッドGoenawan Mohamad(1941― )、アイップ・ロシディAjip Rosidi(1938―2020)、詩人のサパルディ・ジョコ・ダモノSapardi Djoko Damono(1940―2020)、また優れた作家・詩人を発掘してきた、「インドネシア文学の後見人」と称される評論家H・B・ヤシンの功績も忘れてはならない。1970年以降の代表的な作品には、プラムディアのブル島四部作、『人間の大地』(1980)、『すべての民族の子』(1981)、『足跡』(1985)、『ガラスの家』(1988)がある。これは、一人の民族的先駆者の成長を描く大河小説である。Nh・ディニの『船にて』(1973)、マングンウィジャヤYusuf Bilyarta Mangunwijaya(1929―1999)の『嵐の中のマニャール』(1981、邦訳あり)、プトゥ・ウィジャヤPutu Wijaya(1944― )の『電報』(1972、邦訳あり)、セノ・グミラ・アジダルマSeno Gumira Ajidarma(1958― )の『目撃者』(1994)、アユ・ウタミAyu Utami(1968― )の『サマン』(1998)も忘れてはならない。
[佐々木信子]
フィリピン
スペイン統治期が始まる16世紀なかば以前、後にフィリピン共和国と認識される諸地域においては、各地方諸部族の固有言語による口承文芸が主流をなしていた。スペイン統治時代に入ると、植民地政策として導入されたカトリック協義書に関連した宗教書のたぐいが書かれた。作品を通じて社会の不正や腐敗を描き出すというフィリピン文学に特徴的な手法の原点は、バラグタスFrancisco Balagtas(1788―1862)の長編詩『フロランテとラウラ』(1838)に求められる。また、いわゆる近代小説の形を整えた文学作品が書かれるようになったのは、19世紀のなかば以降である。その代表作品としては、ホセ・リサールの小説『ノリ・メ・タンヘレ』(1887)や『エル・フィリブステリスモ』(1891)をあげることができる。リサールはこうした著作のなかで、スペイン統治下での植民地社会の諸矛盾を追求し、その閉塞(へいそく)状況からの解放と自立を説いた。しかしそれらはスペイン本国やフィリピンの知識人層を対象にしてスペイン語で書かれた。
アメリカ統治期に入ると、フィリピン諸語であるタガログ語による作品が提示される一方で、1930年代以降、英語教育の普及に伴うフィリピン人英語作家の輩出が多くみられた。この傾向は日本統治期の数年間を除き1946年フィリピン共和国独立後も継続され、1960年代まで文学界の主流を占めた。こうした英語作家の作品における主題は、より個人的、文芸的なものが多く、フィリピン中産階級のアイデンティティやジレンマを扱った作品が多い。ニック・ホアキン、N・V・M・ゴンザレス、ショニール・ホセ、ビエンベニード・サントスBienvenido N. Santos(1911―1996)、ケリマ・ポロタンKerima Polotan Tuvera(1925―2011)らが現代に至るまでの代表的英語作家である。
1960年代以降、反米ナショナリズムを背景とした民族主義の高揚とともに、アマド・ヘルナンデス、エドガルド・レイエスEdgardo M. Reyes(1936―2012)らのタガログ語作家が注目された。彼らは作品を通じフィリピン一般民衆の抑圧や苦悩を自然主義の手法を用いて提示した。1980年代に入るとタガログ語女性作家ルアールハティ・バウティスタが現れ、その小説、テレビ脚本など多彩な活動は注目を集めている。
