林昌寺(読み)りんしようじ

日本歴史地名大系 「林昌寺」の解説

林昌寺
りんしようじ

[現在地名]中之条町伊勢町

中之条町と伊勢いせ町の境を流れる吉池よしいけ川東岸の台地上にある。曹洞宗、宝満山白雲院と号し、本尊釈迦如来。文安年間(一四四四―四九)僧長馨が開山となって創建。初め天台宗であったが戦乱のために衰微した。永禄三年(一五六〇)舜達の代に曹洞宗となり、岩櫃いわびつ(現吾妻町)落城後中之条に入った真田幸隆の弟矢沢頼綱が再興した。この頃は八幡はちまん山にあったが、伊勢町の町割がなされた後、矢沢頼綱が現在地に移した。このとき字小原にあった宝満ほうまん寺を合せて宝満山林昌寺と号したという。本堂山門には真田家の紋章六文銭をつけている。開基位牌「林昌寺殿来叟良泉大居士」を祀り、文禄三年(一五九四)真田信幸より永一貫三〇〇文を受ける(寺蔵記録)

林昌寺
りんしようじ

[現在地名]酒田市南千日町

江戸時代の浜畑はまはたの北部にある。鎮護山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。天文年中(一五三二―五五)京都知恩院から下向の岌源が宮野浦みやのうらに一宇を建立して創立、永禄三年(一五六〇)以降ほん町一丁目と二丁目の間に移転し、同地は林昌寺小路と称された。同年雨乞の功により正親町天皇から鎮護山の勅額を賜った。慶長五年(一六〇〇)の出羽合戦では住僧は上杉方として戦った。寛永元年(一六二四)内匠たくみ町に移転、当時の境内南北五六間余・東三二間・西四八間(「酒田御町三組古控」飽海郡誌)

林昌寺
りんしようじ

[現在地名]泉南市信達岡中

信達岡中しんだちおかなか北東端部、躑躅つつじ岡の山腹にある。真言宗御室派。躑躅山と号し本尊は阿弥陀如来。寺伝によると天平年間(七二九―七四九)聖武天皇の勅願所として行基が開創したと伝える。当初は菩提院おか寺と称していたといい(大阪府全志)、堀河天皇が当寺へ行幸した時、源俊頼が詠んだ歌に「躑躅が岡」とあり、それにちなんで山号にしたという。織田信長の兵火で三院六坊が焼失したが、寛永一八年(一六四一)僧真海が中興。文政一〇年(一八二七)創設された四国八十八ヵ所の分霊場には毎月二一日多くの参詣者が訪れ賑う。

林昌寺
りんしようじ

[現在地名]古川町片原町

古川市街東郊の田園中にあり、五峰山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。山号の示すように木曾御嶽おんたけ山から近くの山々の展望に恵まれる。「飛州志」によると、かつては高野たかの村にあり、国司姉小路家の菩提寺であったが、その後衰退、天正年中(一五七三―九二)金森可重が現在地に再興、天翁秀梅を第一世としたという。

林昌寺
りんしようじ

[現在地名]山岡町久保原

岩が洞いわがほらにあり、医王山と号し曹洞宗。本尊薬師如来。かつて瑠璃光るりこう寺があったが、天文(一五三二―五五)の頃兵火に焼かれた。邑主遠山左京之進の母宗貞尼は跡地に小堂を建てて旧本尊の薬師如来を祀り、恵月庵と称した。寛永五年(一六二八)馬場山田ばばやまだ盛久せいきゆう寺三世の龍山長雲が開山となり、林松寺(後に林昌寺)を開いた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「林昌寺」の解説

林昌寺

岐阜県恵那市山岡町にある曹洞宗の寺院。山号は医王山、本尊は薬師如来。

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