柳田国男(やなぎたくにお)(読み)やなぎたくにお

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

柳田国男(やなぎたくにお)
やなぎたくにお
(1875―1962)

日本民俗学の創始者であり、近代日本の生んだ思想家。明治8年7月31日に兵庫県神東(じんとう)郡田原(たわら)村辻川(つじかわ)(現、神崎郡福崎町西田原字辻川)に生まれる。父松岡操(まつおかみさお)(1832―1896)は儒学者、長兄鼎(かなえ)(1860―1934)は医者、三兄井上通泰(いのうえみちやす)は歌人、次弟静雄(1878―1936)は言語学者、末弟映丘(えいきゅう)は日本画家として名をなしている。1887年に上京して森鴎外(もりおうがい)宅に出入りするようになり、文学活動に入り『文学界』に詩作を発表するようになった。東京帝国大学法科大学卒業後、農商務省農政課に入り、農政官僚の道を進み、当時の農政学に関心を抱くようになる。1901年(明治34)柳田家の養嗣子(ようしし)となり、その後、法制局参事官に転出した。その間、土曜会、竜土会、イプセン会などで文学活動を続けた。田山花袋(たやまかたい)、蒲原有明(かんばらありあけ)、小山内薫(おさないかおる)、島崎藤村(しまざきとうそん)らが当時の仲間である。

 1908年九州旅行で宮崎県椎葉(しいば)村を訪れ、山民の実態に触れたのが契機となり『後狩詞記(のちのかりことばのき)』をまとめた。さらに1910年に『遠野(とおの)物語』と『石神問答』を刊行し、日本民俗学の基礎をつくった。その後、柳田の関心は郷土研究に置かれ、新渡戸稲造(にとべいなぞう)、小田内通敏(おだうちみちとし)(1875―1954)、松本烝治(まつもとじょうじ)らと郷土会を組織し、1913年(大正2)に雑誌『郷土研究』の刊行を開始した。

 1919年貴族院書記官長の要職を辞したのち、朝日新聞社客員となり、全国各地への旅行を続け、沖縄へも初めて訪れ、民俗学飛躍のきっかけをつかんでいる。1922年国際連盟委任統治委員に任命され、ジュネーブに赴いた。帰国後『朝日新聞』論説委員として活躍する一方、『海南小記』『明治大正史世相篇(へん)』『都市と農村』などを公刊した。昭和10年代にかけて民俗学の理論化を行い、『民間伝承論』(1934)、『郷土生活の研究法』(1935)、『国史と民俗学』(1936)を相次いでまとめている。とくに民俗資料の収集、分類の基準を説くとともに、民俗のなかの心意伝承を重要な領域に設定したことが大きな特色となっている。

 1933年(昭和8)9月以来、民俗学研究の中心となった木曜会を組織した。木曜会は第二次世界大戦後の民俗学研究所の活動に引き継がれた。木曜会において、その後成長した日本民俗学者たちの数多くが柳田の教えを受けた。

 1935年に還暦を迎えた柳田を祝う目的で日本民俗学講習会が開催され、これを契機として、民間伝承の会が発足し、機関誌『民間伝承』が発刊され、全国各地の研究者を組織化する第一歩が始まっている。柳田は全国各地を旅行した際、現地で同じ関心をもつ同学の士と会い民俗学の普及に努める一方、木曜会のメンバーを中心として全国的な民俗調査を実施し、山村、海村、離島の報告書をまとめている。

 柳田は第二次世界大戦中から、しだいに日本人の基層信仰に焦点を定め、1945年7月に『先祖の話』を完成し、なお『新国学談』三部作に取り組んだ。そこには祭りや氏神、祖先崇拝、民間信仰を研究することによって、民俗学を経世済民(けいせいさいみん)の学として位置づけようとする気概が読み取れる。

 戦後、柳田は民俗学を学校教育に取り入れることを積極的に進めた。そして1949年(昭和24)に民間伝承の会は日本民俗学会と改称され、柳田は初代会長となった。戦後の柳田の思想の軌跡は、日本民族と稲作の伝来のルーツをつなげる『海上の道』であり、死の1年前にその構想が大著となって公刊されている。柳田の半生は、終始一貫、民俗学を通して日本人の人生観、世界観を探ることにあり、その業績は日本研究の根幹にかかわるものとして高く評価されている。

[宮田 登 2019年2月18日]

『『定本柳田国男集』31巻・別巻5(1968~1971/愛蔵版・1980〜1983・筑摩書房)』


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