今後のフィリピン文学は、グローバル化する世界情勢に伴い、言語選択の問題(市場を重視する場合は英語、フィリピン人としてのアイデンティティを重視する場合はフィリピン諸語で作品を執筆する)などがより先鋭化すると思われる。
[山下美知子・菅家健一]
『川本邦衛・松山納編・訳『世界短篇名作選・東南アジア編』(1981・新日本出版社)』▽『ボータン著、冨田竹二郎訳『タイからの手紙』上下(1979・勁草書房)』▽『ククリット・プラモート著、吉川敬子訳『王朝四代記』全5巻(1980~1982・勁草書房)』▽『シーファー著、野中耕一訳『生みすてられた子供たち』上下(1981・勁草書房)』▽『リアムエーン著、冨田竹二郎訳『大王が原』上下(1981・勁草書房)』▽『ニッパーン著、星野龍夫訳『蝶と花』(1981・勁草書房)』▽『シーブーラパー著、小野沢正喜・小野沢ニッターヤー訳『絵の裏』(1982・九州大学出版会)』▽『ローイ・リッティロン著、星野龍夫訳『地下の大佐』(1982・めこん)』▽『スチャート・サワッシー編、岩城雄次郎訳『現代タイ国短篇小説集』上下(1982、1984・勁草書房)』▽『ニミット・プーミターウォン著、野中耕一編訳『農村開発顛末記――タイ国農民小説選2』(1983・勁草書房)』▽『マイトリー・リムピチャート他著、岩城雄次郎訳『タイ国短篇小説選』(1983・大学書林)』▽『トリーシン・ブンカチョン著、吉川利治編訳『タイの小説と社会――近代意識の流れを追う』(1985・勁草書房)』▽『ドゥアンチャイ著、吉岡みね子訳『業の罠』(1986・大同生命国際文化基金)』▽『チャート・コープチッティ著、星野龍夫訳『裁き』(1987・勁草書房)』▽『ピリヤ・パナースワン著、桜田育夫訳『メコンに死す』(1987・めこん)』▽『トムヤンティ著、西野順治郎訳『メナムの残照』上下(1987・大同生命国際文化基金)』▽『ラーオ・カムホーム著、星野龍夫訳『タイ人たち』(1988・めこん)』▽『スワンニー・スコンター著、岩城雄次郎訳『その名はカーン』(1988・勁草書房)』▽『アムナート・ジェンサバーイ著、佐藤由利江訳『寒い夜空』(1990・曹洞宗ボランティア会)』▽『マナット・チャンヨン著、レヌカー・ムシカシントーン訳『妻喰い男――マナット・チャンヨン短編集』(1991・勁草書房)』▽『ピラ・スダム著、杵渕信雄訳『ピラ・スダム短編集』(1993・弥生書房)』▽『ナワラット・ポンパイブーン他21人による詩編、岩城雄次郎編訳『タイ現代詩選』(1994・大同生命国際文化基金)』▽『パカーマート・プリチャー著、石井美恵子訳『私は娼婦じゃない――タイのメールオーダーブライドの告白』(1994・めこん)』▽『岩城雄次郎訳注『現代タイ名詩選』(1997・大学書林)』▽『岩城雄次郎著『タイ現代文学案内――変動する社会と文学者たち』(1997・弘文堂)』▽『岩城雄次郎著『詩集 