瑞応寺(読み)ずいおうじ

日本歴史地名大系 「瑞応寺」の解説

瑞応寺
ずいおうじ

[現在地名]新居浜市山根町

国領こくりよう別子べつしラインの関門西方別子山中腹にある。山号は仏国山。曹洞宗本尊釈迦牟尼仏

寺伝によれば、正和五年(一三一六)当地領主松木広俊が鎌倉建長寺臨済僧清嶽を請じ、大通智勝寺開堂。文安五年(一四四八)生子山しようじやま城主松木景村が月担を請じ、当寺を建立した。天正一三年(一五八五)の生子山落城により、寺運は衰退した。万治三年(一六六〇)西条藩主一柳直興が分外恩を請じ、曹洞宗に改めて中興

瑞応寺
ずいおうじ

[現在地名]東員町長深

長深ながふけ集落の東外れにある。臨済宗妙心寺派、慈恩山と号し、本尊千手観音。当寺はもと長深城主富永氏の菩提所であり、中上なかがみ田那部たなべにあって富春ふしゆん院と称した。文明年中(一四六九―八七)富永氏の一族池田入道の祟りを鎮めるため、当主富輝が京都妙心みようしん寺一〇世景川宗隆(実性)を招き、富春院をこの地に移して瑞応寺として入堂開基したという(員弁雑志、員弁郡郷土資料)

瑞応寺
ずいおうじ

[現在地名]下伊那郡松川町大字上片桐字城

船山城の西にあり、西方は緩傾斜をもって段丘山麓に続き、東方は眼下天竜川の流れを見下ろし、赤石山脈高峰を望む風光の地にある。臨済宗鳳雲山と号し、臨済宗妙心寺末、本尊は観世音菩薩

寺歴には「保元年中片桐小八郎大夫景重ノ開基ニシテ、文明年中西京花園妙心寺ノ僧雪岫之ニ来テ開山トス。天正年中織田ノ為兵火ニ罹リ堂宇不残焼失ス。文禄三年三月十五日僧碧天再建ス。

瑞応寺
ずいおうじ

[現在地名]山内町大字大野

大野おおの村の中央に位置する。曹洞宗、宝林山と号す。本尊は千手観音菩薩。開山は琢外良圭(伊万里家利)

天正の初め伊万里城主であった伊万里家利は竜造寺隆信に敗れ、武雄後藤氏の塚崎つかざき庄に逃れた。武雄領主後藤貴明は家利と家臣を大野村に居住させて三〇〇石を知行として与えた。家利は後藤氏の庇護を心苦しく思い、剃髪して天正一〇年(一五八二)瑞応寺を建立、初代住職となった。

瑞応寺
ずいおうじ

[現在地名]北区如意二丁目

如意山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊釈迦如来。夢窓国師の開基と伝え、応永年中(一三九四―一四二八)に当地の領主長谷川朝房が修造して中興したという(府志)。「徇行記」は朝房の父重行を中興とする。長谷川氏は本氏石黒氏で、斯波氏に属したという。寺伝では応永二六年、重行の開基とする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「瑞応寺」の解説

瑞応寺

(長野県下伊那郡松川町)
信州の古寺百選指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android