君の名は、タイの文学』(2000・花神社)』▽『阮攸著、竹内与之助訳『金雲翹』(1975・講談社)』▽『ホアン・ゴック・ファック著、竹内与之助編・訳『ト・タム』(1980・大学書林)』▽『竹内与之助・川口健一訳『ベトナム短篇小説選』(1982・大学書林)』▽『ニャット・リン著、竹内与之助訳『断絶』(1983・大学書林)』▽『カイ・フン著、竹内与之助・川口健一訳『蝶魂仙夢』(1984・大学書林)』▽『ズオン・トゥー・フオン他著、加藤栄訳『流れ星の光――現代ベトナム短編小説集』(1988・新宿書房)』▽『マー・ヴァン・カーン著、加藤栄訳『夏の雨――現代ベトナム長編小説』(1992・新宿書房)』▽『アイン・ドゥック著、冨田健次訳『ホンダット洞窟の夜明け――ベトナム戦争を支えた女性達』(1992・穂高書店)』▽『加藤栄編・訳『ベトナム現代短編集1』(1995・大同生命国際文化基金)』▽『カイ・フン、ニャット・リン著、片山須美子訳『花を担いで』(1995・穂高書店)』▽『ズオン・トゥー・フオン著、加藤栄訳『虚構の楽園』(1997・段々社)』▽『バオ・ニン著、井川一久訳『戦争の悲しみ』(1997・めるくまーる)』▽『グエン・ティ・トゥ・フエ他著、加藤栄訳『魔術師』(1997・紀伊國屋書店)』▽『レ・リュー著、加藤則夫訳『はるか遠い日あるベトナム兵士の回想』(2000・めこん)』▽『タック・ラム著、川口健一編・訳『農園の日差し』(2000・大同生命国際文化基金)』▽『ジャーネーヂョウ・マ・マ・レー著、原田正春訳『血の絆』(1978・毎日新聞社)』▽『キン・スゥエウー著、田辺寿夫訳『わが祖国』(1982・勁草書房)』▽『マウンターヤ著、南田みどり訳『路上にたたずみむせび泣く』(1982・勁草書房)』▽『ルドゥウーフラ著、河東田静雄訳『風とともに』(1982・勁草書房)』▽『モゥ・モゥ(インヤー)著、土橋泰子訳『母・道なき道を手探りで』(1982・勁草書房)』▽『大野徹編訳『現代ビルマ短篇小説集』上・下(1983・勁草書房)』▽『マウン・ターヤ著、田辺寿夫訳『それを言うとマウンターヤの言いすぎだ――ラングーン商売往来』(1983・新宿書房)』▽『ミャタンティン著、南田みどり訳『剣の山を越え火の海を渡る』(1983・勁草書房)』▽『サンサンヌウェ著、高松光雄訳『雨漏りしそうな折り畳み傘』(1984・勁草書房)』▽『ミンヂョー著、加東田静雄訳『茶色い犬』(1984・勁草書房)』▽『マ・サンダー著、堀田桂子訳『欠けている所を埋めて下さい』(1986・勁草書房)』▽『トーダースェ著、森田和彦・原田正美訳『会うは別れのはじめ』(1987・勁草書房)』▽『テインペーミン著、南田みどり訳『東より日出ずるが如く』上中下(1988、1989・勁草書房)』▽『大野徹編訳『ビルマ(ミャンマー)のむかし話』(1991・偕成社)』▽『ウー・ペーマウンティン著、大野徹監訳『ビルマ文学史』(1992・勁草書房)』▽『ルードゥ・ドー・アマー著、土橋泰子訳『ビルマの民衆文化――語られたパゴダと微笑みの国』(1994・新宿書房)』▽『南田みどり編訳『ミャンマー現代短篇集1・2』(1995、1998・大同生命国際文化基金)』▽『マウン・ターヤ編、土橋泰子他訳『12のルビー』ビルマ女性作家選(1996・段々社)』▽『テイッパン・マウン・ワ著、高橋ゆり訳『変わりゆくのはこの世のことわりマウン・ルーエイ物語』(2001・てらいんく)』▽『シャーノン・アハマッド著、小野沢純訳『いばらの道』(1981・勁草書房)』▽『サマッド・サイド著、星野龍夫訳『娼婦サリナ』(1983・勁草書房)』▽『カティジャー・ハシム著、星野龍夫訳『白鳩はまた翔びたつ』(1985・勁草書房)』▽『アディバ・アミン著、松田まゆみ訳『スロジャの花はまだ池に』(1986・段々社)』▽『オスマン・クランタン著、平戸幹夫訳『闘牛師』(1988・勁草書房)』▽『シャーノン・アハマッド著、星野龍夫訳『バングルの虎』(1989・大同生命国際文化基金)』▽『方北方著、奥津令子訳『ニョニャとババ』(1989・勁草書房)』▽『クリス・マス著、佐々木信子訳『クアラルンプールから来た大商人』(1993・勁草書房)』▽『原不二夫編訳、今仁直美訳『マレーシア抗日文学選』(1994・勁草書房)』▽『S・オスマン・クランタン著、小野沢純監修、加古志保訳『ある女の肖像』(1998・大同生命国際文化基金)』▽『アブドゥッラー著、中原道子訳『アブドゥッラー物語――あるマレー人の自伝』(東洋文庫)』▽『舟知恵訳『恋人は遠い島に 現代インドネシア詩集』(1977・弥生書房)』▽『舟知恵訳・著、ハイリル・アンワル(原著)『ヌサンタラの夜明け――ハイリル・アンワルの全作品と生涯』(1980・弥生書房)』▽『モフタル・ルビス著、押川典昭訳『果てしなき道――アジアの現代文学 インドネシア』(1980・めこん)』▽『タクディル・アリシャバナ著、後藤乾一監訳『戦争と愛』上下(1983・勁草書房)』▽『グナワン・モハマッド他編、佐々木重次監訳『インドネシア短編小説集』(1983・勁草書房)』▽『プラムディア・アナンタ・トゥール著、押川典昭訳『ゲリラの家族』(1983・めこん)』▽『プラムディア・アナンタ・トゥール著、押川典昭訳『人間の大地』上下(1986・めこん)』▽『プラムディア・アナンタ・トゥール著、押川典昭訳『すべての民族の子』上下(1988・めこん)』▽『プラムディア・アナンタ・トゥール著、押川典昭訳『足跡』(1998・めこん)』▽『アイップ・ロシディ編、舟知恵他訳『インドネシア女流文学選集』(1983・勁草書房)』▽『Nh・ディニ著、舟知恵訳『エリサ出発』(1984・段々社)』▽『Y・B・マングンウィジャヤ著、舟知恵訳『嵐の中のマニャール』(1987・勁草書房)』▽『Y・B・マングンウィジャヤ著、舟知恵訳『イリアン 森と湖の祭り』(2000・木犀社)』▽『アイプ・ロシディ著、粕谷俊樹訳『スンダ・過ぎし日の夢』(1987・めこん)』▽『アイプ・ロシディ編、松尾大・柴田紀男訳『現代インドネシア文学への招待』(1993・めこん)』▽『レンドラ著、村井吉敬・三宅良美訳『ナガ族の闘いの物語』(1997・めこん)』▽『プトゥ・ウィジャヤ著、森山幹弘訳『電報』(1998・めこん)』▽『ホセ・リサール著、岩崎玄訳『ノリ・メ・タンヘレ――わが祖国に捧げる』(1976・勁草書房)』▽『ホセ・リサール著、岩崎玄訳『反逆・暴力・革命――エル・フィリブステリスモ』(1976・勁草書房)』▽『寺見元恵・山下美知子編・訳『フィリピン短篇小説珠玉選1・2』(1978、1979・勁草書房)』▽『エドガルド・M・レイエス著、寺見元恵訳『マニラ 光る爪』(1981・めこん)』▽『カルロス・ブロサン著、井田節子訳『我が心のアメリカ――フィリピン人移民の話』(1984・勁草書房)』▽『ショニール・ホセ著、山本まつよ訳『仮面の群れ』(1984・めこん)』▽『ショニール・ホセ著、山本まつよ訳『民衆』上下(1991・めこん)』▽『ニック・ホワキン著、山本まつよ訳『二つのヘソを持った女』(1988・めこん)』▽『リワイワイ・アルセオ著、寺見元恵訳『レイナ川の家』(1990・段々社)』▽『ルアールハティ・バウティスタ著、桝谷哲訳『七〇年代』(1993・めこん)』▽『アマド・V・ヘルナンデス著、大上正直監修、蜂谷純子訳『鰐の涙』(1997・大同生命国際文化基金)』